第2話 星の欠片はキラキラ光る

 この日ノ本の国にはもはや、侍はいないと思っていたか。


 思っていたなら間違いだ。侍は確かに生きている。今まさに、この街に生きて存在している。年の頃なら二十六、身の丈およそ五尺九寸。日ノ本最後のまことの侍、その男の名はコジロウといった。


 コジロウは、街の裏路地に生きている。住んでいるという意味ではない。裏路地に生きていくことを、武士道に誓って決めているのだ。


 暗く乾いた路地の世界には、犯罪的な仕事が溢れる。盗みに詐欺に密造密売、その他みみっちい罪の数々で飯を食う者が何人もいる。コジロウは彼らの下請けの下請けの下請け程度の仕事でもって、その日その日を生き抜いていた。


 とはいえそんな生活は、正直に言って貧しいものだ。小さな仕事とわずかな報酬、頼れる相手もない孤独。そんな生活が侍の気高い魂を蝕み、誇りに傷をつけていた。


 だが、そう簡単に環境を変えることもできない。なす術もなく惨めで孤独な暮らしを続け、ガスが止まるか止まらないかの瀬戸際を生き、理不尽な客に踏みつけにされ鼻で笑われ恐喝され、そうして先月腹を壊してたったひとりで涙して、コジロウはついに決意した。


 裏路地の、「総長」一行に加えてもらうのだ。


 暗い路地を行く者たちは、多くの場合徒党を組む。詐欺グループから薬物密売組織まで内容はさまざま違いがあるが、それらのほとんどは小規模で凄味のないものだ。


 しかし、「総長」一行は違う。彼らは一様に堂々として、怜悧な視線で他者を蹴散らし、統率の取れた動きでもって財産をみるみる吸い取っていく。彼らはまさしく勝利者であり、彼らを従える総長こそは、街の裏路地の王者であった。


 時折盗み聞く噂によれば、総長は素晴らしい人格者であり、どんなにおかしな者であろうと慈悲深い目で受け入れるらしい。金と仲間とあたたかさ。コジロウの求めるすべてのものが、総長の元に集まっているのだ。


 コジロウは苦労に苦労を重ね、「総長の右腕」と呼ばれる男に接触した。総長への謁見を懇願し、初めはあっさりと跳ねのけられたが、毎日毎日欠かすことなくしつこく頭を下げ続けた。土下座し大泣きしスネに取りつき、三週間ほど続けたところで右腕はいよいよ耐えかねたのか、総長に話を通してくれた。そしてコジロウは念願叶って、王者にまみえる機会を掴む。やはり総長は噂通りの、寛大な人物であったのだ。


 侍の土下座を見た総長は、ほぅ、と柔らかな吐息を漏らした。そうして数秒考え込むと、期待の目を上げるコジロウに、これだけ告げて去ったのだった。


「宇宙に浮かぶ大きな星の、キラキラ光る欠片を持ってこられたら、お前を仲間にしてあげよう」


 総長の声は低く澄み、コジロウの知るどんな声よりもあたたかかった。遠ざかる伸びた背筋を見ながら、侍は固く、固く誓った。必ず星の欠片を手にして、総長の元へ戻ってくると……。


 *


「……と、こういったいきさつであるわけだ」


 長々と語り終えてようやく、侍は座卓の湯呑みを掴んだ。ズズ、と優雅に音を立てるが、飲んでいるのは味のない白湯だ。


 鶴屋も湯呑みを手にしてみたが、中身はとっくに空だった。あぐらをかいたふくらはぎが、ジンと疲労に痺れている。古びて傾いた小さなアパート、もとい「長屋」の六畳一間に沈黙が降りる。


 何だ、その変な話は。


 鶴屋の感想はそれに尽きた。目の前に座るこの侍、コジロウがした身の上話は、それほど突飛だったのだ。現代に侍がいるということ、この街に「裏社会」があるということ、侍が犯罪を手伝っていること、「総長」という謎の人物。すべてが浮世離れしていて、何ひとつとして信じられない。中でも特に信じがたいのは、ひどくメルヘンなラストの台詞と、侍がそれをすっかり真に受けていることだ。


 総長、が言ったという台詞。それを聞いたとき、鶴屋はひとつの古典を思い出していた。いつかの古文の授業で習った『竹取物語』だ。


 竹から生まれたかぐや姫は、絶世の美女に成長する。そして多くの求婚を、無理難題で突っぱねるのだ。「仏の御石の鉢」、「蓬莱の玉の枝」、「燕の子安貝」……到底手に入れられない品を指定して、「持ってきてくれたら結婚します」と男を追い返す。


 コジロウと総長のやりとりは、これとまったく同じに聞こえた。要するにきっと総長は、侍の懇願を冗談交じりにあしらったのだ。それをコジロウが素直に受け取り、たまたま隕石が飛んできたために、こんなことになっているのだろう。ちょっと間抜けな話すぎて、反応に困った。


 はぁ、と密かに溜め息をつく。今日という日は一体どうして、こんなことになってしまったんだろう。今朝目を覚ましたときにでも、異世界へ転生してしまったのか? いっそ、そうであってほしい。


 混乱のせいか、犯罪者の家に泊まる恐怖も薄れていた。年季の入った壁の黒ずみに、どこか安心を感じてさえいる。今の鶴屋が怖いのは、そんな自分自身だった。


「どうだ。この次第を聞けば、それがしに隕石を譲ってよかったと思うであろう?」


 コジロウは湯呑みを口から離し、卑屈な笑みを浮かべて言う。分からないことだらけだが、それはその通りでもあった。コジロウの身の上はかなり寂しい。その生業を差し引いても、同情せずにはいられなかった。空っぽの湯呑みを座卓に下ろすと、カツンと安い音がする。


「そう、ですね。なんか、すみませんでした」


 それにそもそも、隕石なんか欲しくはないのだ。白湯を飲んだおかげで、鶴屋は冷静になっていた。なぜあんなにも隕石に執着していたのか、もう自分でも分からない。


「その……でも、ありがとう、ございました。こうやって泊めていただいて」


 そして感謝をモゴモゴと口にし、頭を下げる。侍が侍である理由とか、身の上話が事実なのかとか、気になることはいくらでもある。が、今は何よりも礼を言わねばならなかった。お辞儀をすると、謎だらけの侍は頭を掻く。


「あ、いや、うむ、気にするでない。この欠片の恩もあるゆえな」


 その語尾が消えた途端、部屋にはすっと沈黙が流れた。六畳のワンルームには物が少なく、殺風景が気まずさを引き立てる。プラスチックの座卓は少し欠けており、板張りの床には濃い染みがいくつも残っていて、どこを向いてもみすぼらしかった。壁掛け時計がカチカチと、沈黙の長さを示している。


 追いかけっこをしたとはいえ、ふたりは今日が初対面だ。そんな彼らが面と向かって過ごすのは、さすがに少し無理があった。鶴屋が袖で眼鏡を拭き、コジロウが白湯をズズズと啜り、ふたりで無意味に部屋を見回す。見回しながらそれぞれパクパクと言葉を探して、やがて「そうだ」と声を出したのは、侍・コジロウのほうだった。


「食わぬか、夕餉」


「あっ、あぁ」鶴屋はモゾモゾと座り直す。「えっと、いいんですか、そんな」


「無論、構わぬ。大したものは振る舞えぬがな」


「いえ、それは全然。あの、大丈夫、なので」


 実のところ、鶴屋の腹はペコペコだった。朝食も食べずに家を出て、昼はスーパーの菓子パンで済ませ、そのエネルギーも面接で使いきってしまったのだ。不審な侍の食事だろうと、食べられるなら何でも食べたい。


 お願いします、と頭を下げると、「う、うむ!」とコジロウはやけに嬉しそうに立ち上がる。「テレビでも見て待つが良かろう」そう言ってぎこちなくテレビをつけ、玄関側の台所へと走っていった。侍もテレビを見るのかと、鶴屋はポカンとする。


 ポカンとしつつ液晶に目を向ける。と、そこには見たくない光景が映っていた。歩道に広がる人だかり、瓦礫に刺さった大きな隕石。ヘリコプターからの映像は、SF映画の一幕のようだ。プロペラの音に負けないように、記者が大声で状況を伝える。周囲には大きな人だかりが……消防隊による住人の捜索が……近隣住民のパニックが……。


 鶴屋の脳には、どの情報もあまり入ってこなかった。やはり夢でも見ているようだ。それも、信じられないほどの悪夢を。うぅ、と呻き声が漏れる。シワの寄った眉間がズキズキと痛んだ。


 たまらずテレビから目を逸らす。すると、スーツのポケットが目についた。四角く膨らんだポケットには、スマートフォンが入っている。そういえば、と思い立ち、四角い機械を取り出した。


 こうして報道されているのなら、親から連絡が来ているかもしれない。切っていた電源を入れてみると、案の定母からメッセージが来ていた。『大丈夫!?』という文字列には、緊張感があるようにもないようにも見える。鶴屋は少し迷ってから、『大丈夫』とだけ返信した。


 だが本当のところを言えば、大丈夫なのは今だけだ。今日はたまたま宿を見つけて、夕食にさえありつけそうだが、この先はどうか分からない。コジロウは正直信頼できないし、できたとしても、いつまでもここにはいられない。なるべく早く次の家を見つけ、家財道具も新たに買って、日用品や服だって一から揃えなくては。しかしそのために就活を休めば、求人はみるみる減っていくだろう。


 悪夢のような混乱から覚め、鶴屋は現実に戻ってきていた。金銭、就活、衣食住。隕石や侍なんかよりよほど、こちらのほうが絶望的だ。


 こんなとき、少しでも友達を持っていたなら。面と向かって弱音を吐いて、助けを求められたなら。そう思わずにはいられなかったが、思ったところでどうにもならない。


「君って、明るくないんだねぇ」


 数時間前、面接官に言われた台詞だ。社会に必要とされているのは、明るく爽やかな若者らしい。しかし鶴屋は昔からずっと、暗くジメジメと生きてきた。小学校の出席確認でも大きな声で返事はできず、クラスメイトに話しかけられてもなかなか笑顔を見せられず、気づけば完璧に孤立していて、誰からも遠巻きに見られていた。


 中学、高校の六年間でも同じ流れを繰り返し、繰り返すたびに暗さは増して、暗さが増すほど孤立は深まった。同級生みんなを下の名前で呼ぶ男子にも「鶴屋くん」と呼ばれたし、マラソン大会中に存在を忘れられ、最後尾でゴールしたときには学年主任が「閉会の挨拶」を行っていた。数学の宿題の範囲を聞き逃し、泣く泣く教師に尋ねたところ「そのくらい友達に訊きなさい」と門前払いされた記憶には今もときどき苦しめられる。


 もしも自分が明るかったら、こんな思い出に涙を流さずに済んだのか。もしも自分が明るかったら、頼れる友人ができていたのか。もしも自分が明るかったら、早くに内定をもらえていたのか。隕石が落ちても困らなかったのか。さっきの気まずい沈黙も、上手く切り抜けられたのか。


 今こんなにも疲れているのは、社会が求めているものに、自分が応えられないからか?


 プツ、と、テレビの音が消えた。


 突然の静けさに、思考の底から引き上げられる。顔を上げると、リモコンを手にしたコジロウが鶴屋を不安げに見下ろしていた。


「いや、面目ない。かようなもの、おぬしには苦しいばかりであったろう」


「あ……」


 鶴屋は面食らう。この侍に気遣われるとは、まるで思っていなかったのだ。気づけば、部屋にはもやしの匂いが漂っている。


「す、すみません。今のは普通にその、俺がチャンネル変えれば良かった、ので」


「否! おぬしのせいではない!」


 コジロウは細い手のひらを突き出す。思わず仰け反る鶴屋をよそに、侍は両手で頭を抱えた。


「それがしはいつもこうなのだ。何につけても事を急いては空回り、平謝りに次ぐ平謝り。まっこと、情けなきことよ……」


 その声はみるみる小さくなり、消えていった。見せつけられたネガティブ思考にどんな反応をするべきか、鶴屋にはやはり分からない。


 どうしたものかと考えていると、苦いにおいに鼻腔を突かれた。嗅ぎ覚えのある、良い思い出のないにおいだ。ハッとしてコジロウの背後を覗くと、フライパンの載ったコンロの火が、消されないままで揺れていた。


「あ、あの、フライパン!」


「む!?」侍もキッチンを振り返る。「あっ、あぁ、消したつもりでおったのに!」


 コジロウは慌ててコンロに駆け寄り、ワタワタと火を止める。「焦げておる……」と嘆く横顔に、鶴屋は苦笑した。


 自分の暗さのことよりも、これからの生活のことよりも、あのフライパンの中身のほうが、今ははるかに気になっていた。


 *


「あの、どうするんですか? その隕石」


 鶴屋が訊くと、コジロウはニヤリと口角を上げた。手の中の欠片を大切そうに撫でながら、ふっふっふ、と気味悪く笑う。


 夕食後、ふたりはまた白湯を飲みながら座卓を囲んでいた。部屋に満ちていた気まずさは、ほんの少しだけ薄れている。


 もやしとちくわの炒め物は、確かに少し焦げていた。そのうえ味も異様に薄く、お世辞にも美味いとは言えなかったが、鶴屋にとっては何よりのご馳走だった。食卓の会話も当然のごとく弾まなかったが、そんなことはもう気にならなかった。炊けた米もかき込むと腹はすっかりいっぱいになり、心が緩んだ。生物はやはり、腹が膨れていなくては前向きな気分になれないらしい。


「どうするも何も、さっそく明日、総長へ捧げるに決まっておろう! 朝一番に出立するゆえ、今宵は早々に床へつかねばなぁ」


 コジロウもまた、前向きな喜びに浸っているようだ。その隕石さえ献上すれば「総長」一行に加えられ、惨めな生活とおさらばできる……と思っているのなら、この浮かれようも当然だろう。


 しかし、満たされた腹をもってしても、前向きになれない現実はある。鶴屋はどうしても、侍の前途が心配だった。


 侍はきっと、弄ばれただけなのだ。からかわれ、『かぐや姫』ごっこに付き合わされているだけだ。隕石を総長に捧げたところで、あざ笑われるか、困られるだけだろう。


 コジロウにしても総長にしても、なんだか哀れだと鶴屋は思った。誰も彼も皆、あの隕石の被害者だ。そうだ、あんな隕石、全人類に恨まれて然るべきなんだ。


「しっかしやはり、見れば見るほど天晴れな石よ。何かこう、目を見張るような妖気を纏ってはおらぬか? のう?」


 けれど、コジロウの喜びは止まらない。蛍光灯に欠片を透かし、ほれほれと鶴屋の鼻先に寄せる。が、鶴屋には妖気など感じられなかったし、この欠片が総長の指定に合っているようにも見えなかった。「キラキラ光る欠片」というには、これはあまりにも地味すぎる。多少光沢はあるものの、それは「キラキラ」にも「光る」にもまるで及ばないものだった。


「いやぁ……まぁ、そう、ですね」


 しかし、ここで侍を突き放せるほど冷たくはなれない。濁した調子で同調し、引きつった笑顔で頷いておく。が、コジロウはむっと眉間にシワを寄せた。


「さてはおぬし、分かっておらぬな? ほれ、もっとよく見てみぬか! この色艶、他にはふたつとないものぞ! ほれ!」


 硬い隕石がぐいぐいと、鶴屋の指先に押しつけられる。浮き足立った侍は、不安になるほど不用心だった。俺が持ち逃げしたらどうする? 困惑しつつ、鶴屋は隕石を受け取ってみる。


 ころころとした欠片には、消しゴムに似た重みがあった。が、特別重いということも、軽いということもない。特徴がなく、ざらついた感触と濃い褐色がちょっと目立つくらいだ。こんなもので、裏路地の王者に認められるとは思えない。


 溜め息と共に目を閉じて、何気なく隕石の表面を撫でる。こんなときどう反応すれば、楽しい会話ができるんだ? わぁっと声でも上げればいいのか? それはさすがに不自然な気がする。おぉ、と目を丸くしてみるか? そんな器用なことができれば、とっくに内定が出ているはずだ。ここで自然な反応ができないから、自分は明るくないのだろう。あの数学の宿題の範囲は、結局今も知らないままだ。


 ざらざら、ざらざら、落ち込みに任せて撫で続けるうちに、隕石は熱を持ち始める。こんなに温めていては、やっぱりコジロウに迷惑だろうか? だとしたら、一体どう言って返せばいいのか?


「お、おぬし」


 悩んでいると、コジロウの声が降ってくる。その語尾は少し震えていた。しまった、やはり迷惑だったか。欠片から指を離し、「す、すみません」と縮こまる。しかしコジロウの反応はなかった。これは相当怒らせたかと背中に冷や汗をかきながら、鶴屋は恐る恐る瞼を上げる。


 侍の顎が見え、唇が見え、鼻先が見え、目が見え、そして驚き、困惑する。


 コジロウの表情には、怒りなどただの少しもなかった。


「おぬし、それは」


 侍は唇をポカンと開き、瞼を大きく開いた顔で、驚きだけを見せていた。そしてそのままゆっくりと、鶴屋の手の中を指差してみせる。細い指先が震えているのを、鶴屋は見た。


 コジロウの驚きの理由は分からず、かといって、訊ける雰囲気でもない。震える指先に促されるまま、自らの手のひらに視線を下げる。


「……え」


 そこにはまたしても、夢の中のような光景があった。眼鏡を上げて瞬きする。


 満腹に落ち着いたはずの心が、ざわついていた。胸がどくどくと脈打って、脳の芯まで激しく震わす。信じられない、なんてものじゃなかった。隕石、侍、裏路地にかぐや姫、そのどれよりも現実感のないものが、手の上にあった。


 隕石の欠片はキラキラと、眩い銀色に発光している。


「これだ」


 コジロウの声は低く静かに、不気味な落ち着きを帯びて響いた。


「これがまさしく、星の欠片だ」


 鶴屋は目を上げる。侍の黒く乾いた瞳に、銀色の光が反射していた。

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