第2話:陽毬とスタバ②
「……と、あれ、音響制作進行の
「……どうも」
……どうしてこうも俺は詰めが甘いんだ。
『音響制作進行の上原さん』とは俺のことだ。
俺は今、主にアニメの音響関連の監督・音響監督を目指して、師匠である音響監督・
音響監督は声優さんに演技指導をしたり、どんな音楽をどんなタイミングで入れるかなどを文字通り監督する役目だが、音響制作進行というのはは各声優事務所とかけあって声優さんのスケジュールを調整してもらったり、スタジオをおさえたり、靴音や雨の音などのSEを収録してもらったり……といった仕事だ。
今目の前で目を丸くしている
「どうしてこんなところに……? というか、あれ、陽毬ちゃんってスタバには来ないってじゃなかったっけ……?」
「あ、その……昨日恥ずかしいこと言っちゃったので今日来てみようと思ったんです」
「ふーん……? どうして、上原さんと? わざわざ都心から離れた駅に来るって、2人ってもしかして……?」
「ち、違います!
「え」
正直なことなのだから仕方ないのだが、もっと大きなことに玉川さんが気づく。
「じゃあ、いつも話してる『親友』って……」
「……あ」
もう、陽毬にその場を誤魔化すことは不可能だった。ここで嘘をつくのは実際得策じゃないだろう。
「へえ……そういうこと。おかしいと思った」
「あの、瑠璃さん、その……」
玉川さんは残念そうに俺たちを見る。
別に女の世界が怖いとか、芸能の世界が怖いとか、そんな話じゃない。
声優になるために努力を重ねている人なんてごまんといるし、蜘蛛の糸みたいなチャンスに何百人が手を伸ばしている。
そんな中、幸運に幸運が重なったように見える彼女の成功を妬ましく思う人がいるのは、当然のことで。
「あの……」
しかし、
「安心してください。別に
玉川さんはそう言って、軽く会釈をして立ち去った。
玉川さんは自分からしたその約束を守ってくれていた。
SNSで拡散したりもしないし、その後アフレコ現場で会った時にも、いつも通りの挨拶をしてくれた。
しかし、それでも、問題は、その数週間後に起こることになる。
「これは……」
俺の師匠が、玉川さんの出演している作品のゲストキャラクター・
元々担当する予定だった声優さんが体調不良で活動休止に入り、その穴を埋める形で陽毬が入ったというわけだ。
もちろん俺は一切口添えなどしていない。
でも、玉川さんがそれを疑うのは当然のことで。
アフレコが始まる前に、玉川さんが「上原さん、ちょっと良いですか」と、スタジオの廊下のすみっこに俺を連れて行く。
腕を組んで俺を見上げて顔を
「上原さん、さすがにこれはどうなんですか? たしかに山津ユリハは1回限りの出演ですけど、原作ファンの中では人気の高いキャラクターなんです。
不満と戸惑いと少しの怒りをブレンドした表情。自分の出演する作品を熱心に読み込んでから参加している玉川さんだからこそ、このキャラクターがコネで選ばれるのを認められないのだろう。
「それとも、運も実力の内だって言うんですか?」
努力家で有名な彼女は、先ほどまでの表情に失望を、ひと
気持ちは分かる。
でも、だからこそ。
「僕が北沢陽毬をキャスティングしたわけじゃありません」
俺は
「北沢陽毬を僕がキャスティングするのは、『誰しもがコネじゃない』と認めてからって決めているので」
「はい……?」
「……見てもらえば分かるはずです」
俺はそう言って、玉川さんをミキサー室(アフレコブースをガラス越しに見える部屋)に連れて行く。
ちょうど、陽毬のアフレコが始まる時間だった。
「それじゃ、いきますよー」
陽毬の役・山津ユリハは、主人公の男子に片思いしているものの、その気持ちを殺して主人公を後押しする役柄。
音響監督・大蔵さんの号令に合わせて、すぅー……と、彼女は息を吸って、目を開く。
『あのね、勘違いしてるようだから言っておくけど』
その目は、その表情は、何よりその声は、まるで他の人が憑依したかのようで。
「嘘でしょ……!」
俺の右で、玉川さんがそう呟くのが聞こえる。
聞いている俺たちに声だけで痛みが伝わるほど悲痛に、それでもそんな心を押し殺すみたいに微笑む。
『もう、あんたのコトなんか好きじゃないのよ、アタシ』
その声音に、その呼吸に、その
……まだ本番の絵は出来上がっていないのに、色づいた映像が脳内に浮かぶ。
夕暮れの逆光。
少し涼しい風に
優しく、かっこよく上げられた口角。
目尻にきらめくたった一粒の涙。
『……だから、あの子のとこ、行って?』
なんとかそこまで言い切ったその下唇が噛み締められて、
「……はい、いただきました」
音響監督が空気をやぶらないよう柔らかくミキサー室にうっとりとしたため息が広がる。
陽毬の演技は天才的だ。
その理由は明らか。
彼女は、誰よりも多くの作品を吸収し、誰よりも多くの
そして、その感情をすべてを把握しているからこそ、どんなキャラクターでも自分の中に生み出すことが出来る。
「いつものふわふわで天然な陽毬ちゃんはどこにいったわけ……?」
しかも彼女は、その
「もう、
なんせ、彼女の将来の夢は『声優』じゃなくて、『『物語の中の
「……上原さん」
すぐ右にいる玉川さんの身体の震えが俺にも伝わってくる。
嫉妬と羨望と感動と……恐怖。
「これじゃあ、『誰しもがコネじゃないと思う日』なんて、すぐに来ますよ? むしろ、もう来てるんじゃ……」
「逆なんです、玉川さん」
「え?」
俺は、その言葉を否定する。
「陽毬はすぐに、駆け出しの音響監督なんかじゃキャスティング出来ない声優になる。かたや、僕にはまだキャスティング権すらありません。だから、僕が音響監督になって、
「ああ……」
玉川さんは湿った笑いを浮かべる。
「……納得できちゃう自分が、悔しいです」
数週間後。
俺は部屋で陽毬の出ているアニメを見ていた。俺が関わっていない作品だ。
『ちょっと待って。ティーじゃなくてトールよ、トール! コーヒー頼んでるのに
「おお……」
陽毬が演じている役(都会育ちの、つっけんどんに見えて実は世話焼き系ツンデレ系女子高生)が田舎から来たばかりの主人公にツッコミを入れていた。
あの日の予行演習が確実に演技を良くしている。俺としても密かに鼻が高いな。
……なんてことを思っていると、バタン、と部屋のドアが開く。
「どうしよう、伶くん……」
今ちょうどスピーカーから聞こえていたのと同じ声——だけど、まるで別人の声音で、陽毬は言う。
「今度はどうした……?」
「次の作品の中で、主人公の男の子と、そ、その……ま、まんが……」
「まんが……?」
「ま、漫画喫茶に行くシーンがあるの!」
「ああ、うん……。漫画喫茶が何でそんなに言いづらいんだ……?」
俺が普通のツッコミをいれると、彼女は顔を赤くする。
「ひ、……秘密!」
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