008.策士瑠夏
あぁ、今日もいい天気だ。
まだ夏が本格化する前、穏やかな陽射しが差し込む昼下がり。
少しだけ湿度があるのが気になるところだが、風通しもよく窓を開ければフワリとした風が心地よさを運んでくれる。
カランと眼の前に置かれたグラスから氷の滑る音がする。穏やかな風と陽射し、そして冷たいコーヒーという、これ以上なにもいらないとさえ思える組み合わせ。
眼の前の画面には雪奈の学習の一助になればと子供向け番組が流れている。
瑠夏は学校。俺は解読作業。何事もない穏やかな日になるはずだった。それなのに――――
「むにゃ……おいしー……」
「…………どうしてこうなった」
それなのに、俺の心は穏やかとは正反対の位置に存在していた。
天を仰ぐ俺と、この心を全く知る由もないもうひとり。
ソファーに腰掛けた俺の膝上には一人の少女の頭が乗っていた。さらに少女はあろうことか、俺の体に手を回して腹に顔を埋めている。
完全に膝枕で眠っている姿勢。自慢じゃないが俺は女の子と付き合ったことがない。故にここまで無防備で抱きつかれたら、少なからず穏やかな心はどこかに行ってしまうのだ。
心臓が高鳴り思考がブレる。昨日の瑠夏は雰囲気とか流れとか諸々伴っていたから問題ないが、不意にやられるとなると話は別だ。何をして良いのかも声の掛け方さえも全て吹き飛んだ。
コッソリ覗き見るように視線を下げれば無防備に眠りながら時折楽しそうに笑っている。普段の庇護欲も相まって必死に目を向けている呪術本が頭に入らない。
穏やかな気候。
それは雪奈にとって穏やか"過ぎた"らしい。
瑠夏も学校に行って二人の時間。今日から本格的に解読作業に移ろうかというところで早くも雪奈がギブアップした。
突然肩にコテンと倒れる感覚。そこで「しょうがないなぁ」と見逃して放っておいたのが不味かった。10分もすれば本格的に倒れ込んで気持ちよさそうに腹へ抱きつく雪奈の出来上がり。
朝の件もしかり、随分と睡眠に飢えているらしい。
できればその欲求を尊重したいところだが、この状態は非常に困る。背中を曲げられない分コーヒーに手が届かないのだ。
加えてトイレが近いことも挙げられる。このまま熟睡でもされたら色々と……うん、色々と大変なことが起こるのは目に見えていた。
更にダメ押しで視覚的な効果も不味いことが挙げられる。
抱きついている彼女を上から見下ろす形。夏近くだから瑠夏の半袖シャツを着用している彼女はゆったりめの服をセレクトしたようで、身動きするたびチラチラとライムグリーンの下着が見え隠れしている。
見てはいけないことくらい理解している。しかし目立つ色が目に入ってしまうのだから仕方ない。
おそらくこの服全ては瑠夏のを借りたのだろうが、果たしてこれは誰の下着を見ていると考えるべきなのだろうか。着用している本人か、それとも所持している本人か。
前者なら雪奈の下着を見てしまったことになるし、後者なら瑠夏の下着を、ということになる。ならば俺の謝罪する相手はどこだろう。瑠夏も自然と含まれる、ということになるのかもしれない。
……仕方ない。気持ちよく眠っているのを邪魔するのは心苦しいが、起こすしかないか。
「雪奈。ほら、起きて」
「んっ……。くぅ……」
どうやら眠りは思ったより深いみたいだ。
一瞬だけ反応を示したかと思えばまだ寝息を立てて起きる気配もない。
「ゆーきーなー!おーきーろー!」
「…………むにゃ……」
体を大きく揺らしてみたがこれでも駄目みたいだ。
抱きつきは解けたものの肝心の目覚めまではまだ遠い。こうなったら力ずくで吹き飛ばして落下の衝撃で無理やり起こすしか……
……いやちょっと待て。
今一度視線を下げれば眠っている雪奈が目に入る。変わらず俺の腹に顔を埋めている形だ。
しかしよくよく見ると頬が何やらピクピク動いていることに気がついた。痙攣しているような、何かを耐えているような、そんな感じ。
ふむ……これはもしかして―――。
「…………仕方ないな。昨日余ったカステラを二人でコッソリ食べようと思ってたけど、起きないなら仕方ない。二人には内緒で俺一人で食べちゃうか」
「なっ――――! じょ、冗談!冗談です!! 私も起きてます!起きてますからぁ!!」
―――やっぱりか。
どうやら雪奈は狸寝入りを決め込んでいたみたいだ。
俺が演劇部もビックリの(自称)神演技を披露すると、大慌てで目を見開きこちらに詰め寄ってきた。
「っ……!?」
「あんな美味しいカステラを独り占めなんてずるいです!私にも分けてくださいっ!!」
予想通り大慌てで起きてくれた雪奈だったが、その詰め寄りように今度はこちらが息を呑む羽目になってしまった。
必死で俺を止めようと背中に手を回し、見上げるように詰めてくる雪奈。
至近距離で見る雪奈は本当に見る人の心を奪うとさえ思えた。人すべての目を引くであろう碧の瞳。通った鼻筋と小さな口。そして絹のように透き通る白髮まで。そのどれもが美しかった。
"悪魔の子"
ふと夢で見たあの景色が目に浮かぶ。
あれが真実とは限らない。けれど状況的にどうしても違うとは言い切れない。
どうしてこんな美しい子がそう言われなければならないのか……。そう考えるだけで居るはずもない人物へ怒りが沸き起こる。更にそんな中でも今こうして無垢を保っていられる心の在り様に尊敬の念を感じざるをえなかった。
そんな彼女だからこそ、俺は――――
今もカステラを食わんとする俺を止めようと必死で止めてくる彼女の頭をそっと撫でる。
「冗談だよ。二人で食べよう。 ………でも、瑠夏には内緒な」
「!! はいっ!」
嬉しそうに破顔する彼女を見て俺も自然と笑みが溢れる。
川に飛び込んだ時に映った彼女の姿。
何の感情も移さない瞳。そして諦めた様子の彼女を思い出して俺は一つ決意する。
彼女が元の時代に戻れるかわからない。戻ったところでまた蔑まれるかもしれない。
けれど……けれどもしこの時代に残ってくれると言うならば。
俺は彼女をこの先ずっと守っていこうと決意するのであった。
―――――――――――――――――
―――――――――――
―――――――
「……それで、なにか言い訳は?」
「…………ありません」
雪奈への決意を固めてから数時間。
陽も傾いて夕方にふさわしい様相となった世界で、俺は一人リビングにて正座を披露していた。
目の前には幼馴染である瑠夏が仁王立ちで立っている。こうなった理由は簡単……そう、バレたのだ。
放課後帰ってきた瑠夏が何気なく開けた冷蔵庫を見て言ったのだ。「あれ?カステラは?」と。
演技は(自称)神な俺だが、アドリブには弱かったみたいだ。不意に向けられる視線。戸惑ってしどろもどろになる俺。
そこから尋問になるのは自明の理といえよう。結局隠しきれなかった俺は彼女の前で正座する羽目になったのだ。
「ふぅ~ん。二人ともカステラ食べちゃったんだぁ。三切れとも……私の分もねぇ」
「…………」
そう。俺たちが食べたのは三切れ。つまり瑠夏の分だ。
あれから瑠夏の分であろう一切れを俺が食べて良いって言ったものだから。
言い逃れようのない事実。黙って彼女のお言葉を受け止めていると、スッとバッグから何やら一つの箱を取り出してくる。
「じゃあこれはいらないのかなぁ。今日買ってきた新しいおやつのプリンは」
「新しいおやつ!?」
遠くから驚きの声と輝いた視線が届く。
瑠夏の手に持っていたのはプリン。しかもあの箱に描かれたロゴはケーキ屋の……ケーキ屋のプリンだ!
見た目からしてわかる……!アレは絶対美味しい……!
「どうする?千晶。食べちゃった分のカステラ買ってくれるっていうのなら、食べさせてあげるけど?」
「っ……!買います!瑠夏にカステラ買って差し上げますっ!!」
「ん。では千晶にもプリンを授けましょう。雪奈ちゃんも、プリン食べましょ。美味しいわよ」
「!! はいっ!!」
悲しいかな人類が甘味に勝てる日なんて永遠に来ないのだ。
あぁ……神様……瑠夏様……。
手の内に授けられたプリンを見ながら彼女を崇め奉る。女神はここにいたのか……。
「まぁ、食べられる前提で置いてたんだけどね」
「…………ん?」
二度目となる今日のおやつタイムということでテーブルへ向かいに立ち上がろうとすると、何やら不穏な言葉が聞こえてきた。
なんだって瑠夏。食べられる前提……?
「だって、そうじゃなきゃプリンなんて買ってこないわよ。でも言質が取れたからよかった。じゃあさっそく明日の土曜日、一緒に買いに行きましょ」
「んんん…………?」
……買うってネット通販とかじゃないのか?
なんだかいつの間にか決まってしまった外出の知らせ。
俺は嵌められたことに気づくまで、そこから更に時間を要するのであった。
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