太陽が沈むまで

利居 茉緒

太陽が沈むまで

寒い。

体の奥底から湧き上がってくる無上の苦しみ。全身に纏わりつく重み。肺と食道を侵す水。

苦痛は声にならず、衝動のままに手足をがむしゃらに動かす。時々掴めるものを見つけたかと思えば、それらは逃げるように私の手を振りほどく。それでも、私は手を伸ばした。静寂の中、孤独に泡を生み出し続けながら、この筆舌に尽くしがたい苦しみ、そして、体の芯から凍てつくような冷たさから解放されることを願った。

だからそれはもはや、最後の望みに近かった。

日焼けした肉付きのいい足が、視界の端に映りこむ。それはまさに、私にとっての蜘蛛の糸のようだった。

───どうか。どうか。ああ、神様、一度だけでいいから。

私はひどく動かしづらい体に力を入れ、重たく透き通る青色を掻き分ける。

「────、」

───掴んだ。私は強く、強くそれを握って、一気に水面へと浮き上がる───

開ききった瞳孔を貫く、夏の真昼の暑い日差し。あれほど憎かった水が、太陽の光を受けて美しくきらきらと煌めいて見える。私はまるで宝石に浸かっているような錯覚を覚えた。あまりの輝きに痛みさえ感じて、ぎゅっと瞼を閉じる。

「もう、何してるの?!痛いでしょ!」

長らくくぐもった水の音しか拾ってこなかった濡れた鼓膜が、誰かの文句によって震わされた。はたと声のほうを向くと、今しがた見たものとは非にならない程の輝きが視界をちらつき、すぐさま私は目を奪われる。そこには淡いオレンジ色の水着を身に着け、肩くらいまで伸ばした茶髪から海水を滴らせる少女がいた。彼女は背後から日光に照らされながら、丸くて大きな茶色の瞳を不満げに細め、ピンク色の浮き輪に乗ってぷかぷかと浮かんでいた。

私が感嘆と驚きに硬直して、言い訳もできずに視線を彷徨わせていると、突然彼女は表情をコロッと変えた。

「まあ、いいや。いつの間にかみんないなくなっちゃって、ちょっと怖かったんだ。そんなに遠くに来たつもりはなかったんだけど。」

二人でいれば安心だよね。そう言って笑うと、小さな手できらきら輝く水面をちゃぷちゃぷと鳴らした。

私は安堵やら感動やらがぐちゃぐちゃになったまま、彼女と一緒に笑みを浮かべた。

「・・・泣いてるの?」

しかし、自分では笑っていたつもりでも、彼女にはそう見えなかったらしい。きっと海水が目に入ったか、髪の毛から伝う水がそう見えただけのはずなのに、彼女はくるりと仰向けになると、あたたかくやわらかい手のひらで、私の冷たい頬を包んだ。

「冷たくて気持ちいいね。ずっと潜ってたの?あなたも泳ぐのが好き?」

それから指先で額に触れると、水を含んで重たくなった真っ黒な私の髪の毛を掻き分け、耳にかける。

ついさっきまで溺れていたなんて、とてもじゃないが私には言えなかった。私が静かに首を横に振ると、彼女は不思議そうな顔をした。

「ふうん、こんなところまで来たのに?」

今度は首を縦に振ろうとしたが、それはざぶん、という音に遮られた。

「───」

急に、彼女が視界から消えた。

あたりには静かでどこまでも続く青い空と海に、ポツポツと無骨な岩が乱立しているだけだった。

私は急激に寒さを感じた。そこで初めて、この水の冷たさを感じなかったのはきっと、彼女の気配が私を暖めていたからだと気が付いて───

また、ざばん、と音がした。水面が泡で白くなり、すぐに人影が現れる。

「わたしはねえ、すっごく得意!」

海水に髪を濡らして、彼女は得意げに笑っていた。

「学校でだって、泳ぐ速さも潜る長さも、誰にも負けたことがないの!」

そして、内臓が縮み上がるような感覚にさらされていた私のことはつゆも知らずに、彼女は学校での自慢話をつらつらと語り始めた。

「おんなじクラスにね、すごく負けず嫌いの男の子がいたんだ。いっつもその子が2番目だから、今度こそ負かしてやるって、掃除の時間に言ってきたの」

ちょっとインシツだよね。彼女は顔をしかめて言った。

「次の体育の授業が最後のプールだったんだけど、絶対負けたくなかった。最後の最後に負けるとか、カッコ悪いでしょ?」

確かに、少しだけ残念に思うかもしれない、と私は思った。彼女は続ける。

「それで、その日になったの。最後の日だから、みんなでやるリレーみたいなのがあって、私とその子はアンカーだったんだ。最初はちょっと私のチームが負けてたけど、私がみいんな追い抜いて勝ったの!逆転勝利だよ!」

彼女は胸を張って笑う。そして、手のひらで少しだけ水をすくい、勢いよく腕を振りあげた。水は放物線を描くと、日の光を反射してきらきらと舞った。私も、その時の光景を思い浮かべて頷いた。

「すごく楽しかったし、勝ってすっきりした!みんな褒めてくれたよ。」

彼女は満足そうだった。しかし、すぐにあたりを見回して、言った。

「でも、プールはやっぱり狭すぎるって思ったな。背泳ぎのとき、頭がぶつかるんじゃないかってちょっと怖かったし、思いっきり泳げないのは物足りないよ。なにより、端っこがあるのが嫌。」

やっぱり海が一番だね!

彼女は同意を求めるように、続けて「ね?そうでしょ?」と言ったが、私は頷き返すことができなかった。

私は、海にも端っこ───つまり、終わりがあってほしいと、ずっと思っていたからだ。

「私はプールよりずっと広い場所で、もっと遠くに行きたいの。自分の手と足で泳いで、海と一緒になりたい!」

私は首をかしげた。ときに静かで、ときに癇癪を起こしたかのように暴虐を尽くす海になりたいというのは、私にとっては全く理解しがたい願望だった。大きな海になったとて、いったい何が感じられるのだろうか。ただそこにあって、この星を満たし続けるだけの存在というのは、ひどく退屈なものに思えた。

「退屈じゃないのって?そんなことない!きれいなものがいっぱいあるよ!不思議な色の魚とか、大昔に誰かが置いていったものとか、ほかにもたくさん。」

私はあくまで否定的に考えていたが、そう話す彼女の姿はあまりにも楽しそうで、生き生きとした夢にあふれていた。彼女についていけば、きっと面白いものが見れる。彼女の目線を通して、鮮やかに色づく世界を感じることができる。そう確信めいたものを感じさせる何かが、そこにはあった。

「───。」

───じゃあ、一緒に行きたい。私は思った。昨日の私ならば絶対に浮かばないであろう考えだった。

誰も彼も彼女を見つけられないくらい、遠くに行く。ただずっと進み続けて、まだ誰も泳いだことのない大海原のど真ん中まで行くのだ。どこを見渡しても煌めく青い海が広がり、その下には未知の生き物が眠っている。暖かい太陽の光を浴びて、心地よい水の冷たさを感じて、潮の匂いを吸い込む。時間とともに変わっていく海の色を見つめる。そして隣には彼女が、そのままずっと一緒にいる。

それはそれは、とてつもなく素晴らしいことに思えて、私は笑みをにじませた。

「ねえ、面白そうでしょ?」

一緒に行こう。彼女はそう言って、私に向かって日焼けした手を差し出した。その姿は相変わらず目を焼く太陽のように眩しいが、なぜだか目を離したくなかった。

しばらく彼女の瞳を見つめて、胸の内に身を焦がすような感情を抱いた私は、その手を握り返した。どうせなら、行けるところまで行ってしまえばいい、と思った。


随分と遠くまで来たような気がする。白く輝いていた太陽は少しだけ色を纏い始め、入道雲をオレンジ味の綿菓子のように変えていた。

彼女はゆったりとしたスピードでバタ足を続けている。更に先に進む気のようだ。

「こんなに遠くまで来たのは初めてだよ!」

彼女はうっとりした様子で言った。まさか、初めて見たわけではないだろうに、刻一刻と様変わりしていく海の様子に見惚れているようだった。

「おかあさんとおとうさんはあんまり遠くに行っちゃだめって毎回怒るけど、そんなのつまんない。町とか山よりも海はずーっと広くて、どこまでも続いてて、どこまでも行ける。自分が自由になるような気がするの!」

私は相変わらず彼女の声を聴きながら、茶色い頭越しに美しい海を見つめているだけだったが、心はひそかに躍っていた。広大さと肉体の解放を語る彼女とは違って、私には海が自由の象徴とは全く正反対のものだと感じた───一生この時間が続けばいい、という刹那への執着が、胸を満たしていく。

「泳いでる時間も、色も、においも、なんていうか───全部がかわいい。ぎゅって、できたらいいのに」

彼女は、熱に浮かされる乙女のようにそう言った。ある部分において、私もそれには同意した。そして同時に、彼女は海のために生まれてきたのだと思った。具体的なことはよくわからなくても、それはとっくに、当然のようにして初めからあった運命なのだ。

───幼い彼女は恋をしている。恐ろしく偉大で、美しい海を愛している。

それは一生ものの愛であるからに、彼女は海という場所から離れられない。ずっと陸に居れば、いずれ内側から焼け焦げて死んでしまうような苛烈な恋。その熱を冷ますのには、この塩水の冷たさはちょうどよく、ひどく心地いいようだった。

だが、私は違う。この海の美しさを差し引いても、その温度は私には受け入れがたいものだ。この場所は、私には冷たすぎる───彼女が、いなければ。

例えば、深い深い山の奥、人気のない場所にいるとする。そこは非常に標高が高く、一年中雪が残っている。周りはより高い山々に囲まれており、それらが影となって、その場所に日の光が当たることはほとんどない。ずっと体の芯まで冷え切るような温度が続く。明かりはない。暖を取る手段もない。そんな状況の中で、あの燃え盛る恵みの星を渇望しない者が存在するだろうか。誰だって思うはずだ───あまりに寒くて凍えてしまうから、ずっと、太陽に昇っていてほしい、と。

そしてその例に漏れず私も、みなと同じようにそう思うのだ。


一つ、大きな波がやってきた。私の気持ちと共鳴するように、小さな太陽を呑み込む波が来た。

私は迫りくる暴虐を前にして願い事をした。それは、たった一つの願い事だった。冷たい海の中で、とっくに死んだはずの体を思い出すように、孤独と息のできない苦しみに悶え続けた私が、きっと望むに値することだ。

私は彼女をじっと見据えた。彼女の薄茶色の瞳に大きな青い影が映りこむ。それは彼女が愛してやまない、美しくも残虐で、何人(なんびと)も抗うことのできない恐ろしい海。

猶予を与えているように見えて、逃げる暇(いとま)などない。終わりはすぐそこにある。燃え盛る太陽が陰る。あたりは冷たさだけに支配される。死の、匂いがする。

私は目をそらさない。瞬きさえしない。私は決して何も見逃さない。どんな表情を浮かべるのか、すべて知りたい。

「─────あ、わ、わたし、」

彼女は年相応の、酷く純粋で単純な感情___恐怖を浮かべていた。

それをしっかりと目に焼き付けると、私は頭の中に、生きた体で最後に見た水上の光景___自然の暴力を目の当たりにしたその瞬間のことを克明に思い出した。のうのうとただ漂っていた私は気が付けば、大口を開けた、化け物に呑み込まれていた。あっという間に体は激流に揉まれ、抗うことも出来ずに沈む。息を吸おうとして、代わりに海水を嚥下する。肺を侵す大量の水にもがく。しかしそれは白い泡を生むだけだ。体はどんどん沈んで、内臓が痛みを訴え、酸欠に脳がひっきりなしに警鐘を鳴らして、何もできずに冷え切っていく体温に苦しんで、最後の最後に、まるで救済かのように死を迎える。

ああ、もうすぐ彼女もそうなる。

───私の願いはただ一つ。

「ね、ぇ、」


母なる海の癇癪は終わり、再び穏やかな時がやってきた。

白い砂浜の上で、茶色い髪の毛が波とともにゆらゆらと揺れている。

太陽は赤く姿を変え、空に浮かぶ雲、そして、海を真っ赤に照らし出していた。

私と一緒に沈んで。

あのときそう言ったら、彼女はどう思っただろうか。

「───楽しかったね」

彼女は浅瀬に寝そべりながら、暢気にもそう言った。

どこにもあのピンク色の浮き輪の姿はない。彼方へと流されてしまったのだ。そして本来ならば、彼女もそうなるはずだったのに。

「助けてくれてありがとう」

思いがけない彼女の言葉に私は一瞬硬直して、その意味を理解するとすぐに小さく首を振った。彼女が何を思ってそう言ったのか、全く見当もつかなかった。私は海と一緒になって彼女を攫おうとしたのに。本当に、今回は彼女の運が良かっただけだ。

「ちがうよ」

彼女はおもむろに口を開いた。

「ちがう。」

再び彼女は力強い声音で言った。違う?いったい何が違うんだろう。

なんとなく気まずさを感じて、彼女と目を合わせることを避けていた私は、その真意を知りたくなって少しだけ目を彼女に向けた。

彼女は相変わらず美しい瞳をしていた。海の青とは似ても似つかない、赤みがかった薄い茶色。それは私の濁った双眸を通り過ぎ、胸の内さえも射貫いたような心地がした。体温と相反して、脳みそが茹るような感覚に襲われた。

気が付けば、私はあの時、自分が本当はなんと願ったのか───わからなくなってしまった。私は迷子の子犬のような目で、答えを求めるように彼女を見つめ返す。しかしその心は、もはや目の前の私には向けられていなかった。

───彼女は海を見ていた。それは彼女自身を手にかけようとしたにもかかわらず、小さな口で海の広大さを語った時と同じように、愛おしげに水平線を見つめていた。

「──ぃ──!!」

遠くでかすかに女性の声がした。それは海風に流されてなお、強い感情を滲ませる女性の声だった。

「あ、おかあさんたちが来ちゃった」

目を細めて向こうを見ると、豆粒くらいの大きさの人影が二つ。それはだんだんとこちらへ近づき、血相を変えた夫婦の姿だとわかるくらいになった。

彼女はむくりと起き上がる。時間が来たのだ。

それを知覚した瞬間、胸の中をひどい執着心が?きむしる。名残惜しさを限界まで煮詰めたような、どろどろした汚らわしい独占欲が口から飛び出しそうだった。

彼女は大きく潮の香りを吸い込み、ひどく満足げな顔で、私のことをじっと見据えた。

「私、あなたも含めて、この海が好きだよ!」

───時が止まった。

さっきの不快感が嘘のように、胸の中に言いようもない歓喜が沸き上がる。私は確信した。これで良かったんだ、と。尾を引く私の存在『らしい』感情を断ち切ることはできずとも、頭の中はすっと冴えていった。

「じゃあね!」

彼女は大きく手を振って、今日一番の笑顔を浮かべた。そして、あの夫婦のもとへと走り出した。

私は思わず手を伸ばした───海から一歩踏み出そうとしたが、それはかなわなかった。

手のひらが宙を掻く。名残惜しさが心を支配する。しかし私はそれでも、今度は元気よく腕を挙げて、ふたつめの願い事をした。

もういっかい、もういっかいだけ振り返ってほしい。

「じゃ、ぁ、ね」

私の口から、聞くに堪えないおぞましい声がこぼれ出る。

「─────」

彼女がこちらを向いた。茶色い瞳が笑いかけた。


くるぶしに、少しだけ忘れていた冷たさがぶつかった。

血のように赤くに染まった海が、私の体を攫っていった。

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太陽が沈むまで 利居 茉緒 @kakuyonu112

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