第7話 雨の日とあたたかな雫
「………………」
ざあざあという煩い音に目を覚ますと、木の洞の向こう、世界は灰一色に染まっていた。
(まるで、心のノイズを聞いているみたいな雨音だ)
雨に濡れないよう、木の洞の中で身を縮こめながら、ヴィタはそんなことをぼんやりと思った。視界の先、先程までヴィタが刻んでいた、書きかけの〈スペル〉が雨に打たれている。事前に石灰粉を撒いていてよかった。あれだけ苦労して書いたのにあっさりと雨に消されてしまっては、流石に悲しい。
昔──スペルトリガーとして一人で歩き出したばかりの頃。こうして雨に降り込まれ、せっかく書いた〈スペル〉が無惨に泥となって溶け消えたことがあった。
それ以来、本来は完成した〈スペル〉が簡単に消えないように撒く石灰粉を、ヴィタはこまめに、なおかつ入念に撒き、都度土に練り込むことにしていた。
そもそも、大地に刻む〈スペル〉は風化に弱い。長くても一ヶ月、短ければ数日であっという間に努力して刻んだものは雨風で消えてしまう。消えてくれなければ今頃世界はスペルトリガー達が刻んだ〈文字〉でいっぱいになっているはずだし、そうなればヴィタは職を失い食いっぱぐれているはずだろうから、ある程度は仕方ないことと割り切ってはいるのだが。
(やっぱり、せっかく〝書いた〟のなら、少しでも長く残っていてほしいと思うからな……)
人々の祈りや願いを受けて、ヴィタが必死に大地に深く刻んだもの。
努力や汗の他に、ほんの少し、人々の願いに対するヴィタの想いも溶かして刻まれた魔法〈スペル〉。
本当はただの、なんの効力もない文字の連なり。けれど力があると人々に信じられて──たくさんの心からの願いがあって──それを人々の代わりに形にして綴るのがヴィタの仕事だから。
スペルトリガーの中にも繁忙期というものはあって、そんな時期は、どうせ人間には読めないのだからと、ちぐはぐな文字を綴って報酬をもらう同業者もいる。書いても誰にも届かない文字達。意味なんて伝わりっこない文字達。虚しくなる時もあるけれど、ヴィタは、それでもせめて、綴る文字はいい加減なものではなく、意味のある、人々の願いの分だけ心を込めたものであるべきだと思って──願っていた。
「……くしっ」
小さくくしゃみをして、ずず、と鼻をすする。春の雨はよく冷える。黒いローブに包まりながら、ヴィタは暇を持て余して、先のメリアリーヌとのやりとりを思い出していた。
世界の大特異点。
それは、この世界の理から外れた者のこと。
この世界を存続させるために、在ってはならない存在のこと。
そう、ヴィタはベリタス老から教わってきた。
大特異点は危険因子。いつか彼らが不幸を生む前に、危険の芽は摘まなければならない。
因子は、人間の中に潜んでいる。一見彼らは普通の人間に見える。けれどそれが危険であることは、〝スペルトリガーならば必ずわかる〟。
そう教わった通り、ヴィタは彼女に出会った瞬間、わかってしまった。彼女が〝そう〟であることに。
わかってしまったから、毎日のように嫌な夢ばかり見る。
「まるで過去からの束縛だ」
自分の絶対的な存在が、自分に繰り返し言っている。
生き残りたければ使命を忘れるなと。
生き残りたければ躊躇いなく殺せと。
大特異点を見逃すことは、魔法使いとして、世界の監視者としてあってはならないことなのだと──
「……どうして、あの時、ぼくは生きる道を選んでしまったんだろうなあ」
ぽつりと言葉を零すと、声は洞の中にくぐもって響いて、思ったより大きく重く、耳に届いた。
失われたおとぎ話の主人公のように、明るく好奇心旺盛で、いつも元気いっぱいで。ウサギを追いかけ高いところから真っ逆さまに落ちてきた女の子。
綺麗なドレスを着ていること以外はまったく貴族らしくない、破天荒で、めちゃくちゃな思考で、けれどウェーブのかかった金の髪とエメラルドの瞳があまりに美しい女の子。
彼女は自由を愛している。きっと人から押し付けられたり、抑圧されることが嫌いなのだ。そんなことは、屋敷から毎日のように飛び出してきている姿を見れば、人付き合いが得意ではないヴィタにだって手に取るようにわかった。
けれど、どうしても言わずにはいられなかった。どうか大特異点などではないと──世界の危険因子ではないと思わせて欲しくて、言葉を重ねてしまった。理解して言葉に耳を傾けてくれればそれでよし、駄目ならば──せめて自分達がこれ以上関わり合いにならなければ済む話だと思った。
あの娘が大特異点でなければ、と思わずにはいられないヴィタだった。
彼女が普通の女の子だったなら。
自分が魔法使いでさえなければ。
世界がこんな形で回ってさえいなければ。出会ったことをこんなに呪う羽目にもならなかったはずなのに。
すべて、ないものねだり。そうわかっていても思わずにはいられなくて、ヴィタは夢の余韻を引きずったまま、ぐっとローブの胸元を痛いほどに掻き合わせ、叫んだ。
「メリアリーヌ……なんで、きみは……!」
「わたしが、なに?」
苛立ちなのかなんなのかわからない感情を乗せた声に、返ってくるはずのない返事があった。
ヴィタが驚いてゆるゆると顔を上げると、土砂降りの雨の中、木の洞の前。そこには傘をさしたメリアリーヌがきょとんとした顔で佇んでいた。
ドレスの裾を泥で汚して。美しい金髪を雨で濡らして。
ヴィタの言葉に怒って帰ったと思った彼女が、きらきら光る雨粒を、髪に、ドレスに、まるでダイヤモンドの飾りのようにいっぱいにくっつけて、ヴィタにまっすぐに手を差し伸べてきていた。
「やっぱり。あなた、いつもその杖しか持っていなかったから。雨に降り込まれて困っているんじゃないかと思ったのよ」
そして傘を閉じると、メリアリーヌはヴィタに一言も断ることなく、ひょいとその身体を木の洞の中に押し込めてきた。
「あ、ちょっと……」
ヴィタが待って、と言う前に、メリアリーヌは彼の目の前までやってくると、「あら、意外と中はあったかいのね」と楽しげに微笑んだ。
雨に濡れた彼女の身体が、布越しに自分の肩に密着している。決して広くはない、暗い洞の中に、二人分の息遣い。
なんて荒っぽくて、自由で、奔放な少女なのだろう。呆れながら、けれども何故か嫌悪感は全くなかった。
ヴィタは彼女の足がせめて雨に濡れないように、自分の体をめいっぱい洞の奥に押し込むと、次いで彼女の腰を控えめに抱き寄せた。
互いにもぞもぞと動いて、なんとか収まりの良いところを二人で見つけ出して──それから、どちらからともなく、交わった視線に笑みが溢れ出た。
「なんで、こんな酷い土砂降りの中を?」
「だって、ヴィーは傘を持ってないんじゃないかって……そう思ったら気になって仕方なくて、勉強どころじゃなくなっちゃったんだもの」
「それは、きみが勉強をしたくなかっただけだろう」
「それは……そうだけど。でも、雨の日に一人でいると嫌なことを考えてしまって、だんだん悲しくなってしまわない?」
どきりとして視線を上げると、微かにヴィタの肩に寄りかかっていたメリアリーヌが、バランスを取るためにか、その手をそっと彼の胸につきながら、花のようにやわらかに──あるいは春の雨のように切なげに微笑んだ。
「わたしはね、いつもそうなの。雨の日に部屋に一人でいると、なんだか考えてもしようのないことをぐるぐると考えてしまうの。雨の匂いは好きだけど、部屋に一人でいる時間が苦手なのよ」
余計なお世話だった? と尋ねられて、ヴィタは無言で首を横に振った。それから唇を引き結んで、首が痛くなるくらいに真下へと視線を落とした。──そのくらいしないと、彼女に表情を見られてしまうから。
(──なんで)
熱い。こんな狭い洞の中に二人分の身体が押し込まれているのだから、空気が薄くなって当たり前だ。
だけど、なんだかそれ以上にヴィタは呼吸が浅くなって、顔が熱くなって、目元も熱くなって、自分の感情がみるみる、ぐしゃぐしゃになっていくのを感じていた。
こんな感情は初めてだった。なんだか悲しくないのに滲み出てくるものがあって、けれども嬉しいというにはあまりにも胸が痛くて。ヴィタはフードを意味もなく深く被って、無理やり唇に笑みを乗せた。
「怒って帰ってしまったのかと思った」
「え? ……ああ…………そんなことはなかったの。でも、さっきのわたし、きっと可愛くなかったわよね。ごめんなさい」
あまりにもまっすぐに謝られて、ヴィタはまた無言で何度も首を横に振って、彼女の澄んだエメラルドの瞳を見下ろした。
「……もう、会いには来ないと思った」
「どうして? わたし、またねって言わなかった?」
驚いたようにそう言って、メリアリーヌは薄闇の中、眩しいくらいに笑った。
「またねって言ったのなら、次に交わす挨拶はこんにちは、でしょう?」
「…………はは」
いっそ乱暴すぎるくらい、まっすぐな答え。
笑顔に、笑顔を返したいのに──
ヴィタの笑い声に顔を上げたメリアリーヌが驚いたように瞳を見開くのが見えた。
「ヴィー……どうしたの……? どこか痛むの?」
「なんで」
「なんでって……あなた…………」
メリアリーヌの細い人差し指がヴィタの頬に躊躇いがちに触れた。その指に伝って、落ちて、光る粒は、紛れもなくヴィタ自身から溢れ出ていた。
「あれ。──ごめん、おかしいな……なんで」
口では謝りながら、ヴィタは自分がどうして泣いているのか、本当のところではわかっていた。
今まで誰からも向けられたことのなかった感情、言葉、笑顔──
それを生まれて初めてメリアリーヌから与えられて、それもいっぺんに、あまりにも衒いなく一心に注がれたものだから、心が驚いて、安心して、知らない感情が生まれて──心のゆとりがなくなってしまったのだった。
手の甲でめちゃくちゃに目端を擦りながら──メリアリーヌに心配されながら──ヴィタはそれでも笑顔で泣き続けていた。
自分の立場も、彼女の立場も、何も変わってはいない。
けれどこの日、それでも初めてヴィタは、自分があの日生きることを選んでよかったと、遠い昔の自分の、何気ない選択に感謝をすることができたのだった。
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