第21話 がんばれぼくらのおそい足

「溝口の根城?」


 人差し指でサングラスを上げ、遠近が訊き返す。無骨な応接スペースでは、オレンジのシャツが眩しかった。思わず目を細める鶴屋の隣で、コジロウが決然と頷く。


「左様にござる」


 指令を下されたその日のうちに、ふたりは再び総長のビルへ戻ってきていた。


 コジロウの乾いた笑みの後、気を取り直してふたりでウンウン唸り合い、ひとまずの目標をこう定めたのだ。「溝口の根城を突き止める」。とりあえずそれさえ達成すれば、作戦の立てようもあるだろう。ひどく大雑把な計画だが、この状況ではそれが精一杯だった。そしてそのために、さっそく遠近を頼っている。


 遠近殿は、溝口と何ぞ因縁があるに違いあるまい。六畳一間の座卓の前で、コジロウは力強くそう言った。課題発表後の慌てよう、総長の指令にもかかわらず、課題への協力に消極的であること。これらが遠近と溝口の繋がりを証明している……というのが侍の論で、鶴屋も概ね同意だった。消極的なのはこれまでと同じにも思えたが、総長に対して声を荒らげた彼の様子は、普通には見えなかった。


 遠近は、溝口と繋がりを持っている。だからこそ、溝口の名前に動揺した。だとすれば、遠近は溝口の根城について、情報を持っているかもしれない。


「知るわけねぇだろ、そんなもの」


 が、答えはにべもない。年季の入ったソファーにもたれて、彼は威圧的に顎を上げた。濃いサングラスの向こうから、凄味のある目がふたりを見下ろす。鶴屋は肩を縮めた。エントランスの応接スペース。高級そうな革張りの座面は、驚くほど尻に馴染まない。


「ま、まことにござるか?」


「まことだよ。殺し屋を頼ったことなんかねぇからな」


 コジロウの問いが、またぴしゃりと叩き落とされる。遠近の態度はあまりに堂々と落ち着いていて、鶴屋は早くも仮説を疑った。遠近が見せた動揺には、別の理由があったんじゃないか? 


 隣にチラリと視線を向ける。侍は悔しげに口角を引き攣らせていたが、下がった眉には弱気が見えた。なんだかいたたまれなくなって、鶴屋は取るべき行動を探す。


 このまま課題に取り組むべきか、鶴屋にはまだ分からない。それでも、コジロウを置いて逃げることは躊躇われた。自分は弱い。弱いから、苦しまなくてはならない。侍が語った悲しい論理に、共感せずにはいられなかったからだ。この侍を見捨てることは、自分自身を見捨てることと変わらない。迷いが消えたわけではないが、逃げない理由は確実にひとつ増やされてしまった。


「でも、その」


 喉から声を絞り出す。サングラスにジロリと睨みつけられ、慌てて視線を下に逸らした。やっぱり何も言わなきゃよかった、と後悔するが、ここで黙るのも恐ろしい。その、ともう一度繰り返してから、ぐっと目を閉じて舌を動かす。


「殺し屋として頼ったことはなくても、会ったことはある……んじゃ、ありませんか」


 返答はない。鶴屋はこわごわと瞼を上げて、遠近のほうへ視線を戻した。と、すかさず声が飛んでくる。


「お前、俺を馬鹿にしてるのか?」


 サングラスの奥の目が、鋭利な光を帯びる。一瞬にして顔面蒼白となる鶴屋に、追い打ちがかけられた。


「俺が、殺し屋なんかと仲良くやるわけねぇだろうが」


 これ以上の反論は許さないと、遠近は言外ににおわせた。鶴屋とコジロウはそれぞれに震え、押し黙る。と、エントランスの奥から若い男が現れ、遠近の側に駆け寄った。遠近さん、と小声で呼ばれ、総長の右腕は立ち上がる。座ったままでそれを見上げる鶴屋たちだったが、「おい」と凄まれて立ち上がらざるを得なくなった。しぶしぶ腰を上げるふたりを、遠近の声がドスリと貫く。


「こんなつまらねぇ質問、もうするんじゃねぇぞ」


「……承知」「はい」


 ぼそぼそと返事して、コジロウと鶴屋はビルを出た。薄暗い路地に吹き込む風が、ふたりの頬を刺すように撫でる。十月中旬の昼下がり。灰色のビルに囲まれた空を雲がゆったりと流れていった。風から逃げるように歩き出しつつ、コジロウは鶴屋を振り返る。


「ツルヤ。遠近殿は嘘を言うておると思うか?」


 そう訊く声には、やはり弱気な響きがあった。思います、と答えたいところだが、鶴屋にもまったく自信がない。重い革靴を踏み出しながら、首を傾げる。


「分か、りません。ちょっと変だった気もするし、でも、そうじゃなかったかも」


「うむ。それがしも同じだ」


 苦々しげに同意して、コジロウはふいと前を向いた。鶴屋は小走りになり、侍の隣に並んでみる。疲れた横顔を見上げると、その唇からふぅ、と息が漏らされた。


「されど、もしあれが嘘ならば、このまま捨て置くのは惜しい。遠近殿が『使える』か否か、今一度よく探ってみねば」


「でもあの感じじゃ、そう素直には話してくれないと思いますけど」


「うむぅ」


 侍が唸り、鶴屋も首を捻った。溝口の根城を突き止める。当然分かってはいたが、簡単なことではなさそうだ。裏路地にまた風が吹く。捨てられた空き缶が転がって、カラカラとふたりを追い越していく。


「遠近殿に、執念深く問い聞いてみるか……」


「自分たちで、溝口の根城を探ってみるか……?」


 そう言ってうーんと呻きながら、どちらも無理そうだと鶴屋は思う。あの遠近に立ち向かうなどできそうにないし、そもそも彼は本当に、溝口のことなど何も知らないのかもしれない。かといって、自分とコジロウだけの力で解決できるとも思えなかった。


 殺し屋がいれば、殺し屋を殺したい者もいる。溝口に恨みを持つ者だってきっと何人もいるはずなのに、溝口の拠点は未だしっかりと隠されているのだ。自分たちなんかが一朝一夕に発見できるわけがない。


 今日も今日とて、ポケットには隕石が入っていた。それを握ろうと指を開いて、やめる。


 隕石は確かに、鶴屋を成功へ導いてきた。総長に鶴屋を認めさせ、あの青いバラを見つけさせ、偽物の指輪をニーナの指に嵌めさせた。しかしその不自然な都合の良さを、鶴屋はいよいよ恐れていた。


 を起こす力がこの欠片には確かにあり、そのあり得ない出来事によって、鶴屋はここまで進んできている。求める強さに、近づいてきている。


 それは喜ばしいことのはずだが、どこか選択肢を奪われているような、逃げ道を断たれているような、そんな薄気味悪さもあった。隕石に腕を引かれ、力ずくで前進させられているような。


 だから今回はできるだけ、この隕石には頼りたくない。自分の意志で、時には立ち止まって考えながら、向かうべき場所を決めたかった。


「……是非もなし」


 ポケットと睨み合う鶴屋の頭上に、侍の声が降ってくる。顔を上げると、コジロウも鶴屋を見下ろした。例によって迷いのない目に、次の一言が予想できる。


「両方やるぞ」


 そうですよね、と言うのを堪え、鶴屋は黙って頷いた。


 *


 回転椅子がキィ、と軋む。人工的な辛味のにおいが、鼻の粘膜を剥ぐようにしみる。


「君たちってさ、どんだけ友達いないわけ?」


 椅子ごと振り向き、天使はにこりと微笑んだ。左手に構えたカップ麺には、真っ赤な文字で「地獄辛」と印刷されている。


「『どんだけ』かと問われれば、『いささかも』と答う他ござらぬ」


「社会的動物としての矜持が感じられないね」


 侍の拗ねた返答を一蹴し、天使は深紅のラーメンを啜る。天使のような美青年と、地獄のように辛い麺。圧倒的なミスマッチに鶴屋の視界は揺れた。その隣で、コジロウの顔も真っ赤に染まる。彼はギリリと両目を吊り上げ、目的の問いを繰り返した。


「して、いかがか! 溝口の根城を知っておるのか、おらぬのか!」


「『知っておるのか』と問われれば、『知らない』と答える他ないね。現状では殺したいほどの敵もいないし、用もないのに殺し屋の拠点を知るなんてのは無駄なリスクを負うだけだ」


 ずるる。天使はまた麺を啜り、続けて肉を口に放り込む。唐辛子とニンニクの香りが、今度は鶴屋の目にしみた。コジロウもズビ、と鼻をすすりつつ食い下がる。


「し、しからばせめて、知っておりそうな者を紹介してはくれぬか」


「へぇ、それは社会的な要請だね。人間の個性なんてのはやっぱり、表層的な性質にだけ

 適用されるものなのかな」


 麺と肉をあっさり飲み込み、天使はまた椅子をくるりと回す。PCモニターに向き合った指が素早くキーボードを叩くと、デスクの脇のプリンターから一枚の紙が吐き出された。天使はそれを指先で摘まみ、「はい」とコジロウに差し出す。


「僕の知り合い、ひとりだけね。僕は人脈のプロではないし、その子が知ってる確証もないからこの代金は請求しない。その代わり、もう二度と僕の間食中に現れないこと。普通に不愉快なんだよね」


 コジロウがコピー用紙を受け取り、鶴屋はそれを覗き込む。A4の紙には簡潔に、人名と住所が記されていた。


「じゃ、さようなら」


 その挨拶に、ふたりはぽいっと蹴り出された。飾り気も味気もない共用廊下で、コジロウは受け取った紙を掲げる。そうして高らかに、ややヤケクソな号令を発した。


「よし! この調子で、止まらずゆこうぞ!」


 *


「だから、知らねぇっつってんだろ」


 遠近がガシガシと頭を掻く。天使のマンションを蹴り出され、一晩明けて朝一番。ふたりは再び総長のビルを訪れていた。例の応接スペースで、鶴屋とコジロウはすがるようにサングラスを見る。


「そこを何とかお教えくだされ。溝口の見目形だけでも」

「見目形なんか知らねぇっての。言っただろ、あんまり俺をアテにするなよ」

「で、でも俺たちだけじゃ、全然手がかりを掴めなくって」

「まだ二日目なんだから当たり前だろ。もうちょっと根性見せたらどうだ」

「されど根性を見せておる間に、溝口が誰ぞに討ち取られるやも」

「そう、ですよ。誰かが先に右目を取るかも」

「んなわけあるかよ。無駄な心配する暇があるなら……」

「そう言わずどうか教えてくだされ、遠近殿!」

「おっお願いします、遠近さん!」

「あぁクソ、うるせぇ! 人の話も聞けねぇんならとっとと出てけ馬鹿どもが!」


 遠近の両手に襟首を掴まれ、ふたりは裏路地に放り出された。吹き抜ける秋風にクシャミをしてから、曇った顔を見合わせる。


「やっぱり弱いですよ、この作戦は」


「『押し入りお頼み申す作戦』、総長にはこれで謁見させてもろうたのだがなぁ」


「この作戦、そんな名前ついてたんですか……」


 もう一度吹いた冷たい風が、ふたりの溜め息を吹き飛ばす。コジロウは頭上の青空へ向けて、半ばヤケクソな拳を上げた。


「憂いてはおれぬ! 次へ行くぞぉ!」


 *


「いや、別に知らないっすね」


 真新しいアパートの三和土で、若い男は首を振った。天使に紹介された男はどうやら情報屋であるらしく、そして見るからに生意気だった。


「確かにそういう、ヤバげな情報も集めますけど。さすがに溝口はちょっと、ないっすね」


「ない、か」


「ないっす」


 侍の問いに、男はあっさり頷いてみせる。流れるように玄関を開け「もういっすよね?」とふたりの退散を促した。その横柄さに、鶴屋は奥歯を噛み合わせる。コジロウの顔を窺うと、侍はビキビキと引き攣った頬で笑っていた。


「しからば、溝口について知っておりそうな者を紹介してはくれぬだろうか」


「あぁ、いっすけど」


 情報屋はひらりと手のひらを差し出す。


「俺、プロの情報屋なんで」


 コジロウの財布から千円札二枚が消えていくさまを、鶴屋は呆然と見届けた。情報屋からメモを受け取って、ふたりはまたぽいと閉め出される。メモを右手に握りしめ、コジロウはかなりヤケクソに呻いた。


「まだまだ……行くぞ!」


 *


「知らねぇもんは知らねぇんだよ」


 遠近の瞳に怒りが宿った。鶴屋は逃げるように顔を伏せ、コジロウはなおも食い下がる。ふたりはもはや、ソファーに座ることすら許されなかった。


「されど、遠近殿ほどのお方ならば何ぞ知っておいでなのでは」


「いい加減にしろ!」


 手近な壁を拳で叩き、遠近は怒鳴る。迫力のあるざらついた声に、鶴屋の腕はビリビリと痺れた。心音が分かりきった恐怖を訴える。


「いいか、俺は本当に、溝口のことなんか何にも知っちゃいないんだ。お前らが何を疑ってるのか知らねぇけどな」


 その口調は静かで、しかしかすかに揺らいでいた。鶴屋は一度瞬きをしてから、こわごわと目を上げてみる。遠近は神経質そうに、壁につけた拳を何度も握り直していた。


「分かったらすぐに出ていけ。五秒以内に出てかなきゃ、てめぇらの膝を二度と曲げられねぇようにしてやる」


 サングラスの奥で、素朴な両目が殺意に歪む。鶴屋とコジロウは大慌てで走り出し、四秒かけてビルを出た。侍はピクピクと瞼を痙攣させながら、百パーセントのヤケクソぶりで腿を叩く。


「えぇいもう、ともかくいずこへでも行くぞ!」


 *


「うーん、知らないかな」


 寂れたバーの隅の席で、女は紫煙を吐き出した。苦い香りが鼻先に触れ、鶴屋は口を閉じたまま咳き込む。情報屋に紹介された女は、生業も素性もまったく謎の人物だった。


「そういう人に依頼したこともあったけどさ、溝口にはないんだよね。ずっと生き残ってる人って怖いでしょ。すぐに退場してくれなくちゃ、情報を掴まれたまんまになるし」


 ねぇ、と同意を求められ、コジロウがぎこちなく頷く。女の、丁寧に描かれた眉がアハッと高い笑いに跳ねた。


「ていうかお兄さん、ほんと面白い。ねぇ、なんで侍なの? 侍がスーツの子といるの、映画みたいにシュールだよね。なんで?」


「な、なにゆえと問われても」


「いいじゃん、教えてよ。どうして?」


 女にしつこく問われ、コジロウは頬に汗を浮かべる。彼が侍である理由は、鶴屋も非常に気になるところだ。苦手なおなごを前にして、ウッカリ答えてくれないだろうか。そう思って様子を見ているうちに、侍は「ししししからば!」と声を張る。


「溝口の根城を知っておりそうな者を、それがしに紹介してくだされ! さすればそれがしが侍たる所以を、しかと語ってしんぜよう!」


 コジロウに指を突きつけられ、女は「いいよ」とすぐに頷いた。バーのマスターに紙とボールペンを持ってこさせ、何者かの連絡先をサラサラと書きつけて侍に渡す。そして彼女が「じゃあ」と何かを言いかけた瞬間、


「しからば、さきの答えはまた他日! 御免!」


 とコジロウは勢いよく立ち上がり、鶴屋の手を引いてバーを出た。怪しげな裏道を鈍足で走り、ぴたりと足を止めるや否やゲホゲホと咳き込む。鶴屋もゼェハァと両肩を上下させながら、侍の顔をチラリと見た。噎せる表情はどこからどう見てもヤケクソだったが、コジロウにもはや言葉はなかった。


 *


 そうしてふたりの奮闘は続く。遠近、紹介された男、遠近、紹介された男、遠近、紹介された女。追い出され、放り出され、逃げ出し、摘まみ出され、蹴り出され、転がり出る。


 誰かひとりと話をするたび、コジロウの頬はこけ、鶴屋の目のクマは黒さを増し、コジロウの指先は白くなり、鶴屋の頭は痛み出す。それでも何ひとつ成果は得られず、ふたりの計画は一歩たりとも前進しない。毎晩毎晩夕食の座卓は淀んだ空気と沈黙に満ち、鶴屋の夢見は徐々に悪化し、まったく疲れが取れない体で白々とした朝を迎える。


 この計画が停滞すれば、総長の課題から逃げられるのではないか。さすがのコジロウも嫌気が差して、現状に疑問を持つのではないか。ほんの一時、鶴屋はそうも考えた。が、それはあまりにも甘かった。


 意気消沈し、疲労に苛立ちを募らせていても、コジロウは決して諦めない。ただがむしゃらに動き続け、「行くぞ」と鶴屋を引っ張っていく。侍のやる気に水を差すこともできず、かといって心からついていくこともできず、肉体よりも精神の疲労が鶴屋を激しく蝕んだ。


 このまま進んでいいものなのか。このまま進むしかないのか。ここから戻るにはどうすればいいのか。戻るなど、もう不可能なのか。考える間もなく濁流に巻き込まれ、渦の中心にぐるぐると押し込まれていく。


 ポケットの中の隕石は、まるでウンともスンとも言わない。頼りたくないと決めた心がグラグラ揺らぎ、もういっそ先に進ませてくれないかと渦の中心で願いかけたとき、


「鶴屋さん」


 と、気だるげな声に引き上げられた。

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