パラダイムちゃんはシフトしたい
さくさくサンバ
パラダイムちゃんはシフトしたい
剣と魔法。煉瓦と布。冒険と発見。
いっそ清々しいほどの『ファンタジー』を突き詰めたゲームの世界で、新宮純太は数奇な出逢いを果たした。
知識と五感と運を総動員して辿り着いた『レムレスの洞窟』の最奥でのことだ。
『レムレスの洞窟』。
ゲーム内に実装された無数のダンジョンの一つであり、NPCから得られる情報ではこれといった旨味を見い出せないくせに手間だけはかかるダンジョンだった。
まず街から遠い。洞窟型ダンジョンにありがちな発光石はなく、内部は現実相当に光が届かない。棲息する魔物は食用不可な種類のみ。入り組んでいる上に罠も多いしセーブ地点は入り口直ぐに一か所だけ。
あんまりにもあんまりな面倒くささにほとんどのプレイヤーが匙を投げたダンジョンである。
そういうところにこそお宝が眠っている。と、そう考える者も少なからずいたし純太自身もその内の一人だったが、ゲームリリースから三年も経った今日にまで拘泥しているのは余程の暇人かつ半ばゲームプレイを諦めたような人間だけである。
直径にして地球の倍の大きさを持つ仮想惑星世界を前に、暗いし空気が澱んでいるし常に微かな腐臭が漂っているような洞窟の探索に根を詰める方がおかしいのだ。
だが。と純太は思う。
だが意地張ってよかった。三年間も費やしてよかった。
やってやったぞ。と、最早どこにいるのかもわからない顔共を思い浮かべる。ゲームリリースの当初、顔を並べて『レムレスの洞窟』の手製マップを見下ろした幾人。今頃はどこでなにをしているのだろうか。
この光景を前にするのが自分一人なことが少なからず寂しい。
今日この日、『レムレス洞窟』の最深部で、新宮純太は光り輝くクリスタルに封じられたキャラクターと出逢った。
薄布を纏った美しい少女。白でも灰でもなく銀に煌めく長い髪。あどけない顔立ちのそのキャラクターは、どこからどう見てもなにがしかの重大な要素を持つNPCであろうと純太は確信している。
「ははっ……やっとかよ」
知らず声が漏れ、それからはたと気が付く。
これを、どうすればいいのか。ただ一つこんなダンジョンに拘って碌に冒険も研鑽もしていなかった純太では手立てがないように思われた。
人一人がすっぽり収まったクリスタル(なぜか浮いている)を洞窟の外に運び出す術がない。かといってクリスタル自体をどうこう出来るスキルも技能も技量も純太は修めていない。
顎に指を添えて思案する。今朝に髭の処理をしたのにジョリジョリとした感触があった。
この手触りからいってダンジョンに入ってから十時間前後が経っている。内部構造は頭に入っているが、一度脱出して再度ここまで来るのは至難だ。クリスタルの右奥の方に見える脱出ポータルを一瞥してから巨大な透明なクリスタルケースに目を戻した。
そもそもこの少女は生きているのか。
一瞬浮かんだ考えはすぐに捨て置く。こうも特別感を演出して配置されたキャラクターがまさか亡骸ということもあるまい。運営の意図はおいおい知れるとして、王道ファンタジーの世界構築に定評があるのにこんなところでズラしてはこないはず。
三年も入り浸ったゲームである。純太もそのくらいはこの世界と、この世界の管理者たちに信を置いていた。
そう、つまり。なにがしかの対処のしようがあるはずだ。純太は辺りを見回した。
ダンジョンボスを辛くも撃破して押し入った部屋は現実でいうと学校の体育館程度の広さを持っている。光源の役割も果たしているクリスタルが目に付くが、部屋内もここまでの石造りの洞窟とは異なった様相だ。
ゴツゴツとした岩肌ではなく滑らかな白のタイルのような地面と壁。入り口から奥へ続く左右の石柱の列。所々にあるのは傷や風化ではない明らかな彫り細工。
そしてクリスタルの更に奥に据えられた台のようなもの。
あれだな。と純太でなくとも当たりをつけるようなわかりやすさだった。二十も歩いて純太は台の前に立つ。
ところが台上には銘文もなければそれらしきボタン、あるいは仕掛けもない。ただ平らに切り出された断面があるだけ。
とりあえずということで純太は台に右手を置いてみた。
それで正解だった。
背後から聞こえたピシリと形容すべき音に純太は振り返り、そして駆け出す。
中空に投げ出される形となった少女が傷をこさえる前になんとか確保して、自由落下より丁寧に地面に横たえる。肉の熱と臓の拍があったからだ。
見た目だけの判断なら自分の半分も生きていない異性を抱え続ける気にはなれない。
ゲーム外ならすぐに良識ある市民に肩を叩かれること請け合いだ。
外見、それから多少の会話やある程度の所作くらいまでは人間と変わりないほどに作り込まれたキャラクターというのも、それはそれで困るものだった。
それにしても純太はNPCの寝姿などというのは見たことがなかった。目を瞑る少女を見下ろし一瞬は眉間に皺を刻む。
呼吸に合わせて上下する胸や口や鼻の呼吸の雰囲気まで全くもって眠る人そのもの。ピクリと指を震わせる身動ぎの細やかさなど、いったい誰が設定しているのか。
確かにゲーム内における純太の行動範囲は他のプレイヤーに比べて極端に狭いものだが、それでも多くのNPCと接触し、話し、交流をした。そのどれも、NPCとして違和感のあるものではなかった。
だがこの目の前の少女は、人間として違和感がないほどの生気を有している。
純太は自分の喉が鳴るのを抑えられなかった。決して邪な念を抱いたのではない。ただただ、なにか致命的な現実感のなさに見舞われたのだ。
この期に及んで逃げ出すことも脳裏に過った純太の前で、少女はひと際大きく身動ぎし、次いで悩まし気な吐息を零した。
「んっ……んん……んぁ、あ…………あ」
最後の呟きは少々毛色が違う。
ぱちりと開いた少女の目と、覗き込む純太の目が合ったのである。
○○○
「へぇ。それで今度はそのキャラに入れ込んでんだ? ほどほどにしとけよ」
そう言って友人がジョッキを持ち上げる。純太は「まぁなぁ」と知れた気心のままに返答にはならない生返事だけを口にした。
純太が『レムレスの洞窟』を二人で脱出してから二週間が経っていた。
何もかも特筆に値しない居酒屋で卓を挟んでいる。古い友人とは味の好みも箸のペースも合わない。
「今日も飲まないのか?」
「まぁなぁ」
ぞんざいを二度繰り返したとて、今更ヒビの入るような付き合いではない。
「にしても。女の子ねぇ。ゲームはゲーム……ゲームキャラはゲームキャラだろ? そんなに気にしなくてもいいんじゃないか?」
「いやでも、女子高生くらいの子なんだぞ? 娘っつーにはデカいし、かといって、なぁ」
「なぁじゃねぇって。ゲームキャラの、それも女子高生くらいの見た目のキャラ? そんなんとどうこうとか言い出したら頭の方も診てもらえってもんだ」
「だよなぁ」
件のキャラクター、純太が発見した謎の美少女NPCだが。
困り果てたことに純太(ゲームの姿)にベッタリなのである。街を歩くにもフィールドやダンジョンを探索するのにも、この二週間で10m離れた時間の方が少ないくらいだ。
元々、NPCは外見だけならほとんどPCと区別がつかない。輪をかけてその少女NPCは人間と区別ができない。四六時中を共にする純太でさえそうなのだから、擦れ違ったり多少会話する程度の者たちには尚のことだった。
この期に及んで、純太は人生最大の難事にぶち当たっているのだった。
○○○
「ジュンタ!」
ログインしてすぐに高い声音が迎える。
「待ってた! 今日はどこに行く? なにする?」
距離感ゼロだし距離ゼロだ。純太は当たり前に自分の腕を掴んでくる少女に最早、指摘することも放棄している。どうせ離れないし。
「はいはい離れなさいねー」
一応、口先だけは指摘しつつも、純太は少女に構わずホログラムを操作する。
「今日はそうだな……そろそろいっぺん見に行くか」
思案し半透明の地図を広げるのは、攻略の最先端だ。
『土の街 ドノブ』
プレイヤーたちが三年間をかけて広げた地図の最外縁に位置する都市の一つである。
世界の構築を丁寧に積み上げてはいるが、それはそれとしてゲームとしての設定や難易度の調整というものも疎かには出来ない。
そのために魔王がいて、魔晶圏がある。
ゲームの大目標として設定されている魔王討伐は多くのプレイヤーが目指すところであり、そのメインストリームが攻略と呼ばれている。
魔晶圏に進出し、掌握し、人類の生存圏を広げていく。魔王が住まう王城へと手を伸ばす。
その最先端に数えられるのが『土の街 ドノブ』だった。
「す、すごいです。建物が高いっ」
「おーいダイム、そこは邪魔だからちょっとどいておこうな」
純太はドノブの景観に目を輝かせる少女――パラダイムを手招きして通りの端に呼び寄せた。
二人が邂逅して一週間ほどしたある朝、少女は唐突に名乗ったのである。
「わたしは、パラダイムです」
純太は「おうそうか」と受け入れ、もちろんその名の意味を調べた。
パラダイム――paradigm――物の見方、捉え方
純太の知識であれば『パラダイムシフト』が思い浮かぶ。
そこにどのような意味があるのかはわからない。
運営がどんな意図でこの、はじめて見る巨大な建造物を惚けた顔で見上げ、露天の串焼きに目を奪われ、その美味しさに頬を緩ませるキャラクターを作ったのか、それは純太には見当もつかないのだった。
「ま、いずれわかるよな」
その時に自分というプレイヤーが何を求められているのかも。
わかるだろうと純太は思っていたが、実際には事態は純太の思考力の遥か上を進行していた。
「えー……と、つまり……ダイム……パラダイムは、その……所謂、電子生命体ってことですか……?」
「その呼称が正確かは置いておくとして、その理解が最も親しみやすいかと」
ある日に突然、ゲームを運営する会社の本社ビルに呼び出されて来てみれば、であった。
純太は心底から驚嘆しスーツに不適当な間抜けな顔をしてしまう。
「ま、マジすかぁ……えぇ……ドッキリとか?」
「いえ。そのような仕掛けを行う必要がありませんので。事実です。お話ししたとおり、パラダイムと自称するあの少女型ノンデータキャラクターは、我々が設置したキャラクターではなく、また外部あるいは内部からの人的介入によるイレギュラーでもありません。実際に、彼女はあの場所、『レムレスの洞窟』で生まれた、というのが我々の現時点での見解であり、認知している全てなのです」
そう言って中年の男は純太に少し顔を寄せた。
「ですので何卒、ご協力のほど、お願いしたく存じます」
「はぁ……経過観察と守秘、ですか」
「はい。新宮様においてはどうかこれまでどおりゲームプレイを継続していただき、パラダイムと共にいくつかこちらの用意するシチュエーションを実施していただければと思います。もちろん相応の報酬、現実での金銭等での準備もさせていただき、この人類初の事態に我々と共にあたっていただきたい。そのため、パラダイムの素性含めたあらゆる情報に守秘をお願いします」
「そうは言っても……あんたらの言うところのノンデータキャラクター? パラダイムは……それこそ普通の、生きた人間みたいなものだから、例えば他のプレイヤーに名乗ったりとか……普通にしますけど」
「承知しています。あらゆるとは申し上げましたが、実態としては新宮様のコントロール可能な範囲で、という意味です」
純太としては青天に霹靂どころか太陽フレアくらいの気分である。
急な話で混乱している部分もあり、詳細は後日に詰めることとして一旦は本社ビルを後にした。
そうして考える時間を貰って結局、ただのしがない一般人である純太には巨大企業の意向に沿う以外の選択肢などないのだった。
「やぁっ!」
大多数のプレイヤーがそうするようにモンスターと戦う。
ダイムは飲み込みが早くあっという間に純太と並んで前衛で剣を振るっては活躍した。
「ありがとうございました。またお願いします」
パーティを組んでのダンジョン攻略。親切で優しかった人たちと道を分かれる。最前線に赴くには純太の技量が足りていなかった。
「ジュンタ、大丈夫? もう痛くない?」
回復魔法を習得したパラダイムは純太の腕に手を当てて心配そうに眉を寄せる。
「大丈夫だよ。ダイムのおかげですっかり治った。全然痛くない」
腕を回してみせる純太は、ゲームの仕様としてはじめからそれほど痛みは感じてはいなかったがそれを口にはしなかった。
純太自身の不足も埋めるように冒険中心に日々を過ごし、一年が経つのはあっという間だった。
「それじゃあダイムの誕生を祝して……かんぱぁい!」
純太の音頭に合わせて唱和が地鳴りのように響き渡る。
酒場の壁もテーブルも震わせた反響がパラダイムの築いたものだ。
立ち飲みもでるほどの盛況に心から満たされたパラダイムは、そうしてその日はじめて純太にその疑問を投げかけた。
「ジュンタ。わたしは……なんで何も覚えてないんだろう」
「さぁなぁ……? ま、たまにはそういうこともあるらしいし……気にするなとは言わないが、でもよ、昔のことがわかんなくたってダイムは今、楽しいだろ?」
「うん……」
「いやわかるよ。今が楽しくっても記憶がないってのが、何か変わるわけでもねぇしな。……ただまぁ……だから、まぁ、そうだな、たまには不安に思ってもいいさ。そん時はまた俺にでも、誰にだっていい、話してみりゃいい。それは間違いなく今のダイムが持ってるもん、持ってる人間関係なんだからな」
「んん?」
「はっは。つまり、頼れってことさ。俺やみんなを」
「ん、わかった」
○○○
「はい。はいそうです。疑問を持ちはじめてます。俺以外の人はパラダイムをプレイヤーだと思ってる。だからそういう、PCだとかNPCだとかの話も当たり前にしますから。ダイムは馬鹿じゃない。むしろ俺なんかよりずっと頭がいいくらいだ。たぶん……頭ではもうわかってるんだと思います。おかしいって。自分が他の人たちと違うって。……自分だけログアウト出来ないなんて、そんなこと……俺だってダイムの立場なら不思議に思いますよ……どうにかできないんですか? ……ま、そうですよね。すみません無茶言いました。……わかりましたとりあえず現状維持で進めます」
通話を切った純太はスマホをベッドの上に放り置く。
憂鬱は今日の空模様にも似ていた。しとしとと窓を濡らす水滴が下へ下へと伝うほど、純太の気分も落ち込んでいった。
一体全体、なんでこんなことをしているのか。なにが正解なのか。何もわからないまま、純太はいつの間にか眠っていた。
○○○
冒険は止まらない。
「ジュンタ! 見つけた! オリハルコン!」
「おぉ! よくやったダイム! よっしゃゆっくり降りて来い!」
幻の鉱物が眠る洞窟の奥地で純太は、自分の忠告を無視して宙に身を投げたダイムを受け止めた後にみっちり叱っておいた。
冒険は止まらない。
「んんぼごぼおお」
「ごぼぉ」
海底に沈んだ伝説の都市を発見してごぼごぼと喜んだのも束の間。
「んごごごごおぼぼおお!?!?!?!?」
「ぼんごぉおおおおお!!!」
都市を根城とする海龍との戦いはかつてないほどの危機だった。
冒険は止まらない。
朝日にだけ呼応する霊花は断崖絶壁に一輪、慎ましやかに咲き誇っていた。
スタンピードの先頭集団とかち合う死地に、二人して雄叫びを上げた。
貴族の礼儀作法に対してだけ物覚えの悪いパラダイムは、純太の懸念通りに悪徳貴族の性悪息子をドレスも構わず投げ飛ばした。
「褒められちった」
「結果的にはよかったけどなぁ? いいかダイム、もうやんなよ? 二度とやんなよ?」
「……もちろん」
「おまえほんとに思ってんだろうな!?」
国に巣食う膿を絞り出すのに一役買うことになった晩餐会での事件は、王族からの直接の感謝によって誰に咎められることもなくなった。
もちろん純太にはパラダイムにそこまでの狙いがなかったことがわかっているから諸手を挙げて喜ぶだけでは済まないが。
冒険は、止まれない。
「なん……で……わたし……ちゃんと、ボス、倒したのに……なんでっ」
一週間ほども滞在した町が灰になり、仲良くなった顔たちが土に還っても、パラダイムは膝を抱えていた。
「ねぇ、ジュンタ。……あの人たちは……プログラム、なの?」
「……」
「わたし……わたしも……ログアウトしたい……」
「……」
○○○
「無理ですよ、もう。現状維持とか、そんなこと、もう出来ません。このままじゃ壊れちまう、ダイムも、俺も。……なんでもいいんです。なにか……とにかく今のままじゃない何かをしないと……。だからっ。わかりますけど! もっとデータ取りたいとか、わかっけどさ! データじゃないってんなら、データじゃないんだよっ。ダイムはっ。データじゃないんだ……あれは……生きてんのと変わんねぇ……なんなん、ですか……彼女は……一体、なんだっていうんです……」
通話を切った純太はスマホを握り締めたまま崩れ落ちる。
咳き込み手の平に散ったものには赤が混じっていた。
○○○
「ジュンタ……?」
その日、パラダイムはいつものように目覚め、窓を全開にして朝日を目一杯に浴び、純太がログインした次の瞬間には飛びつき、それから冒険に出掛ける準備の再点検をしていた。
バッグに詰め込んだ食料や服、アイテム、少しの思い出。焼け落ちた服屋の店員は年が近かった。贈り贈られたブローチは、もうこの世には一つしか存在しない。
この世とはなんだろう。パラダイムは花のブローチを見、自分の手を見詰め、目を閉じる。
真っ暗闇。
懐かしい。
眠りにつく時。今のように不意に瞼を閉じたくなった時。
見えているのでもない、ただ感じるままの暗闇に、パラダイムはどうしようもなく心安らぐ。
そうして、すぐ傍で自分と同じように準備物のチェックをしているはずの純太の気配が消えるのを直感に感じたのだ。
「どこ? ジュンタ?」
もう一度呼びかけ、部屋を見回してもやはり純太の姿はなかった。バッグは開いたまま。ドアは開いていない。こんな現象には覚えがある。
「ログアウト? なんで……」
それがパラダイムがジュンタを見た最後になった。
○○○
式はしめやかに執り行われている。
親類はなし。僅かな友人たちの、その中の親友とでも呼ぶべき間柄の者が取り仕切ったのだと聞いていた。
「思ったよりは、早かったな」
会場を抜け出して煙草を吸いながら、数度会っただけの顔を思い出す。
いつもとは違う色のスーツを着たのは自分の意思ではあった。上層部は邂逅者――新宮純太の死亡を文字でしか知らないが、自分は多少なりとも人間同士の交流があったのだ。
式に顔を出すくらいのことを上にかけ合い、押し通す程度は苦にもならなかった。
「どうすんのかねぇ……ダイムは」
それはパラダイムがどうするかということであり、パラダイムをどうするかということである。
社の意思決定に関わる人間たちは新宮純太の死を軽く見ている。パラダイム――電子生命体などという未知未踏の存在を前にしてたかだか一人の人間だと軽んじている。
それはどうにも違うのではないかと男は思っていた。
業務時間の多くを割いて観察し、記録し、分析したのだ。結局、大した成果は得られていないが。
ふぅ、と煙を吐き出す。見上げた空に雲は多いが、雨粒は降ってきてはいない。
胸ポケットのスマホが振動したから着信の相手を確かめ、それが部下からだったから当たり前に耳にあてた。
「はい。どうした?」
「あ、あ、よかった。繋がった。今、いま大丈夫ですかっ、大丈夫ですよねっ!?」
「大丈夫だが……どうしたんだ、珍しい、おまえがそんな慌てるなんて」
常は冷静な部下の、狼狽と言ってもよさそうな雰囲気を感じて煙草の火を揉み消す。
「それがっ……ダイムちゃんが……その、異常でっ」
男は自分の口元に笑みが浮かんだことを自覚はしなかった。
「そうか。感情値が振れてるとかか? それとも出力が上限値を超えたか?」
「なんでそんなおかしそうなんですかっ。あぁでも、そうです、その二つも、でも、その二つだけじゃなくって、他にもい、異常なんですっ、とにかく色々! 特にっ」
特に。
位置情報が。というのは、男は聴覚よりも視覚で理解した。
「特に位置、ダイムちゃんの現在地の情報が、その、現実の地球の、日本の地図になっててっ。しかもそれ……先輩のいるとこにあるんですよ! マーカーが!」
最早、聞こえながらも聞こえてはいない。
「パラ……ダイム……」
まるで幽霊でも見たように男は唖然とし、そのすぐ横をその影は通り過ぎて行った。一瞥もない。まるで意に介されないことに男は憤りもない。どこかほっとした思いだけがある。
「あぁ……いま……俺の目の前にダイムが……いる……」
式場に入っていく少女の形をした何かを男は追った。そこに理性や知性の判断はなく、ただ引き寄せられるように、男はスマホを耳元にあてたまま影の後ろをついていく。
「はっ……ははっ……なんだこれ……どういうことだよ」
他人よりも柔軟と思っていた常識が、ものの見方が容易く打ち破られる。
電子生命体などという荒唐無稽を観測し、世の中にはどんなことも起こり得ると思っていた見解が瓦解する。
どんなことも起こり得るだなどと。宣うことのなんと簡単なことか。
「やばいやばい、やばい」
パラダイムが明確にドアを開けた。館の入り口のような自動ドアじゃない。はっきりと、自分の意思で、ドアに手をあて押し開いた。
それはそのまま男の背中に悪寒として押し付けられる。
ホログラムでは、ない。
どこかまだ頭の片隅にあった常識がまた一つ砕け散った。
電子生命体が現実に現れた、以上のこと。ものに触れ、影響を及ぼした。
「ひはッ」
歪に喉が鳴る。
パラダイムは迷いなく式場に、新宮純太のところへと向かっている。
「なにをする気だ……なにする気だ……理解しているのか? 死を? だからこうして別れを?」
いよいよ式に乱入する形となったパラダイムに、居合わせた者たちは騒然とした。
式場のスタッフなどは誰何し、歩みを止めようと寄っていく。
それが、なぜか止まる。やめたのではない。止まった。
「う、動けなぃ。え、なんでだ、うそだろ」
スタッフの一人が零した言葉に事態を多少なりとも知る男だけが戦慄する。
もはや笑うことすら出来ない。
電子生命体は現実に現れ、物体に干渉し。更に理解の及ばない力でもって人間の動きを止めた。
ゴトン、と音を立ててスマホが床に落ちたが、誰もそれを気に留めなかった。
「ジュンタ……」
パラダイムは新宮純太の遺体に手を伸ばす。掬い上げる。少女の膂力では出来ないはずの行為は、どこか神聖なものにすら感じられた。
そのあとのことを、男は思い出したくない。
○○○
三か月後。
新宿駅――跡地。
「解析完了しました。爪痕やその他の痕跡、それとあちらの物体、あれは鱗でしたが……間違いなく『緋晶竜 フレアテイル』のものです」
「そうですか。それで近々の危険は?」
「ないでしょうね。この様子だと、なにがしか戦闘があったものと思われますが、かの竜は元々好戦的ではないんです。逃げることも躊躇わない。鱗を落とされるほどの脅威があった場所に戻ってくることはほぼありません」
「その言い方だと、その……フレアテイルの方はまぁ、大丈夫なんでしょうが、ではその竜と戦ったという方はどうなんですか?」
その回答としては、相手は人間だったはずだという推測になる。だから大丈夫とは早計だが、人間だからこそ過度に警戒しても仕方ない。どんな考えを持つプレイヤーなのかは定かではないが、人類に敵対する可能性は低いだろう。
自衛隊との情報交換を終え、男は現場の隅で煙草を取り出す。手が震える。
休みたくもなくて動いて動いて、働いて。涙が勝手に頬を濡らす。
この三か月、ずっとこうだった。
世界が変わった、三か月前から。
○○○
パラダイムは朝に目を覚ますとまずカーテンを大きく開ける。そうして眩しい光に目を細める。
おいしい朝ごはんを食べて、それから支度をするのだ。
「これと……これはいらない。こっちはいる。大事」
夜の間に変化した状況を考慮して物品に手を加える。バッグの容量は決まっているから、何を持っていくかはとても重要だ。
「あ。スマホスマホ」
未だに慣れない小さな荷物もバッグに押し込む。
「ダイム! 準備出来たかぁ?」
玄関の方から呼ぶ声がして、パラダイムはぱっと顔を上げた。
「いま終わった! すぐ行く! 待ってて純太!」
世界を変えてでも取り戻した変化を、パラダイムはいまはまだ享受していたい。
パラダイムちゃんはシフトしたい さくさくサンバ @jump1ppatu
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