第4章 運命の行方と魔法の夜

第12話 禁忌

 それからも、魔法使いとその弟子の密やかな特訓は続いた。

 最初こそ挫けることの多かったメリアリーヌだったが、彼女は持ち前の好奇心故か、コツと法則性を掴んだ後はみるみる文字〈スペル〉を理解し上手く扱えるようになっていった。

 木の棒を大地に滑らせる姿もすっかり堂に入ったもので、また、綴る文字も当初とは比べ物にならない程美しく整ったものになっていた。


「──うん。よくがんばったね、メリィ。これで簡単な文章くらいなら、きみにも書けるようになったんじゃないかな」


「ふっふっふ。ヴィタが書いた魔法陣の〈スペル〉も、ちょこっとなら読めるようになってきたわ!」


 腰に手を当てえっへん! と胸を張るメリアリーヌに微笑んで、ヴィタは自分が屋敷の周りに刻んだ魔法陣──依頼を受けて綴った〈スペル〉達を遠目に眺めやった。

 メリアリーヌに文字を教えながらであったため、予想より大幅に時間がかかってしまったが、広大な屋敷の周りに厄除けの〈スペル〉を綴るという依頼は、つい先日無事に終えていた。報告も終え、あとは次の依頼主を求めて旅立つのみなのだが──


(ぼくがここを離れたら、別のスペルトリガーがこの地へとやってくるだろう。それまでに、ある程度のことをメリィには教えてやらなければ。彼女が文字〈スペル〉を理解し、その危険さも覚えてくれれば──スペルトリガーを名乗れさえすれば、もう誰も彼女に手出しはできないだろう)


 それに、とヴィタは思うのだった。

 初めてできた〝仲良し〟という存在と離れるのは惜しく、後ろ髪引かれる思いなのだった。出来るだけ早急に彼女には〈スペル〉の良いところ、悪いところを理解してもらう必要があるが──反面、この穏やかで優しい時間が少しでも長引けばいいと願う気持ちも確かにあるのだった。


「そうだ。メリィ。今日はきみにこれをプレゼントしようと思って」


 達成感を得てご機嫌なお姫様に、ヴィタはごそこそと、ベルトに下げた布巾着の中から一つの小箱を取り出した。


「なに、なに? プレゼント⁉︎」


「そんなに大したものではないよ」


 明らかにわくわくとしている彼女に一言断ってから、ヴィタは取り出した、リボンも何もついていない無地の質素な小箱を手渡した。


「開けてみて」


 ヴィタの声に促され、彼女の白い指がそぅっと箱の蓋を持ち上げる。簡単な作りの細長い木箱。その中から出てきたのは──


「鳥の…………羽?」


 ふわり、と春風に揺れる真っ白な鳥の羽。けれどその先には銀色の尖った金属が付いている。


「羽ペンというんだ。見たこともないと思うけど、こうやって──」


 ヴィタは今度は大きめのポシェットの中から紙片を取り出すと、慣れた手つきで箱の中に入っていたインク壺を開け、羽ペンの先を浸し、さらさらと文字〈スペル〉を綴り始めた。


「わ、わぁ……⁉︎ 木炭じゃないのに書けてる⁉︎ その白くて薄いの、何⁉︎ その黒い水、何⁉︎」


「これは紙。こっちはインク…………こらメリィ! 今触るとインクで手が汚れるよ!」


 キラキラと好奇心旺盛に輝くエメラルドの瞳に思わず笑ってしまいながら、ヴィタはゆっくりとそれぞれの名称と用途を教えていった。


「土じゃなくても、木板じゃなくても、この三点があればどこでも〈スペル〉が綴れる」


 そう言ってヴィタは、感激に静かに打ち震えているメリアリーヌへとまっすぐに向き直った。


「──スペルトリガーは、一通り〈スペル〉を操れるようになったら師から杖を授かるんだ。本当はぼくが持っているような木製の杖が与えられるんだけど──今、手持ちはこれしかなくて……」


 申し訳なさそうに言うヴィタに、メリアリーヌはふるふると首を横に振って、大切そうに箱ごと真っ白な羽ペンを抱きしめた。


「本当に、わたしがもらっていいの?」


「ああ。呪符を作る時用のスペアの羽ペンだけど…………」


 そこで一つ言葉を区切って、ヴィタは真剣な眼差しでメリアリーヌの瞳を覗き込んだ。


「これも立派な〝魔法の杖〟だ。この杖を振るえば、きみはどこでだって魔法が使える。強い魔法は大きな幸せも呼ぶけれど、大きな不幸を呼ぶこともある。──しっかり、ぼくが教えたことを守って、大切に使ってくれよ」


「──ええ! 大切に、優しい言葉だけを綴るわ! ありがとう、ヴィー!」


 花が咲き綻ぶように微笑むメリアリーヌに頷いて、ヴィタは試し書きをした紙も彼女に差し出した。


「おまけでこれも。さて、なんて書いてあるでしょうか?」


「わたしの名前!」


「ふふっ……正解。名を書いた紙片はお守りとして使われるんだ。よかったら持っているといい」


「ありがとう……! とっても嬉しいわ!」


 笑顔のメリアリーヌに今度こそ満足そうに頷いて、ヴィタは束の間瞼を閉じた。


(〝杖〟さえあれば、例え他のスペルトリガーと出会ってしまっても、もう大丈夫。杖はスペルトリガーの身分証明になる)


 スペルトリガーであると証明さえできれば、彼女がヴィタの同業者から何か危害を加えられることはないだろう。〝大特異点〟であった彼女は〝世界の監視者〟となることで、その立場を上塗りできたはずだ。

 ほっと胸を撫で下ろしたヴィタに、メリアリーヌはご機嫌で喜びのダンスを踊り始めた。彼女は嬉しいことがあると、こうして自由気ままにダンスを踊る。以前、これが貴族のダンスなのかと質問をしたら、どうもそうではないらしい。彼女曰く、本物のダンスはもっとカタクルシイのだそうだ。


「ねぇ、ヴィー! わたし、この羽ペンでたくさん〈スペル〉を練習するわ! たくさん練習して、習ったことを忘れないようにして、たくさんの文を書きたいわ!」


「練習は、熱心なことでぼくとしても嬉しいけど。文……というのは、何?」


「あのね、……笑わない?」


 メリアリーヌの言葉に頷くと、彼女は足早にヴィタの隣に戻ってきて、何やらもじもじとしながら小声で囁き始めた。


「……ヴィーから聞いたお話たち、あったでしょう」


「話…………ああ、おとぎ話のことか」


「そう。あのお話たちをね、わたし、忘れたくないなあって思ってるの。全部素敵なお話だったから。けどね、たくさん聞いたから、時間が経つごとにあやふやになって、いつか忘れてしまうかもしれないじゃない? だからね」


 照れ臭そうに指をまごつかせて、メリアリーヌは頬を赤らめ微笑んだ。


「ヴィーから教えてもらったことを忘れちゃわないように、わたし、あなたから聞いたお話を文にして綴って……紙にまとめて留めておきたいと思ってるの。そうしたら、もしも忘れてしまっても、後から読み返すことが出来るでしょう」


 メリアリーヌの言葉にハッとして、ヴィタは静かに目を見開いた。


「それでね、思いついたんだけどね」


 メリアリーヌの笑顔を見ることができない。どくどくと鳴り始めた心音が耳に煩くて、彼女の声をいつものように笑顔で聞くことが、どうしてもできない。


「文字〈スペル〉を書き留めておけるならね。あなたから聞いたことを綴るだけじゃなくて、わたしが頭の中に描いたこと──例えばわたしが考えた夢の世界を綴って、紙にまとめることだって」


「──メリアリーヌ!」


 思わず大声を出してしまったせいで、びくりとメリアリーヌの肩が震える。申し訳なくは思ったが、それでもヴィタはその先に続く言葉をどうしても聞くことはできなかった。


「──え? な、なに……」


「メリアリーヌ。その思いつき、誰かに話したことは?」


 せっつくように尋ねたヴィタに、メリアリーヌは困惑した顔のまま無言で首を横に振った。


「そうか…………」


 ひとまず胸を撫で下ろしてから、ヴィタはざわつく胸をローブの上からぎゅっと痛い程に抑え込んだ。

 彼女が今言ったことは、つまり、〝本〟を創る、ということだ。

 ヴィタは彼女に文字〈スペル〉の存在や意味を、世界の真実を教えはしたが、まだ〝本〟の存在は告げていない。必要以上の知識は彼女にはまだ危ういと、知識は順序立ててゆっくり教えていく必要があると判断していたからだ。


(けれど、メリィはそれを自ら思いついてしまった…………知らないはずのものを、覚えたばかりの文字というものを使って創れると判断したんだ…………)


 思わず、ぞくりと寒気がした。それはあるいは興奮、あるいは恐怖──ヴィタには持ち得ない想像と創造の才を垣間見て、肌が粟立った。


(ぼくは大変な勘違いをしていたのかもしれない。知識を正しく与えれば、正しい使い道を示せば、彼女は〝大特異点〟ではなくなると、危険ではなくなると思っていた──けれど、どうだ。彼女の特異性はもっと本質的な……その視点、価値観、他の人とは違う世界の捉え方にあったんじゃないのか)


 頭のてっぺんから足下まで一気に血が落ちていくような嫌な感覚を覚えて、ヴィタは片手で顔を覆い静かに俯いた。


 スペルトリガーである自分の使命。

 黒髪と黒瞳という罪深い造形をしている自分が果たすべき責務と贖罪。

 それらを全て承知していてなお選び取った、彼女を守るための手段。

 けれど、それはむしろ、彼女の特異さを、危険さを際立たせてしまうものだったのかもしれないと今更に気がついて──それがもしも自分に流れる血のせいだったならと考えると、込み上げてくる吐き気を堪えることしかできなかった。

 もしも本当にこの黒髪と黒瞳が、世界を殺した大罪人の血を引く証で。どんなに正しい道を選ぼうとしても、この身に流れる血がもたらす見えない何かが──抗えない呪いのような何かが、何度でも世界を壊すという過ちを繰り返そうとしているのなら──そう考えたら、ヴィタは彼女と同じくらい自分という存在が恐ろしくて堪らなかった。


 生まれてしまった以上自分ではどうしようもないこと。確かめようのない血の呪いの有無。どちらにせよ、きっとヴィタはもう取り返しがつかない判断ミスをしてしまったのだ。彼女を守るために世界の危機を見逃すという、スペルトリガーとして、〝ヴィタ〟として決して犯してはならない判断ミスを。

 恐怖と不安で目の前が真っ暗になる。浅い呼吸を繰り返すばかりになってしまったヴィタの姿を、メリアリーヌもまた怯えたように見つめていた。


「ヴィー……? わたし……あの…………」


 不安げに瞳を揺らしているメリアリーヌに真っ青な顔のまま向き直って、ヴィタは彼女の両肩を強く掴んだ。彼女が痛みに少し顔を歪めたのがわかったけれど、強張った手からはなかなか力を抜くことができなかった。


「メリアリーヌ。今の話はぼくときみの二人だけの秘密にしよう。いいね」


「わたし……、何か悪いことをした……の?」


「きみは悪くない。ただ、」


 言葉を区切って、ヴィタは彼女の怯えきった表情を、自らも心底怯えたまま見やった。

 彼女の思いつき自体は素晴らしい。〈スペル〉を正しい用途のために使うのだから、きっと問題はない。メリアリーヌの優しい性格を考えれば、彼女が世界を壊すきっかけを作るとはとても思えなかった。

 けれど確かにその時、ヴィタは彼女の中に隠しようもない〝特異〟を見てしまったのだ。ヴィタとて、メリアリーヌの夢はなんだって叶えてあげたいと思っているが──

 ヴィタは自身の考えに蓋をして、やや無理矢理に微笑みを浮かべると、首を横に振って、「ごめんね」と謝った。


「驚かせてしまったよね。……君の思いつきは素晴らしいものだよ。きみの綴る文を、ぼくも読んでみたいと思う。心から。けど、それをするにはまだ教えないといけないことが山程あるんだ。……教えていないことを先回りして言われてしまったから、つい驚いて言葉を失ってしまったんだよ」


「そうだったの?」


 明らかにホッとしたような笑みを浮かべるメリアリーヌを見ると、余計に本当のことは言えないと思うヴィタだった。曖昧に頷いて、ヴィタはなるべく笑顔のままで、けれどたくさんの祈りを込めて彼女の手をしっかりと握った。


「いつかきみが幸せな物語を書けるように、まだまだたくさん教えないといけないことがある。だからそれまでは、その願いはぼくらだけの秘密にしていてくれるかな。もちろん、文字の練習も決して人には見られないように。きみが魔法〈スペル〉を扱うことを屋敷の人に知られては、やっぱり、驚かれてしまうだろうからね」


「……うん、わかったわ。ヴィーがそう言うのなら、そうする。わたしはヴィーの〝仲良し〟だから!」


 小指を差し出されて、ヴィタは躊躇いなく自身の小指を彼女のそれに絡ませた。約束一つで世界の危機が遠ざかるなら、それが一番良い。


「なら、きみには優しい言葉をたくさん覚えてもらわないといけないな。まだ教えてない〈スペル〉はたくさんあるからね」


「ええ、たくさん、全部教えてちょうだい! そうしたらわたしにもいつか、優しい魔法が使えるかもしれないわ」


「〈スペル〉ならもう扱えているじゃないか」


「〈スペル〉じゃなくて本物の魔法よ! わたし、やっぱり文字には力があるって思うの。やわらかな文字にはやわらかな力が。力強い文字には強い力があると思う。だからね、そういう……不思議な力をね。わたしも思うように扱ってみたいの。そうしたら、いつでもヴィーを幸せいっぱい、笑顔いっぱいに出来るかもしれないでしょう!」


 にっこりと笑うメリアリーヌに思わず微笑み返してしまってから、ヴィタはもう一度顔を片手で覆った。なんだか顔が熱くて、溶けそうなくらいで、とても彼女には見せられない表情になっている自覚があったからだ。


「……わかった。それならせっかくだから羽ペンを使って書いてみたらいい。書き心地も木の棒とは大分違うと思うし、これにも慣れが必要だからね」


 そう言ってヴィタは一つずつ、自分が優しいと思う言葉を、文字を、彼女に教えていった。

 優しい、あたたかい、やわらかい、美しい。そして──


「………………」


 流れで書いてしまった〝愛する〟の文字にぴたりとヴィタの手が止まった。


「わ、その〈スペル〉、とってもやわらかい形をしてるわね。それにまるっこくて可愛い!」


 横からひょいと手元を覗き込んできたメリアリーヌから反射的に飛び退いて、ヴィタはがりがりと何重にも横線を引いてその単語を消した。


「今のは、なし」


「えー? なんで消しちゃうの? なんていう意味の言葉だったの?」


「……、きみにはまだ早い言葉だから、なし‼︎」


「えー! ケチ! 教えてったら!」


 パッと顔を逸らしたヴィタに、なおも食い下がるメリアリーヌ。致し方なく、ヴィタは彼女の好奇心旺盛なエメラルドの瞳をなるべく見ないようにしながら、ぽつりと小声で答えた。


「……嫌いではない……、っていう意味かな…………」


「回りくどい〈スペル〉ね……それなら〝好き〟って言葉と同じでいいんじゃない?」


「〝好き〟よりももっと大きくて強い〈スペル〉なんだよ。…………、さあ、もういいだろう? 次の〈スペル〉を教えるよ!」


「えーっ? なんでなんでー?」


 そうやって賑やかに、楽しげに、あたたかな時間を過ごしながら──ヴィタは笑顔の下で先程垣間見た彼女の才について静かに考えていた。


(メリィは覚えも早いしセンスもある。興味のあることにはとことん才を伸ばすタイプなんだろうな)


 本を創る。もし彼女がその夢を叶えたのなら、きっと、彼女のようにのびやかで、優しくて、きらめく世界が綴られるのだろう。

 心配することなんて何もない。幸せあふれる優しい文を、きっと彼女ならば綴ってくれる。

 けれどこの世界は可能性の芽を摘むことで、平和と正義を成り立たせているから。

 もしも本当に彼女の発想が世界にとって危険なものではないのだとしても──その夢を叶えた瞬間にスペルトリガー達は彼女の存在を許しはしないだろう。例え彼女が魔法の杖を持っていたとしても。


 今はせめて、いつか彼女が夢を叶えられるよう、そんな世界が訪れることを淡く願って──そのいつかまで彼女が誰からも害されることのないよう、なんとしても自らの手で彼女を守りたいと強く思うのだった。



 けれどそのささやかな願いは、ほんの数時間の内にあえなく潰えることとなる。

 ただ、彼女に自由と幸せを。そんな、ほんの小さな願いさえ、神様は叶えてくれなかった。



「じゃあ、またね、ヴィー!」


「うん、また」


 手を振って別れて、ヴィタは彼女の背中が森の中に消えるのを見送ってから、ゆっくりと寝床──木の洞の元へと移動した。

 旅をするスペルトリガーは家を持たない。各地に隠れ家はあるけれど、目的地の近くに隠れ家があるとは限らない。旅をしていれば自然と、テントや毛布がなくても野宿ができるようになってしまうのだった。


「またね、か…………」


 口の中で言葉を転がす。それはまるでクッキーのように甘い言葉だと、ヴィタは思った。

 また。そのたった一言が本物の魔法のように、ヴィタの心を甘やかに輝かせて、溶かしていく。


「ちゃんと元通りの生活に戻れるか、不安になってしまうな」


 思わず、苦笑してしまう。

 街を歩いていれば、至る所からひそひそ声が聞こえて来る。暗い眼差しが向けられる。石が飛んできたり、あからさまに大きな音を立てて玄関戸が閉められたりは常である。運悪く好奇心旺盛な子供と鉢合わせてしまったりしようものなら、母親の「近寄っちゃダメよ! お腹を壊してしまってもいいの⁉︎」なんて、悪意しかないような叱責を聞く羽目になる。

 乾いた感情で歩き続けていた時は、どうとも思わなかった。またか、と薄ぼんやりと思う程度だった。

 けれどメリアリーヌのあたたかさを知った今は──


(……寒い…………)


 斜陽が差し込む洞の中で小さく蹲って、抱えた膝頭に額を擦り付ける。

 痛くて、冷たくて、寒くて、悲しい。こんなに元の日々に戻ることが恐ろしくなるなんて、思ってもみなかった。

 メリアリーヌという少女は、まるでその存在自体が魔法のようであった。触れるだけであたたかくなれる。けれど知ってしまったら最後、離れがたくなってしまう、強すぎる魔法──


(こんなぼくに、ヴィーという名前をくれた。名前に優しさだけを込めてくれた)


 平和という言葉を持つヴィタという言葉は、違う言語では戦争という意味を持つ。

 なんと皮肉な名前をつけられたのだろうと思った。それもこれも、この髪と瞳の色のせい。そもそもこの肉体に通う血に宿るかもしれない大罪のせいだった。生まれてきたこと自体がよくなかったのだろうと、いつも、誰に言われなくても悟ったように思っていた。

 けれど、彼女がヴィーと呼んでくれてから、少しずつその考えに変化が起こっていた。

 彼女が名を呼んでくれるたびに、本当に自分が優しくなれているような気がした。彼女の前では優しくありたいと願うようになった。名前を呼ばれるたびに求められているように思えて──生きていていいのかもしれないと、思えるようになった。


「…………」


 布巾着の中から細長い小箱を取り出して、中から茶色の羽ペンを取り上げる。いつもは木の杖で行うことだけれど、これは、この〝杖〟でなくてはできないことだから。

 感情を知って、心をもらって、想いを抱いたから。綴ってみたいと思った──強い魔法。

 茜色の斜陽が、ヴィタの手元を、頬を、赤く照らし出していく。ほのかなぬくもり。とても優しい言葉。

 取り出した紙にさらさらと一つの〈スペル〉を綴り終えた時──ふ、っと、世界が翳った。まるで唐突に夜がやってきたように──

 反射的に、顔を上げて──


「……ッ!」


 どくり、と。心臓が嫌な音を立てて一つ跳ねた。

 今しがたまで感じていたぬくもりが、きらめきが、影に覆われ静かに消えていく。


「久しぶりだな──ヴィタよ」


 そこには、黒いフードに黒いローブ。身の丈程もある木の杖を持った、立派な白髭を蓄えた老人が、虚ろな瞳をして佇んでいた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る