第6話 黒の記憶

 気がついた時から、少年は一人だった。


 それまで、どこをどうやって歩いていたのか、何をどうして生きてきたのか、もう覚えていない。

 ただ、なんとなく、自分の髪と瞳の色を人は嫌うのだと──その身を打つ石の衝撃の数だけ、木切れが肌を裂く痛みの数だけ理解していた。


 いつも腹を空かせていたような気もするし、それでいて、いつも何も望んでいなかった気もする。見るもの全てが大きくて、恐ろしくて、けれど次第に何の感情も覚えられなくなって。何もかもがどうでもよかった、幼い頃。

 歩いて、歩いて、歩き続けた果てに、その黒いローブを纏った人物はいた。

 真っ白な髭を立派に蓄えた老人だった。身の丈程もある長い木の杖をつき、黒いフードの下からじっと少年のことをひた見つめていた。


 それから、彼はしわくちゃの手のひらを少年に差し出してくれた。生まれて初めて、石でも木切れでも罵声でもなく、手のひらを差し出された。

 少年はよくわからないまま、そのしわくちゃの手を取った。


 その瞬間から、少年は、人間から魔法使いになった。


 魔法使い達の隠れ家に迎え入れられた少年は、温かいご飯と寝床と、それから格子戸のついた、窓のない狭い部屋を与えられた。

 体の傷が癒えて、薬が効いて、ようやく食事を摂っても戻さなくなった頃。少年は黒服の魔法使い達が集う広間の真ん中で、あの老人と再び再会した。


「お前にはどちらかを選んでもらわなければならない。その血に流れる罪を死を以て償うか……ここで我らと共に生きるのか」


 少年は、死ぬのも生きるのも、どちらでもよかった。正しくは、死ぬとはどんなことか、生きるとはどういう意味か、よく知らなかった。それはまだ、そんな、意味も理解できない程幼い頃に問われた言葉だった。


「お前個人に罪はない。だからお前が望めばその命を摘まないことにしよう。……どうだ?これからもお前は生きていくことを望むか。例え日向で生きることは叶わなくとも」


 質問の意味がわからなかったから、少年は問い返すこともしないまま、ただ、老人の圧に負けて首を縦に振った。それが、彼の運命を定めた瞬間だった。


「では、可愛くて罪深いお前に名を与えよう。お前の名前は──ヴィタ。その命運と、背負った罪を担うには相応しい名だ」


 そうして、名もない少年は、ヴィタとなった。


「それがいい。その黒髪と黒い瞳には似合いの名だ」


「しかし、いいのですかベリタス老? このような生い立ちのものが〝監視者〟になるなど……こいつのせいで…………こいつらのせいで世界は一度──」


「だからこそ、〝監視者〟に相応しいはずだ。皆、これからヴィタには〈スペル〉を教えてあげるように。黒服を纏えば、その瞬間から我らの同胞。監視者同士での争いなど、罪深いことは犯さぬように」


 魔法使い達から注がれる視線の、言葉の一切からヴィタを守ったのが、このベリタスと呼ばれる老人──魔法使い達の長だった。

 だからヴィタは、名に込められた意味も、自らの生い立ちも知らぬままに、この時からこの老人の存在が自分の全てになった。


「いいか、ヴィタ。我らスペルトリガーはこの世界の〝監視者〟。世界を見守るためには、世界の真理を知らなければならない。お前は真理を魔法と偽るそのために、これから〈スペル〉を学ぶのだ」


 ベリタス老は、毎朝そのような言葉を暗示のように繰り返してから、ヴィタに勉学を教えてくれた。

 魔法とは何か。魔法使いとは何か。世界とは何か。何を監視するためにこれから生きていくのか。何を守るために〈スペル〉を綴るのか。

 そんなことを、習って、学んで、言われるがままに覚えて身につけて──


 そうしてヴィタは一人のスペルトリガーとして、この隠れ家から世界に放たれた。


 スペルトリガーは黒の一族と呼ばれている、普通の人間と比べれば極々少数の集団だったが、群れては行動しない決まりだった。使命のために、世界のために、それぞれが、それぞれの〈スペル〉を用いて人間を守るために個で生きる。

 ヴィタは何年ぶりかの陽の光の下を、木の杖と、必要最低限の物だけを持って一人歩き続けた。


「よいか、ヴィタ。お前はお前の罪と、お前の使命を人々に伝えるために、その身から黒を絶対に取り去ってはいけない。そうしなければ私達もお前の命を守れないのだ」


 旅立ちの前に、ベリタスがそんなことを言った。


「お前はお前の名の意味を忘れてはいけない。その名に込められた強い魔法を覚えて、自らの足でこの世界を歩いていかなければならない。教えた〈スペル〉を用いて、もう誰も不幸にならないよう、世界を守るために」


 ベリタスという人は、ヴィタにとっての〝絶対〟だった。幼いあの日、彼がいなければとうに飢え死にをしていたから。名を与えられなければ、今日まで生きてこられなかったから。彼にスペルトリガーとしての教育を施してもらわなければ、他のスペルトリガー達と今日まで同じ食卓に着くことさえ許されなかっただろうから。


「だからその時が来たら、躊躇ってはいけない。躊躇いを捨てることこそ、お前の中に流れる血の償いにもなるのだからね」


 そうしてヴィタは彼から強い、強い魔法をかけられた。


「もしもお前の前に〝世界の大特異点〟が現れたなら。その時は、必ず──お前の手で、その杖で、その者を──始末しなさい」

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