侍の星は光らない

山郷ろしこ

幕開け

第1話 さよならアパート、こんにちは侍

 鶴屋つるやが二次面接から帰ると、自宅が隕石に潰されていた。


 九月十三日、火曜日の午後六時半。雲ひとつない秋空は夕日に光り、今朝までは二階建てアパートだった瓦礫がれきの山を照らしている。


 灰色の瓦礫の中央には、ラグビーボール型の隕石が斜めに突き刺さっていた。アパートの裏には背の低いビルが建っており、屋上には丸く巨大な給水タンクが設置されている。隕石はそのタンクの五倍もの大きさがあった。凹凸の激しい表面は、ざらついた赤褐色をしている。夕焼けの緋色を反射して、尖った先端が輝いていた。


 鶴屋は今、何も考えられなかった。今日受けたのは就活を始めて五度目の二次面接で、初めての圧迫面接だった。手書きの履歴書をつつき回され、「もう結構です」と回答を遮られ、人身事故で四十分遅れた満員電車に一時間ほど揺られてようやく帰り着いた身体では、まともな思考などできなかった。


 目の前の光景は現実なのかとか、あの場でどう振る舞えば採用されるのかとか、これは本当に隕石なのかとか、どうしてこんなに晴れているのかとか、漠然とした疑問が現れては消えていく。それゆえにただぼんやりと口を開けて、野次馬に肩を押し退けられて、ひたすらに、巨大な隕石を見上げることしかできなかった。


 アパートの前には、既に人だかりができている。一一〇や一一九に連絡する人、スマートフォンをパシャパシャ鳴らして写真を撮る人、何やら悲鳴を上げている人、鶴屋と同じく、呆然として立ち尽くす人。人々はアパートの駐車場から歩道にかけて分厚く広がり、交通と視界を妨げている。


 やがて「見えねぇよ!」と誰かが怒鳴って、鶴屋の脳もようやくかすかな刺激を受けた。ぼやぼやと滲んでいた思考が、徐々に輪郭を結んでいく。


 そうだ、突っ立っていてもどうにもならない。気づかないうちにずれていた眼鏡を、指で押し上げる。視界のピントを合わせると、ほんの少しだけ冷静になれた。しかし同時に、胸の底から焦りが湧き上がってくる。眼前に広がる強烈な悲劇に、やっと感情が追いついてきていた。焦燥と不安と悲しみに急かされるまま顔を上げる。


 鶴屋の部屋は、一階の北端に位置していた。中央の部屋は悲惨だろうが、角部屋ならば無事なんじゃないか。そんな淡すぎる期待に縋り、背伸びする。が、人込みの背は案外高い。背筋を伸ばし、首を伸ばし、力の限りジャンプをしても、自宅は覗き見られなかった。つま先立ちをしたせいで、硬い革靴に横ジワが残る。


「何なんだよ、これぇ」


 思わず口から漏れた悲鳴を、誰も拾ってはくれなかった。無性に腹が立ってきて、鶴屋は奥歯を噛みしめる。


 自宅に隕石が落ちたとき、未来の社会人としてどんな態度をとるべきなのか? 大学のキャリアセンターは教えてくれなかった。お辞儀の角度やノックの回数なんかより、ずっと有用な知識だろうに。


 こうなれば、直接近づいて見る他ない。鶴屋はもはや正常な判断力を失っていた。苛立ちに任せて野次馬の海に踏み込み、立ちふさがる肩をリクルートバッグでかき分け、息も絶え絶えになりながら進む。整えた髪がボサボサになったが、そんなことはもうどうでもよかった。


 おぼつかない足取りで、人込みの先頭に躍り出る。そのまま前方へ首を伸ばすと、ふたつのものが目に飛び込んできた。


 ひとつは、ぺちゃんこに潰れた自宅。


 もうひとつは、アパートの裏から現れた人影。


 自宅が迎えた無残な最期は、衝撃的なものだった。大学入学から三年半、ささやかながらも快適な暮らしを送ってきた部屋が潰れているのだ。続かない自炊やカビだらけになる排水溝、初めてのひとり暮らしにありがちな思い出が津波のように押し寄せる。


 しかし、それでも、目は人影に引きつけられた。


 そいつはどこからどう見ても、「侍」そのものだったからだ。


 何が何やら分からなくなり、またしても呆然とする。鶴屋は当然、本物の侍に出会ったことはない。しかし目に映るその人物は、「侍」としか言いようがなかった。深緑色の着物に裾の擦り切れた袴、ひとつに束ねた黒い長髪。腰には何やら刀のような、臙脂色の棒を差している。


 隕石、ぺちゃんこになった自宅、三年半の思い出と面接官の薄笑い、それとそこにいる侍が、頭の中でぐちゃぐちゃに混ぜられる。現在と過去のすべてから、現実感がなくなっていく。


 薄い草履で砂利を踏みしめ、侍は歩道へ向かってきていた。人目を避けて身を屈め、両手をお椀の形に構えて、何か運んでいるようだ。彼は手の中を見下ろしたまま、鶴屋の正面に迫ってくる。このままでいれば衝突するのは確実だったが、鶴屋は動けなかった。激しい混乱と、自宅のベッドで癒すはずだった疲労が一気に押し寄せ、脳を圧迫していた。


 侍が来る。侍が来る。侍が来て、ぶつかる。


「うおっ」


 侍は短く悲鳴を上げると、その場にドンと尻餅をついた。両手に載せられていた何かが、高く宙を舞い歩道に落ちる。鶴屋はそれを見た。ざらつく赤褐色をした、イチゴのような大きさの塊。それは明らかに隕石の欠片で、侍は慌ててそれを拾い上げ、すぐさま走り去ろうとしていた。


 鶴屋はもうパンク寸前だった。一体何が起こっているのか? なぜ侍が隕石を持って行こうとするのか? どうしてこいつは侍なのか? 何かのコスプレか? まさか、本物の侍なのか? 本物の侍って何だ?


 ぐちゃぐちゃになった頭の中で疑問がじりじりと大きくなって、頭にぐんぐん血がのぼる。なくなった現実感の代わりに、苛立ちばかりが成長した。


 一体何の嫌がらせだ。どうして俺が、こんな目に遭わなくちゃならない? 俺が何をしたっていうんだ。自分を混乱させるすべてに腹が立って腹が立ってたまらなくなって、今すぐ叫び出したくなって、いつしか鶴屋の怒りはすべて、目の前の男に向いていた。


「あの!」


 喉から勝手に声が出る。背を向けていた侍が振り向いた。そいつは意外にも鼻が高く、さっぱりとした二枚目だ。しかし切れ長の目はひどく卑屈に怯えていて、整った顔にも侍のイメージにも不似合いだった。


 その怯えようを前にして、鶴屋も我に返る。自分はなぜ、不審者に声をかけている? そもそも自分は、どうしてこいつに苛立っていたんだ? 打って変わって冷静な疑問が頭を駆け巡る。混乱がさらに深まって、恐怖すら感じた。殴られたように頭が痛い。


 しかしだからといって、苛立ちが消えたわけでもなかった。ここで引き下がっては、今日という日のすべての不幸にひとつも反撃できないままだ。それはなんだかどうしようもなく、許せなかった。鶴屋は怒りをもう一度熱し、欠片を持った侍の手を指す。初対面の他人と話すのは大の苦手だが、今は怒りと混乱が勝った。


「そ、それ、うちの隕石……なんですけど」


 眼鏡の奥から視線を向けると、侍は後ずさった。隕石を胸元に引き寄せて、忙しなく目を泳がせる。そしてひと舐めした唇を開き、閉じ、また開いてからやっと声を返した。


「おぬしは、この長屋の者か?」


 いかにも「侍」然とした問いに、鶴屋はたじろぐ。なんてイタい奴なんだ。というか、この家は長屋だったのか? さらなる驚きに襲われるが、こうなってしまったからにはもう退けなかった。


 乱れた髪を撫でつけて、張り慣れていない胸を張る。他人に対して強気に出られた経験など、鶴屋にはただの一度もない。それでも、今だけはやらねばならない。根拠はないが、そんな衝動に駆られていた。


「そっ、そう、です、この長屋……に住んでる者です。いやじゃなくてあの……それ、うちから持ち出したん、ですよね? 勝手に。そういうのってなんか、あ、あんまり良くないと思うんですけど」


 意気込みの割には、頼りない反撃になった。恥ずかしさに頬が熱くなる。俺ってどこまで情けないんだ?


 が、相手には響いたようだった。侍はまたしてもたっぷりと間を置き、言葉を探す仕草を見せる。この隙を突いて奪い返せれば簡単だが、それをするには鶴屋は臆病で、そもそも隕石の所有者でもなかった。それでも怒りを燃やし続けていると、言葉が返ってくる。


「されど、かようなもの、ほんのひとかけではないか」


 その反論にも説得力は乏しかった。鶴屋はごくりと唾を飲み込み、反撃の台詞を必死に探す。この論戦に勝ったところでその先に何があるのかは、まったく考えていなかった。むしろ、考えるのが怖いほど後戻りできなくなっていた。


「ひ、ひとかけだからって、駄目だと思います。こういうのってその、重要な……研究資料、にもなると、思いますし」


「左様なことそれがしは知らぬ」


「いや、知らなくても、ですよ。だって、えぇとこの隕石が、宇宙の謎を解明する、かも、しれないんだから」


「宇宙の謎? それはいかような謎だ」


「え? それはその、あれ、ですよ、えと……ブ、ブラックホール」


「ブラックホール?」


「い、いいから返してください!」


「これで返す阿呆がおるものか!」


 そう怒鳴るなり踵を返し、侍は草履で逃げ出した。鶴屋は一瞬面食らってから、慌てて後を追いかける。歩道には向かい風が吹き、頭皮に嫌な汗が滲んだ。家に帰ったら、まずは最初にシャワーを浴びよう。いや待てよ、帰る家はもう潰れたんだった。あぁ!


 そもそもこんな状況で、自分はなんで走っているんだ。なぜ侍を追いかけなくちゃいけないんだ。侍って何なんだ?


 うっかり正気に戻りかけたが侍はひどく鈍足で、運動神経のない鶴屋でも少し頑張れば追いつけてしまう。袂を掴み怒りのままに引っ張ると、侍はよろめいて足を止めた。その悔しげな両目に向けて、鶴屋は大きく口を開く。


「かっ、返せって、言ってる、だろうが!」


 もっと格好がつくはずだったが、息が上がっていて締まらなかった。やっぱり今日はへとへとなのだ。「おぬしのものでもないくせに」と恨めしそうに睨まれても、もう言い返す余裕もない。


 手のひらだけを侍に突き出し、無言の催促をする。侍はやはり時間をかけて対応策を練ったようだったが、最後には従う素振りを見せた。握った欠片を、鶴屋の手の上に近づける。


「相分かった。おぬしがそうまで言うのなら、これはおぬしのものでよい」


 やけに落ち着いた口調で言い、侍は深く頷いてみせた。小さな欠片がゆっくりと、手のひらに向けて降りてくる。その赤褐色を見ながら鶴屋は、むなしい達成感に浸った。


 九月十三日火曜日、この最悪な一日に、これで一矢は報いただろう。この男がなぜ侍なのかは分からないけど、そんなことはもうどうでもいい。この隕石を取り返せるならなんでもいい。面接にはたぶん落ちているし、今日泊まる場所もないけれど、侍に勝てたならそれでいい。こうしてひとつひとつ、小さな成功を積み重ねることが重要なのだ。将来のためには……満ち足りた人生のためには……。


 と、あたたかな現実逃避に浸りかけたとき。

 

 隕石が突然、夕焼け空へ振り上げられた。


「なれば、これをそれがしに『譲って』くれぬか!」


「は?」


 差し込んだはずの淡い光が、途端に消えて真っ暗になった。侍は隕石を天高く掲げ、同時に深く頭を下げる。懇願と強迫が一緒になった、かなり無理のある体勢だ。しかし当然、その程度では鶴屋は納得しなかった。


 隕石があっても何にもならない。それでも絶対、隕石がなくてはやっていけない、今はもうそんな気分なのだ。子どもじみたトンチに負けてなどいられない。


「ふざけ……」


「その代わり!」


 ふざけるな、と言いかけたところで、侍が顔を上げた。さきほどまでとはまるで違った強気な表情で、眉をきりりと吊り上げている。そこには何か切羽詰まった感情が見え、鶴屋は思わず肩を跳ねさせた。黒い瞳で鶴屋を睨み、侍は続ける。


「これを譲ってくれるのならば、今宵、おぬしに宿を貸そうぞ。それがしの長屋には寝床もあり、なんと、風呂までついておるぞ」


 ぐ、と鶴屋の喉は詰まった。


 アパートは見るも無残に潰れ、ホテルに泊まるにも金は惜しく、実家へは飛行機で二時間かかり、誰かに宿を借りようにも、鶴屋には知人も友人も、ひとりたりともいなかった。


 それでもワイシャツは汗まみれで、足も棒だ。シャワーを浴びたい、湯船にだって浸かりたいし、柔らかい布団でぐっすり寝たい。この瞬間の鶴屋にとっては、近場のネットカフェなんかより不審な侍の自宅のほうがはるかに魅力的だった。急速に押し寄せる疲労の波に、理性を奪われる。


「わ、かり、ました」

 

 そ気づけば白旗を上げていた。パッと笑顔になる侍を見て、我に返る。自分は今、とんでもない選択をしたんじゃないか? 今さら不安がやってくるが、考えないようにした。少なくとも、要らない隕石を取り戻すよりは有意義な選択だったはずだ。たぶん、おそらく。


 それでは早速参ろうぞ! 侍は陽気に歩き出し、鶴屋もそれにトボトボ続く。長屋を離れるふたりの背後に、救急車のサイレンが響いた。


 この最悪な一日が、ここからどこへ向かっていくのか。これっぽっちも見当がつかない。

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