第24話 喧嘩を食わされる犬のきもちは
夜の裏路地に光はなく、透明な黒に覆われている。汚れたアスファルトを革靴で踏むと、コツ、と響きのない音がした。コツ、コツ、コツ。この数日ですっかり覚えた道順を、また忠実になぞっていく。
夜風が絆創膏を撫で、できたばかりのかさぶたに冷たさが滲んだ。その痛みと夕食前の空腹に呻きつつ、鶴屋はチラリと目を上げる。サ、サ、サ、と草履を擦って、コジロウは三歩前を進んでいた。
揺れる長髪を眺めてから、視線をさらに上にずらす。前方には、見慣れたビルの外壁があった。コツ、コツ、サ、サ、それぞれの足音を引き連れて進む。外壁のヒビがくっきりと見え、銀のドアノブが一メートル先に迫ったとき、扉が開く。
「遠近殿!」
コジロウの声が周囲の壁に反響する。扉の奥から現れた金髪が、しぶしぶ、といった速度で振り向いた。
「お前らは、学習するってことを知らねぇのか?」
サングラスが鼻先に下ろされ、素朴な両目がギロリと光る。聞こえよがしに溜め息をつき、遠近は自らの首を撫でた。よく磨かれた革靴が、威嚇するようにアスファルトを打つ。
「何回来ようが、どんな風に訊こうが、俺の答えは変わらねぇよ。殺し屋のことなんか俺は何ひとつ……」
「おっと!」侍の手が、遠近の嘘を遮る。「左様な
「何?」
遠近の眉がピクリと跳ねる。驚きと疑いの中に、わずかな怯えの色が見える……と、鶴屋は思い込むことにした。ほれ、とでも言うように、コジロウの肘に脇腹を突かれる。押し出されるように一歩前に出て、唾を食道に流し込んだ。
遠近の目が音もなく動き、絆創膏を一瞥してから鶴屋の両目に照準を合わせる。恐怖に肺がギリリと縮むが、眼前の男に対抗できる唯一の武器は、既に鶴屋の手中にあった。
大丈夫、大丈夫、大丈夫、大丈夫。自分自身に言い聞かせつつ、遠近と視線を合わせてみる。遠近の表情は威圧的な闇を帯びていた。鶴屋は怯えて背筋を丸め、それでも視線は逃がさないまま、冷えた空気を肺に取り込む。いつの間にか噛みしめていた奥歯を、ゆっくりと離す。そしてそのまま、唇を開いた。
「今日、溝口に遭遇しました」
遠近の瞳が一瞬、揺れた。確かな手応えに左胸が脈打つ。生まれた隙に食らいついていく。
「溝口はあなたと面識がある、様子で、あなたを連れてこいと要求してきました。あなたが自分に会いに来るなら、総長に身柄を引き渡されても、ころ、殺されてもいいと」
目の前の顔が青ざめたのが、暗がりの中でもはっきりと分かった。一歩後ろのコジロウが、今だ、と視線を刺してくる。ワイシャツの腹を右手で握り込み、鶴屋はなるべく真っ直ぐに、遠近を睨んだ。
「あなたは嘘を、ついてるんじゃないですか」
遠近もまだ、鶴屋を睨み続けている。だがその鋭い目の下で、前歯が下唇を噛んでいた。
「嘘をついているなら、溝口に、会ってくれませんか」
鶴屋がそう言い終えたとき、ひゅう、と掠れた風の音がした。だが風の感触はなく、それが溜め息の音だったと分かる。遠近は唇を閉じ、片手でこめかみを押さえた。その仕草は、いつになく人間的に見える。凄味も迫力も失われた、ひどく等身大の姿だ。
「俺に会わせるのと引き換えに、右目を取り上げるつもりなのか」
そうして絞り出された声には、深い諦めが表れていた。サングラスを睨む目元から、鶴屋は慎重に力を抜く。裏路地の闇も遠近の金髪も、今は脅威に感じられなかった。
踏み出していた一歩を戻し、コジロウの隣にまた並ぶ。チラリと横目で見上げると、侍は人形のように遠近を見ていた。期待、歓喜、緊張、不安、それらのどれをも読み取れる、張りつめた表情だ。その青白い唇が、開かれる。
「左様にござる」
「馬鹿げてるな」
返された言葉は強かったが、その口調は疲弊していた。こめかみを押さえていた手が、金髪を掻く。ひゅう、とまた音がしたが、今度は溜め息に本物の風が重なっていた。
「ちょっと、考えさせてくれ」
そう言うと、遠近は逃げるように踵を返した。遠ざかる金髪が風に揺れる。遠近の背は普段より少しだけ曲がっていて、どこか弱々しく見えた。安心と不安を同時に覚え、鶴屋は再び侍を見上げる。遠近の耳に届かないよう、声量を絞って問いかけた。
「考えて、いい返事をしてくれますかね」
「さてな」
コジロウは即答する。しかしその横顔には、粘ついた炎が宿っていた。
「色好い答えがもらえねば、幾度でも幾度でも請うまでのことよ」
鶴屋は何も返さず、視線を前に戻した。冷たい風の中、遠近のシルエットは少しずつ小さくなっていく。こっそりとついた溜め息が、コジロウに聞こえていないことを祈った。
*
ふと気がつくと、中学校の理科室にいる。
黒くざらついた机の上に、A3のプリントと顕微鏡、プレパラートが並んでいる。左から教師の声がして、鶴屋はぼんやりと顔を上げた。スライド式の黒板に、何やら文字と図が並んでいる。しかし鶴屋にはどうしても、それらを読み取ることができない。そのうちに「始め」と号令が飛んで、瞬間、激しい焦りを覚える。
左隣と向かい側には、制服を着たクラスメイトが座っている。彼らは一言も声を発さず、黙々と作業を進めていく。顕微鏡をコンセントに繋げ、レバーやら何やらをぐるぐる回してレンズのピントを合わせている。
鶴屋もそれに続こうとするが、プラグがコンセントに挿さらない。席に備え付けのコンセントの穴が、どういうわけか大きすぎるのだ。大きな丸い穴がひとつ、ぽっかりと空いているばかりで、プラグの形とどうしても合わない。これではいけない、と焦りが強まる。しかし教師には助けを求められないことを、鶴屋はなぜか知っている。
向かいに座るクラスメイトが、プリントにスケッチをし始める。隣のひとりも、教室の反対の端のひとりも、カリカリとペンの音を立てる。一体何を描いているのか? 慌ててキョロキョロしている鶴屋を、顔の見えない誰かが笑う。遠くから呆れたように見ている。その笑い声と視線たちだけはなぜかリアルに感じられ、全身を覆うように迫ってくる。
鶴屋はいよいよパニックになり、足元に転がるゴルフボールをコンセントに嵌める。すると顕微鏡がたちまち電子レンジに変わり、自分が今、パジャマ姿であることに気づく。これでは駄目だ、早く制服に着替えなくては。そう思い電子レンジを開き、プレパラートを慌てて加熱し始めたところで、ドゴ、と視界がブラックアウトした。
「……いっ、てぇ……」
乾いた喉で呻きつつ、左の脇腹をさする。埃っぽい布のにおいがして、徐々に意識が明瞭になる。ここは理科室ではないようだ。見慣れた古い天井と、すっかり馴染んだ布団の感触に安堵する。
何やら悪夢を見ていて、夜中に目覚めてしまったようだ。はぁやれやれ、一旦トイレにでも行くか。そう考えつつ上体を起こすと脇腹が痛む。まったく困ったもんだよな、ともう一度手でさすってみて、ふ、と思考が覚醒する。
なぜ、脇腹が痛むのか?
「おはよう、鶴屋くん」
視界にぬるりと、平凡な顔がフレームインした。
「ぅわあっ!?」
「なッ、何奴!?」
鶴屋の叫びに目が覚めたのか、隣のコジロウも跳ね起きた。浴衣の帯に手を添えて、眠たげな目つきで周囲を見回す。しかし当然、寝起きの帯に物干し竿は差さっていない。侍の滑稽な挙動に合わせて、軽薄な笑い声が降る。
「あーあーもう、ちょっと起こせれば良かったのにな」
鶴屋は慌てて手を伸ばし、枕元に置いた眼鏡をかけた。視界のピントを確かめる間もなく顔を上げる。深夜の闇にぼうっと浮かぶのは、例の殺し屋の顔だった。
ハッとして窓に視線を移す。狭いベランダに続くサッシは、あっけなく全開にされていた。閉じられた薄いカーテンが、夜風にサラサラと揺れている。
「み」声を出そうと意識する前に、声が出ていた。「溝口、さん。なんで、ここに」
名前を呼ぶと、溝口はゆっくりと鶴屋を見下ろした。その瞳はやはり、深い紫を湛えている。「溝口!?」とコジロウが声を裏返すが、殺し屋の視線は動かなかった。
「一応、確認しておこうかなって。君がちゃんと、遠近に話を通してくれたか」
「確認……」
鶴屋はそう繰り返しつつ、額の絆創膏に触れた。夕方につけられたばかりの傷は、まだまだ治りそうにない。あの公園での出会いから、一日も経っていないのだ。確認するには早すぎるのではないか? それもわざわざ、こんな夜中に。湧き上がる恐怖と苛立ちに、上下の犬歯を擦り合わせる。そんな鶴屋の心情を察したのか、溝口はふっと鼻で笑った。
「あんな風にして脅された奴が、すぐ動かないわけがないだろ。それにおれはさ、待ちきれないんだ。早くあいつと再会したくてたまらないんだよ。若者の脇腹を蹴りつけてでもいい報告が聞きたいわけ」
絆創膏に触れていた手を、また脇腹に持っていく。やはりこの痛みは、溝口の手に……もとい、足によるものだったか。苛立ちが恐怖を上回り、ゴリ、と歯茎が鈍く痺れた。とはいえ、殺し屋に「で?」と急かされて無視できるほど強くはない。
「遠近さん、に、話はしました。それで……か、考えさせてほしい、と」
「『考えさせてほしい』?」
溝口の語尾が大袈裟に上がった。寄せられた眉からは刺すような怒りが見て取れる。しまった、正直に答えてはいけなかったか。面接会場にいる気分になり、鶴屋の頭頂から血の気が引く。慌てて否定しようとするが、それを遮って紫の目が迫ってきた。雪のように白い人差し指が絆創膏をぐりぐりと押す。
「考えさせてほしいって、そんな甘えを許したのかい? 信じられないな。それでいつまでも返事がなかったらどうするつもりなんだ。あいつに会えなきゃ、おれは君らの頼みなんかこれっぽっちも聞いてやらないよ。分かってるのか?」
傷を抉られるような痛みに、鶴屋の目尻に涙が滲んだ。反論しようにも、紫の目に射すくめられて声が出せない。絆創膏に血が滲み、嗚咽めいた呻き声だけを漏らしていると、
「と、遠近殿には!」
隣から声が飛んできた。鶴屋は反射的に視線を回す。無視されていたコジロウが、鼻に汗を浮かべて立っていた。長髪の毛先は跳ねているが、その目はすっかり覚醒している。
「遠近殿には必ずや、溝口殿に会うていただく。それを果たすまで、それがしは決して諦めぬつもりだ」
額から、指が静かに離された。痛みの名残が生温く広がり、鶴屋は絆創膏をさする。溝口は眉から表情を取り去って、そこに立つ侍を見上げていた。
「本当だな?」
発された声は迷いのない、真っ直ぐな響きを帯びていた。威圧的だが、どこか幼くも感じられる。コジロウは自信なさげに瞬くと、顔の青白さを隠すように頷いた。
「本当だ」
「……そうか」
溝口の無表情から、力が抜けるのが見えた。「期待してるよ」と続ける声にも、さきほどのような圧はない。侍に頷かれて安心したのか? だがそれにしても急激すぎる変化に思え、鶴屋は首を傾げた。カーテンの奥から吹き込む風に鼻をすする。
溝口も遠近も、相手のこととなった途端にひどく不安定になる。そこから窺える何らかの事情が、鶴屋にはどうしても気になった。「彼奴らにいかな事情があろうと、それがしらはただ己の務めを果たすのみ」。コジロウはそう言っていたが、やはり知らずにいるのは怖い。
訳も分からないいざこざのせいで、彼らの事情を知らないせいで、もしひどい目に遭わされたら。考えただけで吐き気がして、とても落ち着いていられなくなる。
鶴屋は目だけでコジロウを見た。侍はゆっくりと、頷きから顔を上げるところだ。そのホッとした表情に心の中で謝ってから、焦りのままに口を開く。
「何……が、あったんですか」
溝口の顔が鶴屋に向いた。力が抜けてもなお暗い真顔に、ナイフの冷たさを思い出す。コジロウからも疑うような視線を感じた。淡い後悔が脊髄に走るが、これもまた「何が?」と急かされる。「やっぱりナシで」なんて弱気は、到底見せられそうになかった。記憶の中のナイフに脅され、鶴屋はそのまま質問を続ける。
「と、遠近さんとの間に、何が」
震えた声が空中を漂う。鶴屋は強く瞼を閉じて、再びゆっくりと開いていった。溝口へ目を上げてみる。殺し屋の持つ紫は、暗さを増しているように見えた。数秒前から何も変わっていないようで、どこか深くが決定的に、変わってしまったようにも思える。
「なるほどね」
底の見えない真顔のまま、溝口はそう呟いた。そして音もなく床に座り込む。ふぅ、と芝居がかった息をつき、「いいよ」と一言、簡潔に答えた。
「こうして、赤の他人にバラしてやるのも悪くないかもね。あのクソ野郎の所業は」
吐き捨てる声は、どこか楽しげでもあった。殺し屋の空虚な笑顔を見てから、鶴屋は侍に目を移す。コジロウはただぼんやりと、溝口の頭を見下ろしていた。彼が今、一体何を思っているのか。鶴屋には分からないし、あまり考えたくなかった。
「じゃあ、そうだな」
溝口が声を低くする。カーテンの外は、濃紺の夜に沈んでいる。
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