第5話 失望の青年

 冷たい雫をまだかまだかと待ちわびて、滴り落ちたその時に乞食みたく口を開ける。水滴で喉を潤し、口の中の汚れを唾と共に吐き出す。暗闇の中は安心する、醜くかろうが誰の目にも触れやしないからだ。


『空は綺麗なの?』

「ああ、雲一つない晴れだよ」


 せめて彼女の気を引いていたいと嘘を吐く。今日も僕は醜くて冷たい現実から目を背ける。


 物心がついて最初に見た景色は、一面に広がる空の下、風と共に踊る木の葉達の姿だった。当時家で石のように動かなかった僕を心配したおばあちゃんが、外に連れ出したことが発端らしい。

 人が数えられる程度の小さな村で生まれた僕にとって、それはあまりに綺麗で自由な世界だった。


 それからは人が変わったように家の外の景色を眺め続け、歩けるようになった時には、ひとりでに外を出歩いては泥まみれになって帰って来たという。自分でも不思議な話だが、あの景色が見れれば他はどうでもよかったのだろう。辿り着くまでにどの道を歩いたのかなんてまるで覚えておらず、ただ頭によぎるあの景色だけを頼りに無意識に体を動かしていた。


 そんな圧倒的な大自然こそが僕にとっての神だと疑わなくなったのは、記憶というものを覚えてすぐだった。しかし童心というのは残酷な物で、年を重ねるにつれ、あれだけ執着していた神を記憶の端に追いやって、新しい神を探すようになっていた。


「お前って本当に何考えてんのかわかんねえよなぁ。誰かと遊ばねえの?」

「僕は良いよ。見てるだけで十分」

「ほんと、わっかんねえ。まぁいいや、じゃあな」


 家が隣同士、性別が同じというだけで絡んでくる同い年に顔をしかめて見せると、変な奴を見る目で後ずさりしてから奥で遊んでいる隣町の子供達に混ざっていった。

 言ってやりたかった、得体が知れないのはお前達の方だと。出会って直ぐに群れて、何が面白いのか汗水垂らして辛そうにしながらも笑いあう。付いていけない僕がまるで異物みたいじゃないか、それが酷く悔しかった。


 せめてもの反抗心で僕はまた新しい神を追い求めるようになった。咲き乱れる花畑で造られた天然の縞模様、雲一つない水色の快晴、青々とした山の群れ、その上から見下ろす故郷の姿……数えたらキリが無くなる程の絶景に天啓を見立て、寂しさを埋め合わせていったのである。


 そんな事をしているのは僕だけだと気付くのにはそう時間が掛からなかった。人の群れからあぶれてしまうのも同じだった。


「お前っていっつもひとりだよな」

「いいだろ、別に」

「ずっとひとりで面白いの?」

「?」

「不思議そうな顔すんなよ、だってお前人といるより楽しそうだし」


 特に反抗する言葉も思いつかなかったのでじと目で睨み付けると、意味がわからんとまた変な奴を見るようにして離れていった。隣人の少年は色恋に現を抜かす年頃になっていた。僕は相変わらず輪の中にいられず、外野から沸いてくる楽しそうな声を恨めしく睨み付けるだけだった。そんな僕を外野は怪訝な目で見るようになった。

 確かに自分だけが神に出会えるというのはいくらか優越感を満たしてくれた。けれど言葉に出来ない虚無感がふとした時にやって来て、誰にも神を知らしめることの出来ない事実に悔しさを覚えてしまう自分もいた。


 僕が止まっている間にも、彼らは進む。野原を駆けまわった子供達は、いつの間にか人に好意を抱き、互いに寄り添うようになっていた。


「好きな人が出来た」

「そうか。それは良かった」

「お前も良い人探せよ」

「……余計なお世話だ」


 また一つ置いていかれた。僕には今の方がずっと居心地が良かった。しかし、寂しさだけは最後まで拭うことが出来なかった。

 その時に一歩前へ踏み出せば良かったのかはわからない。ただ言えるのは僕がひとりで悔しさに打ちひしがれている間に、あれだけ楽しそうに笑い合っていた筈の人間達が、


「それ、何……」

「あん? 敵」

「好きだったんじゃないのか」

「いつの話だよ。これは戦争だぞ」


 思い思いに人を殺して回り始めたのである。

 革命だ、と彼らは高らかに宣言した。


「まーたお前は独りか」

「……君の周りには人が沢山いるんだね」

「ああ、羨ましいか?」

「……全くもって」

「そうか、俺は初めてお前が羨ましいと思ったよ」


 人もいて、同じくらい屍も沢山転がっていた。隣人の手は血で塗れていた。いつも着ていた布服は、返り血塗れの鎧に変わっていた。僕達の故郷は死臭と鉄の匂いで溢れてしまった。


「君はそれで良かったのか」

「ああ、俺の中の神に従ったからな。後悔はない、ふははは」


 彼女の首をその手に持ってもか。

 隣人はもうおかしくなっていた。ケタケタと笑っては、焦点の合わない目で僕のことを睨み付けていた。その痛々しい姿は、常人のそれにはとても見えなかった。


「お前も俺たちの仲間になれよ」

「……断る」

「ひとりだけ隠居だなんておかしいじゃないか。俺の神がそう言っている、人間はみな平等であるべきだ。平等を勝ち取る為には皆が戦わなければならない」

「そんなわけない、人は皆平等だ。平等だから好きなように生き、好きなものを想う。そこに誰かとの衝突は必要ない」

「じゃあ、革命なんて起きると思うか? お前の中に居るのはやはり神じゃなく、悪魔のようだな」

「狂ってる、君は狂ってるよ」

「狂ってるのはどっちだ? 神の為に生き、皆の為に生きるのが人としての幸福だろう」

「君が殺してその手に持っている首も、元は人のものだっただろう!」


 手を空高く伸ばし高笑いする様は、いっそどこかの宣教師のようだった。その実体は、戦争の火種を広げて血生臭い毎日に生きる異常者。しかし彼の言葉ひとつひとつに賛同者が、彼に豪勢な剣と鎧を与えてしまったシンパが、どうしようもない過ちを是とするのである。


「人かどうかは神が決める。それなのに、俺たちの神はコレを人とは認めなかったというのに、何故か俺達の上にのさばってるじゃあないか。取り返さなきゃあいけないよなぁ、奪われたものはさ」


 怒号のように称賛の声が響き渡る。殺せ、殺せと口にする悪魔達にふざけるなと反論してやりたかった。けれど何百人もの数が隣人に付いていれば、たかが独りの戯言なんて簡単に掻き消されるのもまた目に見えていた。

 現実が受け入れられず浮世離れした脳みそが僕にこの場所はまだ綺麗だと、やり直せると、今すぐにでも立ち向かえと囁く。冗談じゃない、血に濡れて誰かの悲鳴で溢れたこの場所が綺麗だなんてあってたまるか。


「人でありたいなら俺達と共に来い」

「い、いやだ」

「逃げるのか? 本当は誰かと関わりたかったんだろ? 知ってたんだぜ、恨めしそうにお前が俺達を見ているのはよ」

「ち、違う。僕は、僕はただ……」

「さあ、チャンスだぞ。お前の長年の夢を叶えるラストチャンス……さあ、さあ!!」


 気付けば僕は逃げ出していた。高笑いをする隣人は僕を追いかけることはしなかった。その代わりなのだろうか、記憶に留めていた自由の象徴は、いともあっさり炎に焼かれていった。咲き乱れる花畑で造られた天然の縞模様も、雲一つない水色の快晴も、青々とした山の群れも、僕の故郷も、全部誰かの崇めた神によって殺されてしまった。


「あ、あぁ……うわぁあああああああああああああ」


 新しい世界を追い求める過程はこれっぽっちも覚えていない癖に、生きる為の逃げ道だけは嫌という程記憶に刻まれた。道端で倒れる死骸の山も、風に乗ってやってくる死臭も、走れば走る程肺が潰れるような獣道で何日も情けなく喚き散らす自分自身も、二度と忘れないよう体に焼き付けているようにすら思えた。


「も、もうすぐ……誰も」


 身を隠す為の命がけの旅は、吐き気がする程順調だった。適当に見つけた森、森の中で適当に見つけた洞窟、その中で偶然見つけた人一人が入れる小さな隙間。どれも僕から悪夢を遠ざけてくれる。けれど心から痛みは消えやしなかった。思い出を燃やしていったあの炎に今もずっと炙られているのだ。


 どうしてなんだ教えてくれ、僕はいつもの日常に戻っただけの筈なんだ。綺麗な景色を探す為に野宿をしたことだってあった、ひとりになったことなんて数えきれない位だ。じゃあどうして。


 どうして今の僕には誰かの悲鳴しか、恨みしか聞こえないんだ。


「消えてくれ、頼むから消えてくれ!!」


 叫んだ所で消えやしない。卑怯者、裏切者、薄情者……死んでいった誰かや顔見知り達はさらに声を大きくしてあげつらってきた。暗闇の中なのに悪魔たちはハッキリと皆ゴミでも見るような目をしていた。


「ぐ、ぐうぅううううあああああああああああ」


 みんな嫌いだ。

 勝手に輪を作っていった他人も。

 僕を置き去りにしていった隣人も。

 そんな僕に勝手に嫉妬して地獄に堕とそうとした皆も。


 全部放り出して逃げ出した自分自身も。


「いやだ、ああああ。いやだ、もう何も考えたくない。全部嫌だああ、うわ、うわあああああ」


 握れるほどの突起物を拾って地べたに擦り付けた。記憶の断片を書き記そうとして地面を彫ろうとしたが固すぎてまるで手ごたえを感じなかった。それでも忘れてしまった神を思い出そうとひたすら書いて記憶を掘り起こそうとした。書き損ねて爪が抉れたような痛みを伴っても、最早上書きしてしまってるんじゃないかと疑心に揺れても、馬鹿みたいに書きなぐった。


「思い出せ。脳が千切れようとも、目が破裂しようとも、手がすり潰されても、絶対に、絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に」


 何が正しいのかなんてわからないまま、ひたすら自分の理想を土に刻み続けた。過去の記憶を思い出そうと、わざと頭が千切れるような痛みに追いやって、そんな自分に絶望してもう己なんてとっとと死んでしまえと憎みながらぐちゃぐちゃな記憶を刻み続けた。


 気の遠くなるような時間、それを続けた。


 そして、その痛みですら誰かの悲鳴を緩和できなくなって、自分のみじめさが最高に嫌いになって、いよいよ舌を噛んで死んでやろうと思ったその時、


『ねえ』


 奇跡は起こったのだ。


 女の子の声がした。かわいらしい、穢れを知らないような澄んだ声。

 声を上げようとすると、ビックリするぐらいにかすれた声が漏れた。相手に聞こえているかすら怪しい。『僕はここにいるッ。そこの君、返事をしてくれ!!』そう叫ぼうにもひゅう、と情けない音だけがわずかに漏れるだけ。


 そんな無様な姿を晒す僕を彼女は知っていたのかは分からない。けれど、彼女は確実に僕の耳元でこう言ったのである。


『貴方の世界を教えて』

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