とある部屋、とある幽霊 3
翌日、俺は分厚い本を抱えて和室に上がった。窓際の席で準備を進めると、持ってきた本を開いた。今日持ってきた本は『革命! プロを目指すための頻出戦法113』という本だ。名前は信用ならなそうな名前だが、この本の監修にはかなり強い人たちが関わっている。中身も十分なもののため少し前に買っていた本なのだが、今まで読まずにほっぽっていたものだ。せっかくあるものなのだから使わない手はあるまい。俺はこの本を見ながら新種の戦法の対策をすることにした。今日は昨日よりもずいぶん寒い。管理人の森本さんには許可を得てないが、押し入れから布団を取り出してくるまりながら本を読み進めた。森本さんなら多分許してくれるだろう。
読み進めてから、この本を選んで正解だったと思った。強い人が監修しているだけあって、中身が充実しているのだ、戦法の紹介にとどまらず、対策や得手不得手まで教えてくれる。とりあえずはざっと新戦法に触れていくのが良さそうだ。
数時間経って俺は本の半分まで読み進めた。調べてみると本の半分で十個近くの新戦法を知ることができた。この調子で読み進めたら、帰るまでには読み終えることができそうだ。次回からは読み進めたものの中からワタナベがよく使うものを抽出して対策しよう。
次のページをめくると、デカデカと見出しが書いてあるのが目に止まった。
『対策必須! 最新戦法五十五選!』
「ええ、まだあるのか!」
どうやら、今まで読んでいたところはさほど新しくない戦法だったらしい。あまりに無関心すぎて、それに気づくこともできなかった。
さて、この膨大な量をどうやって捌こうか。もちろん今日中に終わらせることは不可能なので、全てに目を通すとなると明日以降も読み進める必要がある。しかし、次の対局が迫っていることを考えると、この工程にたくさん時間を割くこともしたくない。
俺は考えた。諦めるべきだろうか、続けるべきだろうか。
「うーん。この工程をないがしろにもできないしなあ」
少し考えた。結論に辿り着いた。たくさん頑張る。それだけである。四の五の言っても仕方がないので、頭をたくさん動かして詰め込めるだけ情報を詰め込む。俺は残りの五十五選を読破することにした。
さらに数時間が経った。夕方にここにやってきたはずだったが、窓に目をやると外が白んできたのが見えた。どうやら半日ほどこの本を読み進めることに費やしていたらしい。
眠気と目の疲れで頭がクラクラする。冷えた手のひらで酷使した目を抑えた。
多くの時間を費やしただけあって、本はかなり読み進めることができた。最新戦法の五十五種のうち、二十種に目を通すことができた。この調子だったら明日までに読み切ることができるだろう。それが終われば、本格的に対ワタナベのための作戦を立てるのだ。今に見ていろ。今度こそお前から再び勝ちをもぎ取ってやる。
とりあえずは今は睡眠だ。俺は帰る支度をし始めた。
ガサゴソと本を収めていると、外からかすかに声が聞こえた。
「あれ、電気つけっぱなしで帰っちゃってたのね」
女の人の声がした。守衛さんの声だろうか。
声の主は入り口の鍵を開けると玄関で靴を脱ぐ音がした。
「ああすいません、森本さんから鍵預かってて、夜通し使っちゃってました」
俺も襖を開けて守衛さんに話しかけた。
守衛さんは若い女の人だった。俺より10年くらいは年下に見える。彼女は俺の方を見て目を丸くしていた。
「すいません、もう私も帰りますね」
彼女は黙って俺も見ていた。俺、もしかして失礼なことしてしまっただろうか。さすがに夜中ずっといたのは森本さんのご厚意に甘えすぎかな。俺が困惑していると彼女が重そうな口を開いた。
「なんで、ここに入れるの……」
「あ、実は私、森本さんの知人でして、お願いして森本さんに貸してもらってたんですよ」
森本さん、守衛さんに説明してなかったのかな。とりあえずは事情を説明してみると、彼女はさらに重そうな口を開いた。
「ここの管理人は森本なんて名前じゃないわ……」
気味の悪い沈黙が続いた。事情はわかったが納得はできない。森本さんが管理人じゃない? そんなわけない。十年来の付き合いなのだから。
恐れに軽蔑を混ぜたような視線が痛くて俺は弁明しようとした。
「いや、ここの管理人は確かに森本さんで」
「そんな話聞いたことないです! 警察呼びますよ!」
「いや、それは勘弁してくれ!」
やましいことはないが森本さんに迷惑はかけられない。携帯電話を取り出そうとしている彼女を止めようとして近づいた。その時、俺の足が襖に引っかかって前のめりになった。
「危ない!」
彼女は俺を支えようとしたが、その親切は虚しく顔面から床に激突した。
「いったあ」
俺は顔をさすりながら起き上がった。
「だから、私は怪しいものじゃなくて」
顔のことは構わず彼女を説得しようとした。しかし、目の前にいたはずの彼女はいなくなっていた。
「あれ……」
さっきまで体を支えてくれようとしたはず。この狭い玄関で死角なんてない。辺りを見回して、俺は彼女の存在に気づいた。
俺の真後ろ、さっきまで俺がいた位置に彼女は経っていた。
「なんでそこに……」
こけたからといって、背後に回り込むことなんて可能だろうか。不思議に思っていると彼女がつぶやいた。
「今……、体がすり抜けました……?」
体がすり抜けた? そんなことが起こるはずがない。幽霊や妖怪の類じゃあるまいし。「はは、まさかそんなわけね」俺は彼女の顔に手を向けてみた。
俺の手は体をすり抜けた。
俺が情けない悲鳴を上げると、彼女も悲鳴をあげた。
俺は『彼女越しに』荷物を引っ掴むと持ちうる力の限り逃げた。足が持たれそうになりながら階段を降りる。エントランスには森本さんがいた。
「あれ、まだ残って」
「森本さんこれ鍵! ありがとうございました!」
俺は森本さんに鍵を投げ渡すと霜降る町を逃げらように帰った。
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