第14話 贖罪の行方

 赤い斜陽が傾いて、空に夜の星が輝き始めて。藍色の空気が肌を冷やし始めた頃、ようやくヴィタは乾いた唇をゆっくりと開いた。


「──いつから」


 どうして、ここに。

 何故、ここへ。

 色々聞きたいことはあったはずなのに、冷えた脳が選んだ言葉は結局、そんな確信めいた問いかけだけだった。

 ヴィタの言葉に、黒いフードのその下で、白い髭がゆっくりと動いた。感情をあまり見せないベリタス老の、僅かにしかわからない表情の変化──それは笑みだった。


「随分と言葉を選んで上手になったな。よくよく〈スペル〉と向き合っていると見える」


「はぐらかさないでくれ!」


 思わず叫んで、ヴィタは木の洞から出ると、夜の下毅然と立ち上がった。

 心臓が煩くばくついている。どうして、なんでという疑問と、認めたくない可能性と、どうしようもなく目の前に見えている絶望に、頭の芯がじんと冷たく痺れていく。


 スペルトリガーは集団では行動しない。

 それは使命を果たすための効率の問題。暗黙のルールでもあった。世界中を数少ない人数で監視するためには、一所に何人ものスペルトリガーがいるのは非効率的なのだ。

 ヴィタが育った隠れ家は、家を持たない彼らの基地のようなものであった。各地に点在する、スペルトリガーだけが知る基地。──ヴィタは隠れ家の近くまで寄っても、物資の補給をする他は滅多に顔を出すこともなかったが。


 この森の近くに〝家〟はない。ベリタスが居るはずの家などは、ここから歩けば一と半月はかかる程遠くにある。

 それに、たまたま通りすがっただけと考えても、彼がここにいるのはやはり不自然だった。ここは領民だって普通は立ち入れない、フィオラーレ邸敷地内の森なのだから。

 だから、考えられる可能性は二つであった。

 ヴィタに用事があって、ずっと声をかけるタイミングを見計らっていたのか。

 ──もしくは。


「……ぼくが一人になるタイミングはいつだってあった。だから、〝いつから〟──だ」


「その質問に答えるなら……最初から、であろうな」


 最初。

 ヴィタの脳内に、〝彼女〟の花のような優しい笑顔が閃いて、また、じんと頭の奥が痺れた。


「確かに、スペルトリガーになるには資格は要らない。元々孤児や初代の末裔達の集いのようなものだ。スペルトリガーが〝相応しい〟と判断すれば、杖を与えることは可能。──けれども、ヴィタよ」


 恐ろしくて顔が上げられない。

 いっそ優しいくらいの穏やかなしわがれ声を聞きながら、ヴィタは青ざめた顔で瞼を閉じた。


「〝世界の大特異点〟であると正しく認識できたのに、どうしてあの娘に〈スペル〉を教えた。どうして杖を与えた」


「──……大特異点はスペルトリガーになってはならない、なんて決まりは、ぼくは教わってない」


「ヴィタ」


 小さな反抗は、諭すような声で名を呼ばれただけであっという間に抑え込まれてしまう。


「〈スペル〉は──文字は世界を一度滅ぼした強い力だ。まじないとして使う分には良くても、呪いとして使われたら、もう誰にも止められない」


「彼女は……文字を呪いになんかしない。彼女は正しく〈スペル〉を扱える。彼女は──きっと誰より優しい魔法使いになれるんだ!」


「最初は誰だって優しい魔法だけを使おうとしたんだよ、ヴィタ」


 悲しいため息を吐いて、ベリタスは夜の中、ヴィタのそれよりも年季の入った杖を森の草地の上に突き立てた。


「大特異点は世界の異端だ。危険そのものだ。彼らは五百年の時をかけて私達がかけた強固な魔法──〝文字は魔法である〟〝魔法は恐ろしいものである〟という常識を知ってなお、世界の真理に近づいていく。どんなに〈スペル〉から遠ざけても、ある者は火種から爆弾が作り出せることを発見し、またある者はただの地層からかつての世界に文字があったことを見つけ出した。──あの少女にもあるのではないか? 一つに触れただけで、世界の真理に、かつての世界の真実に辿り着いてしまうような、危険すぎる発想力が」


 ベリタスの言葉に、ヴィタは嫌でもメリアリーヌが軽々と〝本〟を編むという発想に至ったことを思い出さずにはいられなかった。

 あの時ヴィタは──確かに彼女を、恐れた。

 全身の肌が粟立って、ぞくりとした。けれどその感覚は、言い換えれば、とても興味深いものを見つけた時に感じる興奮とも言えた。

 ただ一つ、きっかけを与えただけで、彼女は自由な想像力で創造をしようとした。それはかつての世界であればきっと大切にされていた、世界の文明を発展させる力。世界を変えていく力。〈スペル〉よりもうんと強い力。

 だけど、だからこそ──


「ぼくはメリィが……彼女が創るものが見たいと思ったんだ。彼女は、呪いなんか綴らない。彼女はきっと優しいものだけを綴りきる。彼女は、きっと〈スペル〉を良いものにしてみせる!」


「──私も昔、一人の女性に同じものを見たのだよ、ヴィタ。きっと彼女なら呪いを祈りに変えられる。そう、若い私も思ったよ」


 眼差しに疲れたような色を滲ませて、ベリタスは、闇色のフードの下からちらと──遥か頭上に煌めく星々を見上げた。


「星が好きな、聡明な女性だった。星の名前、ただそれだけから、彼女は暦を一から編み出した。何故世界には数字しかないのに、物事には名前があるのかと疑問に思ったのだ。星の名を、花の名を書き記すことができれば、季節の移ろいをより正確に、より多くの人が確認できると気づいたのだ」


 語る老人の声に、ヴィタは警戒を僅かに解き、溢れる疑問を遠慮容赦なく視線に込めて彼をひた見つめた。彼の手で拾われ、彼の手で育てられてきたヴィタだったが、彼の口からスペルトリガーに関係する知識以外の言葉を──思い出話を聞くのは初めてのことだったのだ。

 ヴィタの視線に気づいたベリタスは少し気まずそうに喉を鳴らして、けれどなんだか泣きそうな顔で笑って、続けた。


「燃える夕陽色の髪の、美しい女性だった。私はスペルトリガーとして彼女を罰しないといけないとわかっていながら……〈スペル〉を与えた。彼女なら美しい文字を綴るだろうと思ったし、その綴りのやわらかさを一番最初に感じるのが私でありたいとも思ったのだ。……何より、彼女の瞳に映るものを、心に描かれた世界を、私も見てみたかった」


 ヴィタは驚きに目を見張った。そこにいたのは、生きてきた年月を肌に深く刻んだだけの、紛れもない〝青年〟であったからだ。


「……けれど、駄目だったんだよ、ヴィタ。彼女は予想通り美しい文字を綴った。素晴らしい暦を作った。暦を悪用なんて出来ないと判断した私は…………あの日彼女が、家族に出来上がった暦を見せるのだと、その紙を家に持ち帰るのを……止めなかった」


「何が……あったの…………」


「正義を謳う人間達の、魔女裁判さ」


 常に静かな口調を崩さない、厳格な長老の口から、刹那、呪いのような感情が吐き出されたのが、文字を介さなくともヴィタには伝わってきた。


「どうして人間は異端を許さないのだろうな。〈スペル〉を学んだ彼女は人間から外れた存在に見えたらしい。私が次に彼女を見た時、彼女の夕陽色の髪は焼け焦げ千切れ、美しかった横顔は腫れ上がり、爛れ、見る影もなくなっていた」


 そこまで一息に言い切って、ゆっくりと──ベリタスは一つ深呼吸をした。


「人間とは、なんと醜く浅ましい生き物なのだろうと思ったよ。異端であれば何をしてもいいと思っている。恐怖を盾にして暴力を振るう弱い人間……だから争いは潰えないのだと、思って。──気づいたのだよ。そう思うよう、五百年の時をかけて人の心を歪めてきたのは、紛れもなく、私達スペルトリガーという存在なのだと」


「…………っ」


「彼女を不幸にしたのは、私なのだ。私は私の欲のために、戒めを破り、彼女の幸せを壊して──彼女の人生を奪ったのだ。戒めを破ることは世界にも、彼女にも、害しか与えなかったのだ」


 息を呑んだヴィタにベリタスは一歩近づくと、その耳元に口を寄せ、小声で素早く囁いた。


「この森にあと二人、あの少女の近くに三人、スペルトリガーが潜んでいる」


「……ッ⁉︎ な──」


「声を出さずに聞きなさい」


 思わず辺りを見渡そうとしたヴィタの動きを、命令に近い声音でベリタスが制した。

 警戒を緩めきっていたヴィタの心音が、たちまちに速まりだす。

 スペルトリガーにとって大特異点は始末するべきもの。今まで二人は呑気に夕方に別れ、昼に再会をしてきたが、どんなにヴィタが魔法の杖を彼女に与えたところで──彼女が大特異点であることは最初から同業者に知られていたのだ。となれば、いつでも、今すぐにでも彼女は他のスペルトリガーから首を掻き切られる可能性があるのだ。


(つまりは──本当に監視されていたのは、ぼくだったのか。この髪と瞳で……スペルトリガーとしてどこまで忠実に働けるのかを…………きっとずっと最初から、メリィと出会う前から。ぼくは、誰からも信用されていなかった…………)


 今すぐに膝を崩して倒れ込んでしまいたかった。震える呼吸のまま、感情を叫びに変えて形にしたかった。

 ヴィタがここに来たせいで──ヴィタと出会ったせいで、メリアリーヌが〝世界の大特異点〟であるという事実がスペルトリガー達に伝わってしまったのだ。何より、ヴィタが彼女に〈スペル〉を教えたせいで、杖を与えたせいで、余計に彼女の命の期限は早まってしまったのだ──


「私がここにいる限り、誰も動くまいよ」


 静かな囁きに、ヴィタは涙目で、スペルトリガーの長である彼の顔を見つめた。

 ヴィタには彼が一体何をしたいのか、何を求めているのか、全くわからなかった。今日までメリアリーヌを始末しなかったのはヴィタを試すためだったとして、どうしてわざわざ彼女に危機が迫っていることを教えてくるのかが、まるで理解できない。

 もう何が敵で、何が味方なのか、ヴィタには判断ができなかった。


「ただ、あの少女には消えてもらう必要がある。そのための種はもう撒いてある」


「何を…………メリアリーヌに何を……っ!」


「ただ屋敷の主に情報を与えただけだ。今はまだ、な」


 恐怖でガチガチと歯が鳴り始めたヴィタを見て、ベリタスはゆっくりと身を引くと、厳格な長の顔でカツン──ともう一度杖で大地を打った。


「何も殺さなくても良いのだ。ヴィタよ。私達の〝家〟で一生を過ごすというのなら、彼女の衣食は約束しよう。──かつて私が彼女にそうしたようにな」


「……一生スペルトリガーに監視されながら……外に出られないまま生きていけって言うのか……? そんなの……」


 春の日差しの中、自由気ままに、のびやかに四肢を伸ばして踊る彼女の笑顔が、刹那、脳裏に蘇る。


「──そんなの、彼女の心を殺すようなものじゃないか!」


 ヴィタの言葉に、ベリタスは僅かに顔を俯けて──しかし次の瞬間には冷ややかにさえ見える程凪いだ表情になって、ヴィタの眼前に杖を突きつけてきた。


「共に同じ場所で過ごした同胞であるからこそ与えた温情だぞ、ヴィタよ。お前がこれからもスペルトリガーであると──その身に流れる血の罪よりも〝世界の監視者〟であると言うのなら。証明してみせよ。お前がその手で捕らえられぬと言うのなら、私達が代わりに動こう。……私は、お前の賢明な判断を願っているよ」


 そう言って、ベリタスは重い動きで闇の中に身を翻した。

 すっかり暗くなった夜の森の中、黒いローブは瞬く間に闇に溶けて、ヴィタの目でも、もう全く捉えられなくなった。


「猶予はあまりないぞ。──あと七日もすれば動くはずだ。そのように〝伝えた〟からな」


 そして、「何が」と質問することさえ許さない囁き声を、最後に夜風の中に紛れ込ませて。

 今度こそベリタスは闇の奥へと消えていった。


「…………メリアリーヌ」


 ぽつり、と呟いたものの、その後に続く言葉がなんなのか、ヴィタ自身もわかっていなかった。

 とすん、と膝を草地の上に落として、ヴィタは呆然と──ざわざわと煩い感情のまま、一人、星空を見上げた。

 涙は、落ちてこなかった。こんなにも申し訳ないと、絶望して、苦しくて、心配で──今すぐここにと、その存在を、ぬくもりを求めているのに。


「きみがいないと、泣けもしないんだな、ぼくは…………」


 笑って、笑った拍子に胸がひどく痛んで。

 ヴィタは夜の中で深く、深く黒いフードを被った。

 誰に見られていなくても、今すぐにでもこの世界から消えてしまいたくて。抱いた感情も、願った希望も、すべてが恥ずかしくて、情けなくて、悔しくて。

 ただ、ヴィタは、世界から逃げるために、闇の中一人、目を──耳を──心を静かに閉ざした。

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