世界で一番素敵な人の曲

三室戸岬

第1話

ハンドルを握る手が慣れ始めてきた。普通車の免許を取ったのは就職前だったはずだが、本来の運転に慣れるまでは随分と時間がかかった。今となっては、日課に近い動作の一つとして緊張感もなく、車を走らせることができている。


「聞いてる?お母さん」


その声で我に返った。助手席の存在を忘れていたわけではなかったが、どうやら運転中に相応しくない意識の没頭を思いがけずにしてしまったいたらしい。


「もう!全然聞いてないじゃん。この前に_」


ごめん、何だった?と聞き返すと少々機嫌を損ねてしまったようだ。それは、ごめん。母は正直に謝る。娘の真凛(まりん)は2ヶ月前に11歳の誕生日を迎えた、年頃の小学生。お喋りで気持ちが表情に出やすいところは、特に私に似ている気がする。

娘を乗せて車で移動しているのも、ファッションに興味が出始めてきた月何度かの買い物に連れ出されているからである。


こんな時は楽しかった。まだ世間の何も知らない子供の頃のまま、世界は希望で満ち溢れているのだと、願うことなら生涯思い続けていたかった。いつの日か、そんな現実を知るまでは、この子には幸せなことだけを考えさせてあげたいと、未熟な母親ながらに思うのだ。

などと考えているうち、また車内の左側の反応が厳しくなる。申し訳ない、癖なんだ。


「聞いてくれないならおもしろい話して!お母さんのとびっきりのやつ」


またなんか始まったな。大事な娘の話もそこそこに、ぼーっと物思いに耽ってしまう残念な大人の面白い話など底が知れてるのだ。困った。ぐるぐると頭を巡らせ、それでも尚話題のストックのない私には、限られた思い出のみを語るしか資格はなかった。



面白くはないかもしれないけど、これからきっと役に立つお母さんの話を、聞いてくれる?


親馬鹿で結構、可愛く素直な娘は先程の不満げな顔から一転し、目をキラキラ輝かせながら私の話を待っているようだった。



「お母さんの、一番楽しくて、苦しかった話」




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

世界で一番素敵な人の曲 三室戸岬 @misaki_light

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ