めぐる季節は呪詛の味~パティスリーシノノメの事件録
望月ひなた
2月は呪いの季節-エピソード1-
1.東雲町の店
冬は好き?
そのような問いかけがあったとする。
二月の北海道は、観光業においてはかき入れ時だ。
有名な『さっぽろ雪まつり』以外にも、雪や氷にまつわるイベントが全道各地で開かれる。
弥生が住む、ここ小樽も例外ではない。
二十数年前に始まり、すっかり恒例イベントとなった『おたる雪あかりの路』である。
雪や氷で作った丸い器や、有志の市民が作った雪像にキャンドルを灯し、市内各所がライトアップされる。
メイン会場の小樽運河には、ほのかに光る浮き球が浮かび、とても幻想的だ。毎年多くの人でにぎわっている。
平成二十九年の今年、第十九回目の開催だ。
だがそれは、あくまで仕事面での話だ。
弥生個人としては、冬は嫌いである。
寒さはもちろんの事、空気の乾燥は体調にも肌にも良くない。
そして最も嫌いなものは、雪かきという肉体労働だ。
戸建てで一人暮らしをしているので、自分でやるしかない。
毎朝カーテンを開ける時、やけに外が暗いとげんなりしてしまう。
そんな時は、雪がしんしんと降っているからだ。
だからこそ、市民と雪との戦いの跡ともいえる、道路の両サイドに積まれた白い山を見るのが、少しだけ誇らしいのだ。
弥生は、除雪をしてもなお、車一台分しか幅のなくなった裏路地を、黙々と歩いていた。
辺りに人はおらず、自分の吐く息と雪を踏みしめる音しかしない。
鈍色の空からは、ちらちらと雪も降りだした。
「はぁ…。行きにあった荷物が帰りはないからいいけどさ。私一人って無茶振りでしょ」
誰もいないのをいい事に、独りごちる。
数時間前にこの道を歩いた時には、大きなリュックと両手に紙袋があった。
中身は、ひな人形一式だ。
雪あかりの路に合わせて開催される、『おたるひな人形ラリー』の準備のためだ。
市内各所にある石造りの倉庫や古い邸宅に、様々なひな人形を飾り、歴史的建造物を巡ってもらうスタンプラリーである。
弥生の職場であるNPO法人『小樽トライアル』が企画運営をするイベントだ。
「道が狭いから車で行けないのも分かるけどさ…せめてもう一人つけてくれてもいいじゃん…」
仲のいい同僚の顔を思い浮かべながら、堂々と愚痴を吐く。
弥生の職場は、観光情報の発信やイベントの企画運営…要するに、観光に絡む諸々を担う、何でも屋のような仕事だ。そこで働くスタッフも、決まったルーティーンではなく、案件ごとに違う対応が求められる。
当然、肉体労働が発生する事もあるわけだ。
慣れないひな人形の設営、そして完成していく様子を一眼レフカメラで撮影しているうちに、すっかり時間が経ってしまった。
時刻は午後二時。あと二時間もすればすっかり夜の様相になってしまう。
弥生が今歩いている場所は、小樽の有名な観光スポット『
ほぼ住民しか来ないようなエリアだが、上下左右に伸びる坂が多かったり、長年放置されて壁にツタが絡まっている石倉があったり、思わせぶりな四つ辻があったりと、ある意味小樽らしく―これは弥生の感想なのだが―どこか、異世界のようにも見える事もある。
早くオフィスに戻ろう。
そう思って視線を道路の先に向けた弥生の目に、それは飛び込んできた。
少し先に立つ木製の電柱の脇に、「灰色の人間」がいた。
背中の皮膚が、一気にざらつく。
―うわ…何、あれ。
明らかに、人間ではない。
弥生は、そういう存在が昔から見えた。霊感体質とでもいうのだろう。
慣れてはいるが、不意打ちされる事には未だに慣れない。
というより、あのようなタイプは初めて見かけた。
頭、胴体、手足と人間のパーツは揃っているが、顔の部分に目鼻口はなく、服も着ていない。微妙にユラユラしているのが不気味だ。
弥生は遠くだけを見つめ、歩く事に集中した。もちろん表情は変えない。
―見えてない、見えてない…大丈夫。いける。
「ンー……ッシ…イ…」
変声器を通したような妙な音階の声に、走り出したい衝動に駆られる。
だが歩調は変えない。気づかれてはいけない。
通り抜ける瞬間、もわっとした、どぶ川のような臭いが鼻をついた。
「うっ…」
嗅ぎ慣れないその臭いに、思わず顔をしかめて声を出してしまった。
次の瞬間、灰色人間が音もなく地面に倒れこんだ。
「……っ!」
とっさに歩を止めた弥生の足元で、そいつはむくりと顔の部分を上げた。
そこに目はない。だが、明らかに目が合った。
みぞおちの辺りから、全身に怖気が走る。
声にならない悲鳴を漏らし、弥生は駆け出した。
ぢゅぢゅぢゅぢゅっ!
弥生のあとを追って、湿った雪がはねる音が近づいてきた。
考えている余裕はなかった。だが坂道は下りになり、一歩間違えたら転げ落ちてしまいそうだ。
二重の恐怖で足がもつれそうになる。
冷たい空気が喉と肺を刺激し、寒いを通り越して、痛い。
少しでも走りやすい道を求めて、弥生は四つ辻の角を曲がった。
目の前に、二階建ての住宅が飛び込んでくる。
家を囲むブロック塀の門の両脇に2枚、何かの白い紙が貼ってある。
申し訳ないと思いつつ、弥生はその塀を超え、陰にしゃがみこんだ。
雪の上を這いずる音が、塀を挟んだ背後に迫る。
恐怖のあまり、とっさに目を閉じた。
ン~…ン~……
―入って来ない…?
様子を見ようと顔を上げかけた、その瞬間。
パン!と乾いた音が一回響いた。
神社を参拝するときにやるような、手を打ち鳴らす音だ。
音はよく通り、辺りの静かさも相まって、余韻が残っていた。
すると弥生は、あの妙な気配と、水の腐った匂いが消えている事に気づいた。
だが何かの足音はする。
恐る恐る塀から身を乗り出してみると、目の前に黒い二本の足が現れた。
「そこで何してる?」
思わず声が出てしまったが、頭上から降ってきたのは、若い男の声だった。
黒いダウンジャケットを着て、怪訝そうに弥生を見おろしている。
今度は、生きた人間のようだ。
「大丈夫か?顔色が良くないぞ」
何といえばいいのか、弥生は迷った。
灰色のやつに追われていました、と言えるわけもない。
「はい…すみません。もう大丈夫です」
ヘラヘラした作り笑顔が精いっぱいで、それしか言いようがなかった。
「変質者でもいたのか?」
あながち的外れでもないが、よくその発想が出てきたなと思う。
「えぇ…まぁ…そんなところでしょうか」
挙動不審な弥生を目の前にしても、男の表情は変わらない。
「まずいだろそれは。警察呼んだ方がいいか?」
「いえ!それは大丈夫です!」
慌てて立ち上がると、男の顔がよく見えた。
年齢は三十代前半ぐらいだろうか。映画俳優のようになかなか整った顔立ち、そして高身長である。弥生と頭一つ分は違う。
切れ長の目は鋭く、冷たい印象だが、黒縁眼鏡が不思議とそれを中和していた。
肩口まで無造作に伸びた癖毛と、目の雰囲気が相まって、戦国時代の映画に出ている俳優だ、と言われたら信じてしまいそうだ。
だが、そのとっつきにくそうな雰囲気は、男性が苦手な弥生にとって、最も相手にしたくないタイプである。
不意に、正面の引き戸がカラカラと開き、中から着物姿の女性が出てきた。
「あら店長。お帰りになっていたんですか?」
黒地に縦縞と赤い大きな花をあしらった、どこかレトロな着物の上に、白いレースのエプロンと、黒いリボンがついたカチューシャ。
どちらもフリフリのレースではなく、糊が利いた硬いレースだ。
大正時代のコーヒーサロンにタイムスリップしたのかと思ってしまう。
女給さんは弥生に気づくと、こんにちは、と微笑む。
緊張感がほぐれるような、柔らかい笑顔だ。
「お客様ですか?」
「いや。この近くに変質者がいたらしい」
「あら、それは怖いですね。お姉さん、大丈夫でしたか?」
「はい一応は…」
それにしても、雰囲気が対照的な二人だ。
店長、と呼んでいたのをみると、女給さんはスタッフという事だろうか。
だが、店の看板らしきものは見えない。
「あの、ここはお店なんですか?」
弥生の質問に、店長と呼ばれた男が頷いた。
「厳密には、店になる、だな。オープン前なんだ」
オープン前の店という単語が、弥生の仕事脳に引っ掛かった。
住宅街のど真ん中で、一体何の店なのだろう。
「お姉さんは、観光の方ですか?」
女給さんの視線が、肩から下げたカメラに注がれている。
「いいえ。でも、小樽市民ですよ。観光関係の仕事をしているので、それで写真を」
「まぁ、そうなんですか」
ちょっとした所作や言葉遣いは、控えめだが話していて安心する。
「申し遅れました!わたし、NPO法人『小樽トライアル』の、御手洗と申します」
名刺を出す機会はあまりないので、動きがたどたどしくなってしまう。
「観光情報の発信や、イベントの企画開催を行っているんです」
店長に続いて女給さんにも名刺を渡す。
「あら、風情がある素敵なお名前ですね」
こんな綺麗な人に名前を褒められると、どこかこそばがゆい。
「あはは。学生時代は、お手洗いとかトイレなんて言われて、からかわれましたけどね」
弥生の前に、すっと名刺が差し出され、緊張感が戻ってくる。
店長の動作はこなれていて、しょっちゅう名刺交換をしているのが伺えた。
よろしくお願いします、頂戴します、といった短いやりとりをして、弥生は改めて、もらった名刺を凝視した。
パティスリーシノノメ オーナーシェフ
×××―××××―××××
名前と連絡先のみが印刷された、非常にシンプルな名刺だ。
俳優のよう、という第一印象だったが、名前もやはり俳優のようだ。動じないこの男にぴったりな気もする。
「ここ、パティスリーになるんですね」
確かに貫禄はあるので店長は理解できるが、パティシエも務めるとは。
「あの、もしよろしければ、スイーツの写真、見せて頂けませんか?」
相手としては苦手だが、どんなスイーツを作るのかという興味の方が勝ってしまった。
快く、なのかは分からなかったが、土門は自分のスマートフォンを操作し、写真を何枚か見せてくれた。
「わぁ…!美味しそうですね!」
いちごやマスカットなど、様々なフルーツが載ったショートケーキやチョコレートケーキ、更にタルトなどの焼き菓子もあった。
「デザインも、スタイリッシュすぎなくて、素朴で可愛らしいですね」
「…それはどうも」
寡黙そうなところは、職人気質の表れなのかもしれない。
「…御手洗さんは、甘いものが好きなのか?」
「はい!大好物です!小樽市内のお店の情報発信も行ってますので、もし良かったら近々取材させて下さい。オープン前にどれだけ宣伝できるかが重要ですから!」
弥生の力説に対し、何かを考えているような間が開く。
「…まぁ、手数料次第だな。近々詳しい話をしに来てくれ」
「は、はい!よろしくお願いします」
最初は怖そうな雰囲気かと思ったが、意外と話を聞いてくれそうだ。
弥生は、もう少しだけ喋ってみようと思った。
「あの、あと一個だけ宣伝いいですか?明日、北運河近くのライブハウスで、ワンマンライブがあるんです」
スクリーンショットをしておいたパンフレットを二人に見せる。
「私の幼馴染がボーカルやってるのもあって、いろんなところで宣伝してるんです。もしご興味あれば、明日来てください!」
二人は画像を見て、しきりに頷く。
「なるほど…こういうのを口コミ、と言うんですね、店長」
「やっぱり口伝えは説得力があるな」
「口コミしてもらえるように、我々も頑張らないとですね!」
まぁそういう事なのだが、いまいち興味はないという事だろうか。
反応に困る回答なので、苦笑するしかなかった。
そろそろ本当にオフィスに戻らなくては。
弥生は二人に礼を言うと、店を後にした。
今度は何にも遭遇せず、坂を下りられた。
大きな車道のある通り(通称寿司屋通り)に出たところで、ようやく緊張が薄れてきた。
灰色人間は怖かったが、やはり先ほどの店長の存在が大きい。
―すっごいイケメンだったなぁ。
学生時代、女子だけではなく男子にもいじめられた経験があり、それからすっかり異性が苦手になってしまった。
もちろんイケメンは嫌いではないが、正直フィクションの世界で眺めるぐらいがちょうどいいと思っている。
反対に、女給さんはもっと話してみたかった。
―名前ぐらい聞いておけばよかったな。
また近々会えたら、その時に聞こう。
△▲△▲
「へぇ、そんなイケメンだったのに、よくちゃんと話せたわね」
親友のストレートな物言いに苦笑しつつ、弥生はデザートのティラミスをつついた。
両親が早くに他界し、最終的に施設に身を置くことになった弥生にとって、この長い髪の女性―
定期的に、今夜のように二人で食事に行ったり、休日に出かけたりしてきた。
そして今は、同じ職場の仲間でもある。
「きっと、一緒にいた女給さんが良かったんだと思うよ。素朴な感じの美人だったよ」
だが弥生は、それだけでもないような気がしていた。
あの土門という店長は、女給さんと違って言葉数は少ないし、表情豊かとは言い難い。
だが思っていたほど、とっつきにくいという事はなかった。
「パティスリーでコーヒーサロンの女給風なスタッフって、変な取り合わせね。店長の趣味なのかしらね」
「どうなんだろうねぇ…でも、お店の近くで変な幽霊見たし、また遭遇したら嫌だなぁ」
「どんな奴なの?」
「目鼻口のない、灰色の人間」
優子は顔をしかめた。
「最近そっちの方はどうなの?」
そっち、とは、弥生が見る幽霊全般を指す。
「最近なんか見る頻度も多いし、そのせいか肩も頭も重くてさ。嫌になっちゃう」
「そう。じゃあ、これ今の弥生にピッタリかもね」
優子は鞄から長封筒を取り出すと、弥生に手渡した。
硬質な手応えの中身は、ラミネート加工された縦長の紙片だ。
七夕の短冊のような紙に、呪術的な意匠の図案が描かれている。裏面には、五芒星があった。
「ほら、芦名所長がまたふらっと旅行に行ってたでしょ?その時のお土産だって」
芦名所長とは、小樽トライアルの代表者。つまり弥生と優子の上司だ。
封筒の隅には、『御手洗さん』と小さく書いてあった。職員全員に配る用らしい。
「今日弥生とご飯に行くって言ったら、渡しておいてって預かったの」
「そっか。でもこれ、何なんだろう」
「魔除けのお札なんだって。鞄に入れるとかして、常に持ち歩くといいって言ってたわ」
なるほど。それで丁寧にラミネート加工されてあるのか。
芦名所長は、神社仏閣巡りが好きらしく、たまにふらりと旅に出る。
彼の鞄や職場のデスクには、旅先で買ったらしいお守りやお札が大量にあるので、神様同士が喧嘩して、逆に悪い事が起こるのではないかと、疑問に思ってしまう。
「明日所長にお礼言っておくよ。魔除けの効果、あればいいんだけど」
「まぁ、こんなので見えなくなれば、弥生も苦労しないわよね」
「ほんとだね」
弥生は笑いながら、お札を手帳の間に挟み込んだ。
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