邂逅 1
翌日、俺は森本ビルを訪れるか迷った。その理由は言うまでもなく、昨日起きた出来事が関係している。朝方に訪れた一人の女性。彼女が今日も訪れるかもしれないからだ。
「……さすがにあんな得体の知れないものと一緒はなあ」
俺の手が彼女の顔を貫通したことをついさっきのことのように思い出す。触れられずに透けたと言うことは、やはり幽霊の類なのだろうか。俺自身霊感のある人間ではないので確信は持てないのだが、霊って物とか人を通り抜けることができると良く話に聞く。あと、関わると祟られるって噂もよく聞く。
俺は身震いをした。やっぱり今日は別の場所で研究をしよう。そう思って鞄に手を伸ばした。
「なんか軽いな」
昨日よりも鞄に重みが感じられない。開けてみてやっと、あの和室に棋譜と本をぶちまけて帰ってしまったことに気づいた。
「あちゃー」とつぶやいた。あれがなければ続きをすることができない。そうなるとやらなければいけないことは一つだ。
あの和室に取りに行くのである。
日没間近の中、俺はまた森本ビルを訪れた。
「あ、今日も寄ってくかい。昨日なんか慌ててたけど大丈夫かい?」
いつも通り、エントランスには森本さんがいた。
「すいません、昨日はちょっと急いじゃってて」
いつも通りの森本さんを見ると、安心感を覚える。
「森本さん。このビルって幽霊が出たことってあるんですか」
「さあ、聞いたことはないけど。なんか見たのかい?」
「いや、そう言うわけじゃないんですけどね」
俺は適当に誤魔化した。森本さんが知らないと言うことは常日頃から出るわけじゃないのかも知れない。
もう一つ俺は気になることを聞いてみた。
「それと、ここの管理人って森本さん以外にいるんですか?」
幽霊の女性がしきりに言っていた管理人の話だ。もしかしたらここの管理人は複数人いるのだろうか。
「ああ、いるよ」
「ええ、いるんですか!」
「ああ。死んだ俺の女房が手伝ってくれててね、幽霊に賃料取り立ててくれてるよ」
森本さんは両手でおばけのポーズをした。
ああ、だめだ。森本さん面白くなっちゃってる。俺はギャグを適当に受け流すと五階に上がることにした。
階段へと足取りはいつも重いが、今日は一段と重い。あまりにも上がりたくないので二歩で一段上っていった。
五階まで上がってしまった。昨日開けっぱなしで飛び出した入口は綺麗に閉まっている。森本さんが戻してくれたのだろうか。それとも……。
息を呑んで入り口を開けると、続けて襖も開ける。昨日の棋譜と本が散らかってるままだろうか。この先の光景は未知である。俺は三割ほど襖を開けた。
「来られましたか」
女性の声が聞こえた。悲鳴をあげそうになるのを押し殺し、隙間から片目だけ出して中を覗いた。
奥の窓側。俺がいつも座っている場所に彼女がいた。
「昨日忘れ物してましたよね? そのままにしておくのもなんだったので、まとめておきましたよ」
ほらここにと彼女はすぐそばを指差した。確かに俺の本と棋譜が置いてある。
俺はゆっくり襖を開けきって荷物に近づいた。
「……どうも」
「すいません、私も将棋を嗜むもので、勝手に中身見ちゃいました。これ、あなたの棋譜ですよね?」
彼女は盤と駒を用意していた。俺の棋譜を見ながら今を動かしている。
「お相手、『TNシステム』を用いてますね。なかなかマニアックな戦法をとりますね。今の棋士でこの戦法を知ってる人がいるのやらどうやら」
『TNシステム』とはおそらくワタナベが用いた戦法なのだろう。新しく生まれた戦法には発案者に関連した名前などがつけられるから、多分その類だろう。
「戦局が変わったのは十八手目でしょうかね。知らない戦法に戸惑って自陣を固めたんでしょうけど、最終的に身動きが取りづらくなってしまいましたね」
「この対局では『美濃囲いスペシャル』が用いられてますね。この戦法、全然スペシャルじゃないんですけどね」
「この局は普通に『居飛車』」
「これは『穴熊』」
「これは……、『真・無敵囲い』ですかね。この 対局相手、毎度やること違うじゃないですか」
彼女がひたすら棋譜を眺めては感想を述べた。こいつ、めちゃくちゃ喋るじゃないか。緊張の糸が少し緩んだ。
俺はずっと気になっていたことを問いかけた。
「君は……、幽霊なのかい?」
こうやって普通に話しかけられていると昨日のことが嘘だったかのように感じるが、確かに昨日俺の体は彼女を通り抜けたのだ。
彼女は棋譜から目を離して俺の方を見た。幽霊にしては血色のいい顔だ。しばらく考え事をしているように静かになった彼女は、僕の問いに答えた。
「そんな質問、初めてされましたね。なんせ、生きている人と関わることは今までありませんでしたから」
彼女は立ち上がると、俺の方に手を伸ばした。伸ばした手は俺の頭にめり込んだ。
「そうです。私はこの周辺を彷徨ってるのです」
「ちょっと、これなんか気持ち悪い」
脳を触られている気分になって不快だ。
「なんか、反応が新鮮で面白いですね」
彼女は笑った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます