第23話 逃げ道だって裸足で逃げて

「鶴屋専くん。正直なとこを言わせてもらうと君は、馬鹿だ」


 流れるようにフルネームを呼んで、男は鶴屋を罵った。恐怖を恐怖と認識する間もなく、鶴屋の呼吸はおぼつかなくなる。吸うのも吐くのも、喉がヒクヒクと震えるばかりで肝心の空気が動かない。


 両肩にかかる重み、細かい砂利に刺される痛み、表情のない紫の目の美しさ。それらにひたすら圧倒されて、他の何ひとつ気にかけられなかった。その中で生き残った危機感が、「早く逃げろ」「このままでいるな」と鶴屋を叱りつけてくる。しかしどうしても、体を動かせない。


「あちこち話を聞いて回って、誰彼構わず顔を見せてさ。犯罪者とやり合おうってのに、そんな不用心でいいと本気で思ってたのかい? だとしたら笑えるな」


 その言葉も、ほとんど耳に入らなかった。これから自分がどうなるのか、どうされるのか、分からないことばかりに思考が回って目の前の事態に集中できない。男は表情を動かすことなく、鶴屋を見下ろしている。鶴屋の喉はヒクヒク震え、空気も声も送り出さない。


 しかしそうしているうちに、左肩だけが解放される。鶴屋の肩から離した右手で、男が何か、しようとしている。恐怖と焦りがひとつの大きな塊となって、すぐさま体内で破裂する。瞬間、ヒュ、と気管に空気が突き刺さり、気づけば声帯が震えていた。


「あっ、なた、が」


 離れた右手が一瞬止まるのを、鶴屋は見た。


「あなた、が、溝口」


「そうだよ。分かるだろ、ここまで来たら」


 ひどくつまらなそうに、溝口は言う。その右手が再び動き出す前に、鶴屋は言葉を絞り出す。喉の奥、胃の奥、腸の奥まで腕を突っ込んで引きずり出すように、口を開く。


「俺はあなたと、や、やり合おう、なんて、つもりじゃ」


 大嘘だったが、本当のことでもあった。殺し屋とやり合って右目を奪い取るなんて、そんなことしたいわけがないのだ。そもそもできるとも思っていない。実際、こうしてあっさりと押さえ込まれている。


 勝てるわけがない。やりたくない。初めて本心を吐露できた気がして、目尻に涙が滲む。いっそ泣き叫べば助けが来るかと思ったが、浅くなる呼吸がそれをさせなかった。


「あぁ……まぁ、そうなのかもね」


 鶴屋の嘘、あるいは本心を、溝口はさらりと受け入れる。が、その声はあまりにも淡白だった。心臓が痒くなる。殺し屋は凍る紫の瞳で、鶴屋を見下ろし続けている。彼の考えも、次の言葉も、想像できない。


「けど、そんなことは別にどうでもいいんだ。おれの命を狙ってようが、おれに依頼したいだけだろうが、正規の手段を踏まない奴は全員殺すことにしてる。そのほうが簡単だし、妙な奴を減らせていいだろ」


 溝口は投げやりに言う。「全員殺すことにしてる」。ころす、の三音に額を殴られ、鶴屋の脳はジリジリと痺れた。その感覚に阻まれて、言葉を繋げられなくなる。


 体内に充満していた危機感が、突如ずしりと質量を持つ。その重みがみぞおちにのしかかり、胃液が喉まで逆流してくる。苦い香りが鼻を抜け、舌の奥がチリチリと焼ける。滲んだ涙が頬に落ち、しかしそれからはただひたすらに、目の表面が乾いていく。


 瞬きもできない鶴屋の瞳に、溝口の右手の動きが映る。光るように白い指先が、スーツの内ポケットに入った。ポケットに何が仕舞われているのか、これから何が取り出されるのか。想像を巡らせるまでもなく、みぞおちの危機感が重みを増す。


 危機感。単位を落としそうなときとも、面接会場に向かう途中で道に迷ったときとも違う、圧倒的な、言葉にできないほどの、現実味のない、本物の。


 ――死ぬ。


「と、遠近さん、って、人!」


 思考を回したのはほんの一瞬で、その後は無意識に声を出していた。視界の上端で動きを止めた何かが、チカ、と光を反射する。それがナイフだと気づくより早く、叫ぶ。


「知ってますか! 遠近さんの、こ、こと!」


 これが果たして武器になるのか、鶴屋は知らなかった。しかし殺し屋の手は止まり、瞼は大きく開かれていく。どんな結果に繋がろうとも、ここで止まるわけにはいかなかった。遠近のこと、溝口のこと、考える余裕もないまま喉を動かす。


「おっ俺、遠近さん、の、上司? 上司の、銀庄って人に頼まれて、あなたを探してて!と、遠近さんがあなたのことを何か知ってるんじゃないかとも思ったんですけど全然、教えてくれなくて、それでじぶ、自分たちで」


「遠近に」


 鶴屋の声を遮って、溝口が唇を開く。見開かれた目にも、強張った口元にも、さきほどまでの軽さは見えなかった。紫の瞳がチラリと、鋭くきらめく。


「遠近に会えるんだな? 君は」


 ナイフはまだ、鶴屋の上に構えられている。答えを検討する暇はなかった。首を縦に振る。瞬間、ナイフが振り下ろされた。悲鳴を上げる間もなく目を瞑る。それでも痛みが感じられず、鶴屋は瞼を上げた。眉間のすぐ上に、銀色の刃先が突きつけられている。


「あいつを、おれの前に連れてこい」


 脅迫が降ってくる。ピントの合わないナイフの奥から、殺し屋がじっと鶴屋を見ている。感情のない、しかしどろりとした熱を持つ、暗闇のような表情だった。


「あいつが、遠近がおれに会いに来るなら、要求を何でも呑んでやる。銀庄のアマにも喜んで引き渡されてやるし、殺されてやっても構わない。だから連れてこい、あいつを」


 刃先がじわりと、眉間にさらに近づいてくる。それでも抵抗することはできず、ほんのわずか、チクリとした冷たさが額に落とされた。ヒ、と情けない悲鳴が漏れる。身じろぎもできず、やがて冷たさが痛みに変わり、こう答えずにはいられなくなる。


「分かり、ました」


 ゆっくりと、皮膚から刃が離された。生温い感触が鼻筋に降りてきて、鶴屋は自らの出血を悟る。視界にちらつく血の赤の先で、溝口が音もなく立ち上がった。刃を拭うこともなくナイフを畳み、内ポケットに仕舞う。体を起こすこともできないまま、鶴屋はそのさまを見上げていた。夕闇はさらに深くなり、殺し屋の瞳はまた、灰色の影に沈んでいる。


「それじゃあ、楽しみにしてるよ。鶴屋くん」


 にこりともせずそう言うと、溝口は踵を返した。ベンチに残した酒を飲み干し、砂利に転がったもう一本も拾って去っていく。


 ザ、ザ、と遠ざかる足音を聞きつつ、鶴屋は上半身を起こした。レモンの香りと血のにおいが空中で混ざって、生臭かった。


 *


「……と、いうことがあって」


 話し終える頃には、コジロウの目は真ん丸に見開かれていた。ぱたん、と救急箱が閉じられ、「ツルヤ」と声が発される。


「おぬしはなんと、天晴な就活生か」


 褒められ慣れない鶴屋にとって、「天晴」はかなりの賛辞に聞こえた。「別にそこまででは」と俯くと、額の傷から滲み出た血が絆創膏に染みを作る。侍の六畳一間には、消毒液のにおいが漂っていた。


 帰宅した鶴屋の姿を見るなり、コジロウは声を上げて驚いていた。運よく持っていたポケットティッシュで傷を押さえてはいたものの、鼻筋を流れた血の痕跡やティシュに滲む鮮やかな赤はまったく隠せていなかったからだ。


 いかがした、何があった、誰に斬られたと早口に問う侍に、鶴屋は経緯を説明した。チョコレートの件をどうにか伏せつつ話す間に、コジロウは驚愕し、歓喜し、消毒し絆創膏を貼り、両目を丸くしていった。そして今、閉じた救急箱をポンと叩いて機嫌よく唸る。


「おぬしをともがらとできたことは、この生涯いちの幸運やもしれぬ!」


 素早い手当てにこの賛辞。鶴屋はなんだかいたたまれない気分になって、俯いたまま眼鏡を上げた。両親や親族以外の他者に、ここまでされたことはない。そんなことは、と謙遜してみせるべきなのか、ありがとうございます、と素直に受け取っていいものなのか、それすら判断できなかった。いたたまれなさと照れに急かされ、逃げるように話を逸らす。


「で、でも、わざわざこんな手当てしてくれなくてよかったのに」


 すると、コジロウはピクリと眉を上げた。へりくだったつもりだったが、今のは失礼になってしまったか? 鶴屋は早くも後悔する。そうして首を縮めると突然、両肩を掴まれた。目の前に、いつになく真剣な侍の顔が迫る。


「ならぬぞ、ツルヤ。それはならぬ。放っておけば、その傷がもとで病にかかるやもしれぬのだ。よいか、己の体は必ず大切にせねばならぬ」


 その声は低く、重かった。コジロウの黒い瞳には、鶴屋の顔だけが映っている。普段の姿とはかけ離れた迫力に、鶴屋は気圧された。適切な返事を考える余裕もなく「はい」と返すと、侍は厳かな仕草で頷く。生白い手から解放されても、両肩はまだあたたかかった。


 あのコジロウが、課題以外のために真剣な顔を見せるとは。そういえばマントルの怪我を見たときも、彼はひどく動揺していた。何か深い事情でもあるのか、同業者であるマントルと同じくらい、自分を思ってくれているのか。


 前者だろうな、と思いつつも、鶴屋の胸はこそばゆくなる。が、ついていけない、と冷めた気持ちもどこかにはあった。コジロウが自分の「トモガラ」だという実感は、未だ湧かない。


「しっかし遠近殿め、やはり溝口と縁があったのではないか。さるを我らに偽って、さんざん追い返しおってからに」


 真剣な表情から一転、コジロウは恨みがましく顔をしかめる。こそばゆい空気からようやく逃れ、鶴屋はホッと息をついた。絆創膏を片手で押さえつつ、頷く。


「そうですよね。溝口のあの感じだと、相当複雑な間柄なんでしょうけど……だからって、俺たちを脅さなくても」


「まったくその通りよ! それがしらは八つ当たりされたも同然ではないか!」


 フン、と強気な鼻息を漏らして、コジロウは頼りない腕を組む。鶴屋も再び頷いた。


 ここ数日の激しい疲労も、額の傷も、すべては遠近と溝口のせいだ。いい大人がふたりして、私情で他人を振り回しやがって。頭の中でそう毒づくが、なぜいい大人がふたりして、と疑問を感じずにもいられなかった。


「遠近さんも、溝口も、何があったらああなるんですかね」

 

 疑問をそのまま口に出してみる。するとコジロウは腕を組んだまま、「む?」と片眉を上げた。その怪訝そうな表情に向けて、疑いに少しずつ肉をつけていく。


「溝口、『殺されてやっても構わない』って言ってたんです。遠近さんに会えるなら、殺されてもいい、って。それって、なんかちょっと、普通じゃないですよ。殺し屋をやってて、自分に危険がないように、拠点を隠して……俺のことだって、危害を加えられないように殺しに来たって感じ、だったので。そんな人が、会えるなら殺されてもいい、なんて……やっぱりこう、かなりの事情がないと言わないような」


 遠近の名前を出した直後の、溝口の表情を思い出す。それまでの余裕を一瞬にして失った、紫色の暗い瞳。初対面の鶴屋にも分かる、くっきりとした異様さ。そして鶴屋とコジロウを突き放す、遠近の頑なな視線。すべてから窺える重い事情を、気にせずにいるのは無理があった。事情を知ってしまうのも怖いが、知らない事情に取り囲まれる恐怖も大きい。


「それに、遠近さんを連れてこいっていうのも、ちょっと不思議に思える、んです。俺の素性は簡単に特定したみたいだったのに、どうして遠近さんには会えないのか……。だって、あの総長のビルに行けば、それだけで会えちゃいそうなものだし」


 一度疑問を口にしてみると、分からないことが次から次へと溢れ出てくる。溝口の言葉のひとつひとつが、重大な秘密のヒントに思えてならなかった。まるで繋がらない点と点が頭の周りをぐるぐる回る。


「まぁ、よほどの事情があるには違いなかろうな」


 点たちに翻弄されていると、コジロウがそう言って頷いた。が、その仕草はどこか気が抜けている。「コジロウさん?」と語尾を上げて呼ぶが、侍はやはり脱力した様子で、唇だけを曲げてみせた。


「されど、左様なことを気にかけておっても仕様があるまい。彼奴らにいかな事情があろうと、それがしらはただ己の務めを果たすのみよ。そうであろう」


「それは……」


 そうですけど、と続ける頃には、コジロウは背を向けていた。これ以上何も言ってくれるな、という明確な拒絶を感じ、鶴屋は口を閉じる。侍は部屋の奥、背の低い棚に救急箱を片付けながら、ふぅ、と息を吐いた。その呆れたような響きに、鶴屋は萎縮する。


「せっかく、この手に得た好機なのだ」


 棚から一歩後ろに下がって、コジロウはわずかに背筋を伸ばした。鶴屋の位置からは、侍の顔を見られない。艶のない長髪の奥から、低く、力の籠った声がする。


「いかなることがあろうとも、それがしは決して無駄にはせぬ。余り事に構っておる暇など、ただの少しもない」


 コジロウがどんな顔をしているのか。鶴屋にはなんとなく想像できた。覚悟の決まったあの表情、執念と熱意と蛮勇と狂気を一気に表したあの表情が、脳裏に蘇る。生温く湿った不快感が、背筋をぬるりと滑り落ちていく。


「……そうです、よね」


 その不快感を拭うことも、かといって直視することもできず、鶴屋は侍に迎合した。コジロウはじっと後ろを向いたまま、反論を拒絶し続けている。どうしてそんなに必死なんですか、などとは、やっぱり訊けるはずもなかった。

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