第38話 こんにちは、ライバル
言葉を紡ぎかけた舌を止め、隕石から親指を浮かせて、戻す。
つるり、とした感触が、確かに鶴屋の指に触れた。
つるり? そんなことはあり得ない。だってこの隕石は、全体がざらざらしていたはずだ。これまで何度も撫でてきたが、つるりとした感触なんて一度も覚えたことはない。
「ちょ、ちょっと、待ってください」
キョトンとする阿潟に断りを入れ、鶴屋は隕石を握り直した。つるり。指に滑らかな感触がぶつかる。
一筋の冷静を漠然とした不安が塗りつぶし、体の芯へと浸透していく。瞬きができなくなって不安が恐怖に変わり始め、鶴屋は隕石を取り出した。
固く握った指を、開く。手のひらの上にころりと転がる、イチゴ大の欠片。赤褐色の表面には、凹凸によっていくつもの影が落ちている。その影に顔を寄せ、ひとつひとつ慎重に、確かめていく。
どくん。心臓が大きく脈打つ。
ざらついた表面のごく浅い凹みに、小指の先ほどの小さな機械が埋め込まれていた。
え、と掠れた一音が喉から漏れる。だがそれを自覚する余裕もなく、鶴屋は手の中を凝視した。小さな機械は黒く、角の取れた長方形をしている。滑らかな表面にはメーカー名らしき文字が刻まれているばかりで、他には何の特徴もなかった。
まるで見慣れない造形に混乱する。これは一体何なのか? いつからここにあったのか? 誰が、何のために取りつけたのか? 何もかも分からず、すぐには見当もつけられない。しかし鶴屋の直感と、これまでに巻き込まれた出来事と、今置かれている状況とがすべて、つんざくような警鐘を打ち鳴らしていた。
カメラ。盗聴器。GPS。
混乱の中に三つだけ、具体的な可能性が思い浮かぶ。どれを選ぶにも情報が足りず、断定するにも根拠がない。だがそこには当然、三つの可能性を否定できるだけの根拠もなかった。
もしも、これがカメラだったら。盗聴器だったら。GPSだったら。つるりとした機械は危機の可能性を無限に孕んでいて、可能性たちはその現実味を強めていく。
この隕石と出会ってからずっと、鶴屋は裏路地の中にいたのだ。犯罪が現実を構成する、あの暗い路地のただなかに。
視界が歪み、回り、鶴屋はよろめく。地面から足が浮くように、あるいは地面の奥底へ吸い込まれていくように、自分自身の実在感が失われていく。どうしたんですか、大丈夫ですか、何かありましたか。阿潟の声が聞こえて、その内容も理解できて、しかし言葉を返せない。指先が鈍く痺れ始める。恐怖はもはや恐怖の輪郭さえ保たなくなり、どろりと粘り気のある何かに変わった。
居場所を知られている? 声を聞かれている? 見られている? どうしてこれまで気づけなかった? 自分はどれだけ愚かだったのか? いや違う、そんなことを考えている場合ではない。今はとにかく阿潟に伝えて、伝えて? それでどうするというのだ? これは自分にどれだけの危機をもたらすのか? 簡単に外せるものなのか? 外したことで被害が大きくなったとしたら? 違う! いいからとにかくまずは、報告するんだ!
顔を上げる。阿潟さん、と呼びかけるべく口を開き、直後、目の前が影に覆われる。
「鶴屋さん?」
怪訝そうな阿潟の顔。その奥に、逆光を受ける人影が見えた。影がゆらりと右に揺れる。その輪郭の向こうで、長髪がなびいた。
「阿潟、さん」
鶴屋が呼ぶ。阿潟の眉がピクリと跳ねる。しかし彼女が振り返るより先に、ゴ、と鈍い音がした。眼前の体が真横に倒れる。そのこめかみから離れていく長い棒を、鶴屋は見た。
物干し竿を真っ直ぐに構えて、コジロウは鶴屋を見下ろしていた。
鶴屋の周囲から音が消える。鳥の声、赤ん坊の泣き声、自分の呼吸音も激しい心音でさえも、聞こえなくなる。世界の果てがすぐそこに迫って、コジロウと、自分と、阿潟だけが取り残された気がした。音がない。言葉も出ない。しかしそれでも、唇が震える感覚だけはあった。
ひとつの記憶が、頭の中に蘇る。大学から帰った夜。シャワーを浴びて風呂場を出た後。コジロウはあのとき、確かに隕石に触れていた。そしてそのことを、隠そうとした。
あのときに、機械を取りつけたのか? 鶴屋の覚悟のなさを見抜いて、いつか鶴屋が裏切るだろうと予見して、コジロウはこんな細工をしたのか?
脳の中央にぽっかりと、真っ暗な穴が開いた気がした。これまで信じてきたものが、見てきた世界が、ぼろぼろと崩れる音が聞こえた。
阿潟は静かに瞼を閉じて、アスファルトに倒れている。こめかみに開いた浅い切り傷から、血が滲んでいた。その赤が鶴屋にはひどくグロテスクに見え、恐怖が全ての関節に絡みついていく。動けない。自分の体の何ひとつ、思い通りにすることができない。
侍が、物干し竿を振りかぶる。打たれる、と直感しても動けなかった。コジロウの顎が上がる。逆光の中で物干し竿の先が光り、一瞬の後、額に衝撃がもたらされた。視界がチカチカと白く光る。頭蓋に鋭い熱が広がる。首の内側が震え、鶴屋はその場に膝を突いた。
するとすかさず、脇腹に突きを入れられる。内臓の輪郭が歪む感覚。う、と自分の呻き声がして、鶴屋の耳に聴覚が戻った。大学のチャイム、坂の下を走る救急車のサイレン、吹き始めた風の音。今度はすべてがぐわんぐわんと鼓膜の上で反響し始め、ハウリングのような耳鳴りがした。
前のめりに倒れる。焦って起き上がろうと浮いた腰が一発、二発打ちつけられ、落ちる。続けて後頭部を打たれ、視界の点滅が激しくなる。
すぐそこに、横たわる阿潟の顔がある。動かなければ。コジロウを止めなければ。阿潟を救わなければ。動かなければ。しかし地面はぐらぐらと揺れ、手を突くことすらままならなかった。何度瞬きしてみても、視界の点滅は収まらない。打たれた箇所がじんじんと痛み、全身の筋肉が縮むのが分かる。
鶴屋は何か言おうとした。声を出した。しかしその音は耳鳴りの奥に消え、鶴屋自身にも聞き取れなかった。
阿潟の肩とアスファルトの間に、骨ばった手が差し込まれる。抱き起こされる阿潟の顔を、鶴屋は目で追いかけた。晴れ空が見えると視界の点滅はさらに強まり、眼球が痛む。堪えきれず瞼を閉じ、再び開くと、阿潟はもう担ぎ上げられていた。
首の痛みに逆らって顔を上げる。逆光の中に立ち、コジロウは鶴屋を見ていた。その瞳の色から、鶴屋は目を離せなくなる。影に沈んだその双眸は、夜の裏路地を行くときよりもはるかに暗く、厚いフェルトのように光沢がなかった。喜びも、怒りも、悲しみも、感情のどれひとつとして表さない黒に、
黒い瞳が鶴屋から逸れる。鶴屋はそれを追おうと左手を伸ばした。今にも破れそうに擦り切れた袴、その裾を掴もうとして、中指の先がかすかに布地に触れた瞬間、ザ、と草履の音に躱される。
待ってください。そう叫ぼうとするが、空気を吸い込むと肺が握り込まれるように痛んだ。気管がぴったりと閉じるのを感じ、咳き込む。目尻に滲む涙の感触と、口の端から漏れる唾液の感触。ごほ、がは、と続く咳の音と未だ止まない耳鳴りの奥で、草履の音が遠ざかっていく。
待て。待て。待ってくれ。どれひとつとして声にならない。どうして、どうして何も言えないんだ。やり返せないんだ。目尻の涙が落ち、その間に、草履の音は聞こえなくなる。
やがて咳が収まったときにはもう、侍の姿は消えていた。慎重に息を吸って呼吸を整えると、眼前の点滅も弱まっていく。伸ばしたままの左手を戻し、両手でアスファルトを押し返す。が、体はなかなか持ち上がらなかった。全身が重い。頭の痛みも消えていなければ、耳鳴りもまだ残っている。地面に押しつけた指が痛い。また荒くなる呼吸を抑えつつ、それでもどうにか立ち上がる。
アスファルトに尻をつけたまま、鶴屋は周囲を見回した。長い坂道には安穏とした午前が広がるばかりで、ついさきほどの出来事が現実のものだとは信じられなかった。しかし手はまだ震えているし、足元にはあの隕石が、謎の機械をくっつけたまま転がっている。
鶴屋は隕石を拾い、機械を外そうと爪を立てる。が、震える手では到底歯が立ちそうになかった。混乱に蹂躙された思考が、状況を掴み始める。
阿潟が、連れていかれた。
ぽっかりと開けた前方の視界に、鶴屋は悲鳴を上げそうになる。守ると言ったのに、せっかく阿潟に頼られたのに、期待されていたのに、応えられなかった。責任、の二文字が肉をじりじりと焼いていく。焦りと言うにはあまりにも重すぎる感情が、鶴屋の体を粉々にする。
コジロウは阿潟を、総長の元へ連れていくはずだ。そうなれば阿潟はどうなる? 総長はどうする? せっかくお金を持っているなら、何をしてでもこちらに譲ってもらわないとね。総長の声が蘇る。あれは彼女の本心だろうか。それとも、鶴屋を焦らせるためのブラフか? 分からない。分からないがもし、本当だったら。
頭にいくつもの映像が浮かぶ。あらぬ方向に曲がった指、拘束された手足、傷口から滲んだ血の赤色。それはマントルのもので、アサヒコが騙した女のもので、溝口のものだった。それらの光景が現実に存在しうることを、鶴屋は既に知っている。
焼かれた腹から胃液が逆流し、青ざめる。駄目だ、駄目だ、駄目だ。繰り返される声が脳から発されているのか、喉と口から出ていっているのか、それすらももう分からなかった。隕石をポケットに入れ、アスファルトを蹴り、坂の下へ一歩踏み出す。あの機械から声を聞かれてはまずいとか、居場所を知られてはまずいとか、もうそこまでは考えられなかった。
さらに一歩。バランスが取れず転びかけるが、お構いなしに足を踏み出す。一歩、一歩、一歩一歩、よろめきながら進み、徐々に速度を上げていく。
走らなければならなかった。阿潟の期待に応えるために、これ以上の責任を負わないために、コジロウを止めなければならなかった。踵が痛む。全身が痛む。午前の陽光が目に沁みて痛む。風のない空気を裂いて進むと、耳鳴りが高く激しくなる。
草履の音は、坂をくだって消えていった。コジロウは足が遅く、今回は阿潟を担いでもいる。下り坂の重力に乗れば、まだ追いつけるかもしれない。淡い希望を無理やり抱いて、鶴屋は一心不乱に進む。よろめく爪先でアスファルトを蹴り、前後に振る手で空気を掻いて溺れるように前進する。民家の並ぶ景色は単調で、どれだけの速さで進めているのかも定かでない。
待てよ、コジロウが車を用意していたら? 阿潟を乗せて走り去っていたら? 浮かんだ懸念に希望は揺らぎ、また涙が滲む。が、足を止めるのも怖かった。
坂の重力が緩やかになり、ほどなくして麓に辿り着く。右、左、前、痺れる首を回してみるが、侍の背はどこにもなかった。息は荒く、膝に手を突くと汗だか涙だか分からないものが地面に落ちて、その染みの黒さが忌々しい。
どうすればいい、どうすれば。酸素の足りない頭で考える。走るべきだ、どこへ? いや、そんなのは決まっている。コジロウが目指す場所はひとつ、そう、ひとつだけのはずだ。
総長のビル。
鶴屋は再び走り出した。ベビーカーを追い抜き、自転車に追い抜かれ、老人の肩をギリギリのところで避けながら走る、走る、走る。革靴の底を地面に叩きつけ、スラックスの糸が軋むのも構わず、電柱、信号機、街路樹の影を抜けていく。
鶴屋に裏路地の土地勘はない。まずはコジロウの家に向かい、そこから裏路地を目指さなければ総長のビルには辿り着けない。もどかしい。が、そのもどかしさが鶴屋の脚力を引き出していた。腿を上げる。踵を歩道に下ろす。ふくらはぎに力を籠め、爪先で地面を押し返す。
走る、走る、こんなに必死になったのは、生まれて初めてかもしれなかった。大学受験の年の冬でも、就職試験のときでさえも、これほど必死だったことはない。これがどれだけ阿潟のためで、どれだけ自分のためなのかも分からなかった。自信がない。この期に及んでも自信がない。それでも走るしかなかった。
走る、走る、走るうちに阿潟のアパートを通り過ぎ、あのスーパーを通り過ぎた。見覚えのある道を息せききって走り続ける。靴底のゴムは重く、歩道を蹴るたびにゴトゴトと鳴る。赤信号に立ち止まるが、呼吸を整えるより早く光は青色に変わった。また走り出す。走り、走り、目の前に迫った角を曲がると、コジロウの「長屋」が見えてきた。
一度、二度、寂れたアパートを横目に見て、三度目で進路を転換する。コジロウの部屋の裏へ回り、ベランダの窓を覗き込んだ。カーテンは開かれているが、その奥の六畳間に人影はない。プラスチック製の座卓、救急箱の置かれた棚。鶴屋がいた頃と何ひとつ、部屋の様子は変わっていなかった。
怒りにも似た感情が、鶴屋の内心に湧き上がる。が、それから目を逸らすように鶴屋はベランダを離れた。殺風景な部屋に背を向け、再び走り出す。歩道に戻り、裏路地の入口を真っ直ぐに目指す。
信号機、コンビニ、ガソリンスタンド。単調な景色を通り過ぎ、裏路地に入った。左右を壁に囲まれた道は、相変わらず暗く肌寒い。しかし夜ほど不気味さはなかった。
隕石を見せに行ったとき、課題を聞きに行ったとき、課題達成の報告に行ったとき、遠近をしつこく訪ねたとき、繰り返し歩いた道のりをなぞる。黒いアスファルト、くすんだ壁に囲まれた路地は迷路のようで、その中を迷わず進める自分が嫌になった。後ろめたさに叫びたくなって、奥歯で噛み殺しているうちに、見慣れたビルが見えてくる。
無骨な外壁、小ぢんまりとした地味な扉。一歩、一歩、一歩進むごとに足は重くなり、それでも今さら止まれはしない。外壁に入ったヒビが見え、扉が目の前に迫り、恐怖と緊張に追いつかれる前にドアノブを掴む。回す。
ギロリ、と、いくつもの目が鶴屋を捉えた。
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