第6話 しんしんと積もるもの
雪の積もる、音がする。
ミルクを置いた高い窓辺に、小さな妖精が寄ってきていた。
薄氷のような羽が、月光に照らされて淡く光っている。
私は、ゆりかごに寝転がったまま妖精がそうっとミルクを手ですくっておいしそうに飲むのを見上げていた。
──きれい
その時、子供部屋の扉がそっと開いて、小さな声がこそこそと囁きかけた。
「レイア、レイア。トリアお姉ちゃんだよ」
──でた。
怖さと申し訳なさで、私はきゅっと口を引き結んだ。
月光を頼りにして慎重に寝台に近づいてくるのは、赤毛の小さな女の子だった。
夜中に彼女が来ることに、私はもはや驚かない。
生まれてからずっと、昼も夜もこうやって私の元にしょっちゅう訪れては、せっせと話しかけに来ているのだから、いい加減慣れようというものだ。
少し前までは視界がぼやけていたものの、生まれて半年を過ぎた今ならば、まともに目が見える。
だから、今世では私の姉らしい彼女が、母譲りの緑の瞳を得意げにきらきらさせているのも、頬を真っ赤にして小さな鞄をさげているのもよく見えた。
「お姉ちゃんね、レイアに会えるの楽しみにしてたのよ」
──ああ、勘弁して。
私は口をへの字に曲げて顔をそらす。
この子供が嘘をついているなんて思っていない。
ただ、期待するのが怖かった。
前世で、希望を持った瞬間に私は死んだ。
頑張れるかもしれない、頑張りたいと思った瞬間に全てがなくなった。
心を開いて甘えれば甘えるほど、裏切られた時に辛い。
今は何も出来ない赤ん坊だから許されているけれど、私が成長して、何も出来ない失敗ばかりの人間だと気付いて、この子の目が落胆に染まるのかと思うと、怖くてたまらない。
こんなに愛情をかけてもらっているのに、臆病に保身ばかり考える自分が嫌で嫌で、見捨てられたくないのに、こんな私なんて早く見捨てて欲しいとすら思った。
けれど、トリアは真剣にこしょこしょと声を低め、愛くるしい顔を使命感できりりとさせて寝台をよじ登る。
「夜が暗くて、怖かったでしょ。お姉ちゃんが来たからには、もう大丈夫よ」
昔は、顔を見るたびに泣きわめいて遠ざけていたのだが、とにかく彼女はめげないのだ。
元気いっぱい、やる気にあふれてほとんど毎日訪れるので、毎回呼び出されるそう若いとも言えない侍女達が不憫で、最近は泣くのを諦めた。
トリアは私の傍らに座り込むと、鞄の中からぬっと白い塊を取り出して、枕の近くに押しつける。
「きれいでしょ。これはレイアにあげるわ」
冷たい朝に似た香りと共に現れたのは、春になる前に降った最後の雪で作ったらしい、不細工な顔をした雪うさぎだった。
耳は細長い常緑樹の葉だったが、目は赤い実ではなく、虹色にぽうっと光る不思議な石を埋め込まれている。
前のトカゲの尻尾や蛇のぬけがらと比べれば、贈り物は随分と無害な方に進化した。むしろ、大成功だ。
思わず黙って白い塊を見つめていると、ほっぺたと指先を真っ赤にしたまま少女は笑った。
「レイア、窓の外をずうっと見てたでしょ。きれいな雪、お姉ちゃんも大好き」
そんなところまで、見ていたのか。
元気だけが取り柄に見えて、案外この女の子はとてもめざとい。
小さな女の子に心を見透かされていたばつの悪さと気恥ずかしさで、ちょっと泣きたくなった。
この赤ん坊の身体に引っ張られて、ちょっと心が揺れるだけで、すぐに涙が出てくる。
だが、彼女がまた叱られるのが申し訳なくて、結局泣けなかった。侍女達だってゆっくり眠っていたいだろうし。
黙って唇を噛んだまま雪うさぎを見つめていると、トリアは私の機嫌も気にせず「これも、これもあげるわ」と鞄の中から次々と裏の森で収集したらしい成果を取り出しては並べてきた。
短剣のように伸びた枝。ころんとした青い実。小石から突き出した緑の石。それから、涙型をした、爪の先ほどの虹色の石をひとつかみ。
雪うさぎの目にも使われていた石は、歪めた虹を閉じ込めたような色合いでゆらゆらと光を放って、シーツを虹色に染めていた。
「これはね、お姉ちゃんのお気に入り。妖精の涙っていうの。きれいでしょ。王都屋敷の裏の森に行くと、沢山落ちてるのよ。いっぱい歩けるようになったら、ひみつの場所を教えてあげるからね」
こしょこしょと声を低めるトリアの頭のそばから、ミルクを飲んで月光浴をしていたはずの妖精が飛びおりてくる。
虹色の石から綺麗な空気でも出ているのか、ぺったりと寄り添うと、枕にするように寝そべって、両手で触れては頬ずりしている。
トリアはにこにこしながら、寝転がった私の手に、虹色の小石をじゃらじゃらと落とした
「わたしの妖精姫ちゃん。お姉ちゃんが守ってあげるからね」
一瞬、本当に泣きたくなった。
どうして、どうしてそんなに優しいのだろう。
こんな私にそこまでしてくれたって、いいことなんて何も返せないのに。
「こら、ヴィクトリア。このおてんば姫。やっぱりここにいたかい」
その時もう一度扉が開いて、ぴょんとトリアは飛び上がった。
「お父様!」
寝台が大きく揺れて、虹色の石や小枝がばらばらと飛び散る。
音もなく部屋に入ってきたのは、背の高い均整の取れた体つきの、月光のように輝く銀の髪が幻想的な美青年だった。
「あ、あのねお父様これはね」
「わかってるよ。ロビンハートの時といい、ユレイアといい、君は本当に愛情深いお姉様だ」
叱られないとわかって、トリアがほっとした顔で「お父様」と囁く。
彼女の父ということは、すなわち今世の私の父だ。
だが、私はこの綺麗な顔をした男の人が父親だなんて、今でも信じられなかった。
顔が綺麗すぎて親しみが持てないし、何より父親というのには理屈ではない恐怖が染みついている。
彼が近づくたびに身体がすくんで、いつの間にか細い声で泣き出していた。
ふええ、ふええと頼りなく上がる泣き声に、トリアは自分が跳ねたせいだと勘違いして、盛大に慌てはじめる。
「恐くないわ、レイア。びっくりさせたわね。もう泣かないでいいのよ、だいじょうぶよ」
「おやおや、泣き虫姫のお目覚めだ」
そう言って嬉しそうに笑った父親が、手慣れた仕草で私をひょいと抱き上げる。
冗談じゃないと身体を強ばらせ、私は顎を掴んで遠ざけようとしながら盛大に身体を反らして泣いた。
「うーん、最近レイアは俺が抱っこするとよく泣くなぁ……。こういう月齢かなぁ」
もう少し前は目がはっきりしてなくて、抱き上げられても父親だと認識していなかっただけだ。
けれど父親は「まあ、子供は泣くのが仕事だ」とさして気にした風もなく私の背中をとんとん叩きながら身体を揺らす。絶妙にちょうど良い浮遊感なのが悔しい。
「じゃあ、お散歩がてら、お父様と薔薇園の見回りに行こうか。お片付け出来る素敵なお姉様はどこかなー?」
「はーい!」
父親の言葉に、幼い姉は大きく手を挙げてまた跳ねた。
*
小さなガラスの温室は、一面真っ白な薔薇が咲いていた。
妖精の好む薔薇らしく、小さな人影は大きな花弁の上に淡く光りながら腰かけたり、鈴のような鼻歌を歌ったりして蛍のようにあちこちを飛び交っている。
外に薄く積もった雪が月光を反射して輝くので、中は思った以上に明るい。
あまりに良い景色なので泣いているのが惜しくなって、私はぶすっと不満な顔をしたまま大人しく父親に抱き上げられていた。
小さな鞄を持ったトリアは踊るように小道を走っては、ゆっくりと歩く父親と私の元に跳ねながら戻ってくる。
「ねえ、お父様はむかし強い騎士様だったのよね」
さっきまで、小道のそばに飾ってあった小さな騎士像を撫でていたトリアが、父親の足下にまとわりつくように戻ってきて言った。
知らない情報に、私はちょっと驚いて耳を澄ませる。
「ああ、まあね。昔の話さ。強い騎士じゃなくて、下町で馴染みのおじさんにご飯おごってもらってばっかりの、のんびり騎士だったけど」
「そう? じゃあ、私もやれるわね! 私は、つよいつよい騎士になるわ! それでレイアを守ってあげるの!」
どうやら、ベッドから落ちた妹を助けて褒めそやされた体験は、彼女にとってけっこうな自信になっているらしかった。
そうは言っても、彼女の夢は日替わりなので、父親も目を細めて、おっ、そうかいと気楽に頷いた。
「でもお父様はもう騎士をやめてしまったからなぁ……。姉さんの方が、もっとずっと強い騎士だよ」
「お父様、お姉様いたの?」
父親は何故か、しまった、という顔を一瞬した。
私も初耳だったが、この反応だと仲が悪いのだろうか。
父親はちょっと寂しげに苦笑した後、まあねと軽く肩をすくめた。
「お父様はねえ、騎士の練習をサボって辞めてしまったから、怒られるのが恐くて会えないんだよー」
おどける父親を叱るでもなく、トリアはこぼれそうに大きな緑の目をきょとんとさせた。
「お父様は、どうして騎士をやめてしまったの? 私、お父様にも習いたかったのに」
「そりゃあ、この銀雪の薔薇より美しいお母様と結婚して、皆のお父様になりたかったからさ」
「ええー。私達のお父様をしながら強い騎士をすればよかったじゃない」
父親は一瞬、寂しげな顔をした。
そうすると、不気味な赤い目が、夕焼けみたいに澄んだ気配を漂わせる。
けれど、すぐにまばたきして明るく朗らかな顔をすると、軽妙な空気で笑ってみせた。
「うーん、世の中はなかなか難しくってねえ。お母様と結婚する人は、一緒にここでずっとお母様を守ってくれる人じゃないと駄目だってお祖母様に言われてしまったんだよ。俺も、ここの暮らしは気に入っているしね」
「ふうん? お母様を守る騎士になったってこと?」
「いやあ、そうそう。そうなんだよ、ヴィクトリアは賢いなあ」
「でも私、お父様が格好良く騎士をしてるの見たかったぁ。ねえ、今からでもやって!」
トリアのお願いに、父親は肩の力の抜けたさっぱりとした声で気楽に告げた。
「それは無理だなあ」
「どうしてえー」
ふいに、彼女の子供らしいわがままを素直に口に出せるところに、場違いなうらやましさが沸いた。
親の顔色をうかがって、面倒な質問をしないように神経をすり減らすなんて、この子はこれからもずっと知らずに済むのだろう。
父親は、トリアの言葉に気を悪くするでもなく、さらりと落ち着いた口調で言った。
「まあ、人生はなるようにしかならないからさ。お父様はね、何度人生を歩んでも、多分俺はこうするだろうなと思うことを選択したんだ。良いことをしても、悪いことをしても、何かが起きる時は起きる。起きた時にはまあ、きっと大丈夫だと思いながら立ち向かった方が、気が楽なものさ」
「えー。ぜんぜんわからない。どういうこと?」
トリアはちっとも分からない顔をしていたが、その言葉は妙に私の胸を打った。
──何度人生を歩んでも。
そうやって確信を持って決断したことが、私が死ぬ前に、あっただろうか。
そんな決意を出来る程の力も、自信もないまま、自我は環境にすり潰された。
抵抗もできないまま水に落とされた虫のように沈んだ前世の自分が、ふいに急に哀れに感じた。
「つまり、騎士じゃなくても、お父様は幸せってことだよ。おてんば姫様が毎日元気だから、落ち込んでいる暇もない」
ちんぷんかんぷんで煙に巻かれたという顔をしていたトリアは、褒められてすぐに機嫌を直した。
「そうだったの! じゃあ、私もっとがんばるわ!」
「いやぁ、流石にちょっと加減してくれると嬉しいんだけどね……」
トリアは父親のぼやきなど耳に入らなかったらしく、元気です! と全身で主張して小道を全力で走り出す。
はっはっはと顔だけで笑いながら早足になった父親が「頼むから転ばないでくれよ」と声をかけ、トリアは「わかった!」と勢いよく答え、その直後見事に躓いて転んだ。
「ヴィクトリアーーー!」
ぎゃあっと悲鳴をあげた父親がすごい勢いで長女の元に駈け寄って抱き起こすと、トリアは真っ白な額をすりむいてぎゃあぎゃあ泣いていた。
私もびっくりして思わず一緒に泣き始めたので、白薔薇の美しい温室は一瞬で地獄絵図に変貌した。
父親は泡を食って両手で娘二人を抱えあげると、必死でよーしよーしよーしと唱えつつ小刻みに上下運動を繰り返す。
「あなた、どうしたの?」
「おねえさま。なにがあったんですか?」
大騒ぎを聞きつけたのか、二人分の足音が駆けつけて来る。
古い水の止まった噴水の影から現れたのは、同じくお散歩していたらしい母親と兄だった。
「マリアンネ! ロビンハート!」
父親が歓喜の声をあげ、トリアがほとんど泣き声のまま、おがあざまぁ、ろびぃぃん、としゃくりあげる。
あまりの潔い泣きっぷりに、妖精がきゃっと悲鳴をあげて逃げていった。
「あら、トリア転んじゃったのね」
「おねえさま! おねえさまだいじょうぶ?」
白い薔薇を腕に抱えた母に手を引かれているのは、彼女そっくりの美人な顔をした兄だった。
まだ幼い少年も、一輪薔薇を手に握りながら、一生懸命小さく短い足で走ってきている。
父親が心底ほっとした顔をして、私達を抱えたまま妻の元へと足を向けた。
「ああマリィ、俺の愛しい妖精姫。助かった、よく来てくれた、愛してる」
「寝かしつけたのに、二人とも起きて来ちゃったの?」
「左様でございます、トーラス家の当主様。どうかあなたの忠実な臣下を助けてください。ユレイア抱っこしててくれ」
「あら勿論です。愛しい旦那様。ほらレイア。びっくりしてしまったのね。大丈夫よー。ごめんねロビン、お母様の薔薇を持っていてくれる?」
「はぁい」
よしよしと歌うように囁いて手を伸ばした母親に抱えられても、一度驚いて泣き始めた身体は中々簡単には止められない。
私が勝手に吹き上がる泣き声に翻弄されている一方、父親の方は、自由になった両手でトリアの額の傷をよく見て「大したことないな」と呟いてため息をつく。
そしてすぐさま、まだ泣きわめくトリアを、痛かったなー、ほーら高い高いーと繰り返しながら両腕で頭上に掲げたり、地面に下ろしたりと実に忙しい。
どうやら効果は絶大だったようで、顔中で泣いていたトリアはあっという間に機嫌を直してきゃっきゃと喜び始めた。
こうすると、自分ばかりが泣いてるのが何だかおかしい気がして、私の泣き声も徐々に落ち着いてきた。
ほっとした顔をした父親が、大きく上下に長女を振りながら、薔薇を抱えて良い子に立っている息子に微笑みかける。
「ロビン、素敵な薔薇持って、お前も夜のお散歩かい」
彼は、両手に大きな白薔薇の花束を抱えたままじっと立っている。
ん? と首をかしげた父親は、トリアを首に抱きつかせるようにして抱え直して、長男の前に膝をついた。
顔を赤くしている男の子は、唇を尖らせて、小さな声で呟く。
「ぼくのおくるのやつだって、レイアはよろこぶねえって……お母さまと……」
──この子もか。
私はまた申し訳なさで胸が痛くなった。
まだ文法も怪しい舌っ足らずな言葉に、そりゃあいいと笑って、父親はロビンの足を片手で救うように抱き上げた。
小さなお尻を自分の腕に座らせて、母親に抱えられている私の顔のあたりに近づける。
「ほら、泣き虫姫様。学者王子様からの贈り物だよ」
「れ……レイア、はい、どうぞ」
差し出された白い薔薇は、よく見ればほんの少し銀色がかっていて、雪の粉をまぶしたようにきらきらと光っていた。
その香りは品がよく甘く、母親からよく漂っているものと同じもの。
とても良い香りで好きなのだが、私は結局口をきゅっと引き結んで顔をそらし、逃げ出したくて目を閉じた。
期待するのが、怖い。
心を開いて甘えれば甘えるほど、裏切られた時に辛い。
だけど、さっき聞いた父親の言葉が、私の頭の中にこだまする。
どうせ人生はなるようにしかならない。
──本当に、そうなのだ。
どうしようもなく、優しさは私の身体に降り積もっていく。
雪のように静かに。広い大地を真っ白に染めるように、確実に。
そっぽをむいた無愛想な私にも、家族はちっとも怒らず
「ああ、眠くなっちゃったか」
「寝顔も可愛いわ!」
「お母さま、レイアのばらのやつ、かざっていいですか。おへや」
「もちろんよ、ロビン」
と和やかに話している。
狸寝入りした私の鼻先に、甘い薔薇の香りがふわっと抜けていった。
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