33話 アウローラ大神殿と白枝の儀
闇の中を、歩いていた。
行く手には小さな白い光がいくつも輝き、まるで星屑の光で出来た小道のようだ。
幾人もの神官が一列に並んでいる。神官の手にした灯火が、建物の奥まで続いているのだ。
ウィル。
どこにいるの?
心の中でそっと囁くけれど、答えはない。
ただ、両手で握りしめた白木の枝から、強い薔薇に似た香気がただよっているだけだ。
先頭を歩くスペラード伯爵を見失わないように顔を上げ、私は精一杯早足で絨毯を歩いていた。
ねえ、あなたの為に祈りに来たの。
いい加減、出てきてよ。ねえ。
王都で最も由緒正しい、壮麗なるアウローラ大神殿は闇に包まれていた。
全ての窓を閉ざし、全ての扉を閉め、神官の持つ灯りのみで道の先を照らしているのだ。
頭巾を被ってうつむいた神官達は微動だにせず、手元の光に照らされた口元は石像のように沈黙している。
神官達の後ろには、横一列に並んだ椅子の背や、腰かけた貴族達の肩や裾がぼんやりと浮かび上がり、どこかマネキン倉庫のようだった。
無事ならいいから。もうそれだけでいいから。
どうか、お願い。怒ったりなんかしないから、何があったのかだけでも教えてよ。
ふいに、スペラード伯爵が立ち止まって、流れるような所作で膝をついた。
目の前には、白い石の棺が置いてあり、その背後には冥府の神像が立っていた。
無数の花が飾られた棺の中には、白木の枝が山のように積み上がっている。
鼻の奥が痺れそうな薔薇の香りが押し寄せた。ひっそり息を詰めながら、私はスペラード伯爵に倣って床に膝をつく。
からん、と静かな音。
スペラード伯爵が、額に白木の枝を押し当ててから、棺の中に投げ入れたのだ。
私も同じように、手に持った枝を投げ入れる。
からん、からん、と乾いた音を立て、白木の枝は棺に落ちていった。
そのまま立ち上がったスペラード伯爵の後について、私は祭壇の前を辞していった。
あっけないほど簡単な、静かな儀式。
ウィリアム王太子殿下を悼む葬儀で私が出来ることは、たったそれだけだった。
私の背後で、大叔父夫婦とアースが、白木を投げる音が響いていた。
*
一日目の夜は、期待していた。
もしかして、内部を自由に動けているんじゃない? と。
二日目の夜は、腹を立てていた。
いくら懐かしい王城だからって、同盟者だとか言ってたんだから、私の所に戻って報告くらいしなさいよ、と。
三日目の夜は、反省していた。
私の常識とウィルの常識は違うんだから、最初に一日一回は帰ってきてね、と決めればよかった。きっと、何か考えがあるんだから信じてあげよう、と。
四日目の夜に、大叔父夫婦が伯爵屋敷に合流した時には、誰もウィルのことを知らないのだと、当たり前のことに愕然としていた。
とうとう認めた。
私は不安で、もうどうしたらいいか分からなくなるくらい、動揺していたのだと。
当日は、祈っていた。
伯爵屋敷を出る時。大神殿に着いた瞬間。大広間の扉を開いた瞬間。絨毯を歩きながら。白木の枝を投げるその瞬間に。
あの軽やかで明るい声が聞こえやしないかと。
けれど、スペラード伯爵家の祈りはつつがなく終わり、結局何も起きることなく、私達は二階の専用席に案内されていた。
侍女と護衛騎士の控える特別観覧席は、小さなソファとテーブルのあるバルコニーめいた場所だった。
テーブルに小さな光が乗せてあり、周囲は白くぼんやりと照らされている。
スペラード伯爵が一番手すり側に腰かけ、私もまた、心ここにあらずの無表情で、その隣に座った。
「お母様、お父様。疲れましたぁ」
「よくできました、アース」
「どうせ誰も見えやしないさ、ちょっと寝ていなさい」
ぐずるアースの頭をシレーネ大叔母さんが撫で、ショーン大叔父さんが膝に乗せたけれど、今日はうらやましさを感じることはなかった。
ソファやテーブルの影に、半透明の影が揺れていないか静かに探し続けていたから、それどころではないのだ。
薄暗さもあって、アースはショーン大叔父さんのでっぱったお腹に寄りかかり、すぐにうとうとし始めた。
彼が退屈してあちこちをうろつくよりは、その方がよっぽど平和だろう。
スペラード伯爵は、相変わらず石のように黙って、姿勢良く座りながら手すりの下を見下ろしていた。
あたりが見渡せるのならばと、私も少し身を乗り出して、手すりの隙間へ視線をやった。
さっきまで歩いていた大広間は、神官達の灯りで光の小道が浮かび上がっている。
今歩いているのは、おそらくスペラード伯爵家以上の地位を持つ、侯爵家の誰かなのだろう。
黒一色のドレスやマントは闇に溶け、まるで影の塊が浮かび上がり、ゆるゆると歩いていくかのようだ。
これからしばらく、葬儀が終わるまでは、私達は大人しく待っていなければならない。
アースが寝入ると誰も喋る者はいなくなり、特別観覧席は静寂に包まれた。
大広間にも、ウィルの姿を見つけられなかった私は、かすかなため息と共にソファへ深く沈み込んだ。
いつも、心のどこかを冷たい手で押されているようだった。
不安と焦りが何をしていても常に漂い、休もうと思っても常に思考がそちらに傾いてしまう。気の休まる暇がなくて、首の裏が強ばって鈍い頭痛がした。
勝手に期待して、勝手に落胆しているのが辛くて、私は葬式であるのをいいことに、ずっと沈痛な面持ちで沈黙していた。
ねえウィル、私と最初に会ったのも、お葬式の日だったわ。
素敵な再会だなんて贅沢は言わないから、また気楽な顔を見せてよ……。
深い海の底に沈むように思案していた時、ふいに、ビー……という、かすかな音が聞こえてきた。
静寂が満ちるにあわせて、泡が浮かび上がるように、かすかな音が響いている。
耳鳴りだろうか、と思ったけれど、試しに耳を塞いでみたら、音が消えた。
音の出所を探して、目をこらした私は、テーブルの上にある照明から音が聞こえてきていることに気がついた。
よくよく見てみれば、奇妙な照明だった。
くすんだガラス板を四方に備え、金属の柱を組み合わせたランタンに似ているのだが、油の燃える煙や匂いがない。
蝋燭特有の炎の揺らぎや、オレンジがかった色もなく、ただ星が光っているかのように冷たく白い。
どういう理屈で光っているのか不思議がっているのは私だけではなく、ショーン大叔父さんも、膝のアースを抱きかかえながら、物珍しそうに照明を眺めていた。
何だろう……。
私は内心で小首をかしげる。
そういえば、昔遊びに行った首都オーブでも、雪景色の中、街灯が明るく灯っていた。
てっきり何かの油を燃やしているのだと思っていたけれど、都会特有の工業品だったのだろうか。まさか電気ではないだろうけれど。
ウィルが居たら、知っていただろうか。
また不毛な方向に思考が寄せられ、私は強くまばたきをした。
ぎしぎしと不安が胸を軋ませる。
座っていなければならないのが、ひどくもどかしかった。
探しに行きたい。大声で名前を呼びながら、どこに居るのと泣きわめきたい。
吹き荒れる不安の嵐をやり過ごすために深く呼吸をしていた時だった。
壁沿いに控えていたアメリが、そっとスペラード伯爵の方へ滑るように寄ってきて、ソファの後ろから何事かを耳打ちした。
スペラード伯爵の眉間に深い皺が刻まれる。
「ユレイア」
低い声で呼ばれると同時に、ふわりと抱き上げられて、私は目を丸くした。
「面倒な呼び出しだ。行くぞ」
ぼそりと囁かれてすぐ、有無を言わさず歩き出されて、私はしきりとまばたきした。
つい後ろを振り返れば、シレーネ大叔母さんは、気に入らなさそうにわざとらしく顔をしかめ、ショーン大叔父さんは呆れきった顔を隠さない。
けれど二人とも、スペラード伯爵にひと睨みされると、慌てて手すりの方へ身体全体を動かして、儀式へ真面目に参加した。
相変わらず、小悪党の仕草があまりに板についている。
これが演技なのだとしたら、二人とも大したものだ。
長いカーテンをめくった先の扉を開くと、白い灯りがともる廊下に出た。
幾人もの護衛騎士に囲まれるようにして、黒い石床の上に一人の神官が立っている。
「お待ちしておりました」
簡素な礼は、神官だからだろうか。
燃え尽きた灰色の髪はぱさついていたが、その目鼻立ちは異様に整っている。
作り物のような微笑みと無機質なまなざしに、あ、と私は小さく呟いた。
以前、スペラード伯爵家でお茶会を開いた時に訪れて喝采を浴びた、美形の神官だ。
彼は、抱き上げられた私を見て、苦笑に近い声で囁いた。
「子供に聞かせる話ではありませんよ」
「賢い子供だ。自分で聞き、判断ができる」
短く断言して、スペラード伯爵は確固たる足取りで廊下を進んだ。
案内のために居るはずの神官が、少し遅れてついてくる。
目的地はそう遠くなかった。
いくつかの大きな扉と護衛騎士達を通り過ぎ、直角に曲がった先。
突き当たりの、竜と妖精の彫刻が刻まれた扉の前に立った護衛騎士達は、スペラード伯爵の顔を見るなり、扉を開いて私達を中へ招いた。
私は扉の前でようやく床に降ろされ、スペラード伯爵のマントの影に隠れるようにして、扉の中へと入っていった。
「お呼びと伺いました」
スペラード伯爵の、低く落ち着いた声が響く。
そこが特別観覧席だということは、バルコニーのように張り出した床と手すりですぐに分かった。
ただ、スペラード伯爵家は光の小道を横から眺めるような位置から観覧していたのに対して、この特別観覧席は正面だ。
ちょうど、白木の枝を投げ入れた棺の真上に位置しているのだろう。
ソファも、照明も四つあり、両脇の壁にはゆったりと波打つカーテンが下がっていた。
どれもさっきまで居た特別観覧席より大きく、優雅な造りをしている。
たぶん、特別な席なのだろう。どのくらい特別なのかは分からないけれど。
ウィルが居たら、ここが誰のための席なのか、きっと肩の近くにふわふわ浮きながら、得意げに解説してくれただろうに。
「……大きくなったな」
ひそやかな声がして、私は首をめぐらせた。
暗くてよく見えないが、カーテンの向こうに誰か居るらしい。
「よく来てくれた」
低くかすれてはいたけれど、女性の声だった。とても疲れているようで力なく、けれどにじみ出すような威厳がある。
スペラード伯爵が胸に手を当てて跪いたので、慌てて私もそれに倣った。
「神殿の守護者。知性の守り手。王家の災いを予知する月。……第一王妃殿下に、スペラードの老骨がお目にかかります」
スペラード伯爵の挨拶に、静かに身体が固まった。
正妃様!?
私は心臓がばくばくと跳ね上がるのを感じた。
アウローラ王国の妃は三人。そのうち、一番若いのが正妃様だ。
神殿は王族と関わりが深いが、中でも神官の管理を一手に引き受けている侯爵家の出身だと聞いている。
いきなり一足飛びにあまりにも偉い人に遭遇してしまったこともそうだが、それ以上に私は動揺していた。
もしかしたら、国王陛下が出てくるよりも緊張したかも知れない。
だってこの人は、ウィルのお母様だ。
どんな性格でどんな顔をしているのか知りたかったけれど、分厚いカーテンをいくら見ても、ドレスの裾すら見えなかった。
「代理を立てた。よく、話すように」
低い声がして、さらさらと衣擦れの音がする。何度か靴音が響いたかと思うと、扉が閉まる音がする。
おそらく、カーテンの奥の続きの間に消えてしまったのだろう。
黙ってスペラード伯爵が立ち上がったので、私も立ち上がる。
入れ違いで現れたのは、杖をついて難儀そうに歩く、腰の曲がった小さな老人だった。
「街道の守護者。銀翼の鷲。王家の災いを退ける弓。……スペラード伯爵に、神殿の骨董品がご挨拶申し上げます」
ふらふら震える手を胸に当てて軽く頭を下げた老人は、心配になるくらい儚くも弱々しかった。
まとっている神官服こそ、袖口に金の刺繍があって豪華だったが、頭髪も髭も真っ白で、顔のほとんどのパーツが皺にうまっていた。
一瞬、カーテンから巨大な埃が転がってきたのかと思ったくらいだ。
スペラード伯爵が老いてもなお大きくて頑丈な犬だとしたら、この老人はよぼよぼのハツカネズミだ。
「お久しぶりです。神官長」
だが、スペラード伯爵はさっきよりもよほど硬い声で、同じように胸に手を当てて頭を下げた。
神官長らしい老人は、ほぼ糸になった目でころころと笑うと、嬉しそうにスペラード伯爵を上から下まで眺めて言う。
「いやはや、立派になりましたな。スペラード家の生真面目坊やだと私がからかったのが、遠い昔のことのようです」
「ご用件は何ですか、神殿長」
「おや。ひさびさの再会なのにつれないことですな。少しは雑談に付き合ってくださってもよかろうものですがな」
「王太子殿下を悼むこのような場で、何のご用ですか。神官長」
わざわざ厳粛な場であることを強調したスペラード伯爵に、ふーむと神官長は何重にも重なった顎を撫でた。
「このような場所だからこその話ではありますな。うちの神官が、先日お伝えしたことですよ」
「そのお返事は、すでに返したはずですが」
「まあ、まあ、まあ。そう恐い顔をせずに。お孫さんを置いてきぼりにしてはいけない。……さて、こんにちは、お嬢さん。ユレイア嬢とお呼びしてもいいですかな?」
突然話しかけられ、私はびくりとした。
だが、基本的に先生のような口調をしている老人というのは、個人的にかなり安心する相手ではある。
おずおずと胸に手をあてて軽く膝を曲げると、頷いた。
「お好きにお呼びください、神殿長様」
「なんと賢い。上手に挨拶ができましたな。今から、少し長くて複雑な話をいたします。ユレイア嬢に深く関わる話ですので、退屈かとは思いますが、聞いてくれますかな」
嬉しそうに笑み崩れた老人は、杖にすがったまま私の方を覗き込んだ。
ちらりとスペラード伯爵を見上げると、不機嫌そうではあるが頷いてくれたので、はい、と答える。
「さてさて、どこから話しますかな……。そう、先ほど、葬儀の儀式に参加したかと思いますが、ユレイア嬢は、白木の枝を投げましたか?」
「はい」
「それはよいことをなさいました。ウィリアム王太子殿下が、とこしえの喜びの野に向かうための助けになりましたよ。この白木の枝は、白銀の山羊が引いてくれる荷車の材料になるのです。それに乗って、王太子殿下は険しき黒い死者の山を飛び越えるんですね」
そうなってしまっては困る。
ウィルには、黒い死者の山が険しすぎると諦めて逃げ出して欲しいし、山を登る荷車を引いてくれる白銀の山羊から威嚇されて追い返してもらいたいのだ、是非とも。
黙ってしまった私へ穏やかに微笑みかけながら、神官長は温厚な家庭教師のような口調で言った。
「死者を送る儀式は、大きく分けて三つあります。ひとつは、棺に見送るべき人の身体を入れて、花を捧げ、お別れを言う日。黒夜の儀といいます。これは、ごく親しい間柄の人達で行われるものです。棺は小神殿に納められ、親しい方々と別れを惜しみます」
ふいに、耳の裏に嵐の音が蘇った。
六つ並んだ棺の中に、花に埋もれるようにして家族が眠っていた。
多くの人が嘆き悲しみながら棺にすがりつくのを、私は遠くの出来事のように見つめていた……。
あの時の絶望が胸に蘇り、私は隣に立っているスペラード伯爵のマントを、ぎゅっと握りしめた。
「次に、多くの関わった人達を呼び、白木の枝を棺に投げてあげる日。最後には白木の枝を燃やして煙にし、荷車の材料にしてさしあげます。これを、白枝の儀と言います。皆で力を合わせて、王太子殿下のために、旅支度をしてさしあげる日ですね。こうして、亡くなられた方の魂は、冥府の神様の管理する、とこしえの喜びの野にたどり着くのです」
私は小さく頷いた。
確かに、家族を見送った日とやり方が違うな、とは思っていた。
今日は、ウィリアム王太子殿下に対する白枝の儀なのだろう。
「最後に、ご遺骨となられた見送るべき人を、大神殿の地下深くにある青き聖堂に届けてさしあげます。また、空になってしまった小神殿に、とこしえの喜びの野まで祈りを届ける聖石を安置します。これを青石の儀と言います。空になってしまった身体を回帰の竜の元へ還し、この器にまた新たな魂を満たし、さずけてくださるように願うのです。これら全ての儀式を総じて、葬式と呼んでいるのですよ」
流石は神官長と言うべきか、説明は滑らかでわかりやすかった。
葬式に参加したことはあるが、そんなに詳しい話は知らなかったので、私は物珍しさ半分で頷く。
「さて、実は葬式は、元々青石の儀しかありませんでした。しかし、時が経つにつれて、白枝の儀と黒夜の儀が増えていきます。何故かと言いますと、大抵の大神殿というのが、実はとても遠く、竜背山脈の中にあるからです。だから皆そんなに遠くまでは行けずに、旅の代わりに夜通し棺に花を捧げ、骨の代わりに白木の枝を投げたのですよ。これが、黒夜の儀と白枝の儀となりました。よく王都の方は勘違いされますが、建物が大きいから大神殿、という訳ではないのです。青石の儀が行える地下に聖堂がある場所こそが、大神殿と呼ばれているのですよ」
へえ、と私は思わず声をあげそうになった。
普通に知らなかったし、面白い。
何故こんな長話になっているのかは分からないが、老人の話は長いものだ。
多分、参加している多くの貴族も、儀式の手順だけ聞いてうまくやるのに精一杯で、言葉の意味や正確な名称、由来などは気にしていない気がする。
「そして、大神殿まで行けない人達の代わりに、山を登り骨を納め、青石の儀を行う神官を、巡礼神官、と呼ぶようになったのですよ。街の小神殿で聖石や棺を守ってくれるのが、灯火神官ですね。……庶民の方はあまり縛りはありませんが、亡くなられた方が貴族の場合、爵位によって、青石の儀を行うべき大神殿も、遺骨を運ぶことが出来る巡礼神官の地位も決まっています。王族は私を含め、一握りの巡礼大神官しか触れられません。古い貴族もまた、同様です」
この、にこやかで話のうまいお祖父さんが、巡礼大神官という大層な役割を得ているのが不思議だった。
背が低いし腰が曲がっているので、私よりほんの少し背が高い程度だというのに、彼は私が触れられない、ウィルの身体だったものに触るのだ。
彼の身体は、一体今、どこにあるのだろう。
ふっと思考が遠くにそれた瞬間を狙ってなのか、神官長は、さて、と少しはっきりした声を出した。
「ここからが大事なところです。大抵は山の奥にある大神殿ですが、例外がふたつあります。ひとつはここ、アウローラ大神殿。そしてもうひとつの例外が、あなたの故郷です。ユレイア嬢」
「えっ」
いきなり自分事に話を持ってこられて、私は慌てた。
神官長は、にこにこと頷きながら、人好きのする穏やかな声で告げた。
「いにしえの聖地、トーラス大神殿というものがありましてな。ユレイア嬢の住んでいた領主屋敷には、黒い石で出来た高い塔がありませんでしたかな?」
「あっ……。ありました」
目を白黒させながら、私は小さな声で答えた。
いつかの夏の日、ひまわりの花束を抱えて塔を駆け上がり、領主会議をしているお母様の元へ走って行った。
あの塔は確かに、黒い石で出来ていた。
厨房があるから火事対策で石造りになっているとばかり思っていたのに。
「その塔の地下が、大神殿になっているのです。歴代のトーラス子爵は皆、そこで青石の儀を執り行っているのですよ」
「知りませんでした……」
無理もないことです、と静かに神官長は言った。にこやかな空気が一転、静かで、痛ましそうな、悲しげな顔で老人は囁く。
「トーラス子爵の青石の儀は、必ずトーラス大神殿で行わなければなりません。ですが、それを今、スペラード伯爵にお許しいただけなくて、この老いぼれは困り果てておるのですよ。ユレイア嬢も、ご家族は故郷で眠らせてあげる方が、幸せだとは思いませんか」
「それは……」
もちろん、そうだと思う。
家族達はみんな、あの美しいトーラス子爵領を愛していた。
湖のほとりでピクニックをして、馬に乗って街道を走り、羊の群れを眺め、金色の麦の野の収穫を喜んだ地だ。
皆で金策に悩み、ひまわり畑を作って油を売り出し、うまくいったと喜んだ土地だ。
私だって、帰りたい。
あの懐かしい金色の花畑の前に立ち、抜けるような青空の下、妖精の笑い声を聞きたい。
もう一度。
どうして反対などするのかと思ってスペラード伯爵を見上げたら、彼は矢のごとく鋭いまなざしで神官長を睨み付けていた。
「青石の儀を見届けるのも、その名義も、リチャード王弟殿下になるだろう」
私は息を止めたまま固まった。
一瞬で、燃え上がるような憎しみが全身に広がり、息が詰まる。
頭が一瞬真っ白になり、勝手に拳が握られていた。
その名前は、私の魂をいつだって憎しみに燃え立たせる。
どんな絶望の縁からでも這いずり出て、炎の燃える絶望の谷にたたき落としてやるのだと、何度でも誓える。
私の沈黙に気付いているのかいないのか、神官長は落ち着き払って頷いた。
「それは、もちろん。トーラス王弟領の領主でございますから」
「だが、血縁がありません」
「……左様でございますな」
困ったように、神殿長があごを撫でた。
スペラード伯爵は、氷のようなまなざしで彼を睨み下ろしている。
「先日も言ったが、神殿側の言い分は道理に合わぬものです。我が息子を正しく見送りたいなら、血縁を無視するべきではないのではありませんか。お年のせいか、先ほどは説明をし損ねたようですが、葬式の主催は血縁者がするものです」
「そのことですが、良い案をお持ちいたしました」
スペラード伯爵からの老人扱いをなかったかのように流した神官長は、杖でこつんとひとつ床を叩き、目を糸のようにして微笑んだ。
「リチャード王弟殿下は、ユレイア嬢を養女にしても構わないと仰せです」
「嫌ですっ」
悲鳴のように叫んでいた。
いつの間にか手は勝手にスペラード伯爵のマントを命綱のように掴み、握り込んでいた。
冗談ではない。死んでも嫌だ。
今でさえ、こんなに良くしてくれるスペラード伯爵を、心の中ではお祖父様と呼んであげられないのに。
あの男を。黒い鎧の形をした憎しみを、お父様と呼べだって?
ふざけるのも大概にしてほしい。
「息子は渡さん。嫁も、孫達も、ひとりも」
重々しく告げるスペラード伯爵の声に胸が熱くなった。
私は、眼の奥がつんとするのを感じながら、彼のマントを胸に抱きしめる。
「早く大神官を派遣する手はずを整えていただくよう、当主として要請いたします。我がスペラード伯爵領の南西、竜背山脈に立つ大神殿にて、青石の儀を執り行います」
話は終わりだとばかりに、スペラード伯爵が私のことを抱き上げた。
しっかりと両手を広げて首にしがみついた私は、口元を引き結んで神官長を見下ろす。
「ご伝言だけ、承ります。ですが……これは政治的な話ではないのですよ。トーラス子爵は、トーラス大神殿で青石の儀を行わなければならない。これは絶対なのです、スペラード伯爵」
白い頭はうつむいていて、その表情は見えない。
けれど、彼の背後の金の縁飾りのソファの豪華さが、ふいに恐ろしくなった。
相手は、王家なのだ。
スペラード伯爵は偉大で、強くて、賢いけれども、それでも王家に仕える立場だ。
多くの部下を抱え、その家族の生活を守り、領民を健やかに暮らしてゆけるようにする義務がある。
王家の権力は、スペラード伯爵の大切なものを軽々と扱うことが出来るのだ。
やろうと思えば、どんな強引な手段も取れるはずなのだ。
腹の底から震えがきた。
無理かも知れない。駄目かも知れない。
私を宝物のように抱えて歩いてくれるスペラード伯爵の腕の中から、無理矢理引き剥がされることを考えるだけで、氷の塊を飲んだような恐怖が胸にこみあげた。
「失礼。そろそろ戻らねばならぬようです」
スペラード伯爵はそれだけ言うと、特別観覧席を後にするべく歩き出した。
私達の後ろから、神官長のかすれた声が響く。
「何も私は、この賢いお嬢さんを苦しめたいと思って申し上げている訳ではないのです。そのことだけは、おわかりいただきたい」
彼は、諦めていないのだ。
何が起きているか分からない。
けれど私の周りで、いつの間にか最悪の事態が動き出そうとしていることが、急に肌で感じられた。
スペラード伯爵の足音が響く。特別観覧席の扉を、自らの手で押し開ける。
彼の肩越しに振り返った私の目の前で、竜と妖精の刻まれた扉が、鈍い音を立てて閉まった。
──ウィル!
静かな廊下で、私は心の中で悲鳴をあげた。
指先が震えるのが収まらない。胃がねじれそうに痛い。
あの気楽な声が聞きたかった。大丈夫だよといって、すかすか背中を叩いて欲しかった。
彼が有力な情報を持っていたら。
いいや、持っていなくてもいい。ただ、根拠なく笑って大丈夫だよと言ってくれるだけでいいのに。
「ユレイア。気分が悪ければ、そう言いなさい」
スペラード伯爵の静かな声に、私は首を横に振った。
「大丈夫です……」
声が震えていたので、信じてもらえたかどうかは怪しかった。
そうか、と頷いたスペラード伯爵は、一度深く息を吸ってから、低く言った。
「あの惨劇で何を見たのか、おまえは一言も語らなかった。だが、どうしてもと言ってこの地に来たな」
私は、水をかけられたようにはっとした。
「はい……」
そうだ。
私は、ウィルと一緒に幽霊騒動を起こしてまでも、王都オーブに来ることを求めたのだ。
それは、ウィルの望みでもあったけれど、何より私が、家族が襲われた理由が知りたかったからだ。
「私はおまえを守る義務がある。それゆえ、この祖父の判断が、わずらわしいこともあるだろう。だが、その性根を誇りにも思う」
スペラード騎士団を統率する将軍伯爵は、式典で勲章を渡すように、重々しくも静かに告げた。
「おまえは勇敢だ、ユレイア」
名誉ある言葉なのだろう。きっと。
私が思うよりもずっと、スペラード伯爵にそう言われる者は少ないはずだ。
でも、今私はその言葉をうまく受け取れなかった。私に相応しい言葉とは思えず、喉の奥がこわばる。
「いいえ、私は……」
謙遜しかけて、けれども、舌の上でふっと言葉を溶かした。
勇敢ではない、と言って何が変わるのだろう。
もしもここで謙遜したら、本当に何も出来なくなってしまいそうで、ふいに怒りが湧き上がった。
私は、これでもスペラード伯爵の孫なのに、何をしているのだろう。
憎むべき相手があまりにもふざけたことを言っているのに、どうしてこんなに怯えているのだ。
私はもう、うつむいて謝り続けながら諦めていた「れいあ」ではない。
トーラス子爵の愛娘。スペラード伯爵の孫。ウィルの同盟者のユレイアなのだ。
──ウィルを助けてなくちゃ。
彼に助けを求めるんじゃない。助け出すんだ。
あの幽霊は、少なくとも今まで、誰にも見えていなかった。
もしもどこかに掴まっていたら、あるいは傷ついて動けなくなっていたら、私しか見つけてあげられる人はいないのだ。
「……私はまだ、何の成果も出せていません」
ぐっと口元に力を入れて告げれば、スペラード伯爵は喉の奥でくくっと面白そうに笑った。
どこか満足そうな笑いだった。
誇らしさと安心感がこみ上げてきて、私は静かに拳を握りしめた。
思えば私は、ずっと勇敢ではなかった。
やけくそと勢いで行動することはあっても、それは恐いものから逃げる為だった。
決して、自分の信じるもののために、強くあろうとした訳ではない。
シレーネ大叔母さんのように、恐いものに立ち向かってはいなかった。
でも、あの嵐の夜、ウィルは私を助けてくれたのだ。
だったら、私が助けなくちゃ、嘘でしょう。
──戦おう。今あるもの全て使って。
静かに私は、決意して、薄暗い廊下で顔をあげた。
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