第13話 文字を綴るということ

 屋敷に戻ったメリアリーヌは、もうすぐ夕食の時間だというのに、机に向かって黙々と、もらったばかりの紙に羽ペンを走らせていた。

 ペン先が紙を滑る感覚が、指を伝って胸を静かに震わせる。


(こんなに、文字を書くのが楽しいことだなんて)


〈スペル〉を習い始めてからもう随分と経っているが、未だに〈スペル〉を綴る時、メリアリーヌの胸はどきどきと高鳴る。最初こそ、理解のできない模様の羅列に、ほんの少しだけ、習いたいと言ったことを後悔したりもしたが──そこに意味があると分かった途端、メリアリーヌはどんどんと〈スペル〉に惹かれていった。


 魔法と思っていた不思議な模様は、意味のある文字であった。メリアリーヌが普段使うような言葉、行動、環境、感情──この世界のすべては文字として書き表すことができる。

 言葉では言い表せないようなとても細かやかな気持ちも、身振りや手振りでは伝えられない弾けんばかりの衝動も。声では届けられない程遠い場所にいる人にだって、文字として綴れば、メリアリーヌの想いは誰にだって届けられるのだ。距離だけではない。紙に綴って残しておけば、きっと、時を超えて、遥か先、まだ見たことのない彼方にいる人達へだって。


(残してみたい。わたしは、わたしの気持ちを誰かに伝えてみたい。わたしが見たものを見てほしい。聞こえた音を、感じた風の感触を、緑のきらめきを──それらに触れた時、こんなに胸が高鳴ったのだということを、自由に綴って届けてみたい)


 文字を知ったおかげだろうか、メリアリーヌは以前よりも世界の輪郭をはっきりと見て取ることができた。

 青の中にも濃淡があること。肌で感じるあたたかさの中にもわずかな違いがあること。空の移ろいにも名前があること。感情にはたくさんの名前があって、本当は思っていたよりずっと心は繊細なのだということ。

 しっくりとした言葉を選び、思ったように文字を綴れた時は、それこそ魔法のように、わくわくと嬉しくなること。


〈スペル〉を知ることは世界を知ることであり、メリアリーヌ自身を知ることでもあった。これまではただ漠然と、自分は自然をこの身に感じることが好きなのだと思っていた。自由気ままに踊り、歌うのが好きなのだと思っていた。けれど、そうではなかったのだ。

 メリアリーヌは自分が感じたものを表現することが好きだったのだ。自分が見た景色、自分しか感じられない感覚。それを伝えたい、表したいと思ったのは、文字というものを知ったおかげだった。


「ヴィーに聞いたお話の全部をここに書き留められたら、どんなに楽しいかしら。わたしが感じた世界をここへ綴れたら、どんなに素敵かしら。わたしが嬉しく思ったこの気持ちを、〈スペル〉を知る全ての人と共有できるんだわ」


 それはなんて素敵な魔法なんだろう、と思った。

 すっかり暗くなった部屋の中、卓上のランプだけに火を入れて、メリアリーヌは夜色のインクに筆を浸すと、今日習った〝優しい言葉達〟をゆっくりと綴っていった。

 優しい、あたたかい、やわらかい、美しい。そして──


「……嫌いじゃ、ない…………」


 やわらかくて丸っこくて可愛らしい、まだ名前も知らない〈スペル〉。艶やかに光るインクの盛り上がりを、机に頬をつけて横から眺めてみる。

 好きよりも強くて大きな魔法だと、ヴィタは言った。何故だかその時、語る彼の顔が赤くなっていて、そんな表情をする彼を珍しいとも、可愛いとも思った。


「好きよりも、強くて大きな気持ちって……どんな気持ちを言うのかしら」


 春風の中、いつも自分を隠すように黒いフードを目深に被り、黒いローブで肌を覆っている少年。メリアリーヌと変わらないくらいひょろっこくて、けれど筋張った手の甲は確かに男の子のそれで。

 少しだけくせっ毛のある黒髪と、冬の夜のように澄んだ瞳。困ったように笑う癖だとか、たまに目を伏せた時に見える、長めの睫毛の影だとか。


(──好きよりも、もっと、大きくて強い)


 彼の瞳と同じ色のインクが乾いていくのを、机に頬をつけたまま、ただじっと、見つめ続ける。

 どうして世界が終わる前、人々は当たり前のように文字を使っていたのだろう、と、メリアリーヌは考えた。メリアリーヌには想像もできないが、終末を迎える前、世界には魔法使いしかいなかったという。

 覚えるまでにこんなに苦労をする文字というものを、どうして人は、好んで使っていたのだろう。数字と記号さえあれば、不自由なく暮らしていける。言葉があれば文字がなくとも生きていける。これまでメリアリーヌがそうして生きてきたように。


(でも、きっと、終わる前の世界に住んでいた人達も、気づいてしまったのね)


 とくとくと鳴る心音を、胸に手を当て感じる。きっと、終末を迎える前の世界にいた人々も、メリアリーヌと同じように感じて、想って、願ったのだ。

 形のない、言葉にはできない、この気持ちを。

 表したい、伝えたい、届けたいと──


「お嬢様? 入りますよ?」


 ぼんやりとしていたせいで、ノックの音も聞き逃していたらしい。メリアリーヌは慌てて紙と羽ペンをサッと机の下に隠した。

 隠すと同時に部屋の扉が外から開かれる。廊下の灯りを背負って現れたのは、メリアリーヌに仕えるメイドの一人だった。暗い室内を見渡し、彼女が訝しげに眉を顰めたのが、逆光の中でもメリアリーヌには手に取るようにわかった。


(ああ──またか)


 言葉はなくとも、全身からひしひしと溢れ出している──普通ではない、おかしい、異端。そんな、声のない声達。

 メリアリーヌはにっこりと、いつものように笑顔の仮面を貼りつけると、努めて元気に彼女へと語りかけた。


「……ああ、これね。今日習ったことを木板に書いていたら、夢中になっちゃって。部屋の灯りをつけるのを、うっかり忘れてしまったのよ」


「…………目を悪くしてしまいますよ」


 メイドの少女は明らかに冷えた声でそう言うと、メリアリーヌの座る机の近くに近寄ってきて──ふと、その視線を一箇所で止めた。


「お嬢様。なんですか、その真っ黒な小瓶は?」


「え? ──あっ⁉︎」


 卓上に視線を戻してようやく、メリアリーヌもランプの灯りの下にインク壺があることに気がついた。慌てて隠したものだから、インク壺だけ逃しそびれてしまったのだ。


「あ……あ、ええとこれは…………そう、拾って……」


「お嬢様。旦那様がお呼びでいらっしゃいますよ」


 必死に言い訳を並べていたメリアリーヌの耳に、しわがれた女性の声が届いた。反射的に振り返り、瞬間、絶望にメリアリーヌの瞳が歪んだ。そこにいたのは、細かなことを見つけることにおいては誰よりも秀でている、最もメリアリーヌが苦手としているメイド長──ミーザであった。


「早く食事のお支度をなさいませんと、また旦那様からお叱りを受けてしまいますよ。…………それにしても、暗い部屋の中二人で……何をしているんです。モーリー、あなたがついていながら」


「それが、メイド長! お嬢様の机に奇妙なものが……っ」


 モーリーと呼ばれた、メリアリーヌと歳の近いメイドの少女は、いっそ嬉しそうにさえ聞こえる声でそう言ってミーザの元へと駆け寄った。モーリーの指がインク壺を指し示したのを見た瞬間、メリアリーヌは抗うことを止め、ゆっくりと椅子に背をもたせかけた。

 普通、メイドは仕える主人のことを気にかけたり案じたりするものだが──メリアリーヌに充てられたメイド達がそんなことをするはずがなかった。このモーリーという少女だけではない。今ここにいるのが他のメイド達だったとしても、きっと同じように嬉々としてメリアリーヌの異端を指差し笑ったに違いない。


(仕方ないわよね。お姉様達も、お母様もお父様も、わたしを見下しているんだから)


「これは……メリアリーヌ様。そのお手に隠しているものを出してください。一体、何を持っているのですか⁉︎ 得体の知れない……」


 ──きもちわるい。

 そんな声がミーザからも聞こえた気がした。


(あーあ)


 メリアリーヌの手から、今日与えられたばかりの魔法の杖が奪われる。文字を綴った白い紙が絨毯の上に音もなく落ちる。

 ミーザの狂ったような怒鳴り声を聞きながら、モーリーのわざとらしい悲鳴を聞きながら──メリアリーヌは窓の外へと視線を向けた。

 ヴィタに世界の大特異点と言われて、それでもあまり落ち込まなかったのは、とっくの昔から異端扱いには慣れていたからだった。

 けれど慣れていても、笑顔の仮面をしていても、やっぱり──


(──駄目なのね。杖を与えられても、スペルトリガーになれても、わたしには魔法なんて使えないのね。この状況をどうにかできる力も──なんの力も。これっぽっちも)


 唇が、音もなく〝彼〟を呼んだ。

 けれど、その助けを求める声は、誰にも届くことのないまま、悲鳴に応じ集まってきた使用人達のざわめきの中に紛れていった──

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