1.小樽天狗山
すぐ近くにいたカラス数羽が、ぎゃあぎゃあと大袈裟に羽ばたいて、逃げていく。
目の前の女性客のそばにいた小さな男の子は、女性の膝にぎゅっとしがみついた。
子供には怖いだろう。無理もない。
御手洗弥生は、パウンドケーキを袋に詰める手を速めた。
「今日は、音羽さんはお休みなんですか?」
女性に聞かれ、弥生は一瞬返答に困ってしまった。
「えっと…音羽さんは、今別の仕事をしていまして」
「そうなんですね。息子が音羽さんの事すっかり気に入っちゃって、いつも会いに行きたがるんですよ」
袋を受け取る女性にしがみついたまま、男の子は残念そうに俯いていた。
「ごめんね、音羽さんもう少ししたら戻ってくるから、また来てくれるかな?」
弥生の言葉に男の子は、俯いたまま小さく頷いた。
親子連れの背中を見送りながら、弥生は上手く誤魔化せた事に、安堵していた。
今日はやけにカラスが多いので、弥生の背後にある白いライトバンの屋根には、『カラス避け』が設置されている。
男の子も、まさか自分の推しがそこにいるとは思うまい。
ここは、小樽天狗山。
運河、水族館と並んで、小樽を代表するスポットだ。
夏は観光、冬はスキーが楽しめ、天狗山から臨む夜景は、北海道三大夜景にも選ばれている。
パティスリーシノノメでは、5月の土曜日限定で、焼き菓子の移動販売に来ていた。
弥生はヘルプ要員として、接客や雑用を行っている。
個包装したパウンドケーキ数種類(日によってフレーバーが違う)、フィナンシェにマドレーヌ、クッキーなどをかごに飾り、折り畳みテーブルに並べるだけの簡易的な店だが、客入りは盛況で、完売する日もあった。
今日は、5月最後の土曜日。
なので、弥生のヘルプも、今日までだ。
安堵感もあるが、終わってしまう残念な気持ちもあった。
そんな弥生の隣では、イケメン店主がまだ女性グループとお喋りをしていた。
「東雲町の店にも、良かったら来てくださいね」
「はい!絶対行きます!」
「土門さんのケーキ食べてみたいです!」
パティスリーシノノメのオーナーシェフである、土門博臣の爽やか営業スマイルを尻目に、弥生は内心嘆息した。
アニメにしろ2.5次元にしろ、イケメンからしか摂取できない栄養素があるのは、『そこそこのオタク』を自認する弥生にもよく分かる。
だがそれは、フィクションだからこそ。
実際隣にいるイケメンのスマイルは、胡散臭い事この上ない。
「…何だよ、そのジト目は」
女性達が帰った後、博臣は通常の低めトーンに戻る。
「ちゃんと笑えるなら、何で私の時はテンション低めなんですか?」
「は?」
「差別じゃないですか」
「あぁなるほど…弥生もこの顔で接してほしいのか?」
博臣の顔が、一瞬で営業スマイルに変わる。
中国の変面か、のっぺらぼうの怪談のようだ。
「いや怖いですって!詐欺師みたいですよ!」
強烈な違和感に、背筋がぞわっとする。
何故か博臣は、心底可笑しそうに笑っていた。
「いいところ突いてくるな。確かに、詐欺師みたいだと言われた事がある」
「…それ誉め言葉じゃないですよね、絶対」
開け放した車の荷台から、ストックしている商品を補充しつつ、真顔に戻る瞬間もばっちり目撃した。
詐欺師と言われた経験を、楽しげに語る神経が分からない。
「こっちが実物だって、写真撮ってあの子達に見せてやりましょうか」
「SNSに載せないなら好きにしてくれ。いっそ眼鏡も外してやろうか?」
「~~~~~~っ!」
完全にこちらをおちょくっている、博臣の楽しそうな笑顔は、実に腹立たしい。
反論できず煮えくり返る弥生の背後で、微かに空気が震えた。
「2人とも楽しそうですね。ぜひ私も混ぜてくださいませ」
いつの間にか背後には、音羽が立っていた。
最近ようやく、この突然の出現にも慣れてきた気がする。
「そうだ。さっき、音羽さんに会いたいって男の子が来てましたよ」
「ふふ。あの子、何回も私にプロポーズしてくれるのですよ」
「へぇ!おませさんで可愛いじゃないですか」
「えぇ。積極的なオスは、嫌いではありませんわ」
「いやオスって…」
オーナーがオーナーなら、スタッフもスタッフである。
いつもは着物姿の音羽だが、さすがに山には不釣り合いなので、いわゆる山ガールのコーディネートだ。洋服だと、スタイルの良さが際立つので、羨ましい。
音羽の実態は、猫又という名のあやかし。
もう一つの稼業として陰陽師をやっている、博臣の使役する式神である。
なので衣服は実際身に着けているのではなく、「そういうものを着ている人間」として化けているらしい。
「要は見た目の問題です。顔の造作は変えられませんが、身なりを整えれば、弥生も他人からの信頼を得られますよ」
ちょっと失礼しますね、と音羽は弥生のマフラーを巻きなおしてくれた。
音羽の綺麗な顔がそばにあって、照れくさい。
息遣いや手の体温、近づいた時に感じる体温は、間違いなく人間のそれだ。
人間ではないと、時々忘れそうになってしまう。
「ほら、こちらの方が可愛いでしょう?」
車のバックミラーで確認すると、ネクタイのような結び方に変わっていた。
その前は、輪に通すだけの簡単なものだったので、印象が随分違う。
「ありがとうございます!なんかおしゃれになった気分です!」
「あなたも顔のパーツは悪くないんですから、見た目を磨けば、博臣様ほどではないにしろ、異性の目を惹けますよ」
「……」
今のは弥生を褒めたのか、褒めた風で博臣を持ち上げたのか。
あるいは両方かもしれない。
主がコミュ力お化けだと、愛猫もそうなるようだ。
移動販売の時間は10時から17時までだが、絶え間なく来客があるわけではない。
誰もいない時は、こうして博臣達と会話をしつつ過ごす。
概ね平和だったので、売り子初心者の弥生にはちょうど良かった。
変調が起きたのは、それからすぐだった。
珍しく数組の行列ができ、3人でそれぞれ対応に追われていた時だ。
弥生は、父親と母親、それに低学年ぐらいの娘という家族を応対していた。
目を引いたのは、3人ともハイブランドの服で全身を固めていた事だ。
母親と娘は、お揃いのピンクのパーカーだ。正面にプリントされたクマの模様が、よく見たらブランドのロゴになっている。
父親も同じブランドを身にまとっているが、輩ファッションとでもいうのだろうか。近寄りがたい雰囲気を醸している。
「あ!音羽ちゃんだ!」
甲高い声とともに、店舗スペースの死角から小さな影が走り寄ってくる。
先ほどの男の子だと気づき、ひやりとした瞬間には、もう遅かった。
弥生の目の前で、先程の男の子と、ハイブランド親子の娘がぶつかり、2人とも地面にお尻をついた。
その拍子に、弥生が渡した商品のビニール袋が、ばさりと地面に落ちる。
次の瞬間、何かが弥生の目の前を、地面すれすれに横切っていった。
びゅっ、と低い音が唸る。
弥生はどういうわけかそれを、カラスだと認識できていた。
何故なら、カラスも弥生を見ていたからだ。
咄嗟に空を見ると、袋を咥えたカラスが一羽、飛び去って行く。
水を打ったように、周囲が一瞬静まり返る。
「ちょっと!うちの子の服が汚れたでしょ!買ったものもカラスにとられたし、どうしてくれんの!?」
「お前が母親か!?全部弁償しろ!」
響き渡る、男女の怒鳴り声。
自分に向けられたものではないが、こういう時弥生は、恐怖で息が止まりそうになってしまう。
先ほどの女性は、怯えて泣く息子を庇うように、平謝りしている。その様子もまた、弥生の恐怖を助長した。
博臣がすぐさま仲裁に入る。
自分の番を待っていた他の客も、買い物どころではなくなっていた。
「ちゃんと見てない親が悪いでしょ!土下座しないさいよ!」
「あんたが店主か!?何でこんなカラスだらけの場所で店出してんだよ!」
ハイブランド夫婦は、収まるどころかより声を荒げてきた。
聞くに堪えないが、下手に動いて博臣の迷惑になるのも困る。弥生は身動きを取れずにいた。
尻餅をついてしまった二人の娘は、私が悪かったんだから怒らないで、と両親の後ろで訴えている。
だが夫婦は娘に目もくれず、女性と博臣を糾弾し続けた。
見ているだけで、娘も可哀相になってくる。
「うるさい!お前は黙ってろ!」
娘を振り返った父親が、一喝する。
娘に対してそんな言い方は…という苛立ちや怒りで、周辺の空気が染まった気がした。
実際、弥生もそう感じていた。
そして一喝された娘の空気も、変化した。
娘は何を思ったのか、おもむろに靴を脱ぎ、それを父親と母親に投げつけたのだ。
この子は本気だ、と誰もが察知した。
「ココア、何すんだよ!」
「痛いじゃない!」
「お母さんもお父さんも、いい加減にしてよ!」
弥生も博臣も、その場にいた全員が呆気に取られていたが、無論驚いたのは親の方だ。
「親が変だから可哀相って、私いつも言われて、恥ずかしいんだよ!?」
ココアと呼ばれた娘は、ぽろぽろと涙をこぼす。
低学年とは…いや、この親から生まれた子供とは思えない物言いだ。
「二人とも大っ嫌い!うちになんか生まれてこなければよかった!」
ココアは靴を履かずに、公園の奥へ駆け出してしまった。
顔を見合わせる夫婦。
何とも言えない空気が流れた。
弥生の記憶の蓋が、すーっと開いていく。
『お母さんの嘘つき!大嫌い!』
そう言ってしまった、10歳の自分の声が蘇る。
お母さんは、涙を浮かべて謝っている。
その後事故が起きて、お母さんは…。
胸がどきどきする。
息が苦しい。
指先は冷たいのに、背中とお腹がひどく熱い。
「…何しているんですか?早く行ってください!」
夫婦は、ぎょっとしたように弥生を見てくる。
何も分かっていない、間抜けな顔。
昏い熱を帯びた何かが、体の奥からぬぅっと立ち上がる。
「子供にあんな事言わせて、恥ずかしくないんですか!?あの子の気持ち、よく考えてください!」
自分の声なのに、自分で発している気がしない。
夫婦は何を思ったのか、へらへらと軽薄な笑いを浮かべた。
「そ、そんな声出さなくても…なぁ?」
「そ、そうよ」
かちん、と耳元で音が鳴った気がした。
頭の中が、真っ白になる。
なのに口は、声は、勝手に動き、出てくる。
「早く行って!これ以上、あの子に辛い思いをさせないで!」
夫婦は何も言わず、靴を拾ってその場を後にした。
気持ち悪い。
辺りの空気が、重く纏わりついてくる。
涙が出そうだ。
目の前が、ふっと暗くなる。
―弥生……
か細い声が、遠くから響く。
血だらけの腕が、目の前に伸びてくる。
あぁ。お母さんの腕だ。
ごめんなさい、お母さん。
嘘つきだなんて…大嫌いなんて言って…。
―イタイノ…クルシイノ…
大勢の声を重ねたような、まとまりのある不協和音が、弥生の体を包み込む。
お母さん…?
―タスケテヨォォォォォ!!
血だらけの手が、ぐっ、と弥生の気道を塞ぐ。
違う、これはお母さんじゃない!
怖い、苦しい…!
どん、と唐突に背中を叩かれる。
その衝撃で、思わず咳が何度も出た。
呼吸が落ち着いてくると、いつの間にか弥生は地面に座り込んでいた。
どうやら背中を叩いたのは、博臣だったようだ。
「大丈夫か?」
眼鏡を外した博臣は、辺りを警戒するように見回している。
その指先は、刀印を結んでいた。
自分が異常な状態にあったと、ようやく理解が追いついてくる。
「はい…大丈夫です」
音羽が、弥生のマイボトルを差し出してくれたので、中身のお茶を一気に飲み干す。
乾いていた喉が潤うと、ようやく体の感覚が戻ってきた。
見ていたものを説明すると、博臣は納得したように頷いた。
「弥生の感情につられて寄ってきた、もしくは寄ってきたものに影響を受けた、そのどちらかだな」
「霊とか、そういうものですか?」
「人間とは限らない。山には色々なものがいるからな。あっさり退散した辺り、強くはなかったようだ」
「すみません…この前せっかく、魔除けのやり方教えてくれたのに」
魔除けの言葉というものを、この前いくつか教えてもらったのだが、避難訓練と同じで、練習もなしに出す事はできないのだと、痛感する。
「いや。俺の方こそ、近くにいたのに対処できず悪かった」
「そりゃあ、クレーム受けてましたからね」
あれは言いがかりだ、とさすがの博臣も憮然とした様子だ。
弥生は、親子の走っていった方向を見やった。
そちらには、30分もあれば回れる、遊歩道がある。
日の光を受け、緑が眩しい道だが、辺りの木々にはいつの間にか、たくさんのカラスが止まっていた。
「…あの子。親と仲直りできるでしょうか」
「どうだろうな…まぁ頭は悪そうだったが、毒親というわけでもなさそうだ。何とかなるだろう」
直球すぎる感想は博臣らしいが、弥生も同じことを考えていたので、思わず笑ってしまった。
すると、小樽港の方向から、甲子園の試合前に流れるようなサイレンが微かに響いた。
運河沿いに建つ、北海製缶の工場が流している、正午の時報だ。
「では博臣様、正午ですので弥生と昼食に行ってまいります」
「あぁ。今日も1時間くらいで戻ってきてくれ」
館内のレストランは混むので、今日も展望デッキに並んだテーブルと椅子で、音羽のお手製弁当を食べる流れである。
「弥生、今日は持っていかないのですか?」
「あ!忘れるところでした。じゃあ今日は、これと…これ、頂きますね」
弥生が手にしたのは、刻んだくるみを混ぜたウォールナッツと、ドライフルーツをふんだんに使った、ミックスフルーツだ。
これが、博臣の仕事を手伝う報酬だ。
給料は出せない代わりに、当日中焼き菓子は好きに食べていいと言われている。
「作っておいて何だが、よく飽きないな。毎回二個ずつは食べているだろ」
「そうですか?種類も色々あるし、全然飽きないですよ」
「太ろうが虫歯になろうが、俺は責任取らないからな」
「分かってますってば!もう…」
音羽は人間のものはあまり食べないので、それは完全に弥生のための弁当だ。
ザンギや卵焼きなど、一般的なメニューではあるが、これが不思議と美味しい。
今日で食べ納めなのが、実に残念である。
イメージ画像
弥生と音羽がお弁当食べてそうな、天狗山の展望ベンチ
https://kakuyomu.jp/users/moonlight_walk/news/16818093093329791958
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