第6話 始まりの少女

 人生の中で一番寂しいと思えるのは生まれた瞬間なのではと思う。


 目が覚めてからというものの窓の向こうの空をずっと眺めている。本日の天気は雨、太陽の光こそ差し込んでいるが鈍色の空によって淡く照らされているだけ。ほんのりと薄暗さと寂しさが滲んでいるようにも見える。


 外の景色を見るのは趣味ではない、それ以外のことが出来ないだけ。息が詰まるような密室に産み落とされたわたしに最低限用意されていたのは、さっきまで横たわっていたベッド、机と椅子、後は机の上に置かれた一冊の本くらい。そのうえ唯一の娯楽になり得そうな本すらも白紙で何も記されていない。


 何故この場所が存在するのか、何故外の世界と断絶されているのか、何故わたしはここにいるのか。巡り巡る疑問の連鎖で自分の頭を振り回すのは心なしか高揚感すら覚える。

 延々と続く暇が遅効性の毒みたく精神を狂わせる中、考えるという行為は格別の娯楽であると気付くのにはそう時間は掛からなかった。


 思考は続く。何故わたしはセーラー服とスカートを着ているのか。何故この寝具の名前はベッドだと知っているのか。雨が降り続ける理由は何なのか、この空を飛べば何かが変わるのか。

 繰り返すが考えるという行為は格別の娯楽だ、だがしかし人はより楽を求める習性がある。


 そしてふと気づく。

 考えるより先に取り合えずやってしまえばいいじゃないか、と。それが一番早いことに気付いたわたしはじゃあ、とさっそく窓を開けて飛び降りようとした。すると、窓枠に足を乗せた途端自分の意思に反するように体が勝手に引っ込んで、何事もなかったかのように椅子へと腰掛けてしまった。


「……いったいどういうことだろう」


 不思議に思ったわたしは、それから椅子で窓を割ろうとしたり、床を叩いたり、とにかくこの空間で目に付いた物を全部壊そうとした。けれど残念ながら自分の意思に反して体が勝手に椅子を元に戻して腰掛け始めるのである。はたから見たら異常者だ。だってひとりでに物を振り回そうとしては、それが嘘みたいに大人しくなって机の前に椅子を置いて外の景色を眺め始めるのだから。


「ふふふ」


 それが妙に面白くて思わず部屋の中で小躍りした。小躍りしてまた面白くなってあはははと笑って、また椅子に座った。今度は自分の意思でだった。

 整備された庭園が広がっているのに行くことが出来ない。さっきみたく踊ってみたいのに行くことが出来ない。空を飛び交う白い鳥のようにわたしも雨の中を走り回ってみたいのに行くことが出来ない。

 欲というものは本当に際限がない。一度生まれると次から次へと湧き出てくる。そしてそれが消化しきれないと負の感情を生み出して心の中で暴れ回るのだと今更ながらに知った。


 胸のざわつきが怖くなったわたしはどうにか静まれとベッドの布団に包まってやり過ごそうとした。思考で頭を埋め尽くして別の欲で負を消化しようと考えたのである。しかし、どんなに欲で埋めても負はぽつぽつと現れて少しずつ他の欲を喰っていった。浸食するようにそれはより大きくなって、悲しみは目から透明な液体となって零れ落ちた。言葉にし難い感情だ、さっきまでの幸せが嘘みたい。


 どうか、どうか静まって。この怒りにも似た炎よ、雨を受け取って静まっておくれ。祈るように頭の中で何度も反芻する。


 この時までわたしは欲に飢えているのだと思っていた。けれど、ある一つの変化によって自分はとんだ思い違いをしていることに気付いた。


『ぐ、ぐうぅううううあああああああああああ』


 誰かの声がした。

 それは人の苦しみをそのまま吐き出したようなうめき声だった。どこからやって来たんだろうと気になったので耳を傾けるがそれ以降音沙汰ない。悲しみがまた帰って来た。


 しかし欲というものは一度得てしまうとやはり際限が無くなるらしい。どうか、どうかわたしを見つけてください、とついもう一度祈ってしまった。少しでも悲しさから逃げたい、虚しさから逃げたい、誰かの声が聞きたい。ほうらやっぱり際限が無い。


 ねえ、神様。どうかわたしを独りにしないで。

 わたしを誰かの元に導いて――


「ねえ」その時だった。

 密室の中にひんやりとしたそよ風が吹いた。何が起きたのだろうと思って風がやって来た場所を辿ってみると、目の前にあるのは何も記されていないあの一冊の本。いつの間にかわたしは机の前まで導かれて立ち尽くしていたのである。


『……僕の声が聞こえるかい?』


 密室の中で濁った声が反響し、男の人特有の低音がやさしく耳を通り過ぎる。風邪でも引いたのだろうか。何かしてあげられないのだろうか。弱弱しく息を漏らす彼に反して皮肉にもわたしの心は躍っている。


「あなたはだあれ?」

『僕はただの旅人さ。目に付いた景色を紙に書き記しているんだ』


 旅人さんは何度か咳払いすると、少しずつ潤いを取り戻したのか凛とした声だった。


「いいなあ、わたしは外に出られないから」

『外に出られないのかい? どうして』

「わからない、窓から飛び降りようとしても体が勝手に止まるの。わたしじゃないみたいに」

『危ないな、今すぐ止めた方がいい。高い所だったら死んじゃうよ?』


 死ぬ、という言葉が頭にこびり付いた。

 生きているということは、いつか死ぬということ。そんな当たり前も忘れていたことが少し怖くなった。


『……やっぱり外には出ない方がいいんじゃないかな』

「どうして?」

『きっと外に出てはいけない理由があるんだよ。例えば君の周りで危険な事が起きていて、外に出たら死んでしまうとか』

「……そっか、わたしを守ってくれていたんだね。この世界は」


 それにしたって窓を除いて一面壁しかないなんて非現実的だ。けれど男の人はわたしの生活を知るとどこか羨ましそうに『それでいいじゃないか』と弱々しく返す。

 そのか細い声が無性に気になって事情を深掘りしようとすると彼は渋った。どうしてと聞くとほんの少し震えた声で鳴いてすぐに押し黙ってしまった。


 わたしは最低なのかもしれない。彼の不幸を知ってわたしの心がまた躍り始めたのだから。

 欲というものは本当に際限がない、知りたい、何とかしたいという欲は簡単に理性という防波堤を壊してしまう。始めて出会った誰かだというのに、彼の思考や世界に夢中になってしまったのである。


「貴方の世界を教えて」

『やめた方がいい。人様に教えられる内容じゃない』

「大丈夫よ、わたしが知りたいんだもの」


 彼は重い口を開けた。その内容は外よりもずっと雨に塗れていた。


『僕の周りはいつしか血で溢れていた。ずっと独りで生きていくと思っていたのに、輪の中に入りたいって思っていたのに。自分の知っている人間がおかしくなってしまうと不思議なものだね。夢なんじゃないかって願いと夢であってくれという願いでどうにかなりそうになって、結局輪を作っていた人達から逃げ出してしまったよ』


 わたしの知っている世界とはまるで違う。人が人を殺すのは罪だと裁かれるのが今で、人が人を殺すのが賞賛されるのが彼の世界。


「不思議ね」

『何がだい?』

「痛いの」

『……何がだい』

「胸が痛いの」

『大丈夫かい!? 安静にしてた方がいいんじゃ』


 自分の事なんて顧みず休むことを促す彼をやさしい人だと思った。そうじゃないんだ、わたしがやりたい事は貴方の同情を引く事じゃないんだ。

 彼が苦しいとわたしが苦しい。彼が嬉しいとわたしも嬉しい。それなのにわたし達は他人で同一じゃない。自分の事のように錯覚しているだけだと突き付けられているようで。


「側にいさせて」

『……ごめんよ、僕は君がどこにいるのかわからない』

「じゃあわたしが行く」

『それは駄目だ。君を危険には晒したくない』


 それだけは凛とした声でそういうのだから、本当にそういう人なんだなと引き下がってしまう。


 生まれたばかりのわたしには彼がどんな思いでそう言ったのかわからない。誰かの血で溢れた世界というものがどれほどの悲しみを抱えているのかも知らない。

 ほんの少しだけの会話をしただけの仲なのに、これほどまで思い続けるのは自分でもおかしいと分かっている。けれど、彼もまたいつか死んでしまうんじゃないかと思うと気が気では無かった。


「貴方に死んで欲しくない」

『それだけで嬉しいよ。君は本当にやさしい子だ』


 繋がっていたい、言葉だけじゃなく心も。

 同じ景色を見れたなら、こんなどんよりした空も綺麗に見えるかもしれない。

 どんなに血生臭い現実が待っていたとしても、隣に誰かがいたなら、きっと――


 それからわたしはどうすれば外に出られるかを必死で探した。けれどこの世界は彼を除いて変化しない。やさしい拒絶だけが積み重なって自分の無力さを思い知らされるだけだった。夜がやって来ても変わらなかった。


『もういいんだ、君と話せるだけで十分だよ』

「駄目よ。まだ何かあるはずなの、試せていない何かが」

『時折聞こえるんだ君の苦しそうな声が。僕には君が何をしてるかわからない。だから怖いんだ、君がいなくなってしまうことが』


 そっか、彼は知らないんだ。

 手に持った木板の破片がコトン、と音を立てて床の上で倒れる。もう目は虚だった、気を抜けば簡単に倒れそうだ。周辺には家具の残骸達が散らばっている、部屋の中であれば何かを壊しても朝の時のように体が勝手に動くことも無かった。


 部屋の中であれば何かを変えられる。何かを変える方法をわたしは壊すこと以外知らない。

 だからわたしは試した。思いつく限り手を打とうとした。そして成功した。わたしの手は血で溢れていた。


 わたしは嬉しかった。この世界がどうなっているかを彼は知らない。ということは、わたしが死ねば何か変わるかもしれない。


 それはわたしにとって希望になった。

 煮えたぎる何かが産声を上げた瞬間だった。

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