第37話 しあわせな夢の影は濃く

 それからは、まるで夢のような日々だった。


「いただきます」


 ナポリタンスパゲッティを前にして、阿潟は静かに手を合わせた。いただきます、ごちそうさま、を彼女が欠かさないことを、鶴屋はここで初めて知った。


 彼女の家のフォークにはやはり唇をつけにくかったが、バターの効いたナポリタンは美味く、食べ終えるのが惜しかった。


「そういえば、アレルギーはなかったですか?」と遅れて尋ねられ、突然の問いに大慌てして「花粉症です」と答えると、阿潟はキョトンと瞬きした。


「お風呂、どうぞ」


 背後から声をかけられたが、鶴屋はじっと正座したまま振り返らなかった。風呂上がりの阿潟を目にするなんて、とても許されない気がしたのだ。それどころか、同じ浴室を使うなど到底考えられなかった。


 俺は入らなくてもいいです、どこか銭湯を探しますから。そう言って固辞しようとしたが、「あなたが銭湯に行ってる間に、何かあったらどうするんです?」と訊かれると何も言えなくなった。


 眼鏡を外し、ぼやける両目を決して細めず入った浴室には、あの爽やかなシャンプーの香りが充満していた。シャワーを済ませ逃げるように部屋へ戻ると、阿潟は名字が刺繍された、中学か高校時代のジャージを着ていた。


「おやすみなさい」


 呑気な声でそう言って、阿潟はベッドに横になった。おやすみなさい、と鶴屋も返すが、おやすみできる気分ではない。ベッドの隣に敷いた布団に、ぎこちない動作で倒れ込む。


 転居時両親に持たされたものの未使用だという客用布団は、見事なまでの無臭だった。そのことがせめてもの救いだったが、隣から聞こえる呼吸音や、寝返りに伴う摩擦音は鶴屋の睡魔を片っ端から撃ち殺した。スーパーで買った格安のパジャマもゴワゴワとして着心地が悪く、どう考えても眠れる状況ではなかった。


 阿潟は既に眠っただろうか、さすがに起きているだろうか。彼女は緊張していないのか? 隣に男が寝ているのに、危機感を覚えないのだろうか。自分があまりに情けないから、意識されないだけなのか。


 考える間に夜は更けていき、しかし眠れないでいる時間さえ、どうにも大切に思えてしまった。


 夢のようだ。片想いの相手に頼られ、共に生活する。鶴屋のこれまでの人生になかった、これからの人生にもないかもしれない、得難く甘やかな日々だった。


 もちろん警戒を怠ってはならない。浮かれて目的を忘れてはならない。だがほんの少しだけ、この生活に集中することを許されたかった。阿潟のことだけを考えて、阿潟のことだけを見つめる時間が、わずかでもいいから欲しかった。


 しかし、現実はそうもいかないものだ。阿潟と同じ空間にいても、彼女と言葉を交わしていても、どうしても離れない顔がある。言うまでもなく、コジロウの顔だ。


 味の濃い料理を食べるとき、柔らかいタオルで頭を拭くとき、パジャマに袖を通すとき、どうしても侍の顔を思い出し、考えてしまう。


 彼は今、どこでどうしているのだろう。阿潟を必死に探しているのか。あの殺風景な六畳一間で、ひとり食事をとっているのか。


 ――ツルヤ! これからおぬしとそれがしは、志を同じくするともがらよ!


 コジロウの声を思い出す。


 あのとき鶴屋は、彼の喜びについていけなかった。同じ課題に向かう協力者、それだけの相手をトモガラだとは思えなかった。他人を簡単に友人だと言い、肩を叩ける侍の感性を理解できなかった。


 しかし、今ならなんとなく分かる。コジロウにとっての「協力者」とは、自分にとってのそれよりはるかに大きな存在だったのだろう。


 あの裏路地で、責任と覚悟が残酷に振るわれる裏路地で、彼はひとりで生きていた。「普通」を必死に装いながら、強い侍を演じながら、誰に認められることもない仕事で暮らしていた。


 コジロウは、あまりに孤独だったのだ。それは裏路地に来る前からずっと、ずっと続いていた孤独だった。だからこそ、彼は鶴屋をトモガラと呼んだ。同じ課題に向かう協力者が、孤独を和らげる存在だと信じた。


 コジロウが求めていたものに、鶴屋は応えなかったのだ。


 ……いや、そんなことを考えていても仕方がない。コジロウの期待に応えたところで、何にも得はないじゃないか。自分にとって大切なのは、コジロウよりも阿潟のほうだ。阿潟を狙うコジロウは敵で、同情すべき相手ではない。


 そもそもあの侍だって、同情なんか望まないはずだ。覚悟のない、努力できない、哀れな奴からの同情なんか。


 そうだ、コジロウと自分は完全に道を違えたのだ。確かに、これまでは「志を同じく」してきた。しかしもう、これまでと同じようにはいかない。別々の志を持ち、別々の道を行くしかないのだ。コジロウはコジロウで強さを追い求め、自分は自分で、所属できる集団を探す。


 険しい道のりになるだろうが、また就活を始めよう。裏路地を出て、表通りを生きていく。これが最善の道なのは、どう考えても明白なのだから……。


「ほんとにこの道でいいんですか?」


 突然、鼓膜がビリリと震えた。「へっ!?」と声をあげると同時に、意識が現実に引き戻される。周囲には民家が建ち並んでいて、暖かな日差しは秋の午前を示していて、隣には阿潟が立っていて、鶴屋は今、長い坂の中腹にいた。


「すみません、ちょっと不安になってきて。大学、正門からしか入ったことないので」


 黒いリュックを背負った阿潟が、困り顔で後頭部を掻く。だいがく、という四音に、鶴屋はようやく現在の状況を思い出した。


 今日は金曜日。ふたりはゼミに出るために、大学を目指しているのだった。初めは休もうと考えたのだが、ふたりとも出席回数に不安があり、顔を出さずにもいられなかった。命を奪われる不安より、卒業できない不安のほうがどうしてもリアルに感じられたのだ。鞄をコジロウ宅に置いてきたので鶴屋はほぼ手ぶらだったが、出席しないよりマシだろう。


 それでも極力危険を避けるため、講義開始より数時間早く、キャンパス内のグラウンドから大学に入ろうと試みている。グラウンドを囲むフェンスには小さな扉があったはずだが、学生と近隣住民以外にはほとんど知られていないことだ。とはいえ、これがそれなりの賭けであることに変わりはなかった。


「ぇえっと、たぶん、合ってると思います。この坂をのぼりきれば、あの、グラウンドが見えるはずなので……」


 現実に戻ったばかりの脳で、鶴屋は言葉を紡いでいく。自信に欠ける受け答えしかできないことがもどかしかった。


 しかし阿潟は「そうですか」とあっさり頷き、また坂をのぼり始めた。鶴屋も慌ててそれを追う。今日の目的は、早く到着することにある。タラタラと周囲を確かめていては本末転倒なのだった。


 気を抜くと葛藤に沈みそうな頭を、左右に振る。坂道を一歩前進すると、踵の痛みに気がついた。よく晴れた空と、民家から漂う早めの昼食の香りと、阿潟の背中に励まされつつ、疲れた足を動かす。想定よりもひとけない坂の静寂に、じりじりとした焦りを覚えた。


「来週も、この坂をのぼるんですかね」


 歯を食いしばりつつ歩いていると、前方から声がした。またしても「へ?」と返す鶴屋を、阿潟はチラリと振り返る。気だるげな目はほんの一瞬鶴屋を捉え、また正面に戻った。


「その……侍さんに追われてる限りは、正門から入るのは怖いじゃないですか。ってことは来週も、もしかすると再来週も、この坂のぼることになるのかな、と」


 阿潟の声は落ち着いていたが、普段より少し余裕がなかった。耳を澄ますと、ふぅ、と疲れた息遣いも聞こえる。そこにははっきりと、坂による疲労が表れていた。


 鶴屋は慌てて頭を下げる。上がった息の合間から、焦りに任せて声を出す。


「すっ、すみません。あの、申し訳ないです。来週はせめてもうちょっと楽な道を探して、いやあのそうじゃなくて、なるべく早く解決を目指すので」


 ペコペコと頭を下げるたび、自責の念が膨らんでいく。阿潟のこととコジロウのこと、ふたつにばかり気を取られていたが、考えるべきはどちらでもなかった。


 この状況をどう打破するか。それを思いつけない限り、鶴屋と阿潟はずっと窮地に立たされたままだ。


 いくら夢のようだからといって、阿潟にいつまでも迷惑をかけてはいられない。自分は今まで何をしていたんだ、これから一体どうすれば良いんだ。


 焦燥が血液より速く体を巡り、呼吸がさらに荒くなる。「いえ、怒ってるわけじゃないんですけど」呼吸の合間を縫って聞こえる、阿潟の優しさが痛い。


「単純に、どうしたら解決できるのかな、と。侍さんを説得したり、倒したり……? しないといけないんですかね」


「説得したり、倒したり……ですか」


 阿潟の言葉をただ繰り返し、鶴屋は俯く。コジロウを説得する自分も、倒す自分も、まったく想像できなかった。説得を試みたとき、侍がどう反応するのか。倒そうと襲いかかったとき、侍がどう抵抗するのか。それらもまるで分からない。


 そもそも鶴屋は、「勝ち」をイメージすることが極端に苦手だった。ついつい黙り込んでいると、不安げな声が飛んでくる。


「やっぱり、難しそうですか」


「え、あ……」


 しまった。鶴屋は顔を上げる。阿潟の安全を守る者として、強い姿を見せていなくてはならないのだ。だからといって、嘘をつくのも憚られる。そうして考えた結果、事実の一部だけ伝えることにした。


「え、と、難しいというか、分からないなぁ、と、思ったというか、その……あの人が、侍が、どう対抗してくるか分からなくて」


「あぁ、なるほど」


 阿潟は静かに二度頷いた。その声からはいくらか不安感が薄れている、ように思える。少しは安心してもらえただろうか? それにも自信はなかったが、表には出さないように努めた。咳払いすると、頭上を飛ぶ鳥がちょうど鳴く。


「侍さんはどうしてそんなに、その『課題』をこなしたいんでしょう」


 鳥の声が止むと同時に、阿潟は再び問いを投げてきた。「どうして……」とまた繰り返しながら、鶴屋は視線を泳がせる。そういえば阿潟には、コジロウの動機も必死さも伝えていなかった。あの血走った目を思い出しつつ、慎重に言葉を選んでいく。


「あの人は……認められたい、みたいで。強くなって、その、強い人たちの仲間になることで強くなって、誰かに認められたい、っていう……ことなんだと思います。これまであんまり、ちゃんと認められてこなかったらしくて。弱くて、不器用な人だと思うし」


 俺が言えたことじゃないですけど、と濁すように付け加え、鶴屋は口を閉じる。ぎこちなくても言葉に変えてみることで、少しだけ思考が整理された。


 弱い。コジロウはときどき、彼自身をそう形容した。彼は自らを弱いと考え、それゆえに強さに執着し、王者である総長に惹かれ、その力を借りることで強くなろうとしていた。


 侍は、強いからだ。いつかの答えが脳裏に蘇る。侍のふりをしているのだって、コジロウなりに強さを求めた結果だったのだ。あの不自然な侍言葉も、道行く人々に振り返られる風貌も、すべては彼が強くなるため。「認められる」ためだった。


「それって」


 ふぅ、と息を吐いた後、阿潟は言った。鶴屋は踵の痛みに耐えつつ、その声に耳を傾ける。「それって」に続く言葉には、まるで見当がつかなかった。


 阿潟がまた、鶴屋を振り返る。疲れの見える、しかし冷静な表情で、彼女は言った。


「それって、鶴屋さんが認めるんじゃ駄目なんですかね?」


 あまりにもさっぱりとした口調に、鶴屋は呼吸を忘れた。民家から赤ん坊の泣き声が聞こえる。午前の街に風はなく、阿潟は静かに歩き続けながら、言葉を連ねる。


「これは完全に、鶴屋さんと……侍さんの気持ち次第ですけど。侍さんが鶴屋さんを嫌いじゃない限り、認められて悪い気はしないと思います。だから鶴屋さんさえ嫌じゃなければ、それで侍さんの態度は軟化しそうかな、と思うんですけど。そんな簡単じゃないかな?」


 ひとりでぽつぽつと語ってから、阿潟は軽く首を捻る。しかし彼女のその仕草を、鶴屋はもはや見ていなかった。


 コジロウのことを、自分が認める。それは確かに、最も手っ取り早い方法だった。ただし、コジロウがそれで満足するなら、の話だ。


 コジロウが求めているのはきっと、もっと大きな承認だ。たったひとりからなどではなく、社会から認められたいのではないか? 学歴が高い、年収が高い、権力がある、著名である、そういう即物的な、絶対的な強さを、認められたいのではないか。


 しかしもし、そうではなかったとしたら?


 自分が認めることで、コジロウの心を救えるとしたら?


 鼻先が熱くなり、同時にゾッと背筋が冷えた。自分の行動で人を助ける。コジロウも、阿潟も、同時に救う。本当にそれができるなら、嬉しかった。他人に必要とされている、期待されている、求められている。それは単純に幸せだった。


 だがその幸せは、どうしようもなく恐ろしくもある。応えなくては、というプレッシャーが、灰色の濁流となって鶴屋を押し流す。その重みは、履歴書を書くときとも、面接を受けるときとも違った。今回は鶴屋自身だけでなく、他者の人生がかかっているのだ。そんな大それた仕事が、自分にできるとは思えなかった。


「どうですか。侍さんのこと、認められそうですか?」


 阿潟は重ねて尋ねてくる。その淡々とした声色が、鶴屋のプレッシャーをさらに強めた。


 自信はない。しかし、阿潟の期待には応えたい。ではここで何と答えればいいのか? まずい、冷静にならなくては。阿潟を安心させなくては。


 だがどれだけ考えてみても、まるでできる気がしなかった。阿潟とコジロウ、ふたりを一度に助けるなんて、ヒーローみたいなことはできない。自分は弱い。大団円のハッピーエンドなど、自分の手では作れない。しかしそれでも阿潟の期待に、この状況が求めるものに、応えなくてはならないのだ。


 プレッシャーが高まり、気道が締まっていく。窮屈なスーツは、呼吸するたびに繊維を軋ませる。ギチ、ギチ、一歩踏み出すごとに膝が布を引っ張り、スラックスは腿に貼りつく。一歩、また一歩、そうして三歩踏み出してふと、腿にぶつかる凹凸に気づく。


 隕石だ。鶴屋はポケットに手を入れ、硬い欠片を強く握った。隕石。それは、鶴屋が「応えられた」ことの象徴だった。隕石を光らせたことで鶴屋はコジロウに認められ、総長に認められたのだ。そのせいで今苦しめられているのだが、あのときの喜びは本物だった。きっとあれが自分にとっての、「認められた」経験なのだろう。


 親指の腹で隕石を撫でる。あのときこれを光らせたように、総長に認められたときのように、期待に応えることができれば。


「え、と」

 

 もう一度、今度はゆっくりと間を埋める。隕石のざらつきを、凹凸を確かめながら、なるべく深い呼吸を続けた。秋の午前、生温い空気が肺に満ち、気管が開いた。酸素が巡る。足はまだ重く、自信はなく、それでも混乱した思考は徐々に、冷静さを取り戻していく。


「俺は、あの人を」


 と、そのとき、違和感に気づく。

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