第39話 生きていく資格

 飾り気のないエントランスには、数人の男女が集まっていた。体格のいい男も、ひょろりと背の高い男も、化粧の濃い女も踵の低いパンプスの女も、全員そろって目つきが鋭い。鶴屋は後ろ手に扉を閉め、瞬間、恐怖と緊張に追いつかれた。


「何の用だ?」


 体格のいい男が言う。警戒の滲んだ声色に、鶴屋はたじろいだ。耐えられなくなって視線を逸らす。部屋の空気が冷えるのを感じつつ、「さ」と一音、声を出した。走った後の喉は嗄れていて、噎せそうになるのを堪えなければならなかった。


「侍、が、来てませんか」


「侍?」


 ドスの効いた声で訊き返され、喉がヒュ、と詰まる。侍です、見てませんか、ここに来るはずなんですが。例によっていくつもの言葉が思い浮かび、例によって、ひとつも口に出せない。


 しかしマゴマゴしている暇もなかった。コジロウが既に来ているのなら、せめて危害を加えられる前に阿潟を救い出さねばならない。あの、と声を出そうとして、重い靴音に遮られる。


「おい、まずは名前くらい名乗ったらどうだ。お前は誰で、どこから、何のために来た?」


 男がのしのしと鶴屋に近づき、目の前で立ち止まる。鍛えられた体は巨大な壁のように見え、その分厚い肩の奥からも、いくつかの視線が鶴屋を刺していた。そのうちのふたりが肩を寄せ合い、何やら小声で言葉を交わす。瞬間的に沸騰した恐怖が、鶴屋の犬歯を擦り合わせる。


 今、鶴屋が向かい合っているのは、紛うことなき「集団」だった。ひとりひとりが、強固な盾に守られた集団。孤独な鶴屋では傷のひとつもつけられない、集団だ。


 その圧倒的な強さの前に足が竦む。自らの弱さ、惨めさ、情けなさを突きつけられ、ただ名乗ることでさえ途方もない難題に思えてくる。頭の中が真っ白になって、白くなったそばから屈辱に染められていく。


「お、俺、私、は」


 カラカラの喉を剥がすように開く。視線がさらに深く刺さる。ヒソヒソと続いていた小声が止み、部屋が静けさを取り戻す。眼前に迫る男の顔が、苛立ちに歪んでいくのが分かる。分かって、焦って、焦るあまり、余計に言葉が出なくなる。


 男の唇が歪む。チ、と舌打ちが漏らされる。おい、という一際低い声に被せて、たおやかな響きが耳に届いた。


「来ていないよ」


 厚い肩を跳ね上げ、男が背後を振り返った。壁のような巨体が離れ、鶴屋の視界を開いていく。


 飾り気のないエントランス、目つきの悪い数人の男女。その中心に、総長はいた。


 ス、と男が息を吸う音を、鶴屋は聞く。そして直後、すぐそこの巨体が勢いよく頭を下げた。直角に、いや、それ以上に上半身を曲げた、過剰なまでの深い礼だ。そのまま微動だにしない姿が不気味に思え、鶴屋は視線を泳がせる。だが逃げ場などどこにもなかった。


 総長とその背後の遠近、そして鶴屋以外の人間は皆、一様に深い礼をしている。部屋の静けさは質を変え、重く、厳かな色を帯びていた。


「下がりなさい」


 静寂の空気を、澄んだ指示が震わせる。男たちは一斉に顔を上げると、迷いのない足取りでエントランスを後にした。階段をのぼる、統率された足音が続く。その響きが消えるまでの間、総長は鶴屋を見つめ続けていた。彼女の静謐な瞳も、遠ざかる男たちの足音も恐ろしく、鶴屋は動けなくなる。


 このビルに来るということ、コジロウを止めるということは、総長に会うということだ。それは分かっていたつもりだったが、いざ彼女を目の前にすると膝が震えた。今、隣にコジロウはいない。その孤独が、今さら苦痛でたまらなかった。


「コジロウは、ここには来ていない」


 足音が止むと同時に、総長はそう繰り返す。その声が内包する威圧的なまでの神秘に、鶴屋の指先は湿った。膝の震えは止まない。逃げたい、と主張して左胸が脈打つ。だが屈辱に染まったままの頭は、それを許してくれなかった。


 逃げてはならない。ここで逃げれば、阿潟を失うことになるのだ。阿潟の期待に、永久に応えられなくなるのだ。


「ほ」


 湿った指先を強く、強く握り込む。


「本当ですか」


 声は情けなく震え、上擦った。羞恥に熱くなる顔を上げ、総長の目を睨む。鶴屋を映す瞳は、夜の湖面のように森閑としていた。その美しさに気圧され目を逸らしそうになるが、耐える。


「本当」


 返答は短く、それだけに重かった。低い響きが、鶴屋の思考を止めようと手を伸ばす。それを慌てて振り払いつつ、鶴屋は総長の顔を観察した。


 薄い眉、長い睫毛、浅くこけた頬と、赤い唇。そのどれにも感情はなく、人格のわずかな一片さえも表れていない。彫像めいた白い肌が、蛍光灯の光をつるりと跳ね返している。それが不気味でならなかった。こちらが見つめれば見つめるほど、相手にばかり情報を奪われていく気がした。


 ……いや、「気がする」だけではないのか。


「あなたは、どこまで知ってるんですか」


 上擦ったままの声で訊く。こんなこと、訊いている場合ではないかもしれない。それでもここで訊いておかなければ、二度とチャンスはないと思った。総長の唇がわずかに開くが、それが何を示す仕草かは分からない。恐怖に抗い、質問を重ねる。


「どこからどこまでが、あ、あなたの思い通りなんですか」


 総長は、阿潟について初めから知っていたのではないか。その憶測を、鶴屋は未だ持ち続けていた。今までの課題は初めからずっと、すべての過程が、総長のシナリオ通りだったのではないか? 溝口の右目のことはもちろん、ニーナの指輪や、青いバラ、隕石までもが、仕組まれていたと思えてならない。


 冷や汗が背筋を流れ落ちる。総長のことも、これまでのすべてが虚しく思えてしまうことも、恐ろしかった。


 ぎこちない呼吸を繰り返しつつ、総長をじっと睨み続ける。総長は二度だけ瞬きをして、ふむ、と抑揚のない息を吐いた。唇に開いた小さな隙間が、大きくなっていく。額縁を背負っていなくても、総長の背後には深く底知れない宇宙が見えた。


「初めは、コジロウを侮っていた」


 それは、どこまでもたおやかな口調だった。鶴屋は唾を飲む。緊張も恐怖も、総長にはすべて知られているはずだった。


「星の欠片を頼んだのは、ちょっとした冗談のつもりだった。彼を迎え入れるつもりはなかったからね。けれど彼が本当に欠片を持ってきて、鶴屋くんが現れて、面白いと思った」


 エントランスの空気は冷え、総長の発するすべての音を明瞭に響かせる。滑らかな発音、ゆったりとした息継ぎ。それらは子守歌のようにも、警告音のようにも聞こえる。


「最初はお前たちの運を試した。お前たちは力が弱そうで、頭も良くはなさそうだけれど、隕石を引き寄せた『運』は本物だと思ったよ。あり得ないことを引き起こす力。それは得難いものだと感じた。そしてあの青いバラが、君たちの能力を証明してくれた」


 そう言い終えると、総長はもう一度瞬きした。血管の透けた瞼を閉じ、開く。再び露になった瞳には、やはり感情は見えない。が、その表情のかすかな変化を、鶴屋は漠然と感じ取っていた。息を呑む。眼前の赤い唇が、動く。


「そこからはずっと、お前たちのを試している」


 静けさ、美しさ、慈悲深さ。それらの奥に隠されていた氷山のような威厳が、うっすらと影を現していた。


 堪えきれず、鶴屋は半歩後ずさる。畏怖、という大仰な熟語の意味を、生まれて初めて体感できた。敵わない。自分は一生、この人物に勝てはしない。そこに理屈はなかった。鶴屋の、生物としての本能が理解していた。


 総長の答えは濁されている。どこからどこまでを把握しているのか、彼女は言葉にしなかった。それでも鶴屋にははっきりと、おそらく言葉にされるより明確に、答えが分かる。


 総長はやはり、阿潟のことを知っていたのだ。


「苦しんでいる子のことは、助けてあげたい」


 鶴屋の畏怖などお構いなしに、総長は続ける。慈悲深い口調が鶴屋を射抜き、包んだ。その鋭さから、柔らかさから逃れようとしてまた後ずさる。しかしそれでも、声は続く。


「私は、心からそう思っているよ。表の世界を追い出された子、暗闇に美しさを見出す子、初めから、こちら側にしか居場所のない子。そういう子たちを掬い上げて、帰る場所を作って、生き抜けるようにしてあげたい。その気持ちに嘘はない」


 ト。頼りない音で床を踏み、鶴屋はまた半歩後ずさる。だがその直後、背骨に硬い感触がぶつかった。総長から目を離さないまま、手のひらで背後を確かめる。小ぢんまりとした入り口の扉が、鶴屋を押し返していた。


「けれど、だからといって弱い子は、受け入れてあげるわけにいかない。どれだけ強い力があっても、心の強さが足りていないと、誰かの役に立つことはできない。そんな子を無条件に助けられるほど、大人の世の中に余裕はない」


 そう言って、総長は薄く微笑んでみせる。投げられた言葉とその柔らかい笑みの落差に、鶴屋の喉は詰まった。背を押し返す扉の冷たさ、肺に滑り込む空気の冷たさ、総長の纏う神秘の冷たさ。体が凍っていく錯覚に襲われ、目の前が白く、霞んでいく。


「世の中は生きづらいね。けれどお前は、強くならなくてはいけない。人生に立ち向かえるだけの力を、私に示さなくてはいけない」


 その言葉はあまりにも深く、鶴屋の心に沁みとおった。その速さに抗うように、鶴屋は口を開く。反論したかった。脳内を少し探してみれば、反論材料はいくらでも見つかるはずだった。だが、どの材料を使ってもきっと、自分の幼稚さが露になってしまうだけだ。それもまた直感的に知っていた。


 はくはくと、唇が空を掻く感触。それは敗北の感触で、鶴屋の弱さの、何よりの証明だった。


「帰りなさい」


 総長は簡潔に、鶴屋にとどめを刺した。赤い唇も、湖のような瞳も、少しも揺らぐことはない。伸びた背筋が、磨き抜かれたハイヒールが、彼女の生き様を物語っていた。


 扉を確かめた鶴屋の手が、無意識のうちにドアノブを掴む。目だけは総長を睨み上げたままで、扉を開けた。一歩、二歩、後ずさるごとに総長の姿は小さくなるが、彼女はじっと鶴屋を見つめ続けている。三歩目で、ドアの外へ出る。ドアノブを持ち替えながら、四歩。革靴の踵が、ざらざらとしたアスファルトを踏む。五歩。ドアノブを離すと、扉は悲鳴を上げながら閉じていく。


 ゆっくりと、ゆっくりと視界を狭めていく扉の向こうで、総長はついに最後まで、鶴屋から目を離すことはなかった。


 バタン、と、扉が閉まる。

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