善いことをした日

郡冷蔵

善いことをした日

 とにかくぼんやりとした人だ、と思っていた。

 学食で初めて彼を目にしたときから、彼は何故か湯気立つうどんの横で山盛りのサラダを咀嚼していて、それが妙に似合っている、そんな男だった。

 連絡先を交換してからも、彼はいつでもそんな調子で、私の期待を裏切ることなく、私の予想を上回ることもなかった。

 今日この日までは。

 満開の桜並木の下、天頂から降る陽光を受けて輝く桃白のまたたきを背負いながら、彼は、静かに怒っていた。


「君はきっと、いことをしたのだろうね」


 私の腕の中からするりと抜け出した野良猫が、茶色く変色した花びらを踏んで駆けていく。赤黒い足跡は、感謝の一言も何もなく、一目散に遠くへと消えていった。

 ……まあ、猫だものね。


「車に轢かれそうな野良猫を助けてやるだなんて、まるで物語の主人公みたいだ。けれど僕は、セイブザキャットなんて大嫌いだよ。見知らぬ猫の命のために自分の命を危険にさらすだなんて、命を大切にできない最低なやつがすることだからね」


 ……何故。

 何故に私は、車に轢かれそうな野良猫を助けた挙げ句に、こうまで苦言を呈されているのだろう?

 納得も何もなく、シンプルにただ腹が立った。


「何よ。心配するにしても、もう少し言い方があるでしょ」

「馬鹿だな。本当に」

「だから、何で、そんな風に言われなきゃ──」


 彼は私の声には何も取り合わず、ポケットからスマホを取り出してどこかに、次いでまた一度ダイヤルを挟んでから別のどこかへと連絡をした。ぼそぼそと小声で喋っているので、それがどんな内容だったのかを察することはできない。

 ひとつため息をしてスマホを懐にしまいかけたのを、もう少しのところで思い直して、彼はまたどこかへの電話番号をダイヤルし始める。


「言っておけばよかった。最初から。そうすれば──こんなことにはならなかったかもしれない。いや。どうだろうな。必定ってやつなのかな」

「いい加減にして! こっち向きなさいよ!」

「君にはいろんなことをまだ話してなかった。……僕が菜食主義者なのは、いかにも身体によさそうだからだ。そこまでは言ったっけ? でも別に、僕は健康でいたいわけでも、野菜の味が好きなわけでもないんだよ。本当は体に悪いもののほうが好きだし、何にでもチリソースをかけたいと常々思ってる。僕は……自分の命を大切にできない人間だから。そのままじゃ誰とかかわる資格もないと思って、形から始めているんだ。……そのおかげで君と知り合えたし、間違いじゃなかったよな」

「だから! そんな話をしてるんじゃないでしょ!?」


 彼はゆっくり、道端に落ちるゴミでも見つめるように、そっと地面を見下ろして。

 そこで──どうしてか。

 私とようやく、目が合った。


「でも、本質的に、僕は何も変わってやしなかったみたいだ。命を大切にするフリをしていただけ。──他ならぬ君が、こんなに無残に死んだのに。僕はそれに対して、トマトソースみたいだ、としか思えない」

「──あ?」


 ぐわん、とぶん殴られたみたいに世界が歪む。

 私の下半身はトラックの前輪に巻き込まれてぐちゃぐちゃのペースト状になっていて、でろでろと血と肉と臓物をまき散らしながら、上半身だけが彼の足元に落ちている。

 真っ青な顔をした中年がトラックの運転席から降りてきて、その直後、血だまりに足を滑らせ、べしゃりと打ち捨てられた蛙のようにして転んだ。


「……愛してた。本当だ。そのはずだ。誰も、そうは思ってくれないかもしれないけど。……もしもし? ええ。トマトとハラミのピザ、チーズとチリソース増しで」


 頬染めの桜は、涙のようにぽつぽつと降りしきり、どこまでも乾いたままの、彼の肩を抱いていた。

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