2.旧手宮線の夜


 小樽運河は、観光用の運河と、現在も実際に船が停泊可能な、北運河とに分かれている。

 物流の手段が船から自動車にシフトしていった昭和四十年代。広い道路の確保に迫られた小樽市は、存在意義を失いかけ、どぶ川になっていた運河を埋め立てる計画を発表した。

 反対する市民達との論争は十年にわたって続いた。のちに「小樽運河論争」と言われる市民運動の興りである。


 最終的には、南側の水路の半分は埋め立てて道路を拡張し、半分は観光用の運河として残す、更に北側は船やボートが停泊できる、運河本来の姿を残す、という案で決着がついたのだった。

 弥生の目的地のライブハウスは、その北運河沿いに建てられた、石造りの倉庫をリノベーションした施設だ。倉庫自体が、小樽市指定の歴史的建造物なので、とても趣があるのだ。



 受付でチケット代を払った弥生は、二の腕に「撮影スタッフ」と書かれた腕章を付け、ホールに入った。

 バンドの奏でる音に全身が包まれる。耳はすぐに慣れてきた。

 客層は四十代から五十代の男性が中心だ。観客の中には、バンドのファッションスタイルと同じ格好をしている人も多い。まだ人だかりに隙間があるが、もう少し増えていくだろう。

 弥生は、ステージで熱唱する幼馴染の田宮剣一に、小さく手を振って、到着を伝えた。


 黒革のライダースジャケットに、リーゼント。

 いわゆる「ツッパリ」のファッションスタイルのこのバンドは、最近の昭和レトロブームの影響か、じわじわと認知度を上げていた。

 弥生は元々このような音楽を好んでいたわけではないが、幼馴染が情熱を傾けている姿を見られるのは嬉しい。



 半年前に、市内の居酒屋で弥生の職場の飲み会があった日、たまたま同じ店に来ていた剣一と、偶然再会したのがきっかけだった。

 幼馴染といっても、幼稚園で二年間一緒だっただけで、卒園後は剣一が引っ越してしまった事で、付き合いは途切れてしまっていた。

 だが二十年近く経っていたというのに、剣一は弥生の事を覚えていてくれた。

 その頃にバンドを結成した剣一は、弥生がデジタル一眼レフを持っていると知るや、撮影スタッフになってほしいと頼んできたのだった。

 そのようないきさつで、弥生はファン一号兼撮影スタッフを務めているのだ。


 ふと視線を感じて、そっと周りを見渡す。

 あの灰色人間が、ホールの暗がりの中に立っているのが見えた。

 しかも、今日は複数いた。

 慌てて前を見て、気づかないふりをする。

 だが、視線を感じたという事は、あちらも弥生を見ていたという事だ。

 近づいてこないのは、リュックの中に入っている、魔除けのお札のおかげなのかもしれない。

 

 ひとしきり写真を撮り終えた後は、後ろの方でひっそりと見るのが、弥生の通例だった。

 音楽に身を任せていると、様々な考えが浮かんでは消える。

 いつしか弥生は、今日は一日中ついてなかった事を思い出していた。

 朝はミーティング中に一瞬居眠りしてしまったのを見咎められてしまった。

電話応対にも身が入らず、取り次いだ内容が全然違うと、後で先輩に指摘されてしまった。

 お店のPR写真をアップした後に、違う写真を載せてしまって、お店から苦情が来てしまった。間違えないようにと、二度も目を通したのにだ。


『あんまりミスした事、引きずっちゃダメよ』

『私は知ってるよ。弥生が頑張ってる事』


 優子はそう言って慰めてくれた。

 今の仕事を紹介してくれたのも優子だ。仕事でも折に触れ、弥生の事を気にかけてくれる。

 学生時代は、いじめや嫌がらせのトラブルが絶えなかった。特に小学生の頃は、生者と死者の霊の区別がつかず、他の子には見えないものの話をして、気味悪がられた。

 優子は弥生が困っている状況を察知し、先手を打って色々なアドバイスをくれたり、トラブルに対処してくれたりした。

 矢面に立つ事で、弥生が知らないところで、迷惑をかけた事もあったかもしれない。

 優子はいつも、名前の通りに優しい言葉をかけ、守ってくれた。


―私だって、優子みたいになりたいのに。


 弥生は深呼吸をし、目の前のステージに集中した。

 今は楽しい現場なのだ。いったん忘れよう。


 ライブは盛況で終わり、受付のあるエントランスにいると、後ろから声をかけられた。

 ライブ衣装のままの剣一だ。まだ余韻を引きずっているのか、軽く息が上がっている。


「お疲れ様!今日も良かったよ」

「いつもサンキューな。弥生の写真のおかげで、客足が増えてるよ」

「お役に立ててるなら嬉しいよ。データ、早めに送るね」

「おう、頼むな」


 剣一は、どちらかといえばいかつい顔立ちだ。だからこそバンドの雰囲気にも合っているのだろう。だが、実際は気さくでとても話しやすい。弥生も、男性相手なのに変に緊張せず話せるとすぐに気づいた。


「最近は仕事忙しいのか?」

「そうだね。ひな人形ラリーの準備とかあるしね」

「目のつけどころが面白いよな」

「うん。今日は展示する人形の中でも、一番古くて貴重な人形が届いたんだよ」


 明治から大正にかけて、市内に居を構えた豪商の子孫から借り受けた品という事だった。

 コンディションを確認するために開いてみたが、現代のひな人形とはどこか違う、古風な顔立ちだった。お雛様の方は、より能面に近い印象だ。

 着物のくすんだ感じと相まって、少し不気味にも見えた。


「明日から色んなところで飾り付けだから、バタバタしそう」

「そっか。がんばれよ」

「うん。あ、そうだこれパンフレット。剣ちゃんの職場でも広めといてね」


 剣一の職業は、意外な事に消防士だ。家族持ちも多いだろうから、女の子のいる家庭なら興味を持ってくれるかもしれない。


「じゃあ、バスがあるから私そろそろ行くね」

「あぁ。また連絡するよ。気を付けてな」



 外に出ると、夕方から降り出した雪は、本降りに変わっていた。

 駐車場の方で、五人ほどの若者が騒いでいる。英語が聞こえるので、観光客だろう。

 雪を見てテンションが上がっているのか、雪玉をぶつけ合っている。


―いやだなぁ。車に当たったらどうするんだろう。


 足早に通り過ぎようとしたその時。

 弥生のリュックに、何かが当たった衝撃とくぐもった音がした。

 振り返ると、リュックが雪まみれになっている。

 雪玉が当たったのだ。


―カメラが入っているのに…!


 頭に血が上るのを感じるが、当の若者たちはただ笑って、ソーリーと連呼しながら手を振っている。あの様子では、酒も入っているのかもしれない。


―何がソーリーだよ!カメラ壊れたらどうしてくれるの!?


 とはいえ、弥生の英語力では、それを伝える事は出来そうにない。

 どうせ見えていないだろうが、若者たちを睨みつけ、弥生は立ち去る事しかできなかった。

 しかもついていない事に、すぐ近くの道路では大規模な除雪が行われていて、通ろうとしていた道が通行止めになっていた。この時期の小樽では、よくある事である。


 弥生は仕方なく、隣接する道を歩き出した。

 道といっても、車の入って来ない遊歩道である。


 旧手宮線。旧国鉄時代の、貨物線路だ。

 今は全長約二.八キロメートルの散策路として整備されており、市民や観光客に親しまれている。


 とはいえ、冬の夜に歩く者はあまり多くない。

 現に今も、弥生以外に誰もいない。等間隔に立っている、木製の電柱が発する、オレンジ色の灯りで照らされているだけなので、かなり暗い。

 早く抜けてしまおうと、弥生は歩くスピードを上げた。


『ほんっと御手洗さんって耳悪いのね。一度耳鼻科にいったら?』

『すみません。相手の方が早口で…』

『ほら。すぐ人のせいにする。信頼失うよ?』


 お局の粘着質な声とともに、今日言われたことを思い出してしまう。

 指摘はもっともだと思うが、耳鼻科に行けはないんじゃないですか?と言いたかった。


―でも、悪いのは私だもの。


 弥生はコミュニケーションが苦手だ。

 施設でも学校でも、そして社会人になってからも、躓くのはいつも人間関係だ。

 ある程度流れが決まっているもの、その中で何を話せばいいのか予想がつく事。

 それなら対処ができる。

 しかし、予想外の事が起きたらもうダメだ。

 感情が揺さぶられて挙動不審になったり、ちぐはぐなことを行ったり、言い訳や保身に走ったり。

 オドオドしてしまうのがよくないと分かっているが、癖はなかなか直せない。


―なんで今日はこんな事ばかり考えちゃうんだろ。


 せっかくの楽しかった気持ちは、もうしぼんでしまっていた。

 誰もいないのをいいことに、ため息をついてしまう。

 隣の通りは人の声でざわめいているが、聞こえないだろう。


―あれ…隣の道、全部通行止めじゃなかったっけ?


 立ち止まって、通りの向こうを見る。

 すると、ざわめきが止んだ。

 全く音がしない。雪よけに被ったフードを取ってみるが、やはり静寂だ。

 除排雪の重機の音も、ヘッドライトが乱反射する光も見えない。

 やけに暗い。


「この辺りはもう終わったって事なのかな?」


 じじーっ、と弥生の頭上で電柱の灯りだけが低く唸っている。


「………」


 再び歩き出す。今度は、あのざわめきが再び聞こえてきた。

 先ほどより距離が近い。


「え…?」


 思わず立ち止まると、また辺りが静寂に包まれた。

 まるで、音が後をついてくる、だるまさんが転んだをさせられているようだ。

 嫌な予感が、じわりと滲んできた。

 弥生は小走りにその場を後にした。

 鼻の曲がる臭いが、隣の道路の方から吹き付けてくる。

 昨日も嗅いだ、腐った水のにおいだ。

 フードを取り払い、その方向を見やる。


 建物と建物の間から、あの灰色人間達がのそのそと歩いてきた。


 ライブハウスよりも増えている。

 どさっと折り重なって倒れたかと思うと、四つん這いの態勢になり、一斉に弥生の方を見てきた。


「いやっ…!」


 弥生は走り出しながら、コートのポケットに入れたままのスマートフォンを取り出し、剣一に電話をかけた。

 だが呼び出し音が鳴るばかりで、繋がらない。


―どうしよう…!


 反対側のポケットに手を入れると、何かが入っている。

 取り出すと、昨日しまったままになっていた、名刺入れだった。

 その時弥生の脳裏に浮かんだのは、昨日の出来事だった。

 灰色人間に追われ、そのあとに現れた映画俳優のような男。


 パティスリーの店長。


 その単語に突き動かされ、弥生は走りながら名刺入れを開いた。

 もらった名刺は、一番上に挟まっていた。そこに書かれている番号を、スマートフォンに打ち込む。

 指が震えて何度か間違えながら、ようやく発信ボタンを押した。

 だが呼び出し音が鳴った途端、弥生は後悔し始めていた。

 昨日名刺交換をした相手から、そんな電話がかかってくるなど想像できるだろか。

 ところが、やはり切ろうと思った瞬間、電話はつながってしまった。


『もしもし?』

 昨日と同じ、静かなトーンの声だ。

「あの…夜分にすみません!小樽トライアルの御手洗です」

『あぁ昨日の。こんな時間にどうしたんだ?』


 ここまで話しては、もう後に退けない。


「突然すみません!あの、変なやつに尾けられていて……!」

『昨日の奴か?今どこにいる?』


 弥生の言葉が終わる前に、土門が冷静な言葉を被せてきた。

―え、来てくれるの?

 耳を疑ったが、藁にもすがる思いで、弥生は現在位置を説明した。


『分かった。美術館の辺りだな?すぐ向かうから、電話は切らなくていい』


 電話の背後では、あの女給さんらしき声がする。

 どうやら東雲町の店にいたらしい。

 その間にも、灰色人間達は、折り重なるようにして弥生の後をついてくる。


 その時弥生は、先ほどから感じていた違和感の理由に気づいた。

 旧手宮線の一区間は、それほど長くない。

 五分も歩けば道路に出られる。走ればもっと早い。

 それなのに、弥生は先程からずっと走り続けている。

 それに、旧手宮線の周囲には飲食店が多い。夜も営業しているので、普段はそれなりに人が歩いている。

 だが今は、周辺の建物には明かり一つついていない。まるで、立ち並ぶ棺に囲まれているようだ。


 電話の中からは、車のエンジンをかける音がした

『御手洗さん、聞こえるか?』

「は、はい!」

『車で向かうから、数分で着く。そちらの状況は?』

「それが…!」


 ざーっという耳障りなノイズ。


 音の向こうで土門が何か言っているが、全然聞き取れない。

「土門さん、あの…!」


イッショニイナヨ


 聞こえてきたのは、土門の声ではない。昨日と同じ、変声機を通したような妙な声だ。

 這うような音が耳から脳に伝わり、一斉に鳥肌が立つ。


「あっ…!」

 手が強張って、スマートフォンの本体がするりと指から離れてしまった。


 あれがないと、土門と会話ができない。

 だが、振り返って拾う余裕は、もはや残されていなかった。

 美術館の建物は一向に見えてこない。

 いきなり全力で走り出した、弥生の体が悲鳴を上げ始めた。

 いくら空気を吸っても、体に酸素がいきわたっていない。足に力が入らず、よろけそうになってしまう。

 等間隔に続くオレンジの灯りと闇が、ぐんと伸びていくように見える。

 あいつらに追いつかれたら、どうなってしまうのだろう。

 その時だった。

 視界の片隅で、小さな影が動いたように見えた。


「え…?」


 オオォォォン、と低く呻く動物の声。

 猫だ。だがこんな真冬に?


―ダメ!あの子が捕まっちゃう!


 急停止した弥生の目の前に、不意に黒っぽい何かが現れた。

 思いきりドンとぶつかってしまう。

 小さく息を呑むような、男の声。

 ぶつかる瞬間、フルーツのような香りが微かにした。


「おい、大丈夫か?」


 思わず一歩下がった弥生の前にいたのは、間違いなく昨日会った土門だった。

 今日は何故か、眼鏡をかけていない。


「す、すみません!私…」


 顔が近いので思わず視線を逸らしてしまう。

 車の侵入を防ぐ杭に、見たことのある白い紙が二枚、貼ってあるのが見えた。

 あの女給さんが、心配そうな顔でその脇に立っている。


 弥生は辺りを見渡した。

 土門の背後には、日本銀行旧小樽支店のいかつい建物が、雪の中ライトアップされている。

 すぐそばには、昭和レトロなたたずまいの、小樽市立美術館の建物がある。

 少し離れたところには、弥生がいつもバスを乗り降りしている『本局前』の停留所が見えた。

 いつもの風景だ。


 突然、テレビのボリュームを上げた時のように、様々な音がクレッシェンドで弥生に押し寄せた。

 立っていられないほどひどい息切れと眩暈がして、気持ちが悪い。それに猛烈に寒かった。体ががくがくと震えてくる。

 弥生は二人に支えられ、どうにか近くのベンチがある場所まで歩いた。


 昔の駅舎を模して造られた小さな休憩所だ。ガラス戸と屋根があるので、温かくはないが、雪が入ってこないだけで幾分かホッとする。

 土門が淀みのない声で、女給さんに何か指示しているのが聞こえる。

 自販機という単語だけは聞き取れたが、眩暈が酷くて身動きが取れない。

 女給さんに後を任せて、土門は線路を辿って歩いて行ったようだった。


 女給さんはしばらくの間、弥生の背中や肩をさすってくれた。強すぎず優しすぎず、ちょうどいい圧とスピードだ。


「少しは落ち着きましたか?」

「はい…ありがとうございます」


 女給さんは、ちょっと待っててくださいね、と言って中座すると、そばにあった自動販売機で、りんごジュースを買ってくれた。

 礼を言ってから早速開封する。

 程よい酸味と甘みに、身体が喜んでいるのを感じる。

 数口飲んだだけで、気持ち悪さが収まってきた。震えも止まった。


 弥生の気を紛らわせようとしてくれたのか、女給さんはいくらか世間話を振ってきてくれた。

 気になっていた名前を聞いたら、女給さんは音羽おとわと名乗った。

 音の羽、と書くそうだ。


「綺麗な名前ですね。苗字は何ていうんですか?」

「ふふ。どうぞ気軽に、音羽でいいですよ」


 それから十分もしないうちに、土門が戻ってきた。手には何かを持っている。


「店長、どうでしたか?」

「特に不審な奴はいなかったな。あと、これは御手洗さんのものか?」


 雪まみれになったスマートフォンは、確かに弥生のものだった。

 画面には、先ほどにはなかった蜘蛛の巣状のヒビが入っている。

 夢じゃなかったのかと、あの声を思い出して再び鳥肌が立つ。


「すみません…あんな変な電話して、呼んでしまって」

「構わない。何か被害が出てからだと遅いからな。さっきは途中でノイズが入ったが、何を言っていたんだ?」


 弥生は、周りの景色が普段と違って見えた事を説明した。

 土門は黙って聞いていた。


「妙な話だな。だが旧手宮線は、中心部だけでも確か一キロ半はあるだろ?まして今は冬だから、似たような景色が続く。電話をかけてきた時点の位置は、飲食店のエリアじゃない、もっと北運河寄りだったのかもしれないぞ」


 そう言われてみれば、そうかもしれない。

 しかしそれだけでは、周りの建物の明かりが死んだように消えていた説明ができない。

 だが、土門に反論する気力は弥生に残されていなかった。

 ひび割れたスマートフォンで、時間を確認する。そろそろバスが来る頃だ。

 バスで帰る旨を伝えると、土門は少し険しい表情をした。


「この状況でバスはないだろ。送っていく」

「いえ!大丈夫です。だいぶ落ち着いてきましたし…」

「呼び立てた事なら気にするな。遠慮しなくていい」


 弥生の家は、市街地からバスで片道二十分はかかる場所にある。

普通なら、送ってもらえてありがたいと感じるところだが、弥生は少し事情が違った。

「……」

 あまり断り続けるのも失礼だ。

 今日は車に乗るしかない。


 土門の車は、天井の高い白の軽自動車だった。配達などで使われていそうなタイプだ。

 吐き気がぶり返してくるのを感じながら、弥生は土門に促されて助手席に座る。

 手が震えているのを気づかれないように、シートベルトを閉めた。

 住所を伝えると、ナビゲーションを操作する土門からは、意外な反応が返ってきた。


「オタモイ?閉鎖された遊歩道がある場所か?」

「…よくご存知ですね。小樽の事、結構詳しいんですか?」

「いや。多少土地勘がある程度だ。カタカナの地名は珍しいからな」


 会話はあまり長続きせず、車内には先ほどから車の走行音や、ナビゲーションの音声などしか聞こえてこない。

 弥生が黙ったので、土門も音羽もそれに倣っているのかもしれない。

 その状況のまま、土門の車はオタモイの住宅街に入っていった。

 いつも最寄りのバス停からは更に五分は歩くが、さすがに車だと早い。あっという間に、弥生の家が見えてきた。


「ありがとうございました。お仕事中に、本当に申し訳ありませんでした」

「気にするな。それより、温かくして早く休んだ方がいい」

「はい。そうします。おやすみなさい」


 弥生が車を降りると、狭い道にも関わらず、土門は上手く車を切り返し、方向転換をした。

 走り去る車に、再度一礼をする。


 テールランプが見えなくなってから、鍵を開け、家に入った。

 その姿勢のまま、弥生はすぐに動けなかった。

 目の前が急に明るくなり、車内に響く両親の悲鳴。

 大きな音と衝撃。

 だらりと垂れさがった、血まみれの腕。

 事故の記憶は、薄れるどころか年々強まっているように感じられた。


「う……」


 込み上げてくる吐き気を、どうにか押し戻す。

 久しぶりに乗ったので半信半疑だったが、やはり車が怖い。

 普通の人は、当然の如くできる事。

 その事が、弥生にははるか高い壁に思えてしまう。


 体を引きずるようにしてリビングに向かい、電気をつける。

 無機質な蛍光灯に、乱雑に散らかった部屋が照らされる。

 冬の空気が停滞しているのと、灯りの寒々しい色が相まって、汚れた部屋が細部まで見えてしまう。

 最近はずっとこの状態だが、いつからか気にならなくなってしまった。


 温かくするよう言われたばかりだというのに、ストーブをつける気も起きず、そのまま寝室に直行する。

 いつもなら、両親の遺影にただいまを言いに行くのだが、今日は一刻も早く眠りたかった。

「………」

 物陰から、何かの視線を感じる。

 忍び笑いが聞こえる。

 お前は普通じゃないと嗤っている。

「っ……!うるさい!!」

 外したマフラーを投げつけるが、ぽすっと力ない音がしただけだった。

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