とある部屋、とある幽霊 2
それから、数年分の花見をして、数年分のセミの喧騒を聞いて、数年分の秋刀魚を食べた。そして今、雪を踏み締めて歩いている。俺は懲りずにまだ棋士をしていた。
足首まで積もっている雪は革靴の間に入り込んで染みる。本来こんな道を歩きたくはないのだが、お世話になっている練習場がこの先にあるので仕方なく歩いていた。
あたりは影を落としていて、空はブルーとオレンジが混ざっている。妙に澄んでいる空気が冬らしい。
人通りの少ない路地を進むと、目的の雑居ビルが見えた。
『森本ビル』
ここは管理人の森本さんが将棋好きで、5階の和室を同志のために貸し出しているのだ。アマチュアの頃からお世話になっている俺は、今もここに通っていた。
エントランスに入ると森本さんが掃除をしていた。
「森本さん、こんばんは」
「お、日川四段じゃねえか。調子はどうや」
「いやあ、あんまりですね」
「それ、数年前から言ってること変わんねえじゃねえか!」
森本さんは豪快に笑った。森本さんと会うとパワーをもらえそうな気がして、会うと嬉しかった。
「じゃあ、今日も部屋借りていいですか?」
「おう、当たり前よ」
森本さんは俺に鍵の束を渡した。
「いつも通り俺が帰った後もいると思うからよ、帰る時に守衛さんに渡すか管理室に戻すかしといてくれ」
「分かりました」
10年以上の仲だからか、セキュリティのセの字も感じさせない任せっぷりである。俺は灰色の階段を登った。うちっぱなしの壁が潔いほどに無機質だ。
今の将棋の実力は若手の頃から若さをとったような具合だ。つまり、プロ入りの頃と変わらず弱いままだ。あれから俺はまだ負け続け、最下位に強制送還された。それだけでは止まらず最下位でも調子は戻らなかった。ちょっとの白星と多量の黒星を摂取した俺は、後一回負けるとプロさえも降格される崖っぷちにまで陥っていた。
今はとにかく、次に負けないための対策をしなければならない。今日は次の対局の相手と今までに戦った時の棋譜をコピーして持ってきた。この棋譜で相手が指した手を確認することができる。そこから相手の思考や癖を汲み取って、本番に生かすという算段だ。膨大な時間を費やすことになるが、それに値する大事な研究だ。
五階まで一気に上がると少し息が荒くなった。それもそのはず、俺ももうアラフォーに片足を突っ込んでいる。立つと足が痛いし座ると腰が痛いという理不尽な体になってしまった。学生の時に運動もしておけばよかった。
和室に着くと雪で染みた靴下を脱いで上がった。
「あれ……。ここ綺麗になったか?」
畳でも張り替えたのだろうか。今まで通ってきた時よりも部屋が綺麗になっている気がする。以前は何もかも年季の入っていたが、畳や窓など、取り替えてそうなものが多い。
俺は窓際の将棋盤を陣取った。外は完全に夜に染まっている。ここから何時間居座ろうか。将棋盤に駒を並べながら頭で今日やることを整理した。
持ってきた棋譜を眺める。その中でも一番古い棋譜は十年以上前のものだった。次回の対局相手はワタナベという男だ。俺がプロ入りした一年後にプロ入りした棋士で、経験値で見れば俺とさほど変わらない相手である。
「……最近調子いいんだよな。こいつ」
俺とワタナベがプロ入りしたばかりの頃は俺の勝ち星がほとんどだった。ワタナベはプロ入りからずっと最下位で足踏みをしていたのだ。そんなワタナベに転機が訪れたのは俺が降格した頃だ。着実に勝ちを増やしていっていた彼は徐々に昇格候補に上がっていった。その頃には、俺もコテンパンにやられることがほとんどだった。
前回と前々回の対局では彼の白星で終わっている。後輩に三連敗した後にプロの世界を追放されるなど、これほどに屈辱的なことはない。俺は棋譜に記してある通りに当時の盤面の再現をした。
俺は自販機であったかいコーヒーを買って研究に勤しんだ。暖房の効いてない和室ではあったかいものが生命線だ。
数時間の研究で、わかってきたことがある。ワタナベは結構流行りを取り入れる人間であるということである。古い年代のものから対局を振り返ってみて、ワタナベは勝ち始めた時あたりから新しく生まれた戦法を使い出したことがわかった。例えば前回の対局。序盤までは十分張り合うことができたいたのだが、途中からワタナベらしくない打ち方に変わったことを覚えている。その変化に対応することができなかった俺は、徐々に駒を奪われてしまい囲まれた。負けた試合の棋譜からは目を背けたかったが、向き合ってみると発見も多い。
俺はあまり新しいものは得意ではないので、昔からある戦法ばかり用いている。昔から扱っているものの方が安心感があるのだ。それに昔からあるものは研究もよくされている。困った時に先人の知恵を借りれるところもいいところだ。
根拠があって新しいものに目移りしないのは良いことであるが、あまりにも意識してなさすぎたのも良くなかった。今まで、新しいものに対して対策を練ろうとする時間が少なすぎたのだ。努力量は結果にある程度反映する。俺が新しい戦法を使わずとも相手は使ってくる可能性は十分にあるわけで、その対策をしなければないないはずだ。
俺は合点がいったと手を叩いた。そうと決まればやることは一つである。新しい手の対策をするのだ。
今日はもう帰ることにしよう。俺は荷物をまとめると切り上げて帰ることにした。俺しかいなかったので電気を切って部屋を出た。
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