46話 風の魔法で船を駆る

夜明けだった。

凪いだ湖は薄紅に染まり、路地裏は陽に温まって埃臭い土煙を金色にまきあげる。


太った娼婦が、一晩中飲んでいたかのようなごきげんさで、優男風の痩せた男にしなだれかかり、汚れた路地裏をふらふらと歩いていた。


その後ろを、小間使いの少年が、うつむきがちに小走りでついていく。

主人がお楽しみの間、一晩中部屋の前にでも放っておかれたのだろう。

哀れな猫背を船乗り達は同情したまなざしで見たけれど、この時間帯のユグルム港は忙しく、わざわざ駈け寄って咎めるような物好きは現れない。


腕を絡め合った二人組が、弾んだ足取りで大きな船に乗り込んだ時も、どこかの裕福な商人の放蕩息子が気に入りの女を船に乗せたのだろうと誰も気にとめはしなかった。


だから私が、薄汚れた帽子を取って小間使いの変装を解いた時には、商船に偽造したスペラード伯爵家の船は多くの運輸線に紛れてすっかりユグルム港を出発していた。


「ああ! もう嫌だくたくただ。今すぐ寝たい! もうこんなこと二度と御免だぞ。命が半分に縮んだようだ。昨日生えた髪はきっと全部白髪だ、そうに決まっている」


ショーン大叔父さんはそう言って、客室に入るなり赤毛のかつらをはぐと、窮屈そうにフリルだらけのドレスの上着を脱いだ。

ウィルは爽快に「ああ素晴らしい朝! 出航に相応しい夜明け!」と叫んでくるくると低い天井付近で回っているし、私はぎゅうぎゅうに結った髪を手櫛で解いて安堵のため息をつく。


ウィルが報告してくれたところによると、レイモンド王子の高貴なる精鋭の騎士達は、今も慎重に安宿の周辺を見張ってくれているらしい。

このまま安宿の監視を続けるか、いっそ騒ぎを起こして踏み込み、目的の少女を奪うかで絶えず冷や汗と共に話し込むのに忙しかったと言っていたし、しばらくは安心だろう。


「お食事の用意ができております」

「結構。すぐに行きます」


コックらしき使用人に頷いて、シレーネ大叔母さんは男装のまま立ち上がり、ショーン大叔父さんを振り返る。


「あなたは、ここで寝ていてくださいませ。私と違って雨の中で船を操ったのでしょう。食事は届けさせます」

「い、いや……うん、ありがたい。ありがたいが、だがせっかく久しぶりに会ったんだ。おまえの顔を見ている時間が私には必要だと思わないか?」


さっきまで寝たいと大騒ぎしていたんだから素直に寝ればいいのに、ショーン大叔父さんは上目遣いでシレーネ大叔母さんを見つめている。中途半端に解いた女装のままやっているので、可愛げと不気味さの割合が3:7くらいだ。


「ご安心なさって。必要になったら嫌でもたたき起こしますわ」

「流石に、もう追っ手はまいただろう」

「最悪の事態はそういう時に起きるものです。この船には小舟も積んでいますから、いざとなったらまた乗ってもらいますよ」

「やめてくれ、少しは安心する時間が欲しい」

「でしたら、大人しく寝ていることです」


いっそ冷酷なほどにきっぱり言い切るシレーネ大叔母さんに「わかった、わかった」とショーン大叔父さんは両手を挙げて降参した。


「わかったから、そんなに心配そうな顔をするな。お前の言う通り、大人しくしていよう」


シレーネ大叔母さんがちょっとたじろいだ気がしたが、ショーン大叔父さんはさっさと寝床の準備をし始めている。

気を取り直したのか「そうしてください」と言ったシレーネ大叔母さんの顔は、相変わらず厳しく冷たそうで、これが心配している顔なのですと言われてもちっとも実感が湧かなかった。


「全然わかんない……:」


そう呟くウィルに「ね」とこっそり頷きつつ、私達は客室を後にした。


船は廊下こそ狭く天井も低かったが、いくつかの客室の他に食堂があるだなんて、私達が首都オーブを脱出した小舟と比べれば豪華客船も同然だ。


細い廊下を抜けて船尾近くの食堂へ着くと、大きな窓と妙に輝くランタンのお陰でずいぶんと明るかった。

壁には趣味の良い絵画がかかり、入ってきた扉と反対側にもバルコニーに続く窓付きの扉がある。

小ぶりの長テーブルには真っ白いクロスがかかって、焼いたパンの香ばしい匂いがふわっと鼻を抜けた。

昨夜、溶かしたチーズと干し果実のワイン煮をちょっとかじっただけのお腹がきゅうっと鳴る。


「いいなぁ、ユレイア。おいしそう……」


ウィルが幽霊らしくうらめしそうに呟くので肩をすくめた。

そこはもう、回帰した後にいくらでも美味しく食べてもらうしかない。


ところが、焼いた鳥を並べていたコック見習いの少年が、何故か勢いよく皿を放り出して私へ走ってきたので、ウィルは慌てて私の前に立ち塞がった。

指を鳴らして転ばせたけれども、少年はすぐに立ち上がり、突然私に抱きついてくる。


「何! ちょっとユレイアに何するのさ!」


シャーッと威嚇する猫のように絶叫するウィルの声を聞きつつ、私もとっさに腰が引けて逃げ出しかけた。


「ユレイア様……っ!」


けれども、耳元で懐かしい声がして鼻をすするので、思わず目を丸くする。


「イヴリン!」


馬車で首都オーブを脱出したのを見たとウィルは言っていたけれど、一体、どこでいつ合流したのだろうか。

疑問と驚きは尽きなかったけれど、イヴリンはぎゅうぎゅうと私を抱きしめて離さない。


「よかった……私のちいさな、ユレイア様……!」


その、独り言に近い囁きを聞いた途端、鼻がつんとして目の奥が熱くなった。


この子は私のことを妹のように思ってくれているのだ。

私だって、彼女を小さな末の妹のように思っていたけれど、彼女から見れば、私は当然、年下なのだ。


「無事だったのね、イヴリン……!」


泣きべそをかいて強く背中を抱きしめたら、それ以上の力でぎゅうっと頭を抱えこんで抱きしめられた。


「はい、はい……っ! ユレイア様も、ご無事で……!」


もう何年も離れていたかのように思える暖かなぬくもりに、ずっと緊張し強ばっていた心が癒やされていくのがわかった。

震える手で背中を撫でてあげると、私の頬を流れる涙と同じ温度の液体が、耳元にぽたぽたと落ちてくる。


「……なんか、僕と再会した時より泣いてない?」


ウィルがちょっと不満そうに呟く。

その時、慌ただしく食堂をノックする音が鳴り響き、私達は振り返った。


「奥様、背後に不審な船が」

「見せなさい」


何かあったのだろうか。


「本当だ。船が追いかけて来てる」


にわかに緊張を帯びる私のそばで、そう呟いたウィルが、すうっと天井をすり抜けて消えていく。


ちょうど出口の近くに立っていたシレーネ大叔母さんが、眉間にぎゅっと皺を寄せ、船員から細長い筒を受け取って部屋を大股で横切っていった。

船尾へ向いた小さな丸い窓から、シレーネ大叔母さんは望遠鏡らしき筒に目を当てて後方を見遙かしている。


私も、イヴリンと手を繋いで窓に近づいたけれど、背の高さが足らなかったし、シレーネ大叔母さんに怖い顔で睨まれたので背伸びをするのをやめた。

イヴリンも途中ではっとした顔で、自分の小さな見習いコック帽を私に被せる。

考えてみれば確かに私は、窓越しにでも顔を見られたら問題だった。


「……随分と耳が早いこと」


苛立たしそうにシレーネ大叔母さんが呟いた時、ウィルが戻ってきて私に耳打ちした。


「あの船、なんか変だよ。すごく大きな狼がいる。馬みたいに大きい、黒い狼……。妖精かな?」


私は、窓から見えないようにこそこそと隠れながら、口の動きだけで「たぶん」と頷いた。


「あんなの見たことない……。ユレイアは?」


私はまた小さく首を横に振る。


黒い犬の形の妖精は、もちろん居る。

神殿の周りで墓守りをしたり、あるいは死を届ける獰猛な使いをしたり、善い旅人の後ろを追いかけて幸運を届けたりするおとぎ話を聞いたし、鳩の妖精を追いかけて遊んでいるのを見たこともある。

だけど、馬のように巨大な狼というのは、私も直接見たことはなかった。


せっかく船が無事に出航した直後に、なんだか縁起が悪い。


追いつかれてしまうのだろうかと不安になっていると、シレーネ大叔母さんは私達の方を振り返って短く告げた。


「イヴリン、急がせなさい」

「はい」


イヴリンは、何故か深々と頷いて私の手を離すと、食堂の隅へと歩いて行った。

何となく離れがたくて後を追っていくと、イヴリンは壁に飾ってあったランタンを手に取って、船尾側の重たそうな扉を体で押してぎいと開く。

どうやら、船尾には小さなバルコニーがついているらしく、冷たい風が食堂の中に吹き込んできた。


顔を見られないように壁際に隠れつつ、ちらりと窓から外の様子をうかがえば、ゆるやかに曲がる幅広の川の片岸は高い山が連なり、もう片方は種まきを待つ黒々とした畑が広がっていた。


バルコニーに出たイヴリンは、手すりにくくりつけてあった二本のロープをほどいた。

船尾の近くで膨らむ帆と、それを支えるマストに繋がった、長いロープだ。

片方をランタンにくくりつけ、もう片方は手首へと絡めて持つ。

それから、ポケットから棒状の何かを取り出して、ランタンに開けられた穴へ勢いよく突き刺した。


とたんに、ランタンを中心にしてすさまじい風が噴き出してきた。


「うそでしょ……」


ウィルが、白い顔をますます白くして、イヴリンが抱えるランタンを見つめていた。

白く輝くランタンは、激しく風を巻き起こし、彼女の柔らかい前髪を大きくめくりあげる。


「イヴリン、あなた……!」


彼女がここに居た意味がわかって、私は呆然とした。


イヴリンは、使ってしまったのだ。


多くの人間の目に晒されれば、決して今まで通りの生活が送れないとわかった上で、それでも。

あろうことか私の元に駆けつけるために、魔術を使ってしまったのだ!


イヴリンは、カラカラとロープを引っ張って、風吹きすさぶランタンをマストの上部へと持ち上げていった。

船はランタンから噴き出す風を受けて大きくふくらみ、私は身体が後ろに引っ張られるような、ぐんと船が加速した感覚を覚えた。


彼女が無事にロープをきっちりと結び直し、ふうとため息をついて戻ってきた時、私は青ざめて唇を震わせていた。


「どうして、イヴリン……!」


彼女はくるりと振り返り、口元をちょっと緩ませて青い瞳をきらっとさせた。


「バーナード家の家訓は、今を生きてこその誉れなり、です。出し惜しみはしません」

「そんな……」


どこまで話してしまったのだろう。

宝石を使えば、最新式のランタンが魔術具になってしまうということはバレてしまった。

では、それを研究した羊皮紙があることは?

ダイヤモンドを使うと氷が出来ることは話してしまっただろうか。

私と違って、イヴリンは後ろ盾がない。権力者たるお祖父様だっていないのだ。

このまま悪い相手に命じられて、恐ろしい研究をしろと利用されるような事になったらどうしよう。

心臓がばくばく鳴って耳がきんとする。混乱して悪いことばかり考えてしまう。人魚の花を突然持ってきた私を見たウィルは、もしかしてこんな気持ちだったのだろうか?


「その……イヴリン」


何て伝えれば良いのだろう、と悩みながら髪を耳にかけた時、ふいにシレーネ大叔母さんが、こちらを見ているのに気がついた。


その、静かで厳しいまなざしを感じた時、ふとわかってしまった。


私は今、彼女の主人として振る舞わなければならないのだ。

年上であろうが、なかろうが、私が主人であるのならば、その忠誠に報いてイヴリンを守らなければならないのだ。


とっさに、どうしてそんな判断をしたのか分からなかった。

でも私は、ふっと船の壁に手を当てると、イヴリンに向かって微笑んで告げたのだ。


「ありがとう、イヴリン。私が教えたことを覚えていてくれたのね」


指で滑らかな木の板を確かめ、私は身体の中にある渦のようなものを頭の中でイメージした。

指先は船の壁と溶けるように願い、中で眠っている熱を、私の中の渦と同調させる。

マストのてっぺんで、大きく強く渦を巻いて流れている何かは、意識を向ければひどく目立つ。

あれを目指して、渦をもっと大きくさせてあげればいいのだ。


感覚的には、背伸びしたまま裏声で歌うのに近い。

意識しなくてはできないけれども、何故出来るのかと言われたら、やればできる、としか言えない。


身体の中の熱を、渦を、船の壁という木の板に通し、マストへ、ロープへと伝えて、風が吹き荒れるランタンへと届ける。


たぶんこの熱は、私が知っている言葉に直すと、魔力と呼べるのだろう。


願いを、望みを伝えるには、言葉を使うのが楽だと感覚的にわかって口に出す。


「……もっと吹いて」


途端に、すさまじい風音が船尾でしたのがわかった。

指の中に熱が渦巻く。船にめぐった魔力を私は動かす。喉から甲高い息を出すように感覚的に、そして確実に。胸が熱を帯びて、体に何かがめぐっているのがわかる。

指先に伝わる魔力の波が、まぶたの裏に像を結ぶ。

サーモグラフィーに近い、緑と金の濃淡が見える。


ランタンの中の宝石が、中の粒や熱とぶつかって風を吐き散らしているのだとわかった。背伸びをするように魔力の指先を伸ばし、その風の方向を整えてやればいいのもわかった。

窓から見える景色がより素早く勢いよく流れ、船員達の驚いたような声が遠くから聞こえてくる。


「ユレイア……。後で僕に話さなければいけないこと、全部話して。全部」


耳元でぼそぼそと呪いめいた声で、ウィルが囁く。

私だって、話したかったけど忙しかったのだ。紛れもなくずっと。

むしろ、この状況を何とか出来るように手伝って欲しい。

なにしろ今は私には、やらなくちゃいけない重大な任務があるのだから。


私は「わあ」と呟いてぱちぱちと拍手をしているイヴリンを背中に庇って、シレーネ大叔母さんに向き合った。

まだ小間使いの少年の格好をしていたけれど、なるべく優雅に胸に手を当てて、貴族の礼をする。


「シレーネ大叔母様。私の侍女を連れてきてくれてありがとうございます。お礼にランタンの使い方を教えてさしあげたいのですが、御存知ですか?」


魔術をこれからも使いたければ、イヴリンではなく私に話を通してください。

私は彼女を守ります。私だって、魔術が使えるのですから。


そう意味を込めて言えば、シレーネ大叔母さんはひとつ小さくため息をついた。

優秀な教師の答え合わせを待つような心地で背筋を伸ばす私をひたりと見据え、彼女は厳しい声で「ユレイア」と呼んだ。


「おまえ、スペラード伯爵が回帰の王だと言うつもりはありますか?」


心臓がひとつ、ばくんと跳ねる。


そうか、竜のレガリアになるとはこういうことなのか。

もっとちゃんとお祖父様って呼んであげればよかったと、もう戻れなくなって今更、私はあの老いた懐かしい手のひらを想って悔いた。


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