第11話 黒の起源

「……とはいえ、本当に世界中のどこからも文字を消し去ってしまったら、また新たに文字という文明が生み出されてしまった時、それを阻止する術がない。もう一度文字が世界に広がってしまえば、また同じことが起こるとも限らない。だから戒めとして、スペルトリガーだけは文字という文明を記憶に留めることにした。やがてスペルトリガー以外の〈文字〉という存在を知る人間は死に絶えて、長い時間をかけて、魔法使いが作り出した嘘の知識を何世代にも渡って浸透させて──そうして今日に至るってわけさ」


 話し終えたヴィタに、メリアリーヌはただただ、ぽかんとした顔をしていた。

 魔法使いは創世より前から生きる黒の一族。人間が畏れる未知の力を操る、人間とは違う存在。そう教えられてきたメリアリーヌにとって、スペルトリガーが自分と変わらない人間であるという事実や、人間を超越するどころか、大罪人の意思を継ぐ存在であるなど──そう簡単に飲み込める情報量ではなかっただろう。


「じゃあ……」


 しばらくの沈黙の後、メリアリーヌは躊躇いがちに声を零した。それから何度か口を開け閉めした後、けれど彼女は、フードの下のヴィタの髪だけをまっすぐに指さした。


「ヴィー、あなた…………じゃあ、まさか……」


「──さあ。ぼくはどうも捨て子だったらしいから。自分が本当はどんな奴で、親がどんな人だったかなんて、今では誰にもわからないよ」


 メリアリーヌが言わんとしていることを察して、ヴィタは先回りをしてやんわりと断った。


「世界が終わる前は今よりもっと色々な髪の色、瞳の色の人がいたと聞くし──だからぼくの〝これ〟も、たまたまかもしれない。もし本当に〝そう〟だとしたら、ぼくの先祖はスペルトリガーとして生きず、先祖が犯した罪から逃れてのうのうと平和に生きてきたってことになるし。真実はわからないけど、どんな真実でも、それがろくなことじゃないのは確かだ」


 皮肉な笑みを浮かべてから、ヴィタは不安げな顔で黙っているメリアリーヌにふわりと微笑みかけた。


「……だから、ぼくの髪と瞳の色は、不吉な色だと言ったろう?」


「ううん。綺麗な夜色だわ」


 そこだけは即答して、ただ、と哀しげな声音で彼女は付け足した。


「前にヴィー、言ってたでしょう。普通、黒色をみんな避けるって」


「うん。そうだね。〝そうあるべき〟だと判断したスペルトリガー達が、長年をかけて人々に刷り込んできた認識だから」


 スペルトリガーは世界を再生し終えた後、何世代にも渡って偽りの創世記を語り聞かせてきた。大罪人の願いになど耳を貸してもらえない可能性が高い。だから最後の罪として、魔法使い達は自らの存在を偽り、同時に自分達が纏う黒という色を拒絶するよう刷り込みをしてきた。人間が敬遠する色を纏うことで、スペルトリガーとそうでない人間達の間に深い溝を作り出したのだ。慣れ親しんでしまえば、監視も戒めも叶わなくなるからだ。


「……黒という色に罪はないのに。悲しいわね」


 メリアリーヌのそんな言葉にヴィタはきょとんとして──次いで、ほぅ、と感嘆の声を上げた。


「きみは……色にまで感情を持っているのか? きみという人はすごいな……」


「色に、じゃないわ。せっかく素敵な夜色の髪と瞳なのに、それだけの理由でヴィーが辛い思いをしちゃうのは嫌だなと、思うだけよ」


「ああ…………そんなこと」


 なんでもないことのように言って、ヴィタは自分の、くせのある黒い前髪をちょいと指で摘んだ。


「最初の魔法使い──過ちを犯した元王様は子孫を残さなかったらしくてさ。だからスペルトリガー達はみんな金髪だったり茶髪だったり……とにかく、元王様の後を追いかけて、世界のために奮闘してくれた人達の子孫や、きみのように新たに招き入れられた人達で構成されているんだ。でも、最初の魔法使いが王冠を頭に乗せていた頃は──たぶん、彼だって家族を持っていたはずなんだよね」


 スペルトリガー達が語り継ぐこの話の中には、最初の魔法使いの家族について触れられていない。王族は全員大災厄の日に息絶えたのか──しかしそうでなく、もしも誰か一人でも生き残っていたのなら。その人物は罪を償わず、普通の人々の中に紛れて生きていたということになる。


「生まれる前に誰のお腹にいたのかとか、流石にぼくにもわからないから。けど、この髪と瞳の色で捨てられたんだろうなっていうのは、聞かなくてもわかるんだ。不吉な色だと思われて捨てられたのか、自分たちの罪がバレるのが嫌で捨てられたのかの違いだから、そんなに大差はないんだけど──……っと?」


 話していたヴィタの胸に、とん、っと軽い衝撃が走った。驚いて視線を落としたヴィタは、更に驚いて静かに目を見開いた。

 自分の胸に頭を押し当てているメリアリーヌの瞳から、ぽろぽろと光る雫が溢れ落ちていたからだ。


「な、なんで…………⁉︎ どうしたんだメリィ⁉︎ お腹痛い? 頭痛い? ……あ、待って、薬なら少しぼくも持ってるから」


「違う、違うのよヴィー」


 慌てふためくヴィタの胸をぎゅっと掴んで、メリアリーヌは静かに泣き続けていた。


「ヴィーが、あんまりなんでもないことのように話すから。絶対悲しいことのはずなのに、当たり前みたいに話すから」


「……ぼくが、大罪人の血を引く子供かもしれないって、こと?」


 恐る恐る尋ねると、メリアリーヌはこくりと一つ頷いた。

 ヴィタはそんな彼女に何と声をかけたら良いかわからなくて──ただ自身の胸から香る花のような甘い香りにどぎまぎしながら、考え考え、行き場のない両の手を宙に浮かせたまま言葉を紡いでいった。


「けど、でも……もしも本当に〝そう〟なら、申し訳ないことだと思うし……そうでなくても、こんな髪と目の色をした赤子が生まれてきたら、敬遠するのは当たり前だと思うし……」


「当たり前なんかじゃない! だってヴィーは何もしてない!」


 噛み付くように言葉を遮られて、ヴィタは今度こそ驚きに言葉を失った。


(考えてもみなかった。そんなことは。自分自身が何もしていなくても、黒を持って生まれたからにはこの運命は仕方ないと……皆が嫌うのなら嫌われるような自分なんだとしか、考えてこなかった)


 確かにメリアリーヌが言う通り、ヴィタ自身が何か罪を犯したわけではない。

 それは彼女も同じで──彼女が〝大特異点〟なのは彼女が悪いわけではない。好奇心を持つ者には世界を壊す可能性がある。危険の因子。ただそれだけの話だ。

 それなのに。自分だって犯してもいない罪のために、つい先日、ヴィタの声を通して世界から酷い言葉を受けたというのに。

 彼女は自分のためではなく、ヴィタのためだけに泣いていた。ぽろぽろと、綺麗すぎる涙を静かに落として泣いていた。


 ヴィタは、誰かを泣かせることも、誰かに泣かれることも経験したことがなかった。思えばこれまでの人生で自分が涙を零したことだって、あったかどうかよく覚えていない。

 感情というには乾き切った思考を持って生きてきた。人並みに喜怒哀楽はあると思っていたし、文字〈スペル〉を知っている分言葉は豊富に操れるから、自分は人と比べて表現力も豊かだと思っていた。

 けれど、メリアリーヌに出会って──初めてヴィタは心というものの存在を知った。振り返れば、今までの自分はまるで、心臓がくっついただけの人形のようであったとさえ思えてきた。

 それ程までに、彼女と出会ってからのヴィタは──乾いた思考が感情と呼べるまでに潤って、心というものを得て、文字〈スペル〉では語りきれないくらいの〝想い〟を知ったのだ。


(……魔法使いより、よっぽど魔法を使う女の子なんだな。不思議で、それから、とても優しくてあたたかい……)


 思わずその、眩い光のような金の髪に触れそうになって──すんでのところで手を止めて、ヴィタはなんとか言葉だけで彼女にもう一度笑顔を贈るべく苦心した。

 けれど結局、悩んだ末に出てきたのは、とてもシンプルで、誰でも言えるような言葉でしかなかった。


「……ありがとう。ぼくのために泣いてくれて」


 涙を零していたメリアリーヌの肩が震えて、まだ潤む緑の瞳が、まっすぐにヴィタの瞳をひたと見つめてきた。

 赤くなった目元やぽってりとした唇が、どきりとさせられる程に──美しかった。彼女はよく、姉達に比べて自分は容姿も劣っていると、ことあるごとに口にしていたが、そんなことはないとヴィタだけは断言できた。


「ぼくは大丈夫だよ」


「どうして?」


「きみが泣いてくれたから、もう大丈夫になった」


 真剣に答えると、メリアリーヌは涙目のまま朗らかに笑って、鼻をすすりながら頷いた。


「それなら、よかった!」


 そう言って目元を指で拭うメリアリーヌは、まだ涙の名残が色濃かったけれど。


(やっぱりきみは、笑顔の方が似合うな)


 穏やかな気持ちでヴィタは、そう、確信したのだった。


「そうだ。ヴィー、クッキーは好き?」


「クッキー……?」


「食べたことあるわよね? メイドが持ってきてくれたおやつをこっそり取っておいたのよ。持ってきたから、一緒に食べましょう。甘いものを食べると元気になれるわ」


 そう言ってドレスの内側から取り出されたハンカチーフと、そこに包まれた焼き菓子に、ヴィタは目を瞬いて無言で首を傾げた。


「存在としては名前も知っているけど……こういう見た目のものは、多分、口に入れたことはなかったと思う」


「嘘でしょう⁉︎ クッキーはお屋敷じゃなくたってお店で買えるお菓子よね⁉︎」


「そうだと思うけど、お菓子……というものを食べた記憶が……やっぱりないと、思う。必要がないから買いに行ったことがなかったんだな」


 しげしげと、珍しいものを見るようにクッキーを眺めすがめつするヴィタに、メリアリーヌは今日一番に絶望したような顔をして──それからぐっと唇を引き結ぶと、力強く一つ頷いた。


「…………決めた。わたし、これから毎日お菓子を持ってくるわ」


「ええ? ……いや、いいよ。食料ならちゃんと備蓄があるし」


「食事とお菓子は別ものなの! 絶対決めた、今決めた! 毎日しっかり〈スペル〉をお勉強して、それで一緒にお菓子を食べましょうね!」


 仲良しはそうするのよ、と意気込むメリアリーヌに、呆気に取られてから──ヴィタは彼女につられてふっと微笑んだ。


(この心優しい少女のために、ぼくにできることはあるだろうか。文字を教えること以外に、何か、贈れるものが)


 楽しそうに小さな茶会の準備をしている彼女の横顔を眺めて──ふと、自分の頬に触れて、ヴィタは驚き息を呑んだ。自分の頬がこんなにまで緩むことがあるなんて、ヴィタ自身も知らなかったのだ。


「メリィと出会ってから、本当に知らないことばかりと出会うなあ」


「クッキーだけじゃないからね。色んな種類のお菓子を教えてあげるわ!」


 ヴィタの言葉をすっかり勘違いしたまま、メリアリーヌは誇らしげに反らした胸を、やっぱり淑女らしからぬ仕草で、とんと拳で叩いていた。

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