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孤独での戦いだった将棋の道は、プロ入りを境に変わっていった。
昇級を果たした直後、俺は結婚した。相手は数年前から付き合っていた人だった。将棋とは全く関係のない人生を歩んでいる人だったが、俺の仕事には理解がある人だった。
それから数年後。俺たちの間に一人の子供ができた。女の子だった。控えめな俺とは違って、いろんな人と関わって、いろんなものに触れようとする好奇心のある子だ。
そんな娘が六歳の頃、将棋に初めて触れた。娘は何度も俺と指しては、顔に出して喜んだら悔しがったりした。そんな対局の最中、娘はこう言った。
「大人になったらお父さんと同じ将棋のプロになる!」
娘の言葉に昔の俺を重ねた。俺は笑いながら言った。
「プロになるのは大変だぞ。毎日練習しないとな」
「毎日する! 私ぜったい上手になるから、お父さん待ってて!」
「ああ、待ってるよ」
当時、俺は既に調子が振るわなかった。しかし、この子との約束は絶対に守りたい。
「……だから、あの子が強くなるまでは俺はこの道を退くわけにはいかない。どんな手段だっていいから居残り続けたいんだ」
和室には俺の声と風の音だけが響いていた。海月は外を見ながら俺の話をずっと聞いていた。
「つまり、娘との約束を守るためですか」
「そういうことだ」
「けど、あまり意地悪なことを言いたくはないのですが、子どもの口約束ですよね? その子が本気でプロを目指すとは限らないと思うのですが」
海月の言うことはもっともである。子どもの頃に描いた夢なんて、実現することができる人の方が少数派だ。けど……。
「けど、娘を信じない理由にはならない。娘が諦めない限りは、俺はその約束を守りたいと考えている」
俺の親だってそうしてきたのだ、いつまで続くかもわからない、本当になれるのかもわからない夢を追いかけている俺をずっとサポートしてくれた。親がそうしてくれたように、俺も全て信じてやりたいのだ。
「そうだったんですね」
海月は俺の方を見た。
「一回です。一回だけ手を貸すチャンスをあげます」
「ほんとうか。ありが」
「ただし! 私の要求も一つのんでもらう。それを条件とします」
海月は指で一を作った。
「明後日に霊界で大会が開かれます。その大会に欠員が出てるので、助っ人として出場してください」
昨日霊界にも公式な戦いがあると言っていた。おそらく霊界にも現世と似たような催し物があるのだろう。しかしそれは、生きている俺が出てもいいのだろうか。
「それって、俺も出ることはできるのか?」
「できます。主催が私の大会ですから、なんとでも融通はきかせられます。幽霊とはいえ、私のようにみんな駒は動かせますから」
将棋はコマが動かせたら大体は不便なく行うことができる。確かに、俺が参加しても問題ないかもしれない。
「どうです? この条件で引き受けてくれますか?」
対局の日時とも被っていない。断るわけがない。
「わかった、その大会に参加するよ。ありがとう」
「いえいえ。じゃあ、私の方で手続きは済ませておきますね。本番は明後日の夕方からです。いっぱい人が来ますから、面食らわないでくださいね」
そういうと海月は出口へ向かった。
「じゃあ、私は準備があるので帰ります。遅れないでくださいね」
そういうと彼女は帰って行った。
脱力した俺は寝転がった。なんとか次回だけでも手を貸してもらうことができた。首の皮一枚繋がった気分だ。
それにしても、幽霊たちの戦いにお邪魔することがあるとは海月は相当に強いが、他の幽霊も凄腕なのだろうか。せっかくなら海月に聞いておけば良かった。
「練習しとかないとかな」
死者との対局といえど、負けたくはない。大会までは時間があるので、俺は将棋盤を引っ張り出してきた。
海月は俺の話に同情してくれたのだろうか。あそこまで拒絶していたのに承諾してくれるとは考えてもなかった。
二日ぶりに一人の和室に、駒を指す音が響いた。窓の外からは沈みつつある空が見えた。
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