第7話:陽毬とプール③
「
「水、ですか? 酸性……?」
「はい、なんか、このスタジオで手洗うと手のひらに微妙に染みるっていうか……」
「ええ、やばいじゃないですか……」
「やばいんですよ」
「多分変わったりはしてないと思うんですけど……一応ビルの管理人さんに聞いておきます」
「ありがとうございます」
「はい」
「…………」
「…………」
……あれ、帰るのかと思ったらまだ近くにいる。
「えっと……」
俺がなんとなく間を繋ぐためにそんな感嘆詞を
「行ったんですか?」
と聞かれる。そっちが本題か。
陽毬とプールに、ということだろう。
「……まあ、はい」
「どうでした? 水着」
俺は陽毬の水着姿を思い出してしまい、そんな自分を殴りたくなる。
「ああ……えっと……」
「似合ってましたか?」
……ああ、そういうことか。
「そうですね、玉川さんのセンスは素晴らしいと思いました」
「そうですか、良かったです」
良かった、変なこと言わなくて。
と、そこで変な間が空いてしまう。
「あー……えっと、喉の方は大丈夫ですか?」
俺が、差し障りない(?)話題で空白を埋めると、
「え、どうしてですか?」
玉川さんは自分の喉を触る。
「あたし、何かかすれちゃったりしてましたか……?」
「いえ、まだそうなってないですけど、この作品、玉川さんは叫ぶシーンが多いので。キャラクターが激情型ですからね」
「ああ、そういうことですか」
すると、玉川さんは微笑みを見せる。
「あたし、叫ぶのは得意なんです。高校の時応援団長だったので」
「へえ……なんか似合いますね」
「……それ、褒めてますか?」
「褒めてます、本当に!」
ジト目で見られて、慌てて撤回した。
別日。
同じく『さよならは指切りのあとで』の円盤用OVAの収録の日。
プールの帰りに師匠から連絡のあった件だ。
アニメOVAとしてはド定番の水着回。海に遊びに行く回だ。
これから収録するのは、ユリハと主人公が不意に2人きりになって、ユリハがツンデレを
このシーンは元々
「まあ、北沢さんは、一人でも大丈夫でしょ」
俺の師匠は淡々とそう言っていた。その淡白さがかえって声優・北沢陽毬への信頼を感じさせて、俺はなぜか誇らしく思っていた。
アフレコが始まる。
『はいはい、別にいいわよ。アタシと2人だと気まずいっていうんなら、アタシの近くになんかいなきゃいいじゃない』
『……あんたが行かないならアタシが離れてあげるわ。じゃあね』
画面の中、コンテ絵のユリハが泳いで離れていく。
沖まで泳いだころ、ピキッ……!とユリハの足に激痛が走る。
『
ユリハはそのまま足を抱え込むが、近くに誰もいない。
混乱したユリハはもがくものの、
『うッ……! ちょっと……』
もがけばもがくほどに溺れていく。
その後は、ごぷ、とか、ぅぐ、とか、呼吸が荒くなったり海水を飲んでしまったり、聞いているだけで息苦しくなるような、見事な溺れっぷりを披露する陽毬。
『くる、しい……!』
いつもの虚勢を張る余裕のないユリハのその声は、
『し、ん、じゃう……』
まるで、俺のよく知る子供のようで。
『たす、け、て……!』
……まずい!!
俺は立ち上がり、ミキサールームを出る。
「上原さん? どうしたんですか?」
廊下 兼 ラウンジになっているところでモニターを観ていたらしい玉川さんが自分の出番かと立ち上がり、俺の
「ちょっとすみません」
俺は彼女の言葉に雑に返しながら、自分の鞄の中からビニール袋を取り出す。
「ビニール袋……?」
『はい、いただきました』
音響監督がそういうのを確認出来た瞬間、俺は陽毬のいるブースに入る。
「
顔面蒼白の陽毬は、その場にへたり込んで、ものすごい速さで息を吸ったり吐いたりを繰り返す。俺はその手にビニール袋を渡す。
「陽毬ちゃん!?」
俺の後ろから入ってきた玉川さんが声をあげる。
「大丈夫だ、陽毬」
陽毬の近くでなるべくゆっくり伝えてやる。
「ここは、スタジオだから」
「すた、じお……伶、くん、苦しい……」
「ゆっくり息を吐いて」
彼女をケアしながら、俺は心配と同時に恐怖を覚えていた。
キャラクターと同期しすぎて、脳が錯覚を起こして、本当にパニックになって、呼吸が出来なくなってしまった。
陽毬は俺にしがみついて「こわい、こわい……」とうめく。
俺だけではなく、スタジオにいる誰もが陽毬の憑依に圧倒されていた。
一緒に深呼吸してやると、いずれ落ち着いた陽毬は、マネージャーさんに連れられて帰っていった。
申し訳なさそうに深々と頭を下げる陽毬を見送って、玉川さんはぼやく。
「上原さん、陽毬ちゃんがこうなること、分かってたんですか……?」
「いや、さすがにそこまでは……。でも、まあ、ユリハが溺れるのを見た時、北沢さんも溺れるかも、とは……」
「すごいなあ……」
玉川さんはそこまで言って、俺の耳元で小声で囁いた。
「……でも、今日のはちょっと危なかったかもしれませんよ」
「危なかった?」
「音響制作と声優の距離感ではなかったです」
「ああ……」
命がかかっていたからそれどころじゃなかったが、確かにどう思われていたかは分からない。
「まあ、でも体調不良に陥った声優さんを音響制作がケアするのは当然ってことで……」
「はいはい、まあいいですけど。一声優として羨ましいくらいですよ。あんなに見てもらえてたら」
「なんかすみません……」
「謝らなくてもいいのに。じゃ、あたしはあたしの出番なんで」
ブースに戻ろうとする玉川さんに、
「あ、そうだ。玉川さん」
俺は声をかける。
「……?」
「これ、使ってください」
そして、カバンから丸っこいぬいぐるみのようなものを出して渡した。
「なんですか、これ」
「ストレスボールです」
「ストレスボール?」
それは、握ることでストレスを解消出来る効果があるという玩具だ。昨日買いに行った。
「この間、手のひらに水が染みるって言ってたじゃないですか。あの後気付いたんですけど、玉川さんっていつも叫ぶ演技する時、すごく強く拳を握るので、手のひらに爪のあとが残ってるんです。それがちょっと傷になってるのかなって……。これなら思い切り握って大丈夫なので」
「……!」
俺が伝えると、玉川さんは大きく目を見開く。
「……声優の手のひらのケアもお仕事ですか?」
「いいえ」
「じゃ、じゃあ……これは、どういう意味ですか? もしかして、個人的な……」
玉川さんは胸元をおさえて、あわあわと言葉を繋げる。
「手のひらは正直どうでもよくて」
「は?」
がしかし、突然ジト目になる。
「思い切り拳を握って、その分思い切り叫んでください。その方がきっと良い演技になるので」
「……そういうこと。演技のためってことですね」
玉川さんははにかむように微笑んで、
「じゃ、一声優として頑張りますか。ありがとうございます、進行制作担当さん」
ブースへと入っていく。その背中はやけにかっこいい。
やっぱり応援団長だな……。
帰宅すると、俺が帰ってきた音を聞きつけたのか、しょんぼりした陽毬がうちを訪ねてきた。
「伶くん、今日はごめんね、わたしを特別扱いしちゃだめなのに……」
「声優が過呼吸になったらそれに対処するのは音響制作進行の業務範疇だろ」
玉川さんにも返した理屈を陽毬にも投げかけた。
「そうかもしれないけど、でも……」
まだ迷っている彼女に、俺は追い討ちをかける。
「それに、この間約束したばかりだろうが」
「約束?」
「忘れてても別にいいよ」
『わたしが溺れたら、助けてくれる?』
『当たり前だろ』
『絶対?』
『絶対』
『約束だよ?』
『約束だ』
「俺は勝手に守るから」
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