第三章 ひとりぼっちとその右目

第20話 レベル上げだって仲間がいなきゃ

 右目、と、総長は言った。


「次は、右目がいい」


 赤い唇が滑らかに動き、低く澄んだ声を送り出す。たった今思いついたような口調だったが、無機質な計算の色もあった。額縁に収まる群青の夜空が、総長の頬を青白く照らす。


「……右目」


 無意識のうちに、鶴屋はそう繰り返していた。みぎめ。その三音に、眼球がじりじりと疼き始める。マントルが流した血のにおいが、鼻の奥深くで再現された。恐怖すらもまだ追いつかない、漠然とした不安に脊髄を撫で上げられる。


 右目。その意味を考えるまいとする間に、「そう」と静謐な声が返ってきた。


「右目。殺し屋、溝口の右目が欲しい」


「はっ?」


 そこで声を上げたのは、鶴屋でもコジロウでもなかった。総長の背後に立つ遠近が、唇をわなわなと震わせている。殺し屋、右目、遠近の驚き。どの情報にもついていけず、鶴屋はキョロキョロと目を泳がせた。


 なぜ自分ではなく遠近が、驚きを露にしているのか? いやそもそも、殺し屋の右目などどうやって取ってこいというのか? 人間の右目を、抉って取り出せということか? この裏路地で、殺し屋は生き残りにくいんじゃなかったのか? 


 黒々とした動揺に覆われていく。だが、動揺しているのは鶴屋だけではなかった。


「待ってください総長、溝口は……!」


 遠近が総長の前に回り込み、半ば怒鳴るように言う。その横顔はサングラスのツルに阻まれ、しかし焦りに歪んでいることだけは分かった。そのことに鶴屋はまた混乱する。


 これまでの遠近が見せていた強さが、どこにも感じられなかった。薄い刃のような鋭さも、分厚い地盤に支えられた安定も、見えない。


 総長の瞳が遠近を見上げる。その虹彩にはいつも通り、一切の感情の色がなかった。遠近が後ずさる。彼らの間に何が起こっているのか、鶴屋にはまるで分からない。考えられる余裕もない。だがそのうちに、総長の目はまた鶴屋とコジロウに戻ってくる。


「溝口の瞳は、とても美しいらしくてね。一度見てみたいんだ。やってくれるね」


 総長の声は静かだが、確かな威圧感を含んでいる。それでも鶴屋は頷く気になれず、目だけでコジロウの顔を見た。人間の目を奪うなど、考えようとしても考えられない。侍の眉も緊張に強張っているように見えた。元から血色の悪い唇が、さらに紫がかっている。


「右目、に、ござるか」


「そう、右目。何かおかしいかな?」


 淡白な返答に、コジロウは黙り込む。「裏路地の王者」に逆らうことは、この場の誰にもできなかった。有無を言わさぬ無表情を前に、鶴屋は奥歯を噛みしめる。


 理不尽だ、と思いたくなったが、鶴屋にその資格はなかった。内定を目指して、総長からの課題をこなす。その道を選び取ったのは、他ならぬ鶴屋自身なのだ。


「でも、お前たちだけでは難しいというのも分かるよ」


 硬い呼吸音が飽和する中、総長の声だけが伸びやかに続いた。コツ、とハイヒールの音をさせ、彼女は一歩前に出る。そしてその繊細な手で、自らの部下の肩を叩いた。


「だから、この遠近を貸してあげよう」


「総長!」


 遠近がまた声を張る。だが総長はその顔を見もせず、淡々と言葉を連ねてみせた。


「行き詰まることがあっても、なくても、いくらでもこの子を使いなさい。今回は三人で課題をこなすこと。いいね」


 総長の手が、トンと遠近を前に押し出す。サングラス越しの素朴な両目が、珍しく抗議の色を湛えた。しかし総長は断固として、その目を見つめ返さない。絵画の星に照らされながら、赤い唇をまた開く。


「それじゃあ、頑張って。期待しているよ」


 遠近が、鶴屋とコジロウを振り返る。その双眸は、消えかけの火のように揺れていた。


 *


 絵画の廊下は靴音をやたらと反響させる。革靴がふたつ、草履がひとつ。その他の音を何ひとつ発せないままで、鶴屋は額縁ばかりを見送る。やがてそれにも耐えられなくなり、目の前を進む長髪と、その奥の金髪をチラリと見上げた。


 気まずさ、恐怖、不安、葛藤。この瞬間にどれを感じるべきなのか、鶴屋は判断できなかった。遠近と歩く状況は気まずく、与えられた課題は恐ろしく、先への不安はまったく尽きず、このまま進むべきなのか、課題から身を引くべきなのか、葛藤は収まらない。あらゆる感情が中途半端に浮かび上がっては消えていき、足元が揺れる。


「一応言っとくが、あんまり俺をアテにするなよ」


 そうしてグラグラ歩いていると、前方から声が飛んできた。遠近が首だけで振り返り、鶴屋とコジロウを順に睨む。


「総長のご命令である以上、できる限りの協力はしてやる。ただ、俺が主導することはねぇ。あくまでもお前らが主体になって、お前ら自身で事を進めろ。俺はそこにほんのちょっと、手を貸してやるだけだ」


 分かったな、と指を突きつけられ、鶴屋もコジロウも黙り込む。遠近の忠告は至極当然のものだったが、鶴屋の耳には重く響いた。


 殺し屋と対峙し、右目を奪う。そんな途方もないミッションを、自分たち主体で達成できるとは思えない。コジロウが鶴屋を振り返る。自信なさげな視線に自信のない視線を返したところで、遠近の声が続く。


「それでも俺に会いたいときは、このビルに来い。俺が外出してるときでも、伝言くらいは残させてやる」


 そう言うと、遠近は目の前の角を曲がった。彼はそのまま、エレベーターとは逆の方向に去っていく。まずコジロウが立ち止まり、それに従って鶴屋も足を止め、遠ざかる背中をふたりで見送る。やがて金髪が見えなくなると、ふたりは顔を見合わせた。


 侍の顔はどんよりと暗い。きっと自分も、似たような顔をしているのだろう。そう思うと、鶴屋の口からは自然と溜め息が漏れる。


「……どうします?」


「それがしが聞きたいわ」


 コジロウも深く溜め息をつき、ふたりの間に淀んだ二酸化炭素が溜まる。沈痛な雰囲気に鶴屋は叫び出したくなった。


 殺し屋の右目。濃い暴力の気配を前にして、早くも絶望に襲われていた。暴力に直接加担する自分は、まだどうしても想像できない。かといってもう、目を背けられるほど無知でもないのだ。マントルの傷も、女性を縛った縄の結び目も、まだ鮮明に思い出せる。


「ひとまず、帰るか」


 さすがのコジロウも、空元気は出せないようだった。裏路地に生きてきた彼は、この課題をどう捉えているのか? 鶴屋には分からないが、彼の提案には心の底から賛同できた。


「はい」


 そう答えると、コジロウも力なく頷きを返した。パタパタと草履が歩き出し、鶴屋の革靴も続く。靴音はまた、やけにうるさく反響した。


 *


「いるものなんですね、殺し屋って」


 湯呑みをコトリと座卓に置き、鶴屋は言った。白湯から立ち昇る湯気が、眼鏡のレンズを曇らせる。侍の長屋は今日も今日とて殺風景で、忍者屋敷にも程遠かった。


 ひとたび殺し屋なんぞになれば、畢竟ひっきょう殺されるのは己よ。いつかのコジロウの発言を、鶴屋は忘れていなかった。殺しの仕事は割に合わない。殺し屋になっても得はない。それでも殺し屋が存在するとは、鶴屋には信じられなかった。


「おる……というか、現じては消えていくものよ、殺し屋とは」


 座卓の向かいで、コジロウも湯呑みを置いた。鶴屋は曇った眼鏡を拭いて、侍の顔をチラリと窺う。白湯の温かさのおかげか、硬かった表情はいくらか緩んでいるように見えた。だがその代わりに、うっすらとした寂寥せきりょう感がにじみ出ている。


「どれほど割に合わずとも、殺しの仕事はまず絶えぬ。裏路地のみならず表の世にも依頼が溢れておるゆえな。飢うることのなき稼業となれば、喜んで身をやつす者はおる」


「でも消えていく、ん、ですよね」


「左様」


 鶴屋の問いに、コジロウはゆっくりと頷いた。


「殺し屋が生まれれば、殺し屋を殺したき者も生まれる。殺し屋の名を聞いたらば、その殺し屋の死の報せも必定聞くこととなるものだ。それがしも幾人もの死を聞いて参ったが……唯一、報せを聞かぬ殺し屋がおる。それが『溝口』だ」


 声を一段低くして、コジロウはその名前を呼んだ。鶴屋は唾を飲もうとしたが、喉が締まって飲み込めない。それでも無理やり飲み込むと、気管もぎちりと窮屈に開く。そしてその喉で、分かりきったことを問うた。


「……つまり?」


「つまり」


 コジロウの表情が暗くなる。立ち昇る湯気はもう薄く、鶴屋は侍の瞳の黒さをくっきりと確かめられた。その黒の下で、唇が動く。


「溝口はそれほど、討ちがたき相手ということだ」


 鶴屋は言葉もなく、俯いた。湯に反射した情けない顔が、うんざりとして頬を歪める。


 殺し屋、しかも「討ちがたき」殺し屋に、自分とコジロウが太刀打ちできるはずもない。青いバラとも真っ白な命とも違う、地に足のついた「不可能」が、目の前に立ちはだかっていた。肺が鉛を詰められたように重くなる。


 しかし同時に、ほのかな安堵を覚えてもいる。これまではずっと、絶え間ない流れに逆らう間もなく従ってきた。自分がこの先どうするべきか、考える暇もなかったのだ。自分が本当にやるべきこと、進むべき道。今回はようやく、立ち止まって考えられるかもしれない。


「あーっ! いま少し、それがしが剛の者であればなぁ」


 そんな鶴屋の期待に反して、コジロウは己の弱さを嘆く。頭を抱える侍に、「まぁまぁいいじゃないですか」などとは言えそうになかった。かといって、「そうですねぇ」と同意するのも憚られる。鶴屋はできるだけ深刻な表情を作り、この場で言うべきことを考えた。


 それなら強くなりましょう! 違う。そんなに弱くもないですよ。違う。もっと堅実で、建設的で、かつコジロウの焦りに寄り添えそうな……。


「右目をくださいって、真正面から言えればいいんですけどね」


 必死に言葉を探した結果、堅実でも建設的でもないぼやきを口にしてしまった。もっとやりようがあっただろ、と自分を殴りたくなる。しかしコジロウは「そうよなぁ」と、特に気にしていない様子だ。ホッと息をつく鶴屋の耳に、侍の愚痴っぽい声が届く。


「されど、それはまずあたわぬであろうな。溝口は己が根城を隠しておるゆえ、紹介がなければ相まみえることすら叶わぬと聞く」


「え、あぁ、そうなんですか」


「そうでなければ生き残れぬのだろうな。が、左様な者からいかにして右目を奪えというのか……遠近殿を使うといえども、いずこで……そも、遠近殿はなにゆえああ動じて……」


 ぐぅ、と死にかけのカエルのように呻き、侍は頭をわしわしと掻く。鶴屋はもう一口湯を飲みながら、その様子を眺めていた。コジロウの忙しない動きには、悩みの深さがありありと表れている。だが彼の悩みは、鶴屋のそれよりずっと前向きなものに違いなかった。


 総長の課題をこなすことに、コジロウは疑問を抱いていない。隕石を譲れと迫ったときも、マントルの元に潜り込んだときも、ニーナに指輪を替えさせたときも、侍には一切の迷いがなかった。


「総長の課題から逃げる」という選択肢を、彼は初めから持っていないのだ。おそらくそれが、あの覚悟の出どころなのだろう。侍のそんな猪突猛進が、鶴屋には心底恐ろしかった。


 コジロウはまだ呻きながら、抱えた頭で思案しているようだった。目の前の課題にどう立ち向かうか、それだけのために悩んでいるのだ。他人の右目を奪う方法を、全力で模索しているのだ。


「その、右目を奪ったとして、そこに責任はないんですか」


 恐怖と共に生まれた疑問を、鶴屋はこわごわと口に出す。コジロウは頭から手を離し、顔を上げた。「責任?」訊き返す声は掠れている。


「いや、なんていうか……責任、取らされちゃうんじゃないかなって。人の目なんてもらっちゃったら、こう、報復がありそう、というか」


「あぁ」どんよりとした顔に、さらに暗く影が差す。「それは、あるやもしれぬな」


「怖くないんですか?」


 コジロウがピクリと片眉を上げた。暗い瞳に捉えられ、鶴屋は後悔する。まずい。こんなことを訊いては、迷いがあると気づかれるか? 怖気づいているのは確かだが、コジロウと対立したくはない。


 違うんです、と慌てて言い訳しようとすると、口を開く直前で遮られた。


「怖い」


 表情を動かさず、コジロウは端的に答えた。いつになく自然な、澄んだ声色だ。何も言えなくなる鶴屋に向け、侍は続ける。


「されどこれを成さねば、それがしは生きていけぬのだ。それがしは弱い。弱き者がひとりで生き永らえられるほど、このうつし世は甘くない。なれども、人はいつの世も強き者のみを欲するものだ。ツルヤ、おぬしも分かっておろう」


 澄みきった声は重く、何かを試すように響く。答える代わりに、鶴屋は息を吸い込んだ。膨らんだ肺がジリジリと、焼けつくように痛み出す。


 弱者がひとりで生きられるほど、この世の中は甘くない。不採用通知の文面が、蘇っては消えていく。弱者が簡単に「ひとり」を脱出できるようにも、世の中は作られていない。それは鶴屋がこの就活で、痛感させられてきたことだった。


「かように苦しみ続けねば、生きていくことすらあたわぬのよ。それがしは」


 はは、と乾いた声でコジロウは笑った。眉間にシワを寄せ、下瞼を弓なりに歪め、右頬だけを無理やり上げて、不自然な笑顔を作っている。彼の苦しみが、人生のすべてが詰め込まれたような、弱々しく不安定な表情だった。


 その痛々しさを直視できず、鶴屋は俯いて白湯を啜る。まぁまぁいいじゃないですか。それなら強くなりましょう! そんなに弱くもないですよ。どれもやっぱり、口に出せない。まして「課題は諦めましょう」とは、口が裂けても言えそうになかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る