第2章 魔法使いの弟子
第5話 〝普通〟
闇の中で、声がする。
「いいか、ヴィタ。〈スペル〉を扱うということは、人の命を、世界の運命さえも左右する力を操るということだ」
しわがれた声。聞き馴染んだ声。絶対なる存在の声。黒の一族の長に立つ存在の声だ。
「スペルトリガーになったからには、黒を纏うことを覚悟しないといけないよ。私達の存在こそが、誓い。私達の存在こそが戒めなのだから」
そうして、手渡された木の杖を握りしめるヴィタの手は、まだ幼く細く、か弱かった。
「スペルトリガーとして生きていくのならば、覚悟をしなくてはいけない。私達は〝世界の監視者〟。だから決して容赦をしてはいけない」
纏うローブの闇の向こうから、長の指がまっすぐにヴィタを指さす。
「もしもお前の前に〝世界の大特異点〟が現れたなら。その時は、教えた通りにこの杖を使いなさい。決して教えを違えてはいけない。お前はこの手で、必ず──」
「ヴィー!」
肩を揺すられて、ハッとしてヴィタは瞼を開いた。
あたたかな春風が吹き来ると、額がひやりと嫌に冷えた。どうやら、寝汗をかいてしまっていたらしい。
「うなされてたけど……大丈夫?」
「──ああ……」
返事なのか相槌なのかわからない言葉を曖昧に零して、ヴィタは心配げに顔を覗き込んでくる金髪碧眼の少女──メリアリーヌをぼんやりと眺めた。
──世界の大特異点。
夢の中で言われた言葉がずきりとヴィタの胸を痛めて──それはもしかしたら表情にも微かに表れていたのかもしれない。
「……嫌な夢だったの?」
身を乗り出してきた彼女の首筋から、淡い金の髪が一房溢れ落ちる。その光景から僅かに目を逸らして、ヴィタは吐息を吐くと、ゆるく首を横に振って、手元に立てかけていた仕事道具──メリアリーヌ達人間からは〈魔法の杖〉と呼ばれている木の杖を深く胸に抱き寄せた。
「疲れて寝落ちてしまったみたいだ。……やっぱりきみの屋敷の敷地は広大だな」
少し皮肉ってヴィタがそう言うと、メリアリーヌはほんの少し頬を膨らませて「敷地が広いのはわたしのせいじゃないわ」と口を尖らせた。
フィオラーレ邸敷地の周りに、厄除けの〈スペル〉を刻む。それがスペルトリガーであるヴィタが引き受けた依頼であったが──これが相当骨の折れる仕事だった。
なにせ森を内包するような広大な敷地である。距離を空けて等間隔に施すとはいえ──少し進んでは木の杖で土を掘り〈スペル〉を一つずつ刻む。これは冬でもキツイ仕事だったろうが、暖かくなり始めた春の日差しの中で行うには、かなり体力を奪われる作業だった。
加えてヴィタの服装は、全身を覆うほどに長く黒いローブに同色のフード。陽光を一身に集める色をしている。わかってはいたことだが、消耗は激しい。
「……さて。休憩は終わりだ。仕事をしないと報酬がもらえない」
杖を頼りに重い動作で立ち上がって、ヴィタは黒いフードを目深に被ると、また〈スペル〉を刻むために杖を勢いよく大地の上に突き立てた。
(やれやれ。意味のない、ただの〈文字〉を刻むだけの仕事。虚しくなるな)
けれども、その虚しい仕事をするだけで、普通の人間なら簡単には手に入らないような巨額の報酬を得ることができるし、逆に言えば、その報酬がなくては不定期的にしか仕事をしていないヴィタは生きていく術がない。辛くとも、途方がなくとも、今は与えられた仕事をこなすしかないのだ。
汗水垂らして必死に杖で〈スペル〉を刻むヴィタを、木陰の下、倒木に腰掛け頬杖をついて眺めているのは、ヴィタの雇い主であるフィオラーレ伯爵の愛娘──今日もドレスを泥で汚している破天荒なお姫様・メリアリーヌである。
彼女は初めて出会ったあの日以来、ほぼ毎日のように同じ時間帯に屋敷を抜け出しては、ドレスにいっぱいの木の葉と泥の飾りを付けてヴィタの元へ〝遊びに〟来るのだった。
「ねえ。暑いのなら、それ、脱げばいいんじゃない?」
言いながらメリアリーヌが〝それ〟と指し示したのは、ヴィタが身に纏うフード付きの黒いローブだった。
どうやらメリアリーヌの目から見ても、このローブは暑苦しく思えたらしい。
けれどヴィタはふるふると首を横に振るばかりで、フードさえ外そうとはしなかった。
「駄目なんだ。これを着ていないと、ぼくがスペルトリガーだって、普通の人は見分けられないだろう?」
「見分けられなきゃいけない理由でもあるの?」
「そりゃあ……」
言いかけて、ヴィタは思わず手を止め、緑の瞳をまんまるくしているメリアリーヌを眺めた。
(このお嬢さんは……本当に物怖じをしないな。当たり前のように、まるで何も知らないみたいに物を尋ねてくる。まさか、本当に何も知らないのか?)
ヴィタは貴族の娘の知識量というものをよく知りはしなかったが、貴族の生まれは庶民よりも勉学の機会に恵まれていると聞いたことがあるから、やはり何も知らないとは考えられなかった。
(特異点である自覚もなし、か…………いや、自覚がないから特異なのだろうけど)
鬱々とした気分に蓋をして、ヴィタは杖を動かす手を止めて「いいよ」と答えた。
「好奇心旺盛なお嬢さんのために教えてあげよう。今後のきみのためにも、ぜひ覚えておいてもらいたいことだしね」
「お嬢さんって……あなた、わたしと歳、変わらないくらいでしょう」
呆れたように腕組みをして、少しお姉さんぶってメリアリーヌが胸を反らす。
「わたしは今年で十八だけれども」
「……。まあ、ぼくも、たぶん、そんなところだ。──それより」
メリアリーヌがヴィタの言葉選びに引っかかりを覚えるより先に、彼はカツンと木の杖を大地に突き立て、黒いローブが彼女によく見えるよう、大きく両の手を広げた。
「よくよく考えて答えてほしいのだけどね。……真っ黒なローブに真っ黒なフード。普通の人間は持たない、〈スペル〉を刻むことが出来る長い木の杖。おまけに黒髪に黒い瞳なんて、ぼくのような人を見たら……どう思う?」
「わくわくするわ!」
「……よく、考えて、それなのかな…………」
思わずがっくりと肩を落としてから、ヴィタはよろよろと杖に縋るようにしてもう一度背を伸ばした。
「──あのね。普通はね、全身黒づくめで年中肌を見せない、常に杖を持つようなぼくらを見たら、人間はそれを恐れるし気持ち悪く思うんだよ」
「そんなことないわよ」
「そんなことあるんだよ。まったく……どこから湧いてくるんだ、その自信は」
軽い頭痛を覚えてこめかみに手を当てながら、ヴィタは明後日の方へと視線を逸らした。さて、自分にこの無知なのか無邪気なのかわからない少女への説明が上手くできるだろうかとため息を吐きつつ。
「読めない、意味がわからない、理解もできない魔法〈スペル〉を操る魔法使い〈スペルトリガー〉。頼まれればどんなまじないごとだって引き受ける。例えば──必要であれば呪いだってね。そしていつも死を連想させる黒い服を着ている。これだけ条件が揃えば、普通の人は不気味に思うものなんだよ」
「ええ……? 黒色が好きな人だっているわよ、きっと」
まだ納得をしていないメリアリーヌの言葉に、ヴィタは笑みを引っ込めて、ぐっと胸の前でローブを強く掻き合わせた。
(メリアリーヌ……ダメだ。これ以上ぼくらを理解しようとしては。そうでなければ、きみは本当に──)
嫌な夢を思い出す。
夢の後に見た、彼女のあたたかな眼差しを思い出す。
吐息をゆっくりと吐き出して、ヴィタは落ち着きを取り戻すと、もう一度、小さな子供に言い聞かせるように言葉を選んで、噛み砕いて説明を始めた。
幸いなことに、過去の史実を語り聞かせる、いわゆる〝語り部〟の役を務めることもスペルトリガーの仕事の内の一つであったから、ある程度、ヴィタも説明をするという行為には慣れていた。
「葬式に行ったことはある? そこで、黒いローブのスペルトリガーを見たことがあるだろう。葬儀にぼくらはつきものだ。魂の浄化を願って〈スペル〉を綴るからね。……だから、ぼくらを見ると人は、死を連想する。誰かの不幸があったのかなと思って、その不幸をもらわないよう避けるんだ」
「そんなものかしら……」
「そんなものだ。日向と比べれば日陰の方が印象は悪く、朝と夜なら夜の方が怖い。夜の墓場は不気味だし、墓場のカラスはなんとなく気持ち悪い。それが〝普通〟ってものなんだ」
若干語気を強めてヴィタがそう言うと、メリアリーヌは微かに緑の目を見開いて──
「──?」
それから、ふいと、ウェーブのかかった金髪を揺らしてそっぽを向いてしまった。
いつもの彼女ならばそんなことはないと無条件に否定をしてきたり、やや高めのテンションできらきらと笑いながら新しい質問を重ねてきそうなものなのに。
(納得、した……? いや、納得させようと思って説明したんだから、その方が有り難くはあるんだけど)
ふいと視線を逸らした彼女の肩の線が、いつになく細く、頼りなく見えて──ヴィタは刹那、胸の内に靄がかかったような嫌な不安を覚えた。
何か、大切なことを見落としているような。何か、取り返しのつかないことをしてしまったような、そんな、得体の知れない違和感──
「──ヴィーの意地悪」
「えぇ?」
拗ねたような声に、思わず半笑いで問い返して──ヴィタはぎくりとその動きを止めた。
「ヴィー〝も〟、わたしが普通じゃないといけないと思うの?」
ドレスの裾をぎゅっと痛いほど握りしめ、長いまつげを伏せて。じっと陽だまりの一点を睨む彼女の瞳が、波打っていたから。
「あ…………」
ヴィタが、どう声をかけたら良いか悩んで、一歩足を進めた、次の瞬間には。
「……なーんてね」
ぱっ、と顔を上げたメリアリーヌは、先程までの表情が嘘のように、にっこりと笑っていた。
「メリア──」
「でもわたし、そろそろ帰らなきゃ。今日もお勉強の時間が決まってるのよ。サボると後で怒られちゃう。……それじゃあまたね、ヴィー!」
ヴィタが思わず伸ばした手の先、メリアリーヌはくるりと踵を返すと、唐突なくらい突然に、そして不自然なくらい明るく駆け去って行った。
森の木々の向こうに彼女の背中が消えるのを見送って──
「……………………」
ヴィタは細く長い吐息を吐くと、彼女が今しがたまで座っていた倒木に歩み寄り、すとんと力無く腰掛けた。まだ、ほんのりとあたたかなその木肌に触れて、もう一つため息を吐く。
「やっぱり、人間と話すのは……苦手だ」
呟いた声は、自分でも疲れ切っているように聞こえた。やはり、こんなに動きづらいローブで日差しを受けながら動くのは疲労が溜まるものなのだ。
そう思いながら見上げた空は、とっくに青空ではなかった。いつの間にか灰色の雲が一面に立ち込めていて、静かに深く曇り始めていた。
「……なんだ。全然……太陽のせいじゃ、ないじゃないか」
ぽつりと呟き、頭を振ると、ヴィタは腰から下げた布巾着の中から粉の入った小瓶を取り出し、刻んだばかりの〈スペル〉を虚ろに見やった。
「雨が、降りそうだな……」
ヴィタの呟きに応えてくれる人はもう、誰もいなかった。
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