紫煙

 パパは事業に失敗して、それから少しおかしくなった。元々おかしな人ではあったけど。一日中塞ぎこんだり、ブツブツ言いながら庭を歩き回ったり。しっかり者のママが金策に走り回っているのに、そんなママが外で浮気をしているなんてありもしない妄想に取り憑かれたりした。

 パパのお金目当てに集まって来ていた人は離れて行ったけど、パパを心から愛してくれていた人たちは残ってくれたのにね。

 

 ある日、中学校から帰ると、救急車とパトカーが家の前に停まっていて、ものすごい数の野次馬が集まっていた。門の前に立っていた警察の人に家の者だと伝えると、中に通してくれた。

 家の中は泥棒が入ったみたいに荒れていて、花瓶の欠片や、倒れた観葉植物の鉢から零れた黒い土が転々と床を汚していた。居間に入ると、ママはソファに座って救急救命士から応急処置を受けていた。首や腕に白い包帯を巻いて、片方の目が痛々しく腫れているママに、あたしは尋ねた。


「何があったの?パパは?」


「病院に行ったよ」


 ママは青褪めていたけど、しっかりした声で答えた。その目の白いところが血のように充血していて、少しこわいと思った。


「ママね。疲れたからここで寝ていたの。そしたらパパが来て、浮気してるんだろうって怒って……ママの首を絞めたの。ここのところおかしかったから、刃物は隠しておいたんだけどね」


 その時あたしはなんて答えたんだろう。考えると頭の中にぼんやりと霞がかかって上手く思い出せない。時々喧嘩はしたけれど、2人はいつも仲良しだったのに。

 騒ぎを聞きつけた友人達が、錯乱して暴れるパパを取り押さえて、誰かが救急車を呼んでくれたみたい。警察まで来て大騒ぎになってしまったけど、最後は大人しくなって精神病院に運ばれていったらしい。


「あなたが家にいなくて良かった。家中散らかってるから、今日は離れの空いてる部屋で寝なさい」


 ママはどうするの?という言葉が喉まで出かけて詰まった。多分ママは、後片付けをするんだろう。何かあっても動き回っている方が落ち着く人だ。あたしは「一緒にいて」とも「手伝う」とも言えないほどショックを受けていた。

 そんなあたしの肩を誰かがそっと抱いた。振り返ると、そこにはスオウさんがいて、黙ってあたしの目を覗き込んでいた。


 あたしはベッドで眠ることも出来ず、絵を描くスオウさんの足元で毛布に包まって寝た。浅く苦しい夢に何度も意識が浮上しては途切れる。

 夢現の中で、出窓に座って空を見上げるスオウさんが見えた。開いた窓枠に片足を掛けて紫煙をくゆらせる彼の姿。スオウさんが煙草を吸うことは知っていたけど、あたしの前では一度も吸ったことがないから、それは夢だったのかもしれない。


「……俺の父親も、君のパパに似てた」

 

 聞こえるか聞こえないかの小さな呟き。チリチリと肌を焦がすような気配。触れるか触れないかの距離で髪を撫でる体温。何かが揺れ動くたび淡く漂う煙草と絵具の匂い。それらが全部いっしょくたになって心の奥に流れ込む。


 ――美しい花がある。「花」の美しさというようなものはない。

 いつかスオウさんが教えてくれた、画家エゴン・シーレの言葉。観察が美を作るのではなく、美はそのままそこに存在しているというならば、あたしにとっての彼はただそこにあるだけで愛や美そのものなのだ。

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