第5話 五年後、この日を思い出す
今世の姉、ヴィクトリアは、結局大いに褒められていた。
幼児の眠るベッドに不衛生な小動物の破片を持ち込んだということで、しこたま叱られるのではないかと思ってひやひやしていたのだけれど、その心配は杞憂だった。
むしろ、ベッドから落ちた私を助けたということで、
「今夜の主役はトリアだわねえ」
「偉いわ、勲章を授与します」
「よっ、小さな女騎士」
「妹を守ったのですね」
「おねえさま、すごい」
などと大人達や、小さな子供らしき声から寄ってたかって褒めたたえられたのだ。
このご家庭は、97点のテストを持ってきた子供に「どうして三点間違えたの」と叱るような家ではなく、出来たことを褒める方針の家らしい。
ちなみに、そうやって叱ったのは前世の私の母だ。
よっぽど嬉しかったのか、ヴィクトリアは「私、大きくなったら女騎士になる!」と宣言して周囲から拍手喝采を受けていた。
トカゲの尻尾と蛇のぬけがらに関しては、柔らかい声の女の人にたしなめられていたけれど、結局あんまり効果はなかったようだった。
私の寝返り暴走事件のせいか、次の日から私は大きなベッドの端ではなく、ゆりかごの中に入れられた。
そのせいで、努力して手に入れた寝返りは、あえなく短い柵に阻まれることなり、私の大いなる野望たる現世からの逃走は始まる前から幕を下ろした。
とは言え、私も、もう自ら高所へ行くような気力は完全に失われていた。
前世の転落死だったせいか、落下するのがありえないほど怖かったのだ。
ベッドから落ちたばかりの時は、衝撃で呆然としていたのと、小さな姉に話しかけられたせいで混乱していたが、もう二度とあんな真似は出来そうにない。
現世から逃亡するなら、転落死ではなくもっと別の方法を選ぶべきだ。池で溺死とか。
決して、あの小さな姉の真心が温かくて、もう少し生きたいと期待した訳ではない。
決して。
いいことがあったとしたら、ひとつだけ。
妖精が私の耳に何かをしてくれたのか、人の声がはっきりと聞こえるようになったのだ。
特に、私を抱き上げて寝かせた若い男の声が
「よく泣くけど大人しいから油断した……いやぁ……ははは、こわかった……」
と、ほとほと後悔したような、へろへろによれた声だったのが印象的だった。
よく聞く声だけど、まさかこんなに若くて良い声のする相手が父なのだとしたら、私にちょっと都合が良すぎる。
もう希望を持たないと心に決めたので、声だけは美麗な、ひしゃげた豚の顔が鏡餅の上に乗っているような男性像を頭の中で描いておいた。
もう期待するのはまっぴらなのだ。
それからも、小さなゆりかごの周りには、入れ替わり立ち替わり誰かしらが側にいて、何かを囁いたり、抱き上げたり、歌ったりしている。
朝と夜の感覚も分からないまま、またしばらく日々が過ぎたある日のこと。
ふいに眠りから目覚めると、すごい数の妖精が空を飛び回っていて驚いた。
──みんなが求める女の子が来たよ
──みんなが欲しがる女の子だよ
妖精が歌っている。
基本的に、翅をこすり合わせる時の、涼やかな音色くらいしか耳にしたことがないから、私はぽかんと間抜けに口を開けることになった。
あなたたち、喋れたんですか。
そう言ったつもりだったけれど、あう、に近い言葉が口からもれるだけだった。
一斉にまったく同じ歌を歌うのは、不思議ではあったがもはや今さらのような気もした。
この辺りに伝わる民謡なのだろうか。
素朴でゆっくりとしたメロディは、同じような節回しで耳に残る。
──みんなが求める女の子が来たよ
──みんなが欲しがる女の子だよ
歌いながら空を舞うのは小さな人の形をした妖精だけではなかった。
青白く光る半透明の馬や、赤い小さなトカゲに似た翼竜。銀色のヒレで宙を泳ぐ魚なんかが行き交っている。
見たこともない妖精の群れに驚いて目を見開き、構ってもらおうと手を伸ばす。
けれど、妖精達は相も変わらず気まぐれで、私の額に淡い光の影を落としてすうっと消えてしまうばかりだ。
今日は不思議といつもより空は明るく、ゆりかごは大きく揺れる。
氷の粒のような空気が鼻先に触れ、私は小さく声をあげた。
ふわりと、柔らかい女の人の声が寝床の斜め上から降ってくる。
「ユレイア、起きちゃったかしら。眠たいところをごめんなさいね。ここは神殿よ。祝福を受けにきたの」
「だいじょうぶよ、レイア。怖くないわ、お姉ちゃんもやったわ」
「こどもはみんなやるんですよ、れいあ。たくさんしあわせになるように、こくおうへいかから、おいのりしてもらうんですよ」
「大丈夫さ、ユレイア。お父様の代わりに居眠りしててくれたらすぐ済むよ」
目の方はまだ発達が遅くて、少しづつ色と輪郭が分かるようになってきたけれど、相変わらず銀や赤、茶色っぽい塊が近づいたり離れたりしているようにしか見えなかった。
最近わかったことだけれど、どうやら、私はもう一人、すぐ上に兄がいるらしい。
あと、今日はいないが、おそらく祖父母も同居している。
兄に嫌な思い出しかない私としては、兄なんてぞっとするばかりだ。
いつもなら、これだけ家族に囲まれたら絶対に泣く私だけれど、妖精の多さに圧倒されて泣きそびれた。
その上、神殿に来ているのだと言われたら、無駄に泣くのは嫌だった。
規律に違反しているとか、規則に反しているとかいう単語は基本的に私をすくませる。
せっかく生まれ変わったというのに、残念なくらい、私は未だに日本人のようだ。
だが、何もしないままで曖昧にぼやけた視界を見つめているのは退屈だ。
大人しく寝ていよう、と決め込んで、苦労して会得した寝返りを使いこなした矢先、ふいに周囲がざわめいた。
りーん……とすずしげな音がして、周囲は急に痛いくらいの沈黙に包まれる。
誰かが緊張したような気配がして、私のゆりかごに薄い布がかけられて影が出来た。
けれど、ゆりかごの真上に半透明のウナギのような妖精が風と一緒に飛んできて、布にかみつき、そのままどこかへ布をさらって飛んで行ってしまった。
おそらく、妖精の見えない人にはふっと吹きつけた風と共に、布が飛んでいくように見えたのだろう。
妖精は人に触れられないとばかり思っていたけれど、どうやらその限りではない場合もあるらしい。
開けっ放しになったゆりかごの上に、ふいに小さな影がさした。
「うわあ、なんてかわいいんだろう」
一度も聞いたことのない声だ。
神殿に来ていた子供だろうか。
まばたきをすれば、ゆりかごのへりから、金色のかたまりがふわふわと近づいてくる。
内緒話をするように低めた声は舌っ足らずの子供のものだったけど、随分と大人びた口調をしている。
「すぐわかったよ。君は特別だね」
妖精の歌みたいなことを言うくせに、他の人間達みたいにぼやけているのが不思議だった。
「王太子殿下」
「あ、ごめんなさい」
また知らない声がして、
ばいばい、と囁いて、金色のぼやけた影は遠ざかっていく。
「そなたらの娘の愛らしさに、王太子も夢中のようだ」
「──様」
威厳のある声がしたが、妖精達が大声で歌うので、驚いたように返事をした母親の声は、半分くらいかき消されて分からなかった。
威厳のある声の主が人払いをしたのか、いつの間にかぼやぼやした家族の人影は離れ、母親らしき影だけが残っている。
それに近づくのは、豪華な服を着ているらしい、時々金にあちこちが光る緑の影だ。
「もしも今、その子を養子として譲ってくれるなら、どの領地でも、どのような爵位でも……」
「おそれながら。私達にされたことお忘れになりましたでしょうか」
「確かに我が国は、妖精を戦争に利用しようとした。だがあれは……」
なにそれ知らない。
養子の話が出ていることにぎょっとして私は息をのんだ。
「私は何も聞いておりません。どうかお許しを」
「嘘をつくつもりはない。子供を害するつもりもない。ただ、その子を育てさせてくれさえすればいい。王女として正式に認め、必ず、この世のあらゆる贅と栄誉を約束する。その方が、子爵家に育てられるよりもずっと良いだろう」
王女、という単語に気が遠くなる。
ベッドの大きさと、ゆりかごのサイズからして比較的裕福な家に生まれていたとは思ったが、どうやら私はどこかの貴族に生まれていたらしい。
そして王族が、何かに私を使いたくて、競り市の魚みたいに交渉しに来たのだ。
深刻そうな会話も知らんぷりで、妖精達が歌っている。
──ごうつくばりの王様も、こわぁい三人の王妃様も、おろかな王様の弟も
──将軍伯爵も幽霊もみんな君を欲しがるよ
妖精の声は様々だ。
楽しそうなものも。悲しそうなものも。怒っているものも、全ての声が混ざり合って、耳の中で渦をまく。
母親の緊張した声が、妖精達の歌に混ざって聞こえてくる。
「私は第三王子の秘密も守っております」
「だから、私にも守れ、と?」
「どうか賢明なご判断を」
「そなたこそ、賢明な判断を」
ああ、値段交渉が始まった、と私は冷めた心地で思った。
誰だって権力に弱いものだ。
親というのは子供が役に立つ順に査定をして、価値のある方に目をかける。
きっと母親は、しばらく悲しげな顔をして値段をつり上げた後、満足のいく値段になったらほくそ笑んで私を売り飛ばすのだろう。
だけど私を買い取った王族は、きっと将来、心底がっかりすることになるだろう。
成長した私が、王族の満足いく結果を出せる訳がない。
それどころか、真冬に噴水に落ちて現世からの逃亡を予定しているのだから。
「どうしても、と仰るのならば、私は明日にでも秘密を守れなくなることでしょう」
王族らしい誰かの声が息を飲む。私も黙って息を飲んだ。
この母親、王族を脅している? 何で?
値段をつり上げるにしても、やり方口が危険すぎる。
私が混乱しているのも気付かずに、母親らしき銀の影と、知らない誰かの緑の影は黙ってにらみ合っていた。
「その子を手放さなかったこと、後悔するぞ」
「今この場で首を刎ねられたとて後悔などありませんのに、どうやってすればよいのでしょう?」
挑戦的な声に、今度こそ私は息を飲んだ。
売ろうとしてるんじゃないの?
本当に、本当に私を守ろうとしているの?
嘘だ。絶対に嘘だ。
信じられない。意味がわからない。そんな人が私のお母さんになってくれる訳なんかない。
「生かしたまま死を望ませる方法など、いくらでもある」
威厳のある冷たい声に私は悲鳴をあげた。
母親がこの場で殺されてもおかしくないと思ったら、急に怖くなった。
たとえ、今の交渉が演技だったとしても。
私の期待がただの願望で、本当に挑戦的な態度で値段をつり上げようとしているのだったとしても、それでも死んで欲しくない。
だって、この人は何度も私を抱き上げてくれたんだ。
自分はもう二度目の人生なんかごめんだと思っているのに、他人が死ぬのが嫌だなんて変だけど、嫌なものは嫌だ。
恐怖はそのまま涙となり、私は大声で泣きわめき始めた。
「ユレイア、大丈夫よ。よしよし」
母親が私の頭と身体を支えて持ち上げると、歌うように囁いてその胸に抱いた。
ぼやぼやとした視界の中で、白い肌と銀のドレスが大きく映り、品のある澄んだ甘い香りが漂う。
つんざくような声で泣く私に、妖精達が次々と近づいてきた。
私の頬を撫でたり、産毛みたいな生えたての髪をくぐったりして小さな笑い声をあげる。
やがて、ひとつため息をついて、威厳のある声が囁いた。
「そなたは何も聞かなかった。忘れよ」
「ご随意に」
身体が傾いて、母親が深く頭を下げたのが分かった。
集まっていた妖精達はぱっとまた飛び立って、楽しそうにさっきの歌をまた歌い始めた。
──みんなが求める女の子が来たよ
──みんなが欲しがる女の子だよ
──隠せ隠せ、潜め潜め
──かわいそうに、国中が求める女の子だ!
緑の影の王族が、どこか遠くへ立ち去っていく靴音が、妙に耳にこだまする。
その背中に妖精の歌声が、高く高く響いていた。
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