第22話 小さいチョコとレモンサワー
「……んぇ?」
瞼が上がる感覚があり、瞼を閉じていたのだと分かる。プラスチックのようなにおいを嗅いで、ここが大学の講義室だと気がついた。
そうか、ゼミのために大学へ来て、猫背で講義室へ入って、後輩たちの騒がしさに苛立ちながら居眠りをしてしまったのだった。それで今、誰かに名前を呼ばれたような……。
ぼんやりとしたまま声の方向を思い出し、そちらに顔を上げてみて、瞬間「ぁわッ」と目が覚めた。
「そろそろ、チャイム鳴っちゃいますよ」
ふたつ隣に座る阿潟が、鶴屋をじっと見つめていた。
「あっ、すぅ、すっ、すみません」
アタフタと体を起こしつつ謝る。ハッとして口元を袖で拭うが、よだれは垂れていないようだった。傾いた眼鏡を慌てて直し、背筋を伸ばして阿潟に向き合う。しかしすぐに照れくさくなって背中を丸めた。
「いえ、全然。お疲れ様です」
同級生の挙動不審にも、阿潟はやはり動じない。小さな会釈だけを残し、すぐに鶴屋から顔を背けた。飾り気のない黒のリュックを、右手でガサガサと漁り始める。
その凛とした横顔に、鶴屋は思わずぽうっと見惚れた。真っ黒な髪に真っ黒な瞳、化粧気のない、サラリとした頬。誰の好感度も意識しない、毅然と孤独な佇まい。片想いなど関係なく、単純にひとりの人間としても、鶴屋は彼女に強く惹かれる。
宝くじ一等の十億円で、ひとりっきりで生きていく。そう言った彼女は、少しも寂しそうに見えなかった。死ぬまでずっとひとりぼっちって、やっぱり悲しくなるものですかね? そう問うたときの表情にさえ、迷いは感じられなかったのだ。
死ぬまでずっとひとりぼっちでも、全然悲しくなんてない。きっと彼女はそう思っていて、そして実際、悲しまないのだろう。
鶴屋はほう、と溜め息をつく。阿潟の強さはあまりに眩しく、あまりに羨ましかった。自分が彼女のように強ければ、今の悩みもなかっただろう。総長の課題も、コジロウの苦しみも無視して、自分だけの道を進めたのだろう。
「あの」
ひとり羨望に耽っていると、視界の端に手が映った。え、と無意識に声を出しつつ、手の方向へ首を回す。差し出された阿潟の右手には、茶色い何かが載っていた。透明な包装紙にくるまれた、チョコレートの立方体だ。
「これ、要りますか」
「へっ!?」
思わず声が裏返った。緩い包装の隙間から、甘い香りが漂ってくる。阿潟は机に頬杖を突き、目だけで鶴屋を見つめていた。胃が裏返るような甘い香りと、黒く気だるげな瞳が鶴屋の肌を刺す。
女性からものをもらったことなど、鶴屋にはただの一度もなかった。それがなぜいきなり、こんなプレゼントを差し出されているのか? 隕石に家を潰されたことを、阿潟はそれほど哀れに思ってくれているのか? 脳がグルグル回り始めるが、鼓動はどくどく速まって、結局何も考えられない。鼻先が、マッチでも擦られたように熱い。
「え、い、いい、んです、か」
「はい。鶴屋さん、大変そうなので」
どうぞ、と、阿潟の手が揺らされる。淡白な仕草に急かされて、鶴屋はチョコを摘まみ上げた。カサ、と軽く包装紙が鳴る。柔らかなチョコは今にも溶けてしまいそうで、上がるばかりの自分の体温が憎くて憎くてたまらなくなった。
「なんていうか……頑張ってください」
わずかに眉尻を下げて、阿潟が言う。その見慣れない表情と、静かで確かな応援の言葉に、鶴屋の体はふわりと浮いた。ぽぉんと響くチャイムの中、薄桃色の無重力空間でひとりゆっくりと回転する。講義も聞かずに回っていると、阿潟の「ひとり」を崩せないことが、今さらひどく悔しくも思えた。
*
大学を出ると、街は夕闇に染まっていた。九月の頃より早い日没が、冬の足音を鶴屋に聞かせる。びゅう、と吹く風も冷たいが、今はその温度が心地よかった。ほかほかとした指先でリクルートバッグを持ち、ステップを踏むように歩道を行く。漏れそうな鼻歌を堪えると、代わりにフフ、と笑いがこぼれる。
バッグの中には、あのチョコレートが入っている。食べてしまうのは惜しかったが、食べたくて仕方なくもあった。阿潟がくれたお菓子なのだ、これまでに食べた何より美味いに違いなかった。いやしかし、そんなにすぐに食べてしまうのも……かといって、惜しんでいる間に溶けてしまっては……。うぐぐ、と喉の奥で唸る。食べるべきか、食べざるべきか。覚悟のできない鶴屋には、あまりに難しい問題だった。
だがしかし、いつまでも悩むわけにはいかない。ただでさえ今は溝口の件で余裕がないし、こんな悩みがコジロウにバレればまた大騒ぎされるだろう。いつかの夜道を思い出し、鶴屋はふぅと息を吐く。この問題はなるべく早めに、ひっそりと解決しておかなくては。
そう考えつつ歩を進めると、右手に小さな公園が見えた。低い滑り台と狭い砂場、二台並んだベンチを備える、今時の児童公園だ。うっそうと茂る生垣の奥には、児童どころか鳩の一羽も歩いていない。その寂しさに鶴屋は惹かれた。
ここでなら、ひとり静かに考え事ができそうだ。ちょうどベンチもあることだし、もしチョコを食べると決まったら、ここでじっくり味わうとしよう。
気恥ずかしさからなんとなく周囲を見回しつつ、細かな砂利の敷地に踏み入る。浮かれた足取りで奥へと進み、ベンチに座った。バッグを膝の上に載せ、透視するように見つめてみる。うーんと腕組みをしながらも、鶴屋はにやりと口角を上げた。
チョコレート。しかも、「頑張ってください」のチョコレートだ。阿潟はやはり、隕石に自宅を潰されたうえ内定も決まらない鶴屋の状況を、気にかけてくれているのだろう。だが、もしそれだけでなかったら?
期待しすぎだと分かっているが、想像せずにはいられない。孤高の女性が何度も声をかけてくれて、チョコレートまでくれるのだ。隕石とか就活とか、そんな単純な哀れみだけが理由だというのも説得力に欠けるじゃないか。
ふ、ふふふ、と笑いが漏れ出す。彼女の「ひとり」を崩せなくても、恋人になどなれなくても、こんな妄想を楽しめるだけで一生幸せになれる気がした。ふふふふふ。ベンチでひとり、不気味に笑う就活生。
と、ザ、と掠れた音が聞こえた。鶴屋はハッと我に返って、不気味な笑みを引っ込める。バッグから視線を上げてみると、公園の入り口に背の高い影が立っていた。黒いスーツにダークネイビーのネクタイを締め、薄いビジネスバッグを提げた、サラリーマン風の男だ。
ザ、ザ、と砂利を鳴らして、男はずんずんと公園に踏み入る。そして鶴屋が座るベンチの、隣に並んだもう一台にどかりと腰を落ち着けた。
途端に居心地が悪くなり、鶴屋はきゅっと肩を縮めた。もしかして、さっきの笑いを聞かれただろうか。もしも聞かれていたとすれば、とんだ不審者だと思われただろう。頬がカァッと熱くなり、心臓のあたりが痒くなる。
いや、待てよ。不審者に思われたのだとすれば、彼の行動はおかしいじゃないか。怪しい男のいる公園で、しかもその横のベンチでなんて、休憩しようとは思わないはずだ。それならやっぱり、あの醜態は見られなかったということか? 鶴屋はごくりと唾を飲み込む。隣の男をこっそり窺おうとして、はたと、目が合った。
「君、就活生?」
そう言って、男はふっと微笑んだ。夕闇の中、彼の顔には灰色の影が落ちている。それでもはっきりと分かるのは、その顔立ちがひどく平凡であることだ。眉の形、目の細さ、鼻の高さ、唇の厚さ、どこをとってもありふれていて、この公園を一歩でも出ればたちまち忘れてしまいそうだった。
そんな男の右手には、いつの間にかレモンサワーの缶がある。そのタブが引かれるのを見つつ、鶴屋はワタワタと頷いた。
「あっ、は、はい。えぇと、しゅ、就活生で」
「やっぱりそうか。ごめんね、急に話しかけて」
軽く笑いつつ謝って、男はレモンサワーを飲んだ。あぁ、と疲れたように呻き、スーツの腿に肘を突く。夕闇に沈む目元には、ごく薄いシワが刻まれていた。とはいえ中年というには若く、かといって、若者というには老けている。
「大変だろ、今の就活は」
横顔をぼんやり眺めていると、声が続いた。独り言が偶然問いかけになったというような、独特のぞんざいさがある口調だ。初対面での会話。緊張することこの上ないが、打ち切る方法も鶴屋は知らない。チョコの入ったバッグを抱えて、どうにかこうにか息を吸う。
「今だから、か、どうかは分からないですけど……大変、ですね」
「あぁ、確かにおれの時代も大変だったか。いつでも辛いね、就活ってのは」
「いや、ほんと、はい……ほんとに」
「はは」また缶が傾き、ごく、と男の喉が動く。「君は何か、やりたい仕事はあるのか?」
「やりたい仕事……」
鶴屋は繰り返し、俯く。やりたい仕事、なりたい姿。就活にあたって何度も聞いたフレーズだが、何度聞いてもしっくりこなかった。やりたい仕事も、なりたい姿も、想像しようとしてもできない。どんな仕事もできる気はしないし、なりたい姿を決めたところで、とてもそうなれる気はしなかった。
「その、それがあんまり、思いつかなくて。い、今はもう手当たり次第、というか」
「あー、まぁ、そんなもんだよな」
はは、と男はまた笑う。ふにゃふにゃとした笑い声に、鶴屋は胸を撫で下ろした。やりたい仕事がないなどと言えば、長い説教をされかねないと思っていたのだ。この男相手には、硬くなる必要もないのかもしれない。ふ、と肩の力が抜ける。濃さを増す夕闇の中に、苦いレモンの香りが漂う。
「だったらさ、就職なんかもう、考えなくていいんじゃないか」
「え?」
突然の提案に、鶴屋の顔はビクリと上がった。瞬きを繰り返しながら、男の表情を確かめる。男は平凡な目を細め、くだらない冗談を言うように、あるいは鶴屋を試すように、軽々しく口を動かした。
「みんなが会社に入るからって、君までそれに従うことはないわけだろ。向いてない『普通』に乗ろうとするより、腹を括ってレールを外れて、向いてる生き方をするほうがいい。そう思わないかい」
「え……と」
返す言葉を思いつけず、鶴屋は中途半端に黙る。レールを外れて、自分に向いている生き方をする。それもまたよく聞くフレーズだったが、信じようとは思えない。だって、と脳内で理由を探し、どうにか文章を形作って、固まる舌先を辛うじて動かす。ついさっき抜けたはずの力が、肩に戻ってきている。
「でも、レールを外れたら外れたなりの、と、いうか、外れても生きていけるくらい強い人でないと、それは難しくて……。俺はたぶん、ひとりで生きていけたらそのほうが向いてるんですけど、それほど強くない……から、どうにかして、レールを外れないようにしないと。レールに沿って生きてる、大勢の人を味方につけないと、きっと、全然、生きていけなくて……と、思う、ので」
「ふぅん」
まとまらない反論に、男は鼻を鳴らした。その音はやはり軽々しく、鶴屋の背筋はヒヤリとする。意気地のない奴、と突き放されたような気がした。意気地がないのは事実なのだが言い訳せずにはいられなくなり、「あの」と慌ててまた声を出す。が、意味のある単語を発するより先に、「でも」と遮られてしまった。
「こんなこと、もう気にする必要もないな、君は」
男の言葉の意味が、鶴屋にはよく分からなかった。気にする必要がない? なぜだ? 君は、というのは、俺だから必要ないということか? なんで? 俺があまりに無能だから、気にしても無駄だと言いたいのか? だとしたらそんな、ひどすぎる。
勝手に落ち込む鶴屋の隣で、男は傍らに缶を置く。そしてビジネスバッグを開くと、もう一本、レモンサワーを取り出した。そのまま立ち上がり、鶴屋の前に移動する。そうして缶が差し出されてようやく、鶴屋は現実に帰ってきた。目の前の缶をキョトンと見つめ、次に男の顔を見上げる。
そこで初めて、男の肌の透き通るような白さに気づいた。コジロウの生白さとは違う、色素の薄さを感じさせる白だ。
「ほら、君も飲みなよ」
頭上から柔らかい声が降る。その響きに不自然さを感じ、鶴屋はたじろいだ。缶を見て、また男を見上げる。男はにっこりと目を細め、微笑んでいる。
「ほら」
そう急かす声からはもう、不自然な響きは消えていた。しかしその自然さが、かえって鶴屋を威圧する。缶を受け取らない限り、この男はここを離れない。そう思わせる何かを、男の声も、微笑みも、含んでいた。
……しかし、それは単なる感覚の話だ。こんなものすべて錯覚で、本当はただ、厚意から酒をくれようとしているだけなんじゃないか。そうだ、むしろその可能性のほうがずっと高いではないか。そう、たぶん、大丈夫なのだ。この男はきっと、大丈夫なはずだ。自分自身にそう言い聞かせ、「ありがとうございます」と缶に手を伸ばし、
「あのさぁ」
手首を掴まれる。
「レールに沿ってる就活生は、殺し屋を探したりしないもんだぜ」
勢いをつけて引き倒され、背中を砂利に叩きつけられた。衝撃に、か、と硬い息が漏れる。頭蓋に警鐘が反響し、砂利に手を突いて体を起こそうとしたがすぐさま、両肩を地面に押しつけられた。男の顔が眼前に迫る。平凡な両目をすぐそこに突きつけられてやっと、鶴屋はひとつの非凡を見つけた。
男の瞳は、雲のかかった夕焼けのような、深く美しい紫色をしていた。
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