第4話 目標は寝返り
この世界から逃亡してやるんだ。
その時に初めて私はゆっくり眠れるんだ。
前世でも燃やしたことのないような熱意で死を決意した私が一番最初にしたこと。
それは、筋トレだった。
目標、寝返り。
あまりにも志が低すぎて情けなくなるけれど、耳も目も頼りにならない私に必要なのは、私の身体を支える筋肉だ。
子供の死亡事故なんていくらでもある。隙をついて窓から落下すれば、私はようやく自由の身になれるのだ。
「……う、っだぁ……」
私が動けるようになったことを知られてはいけない。
起き上がれる、動けるようになったと悟らせないまま、自分の力で動き回れるようにしなくてはならない。そうでないと、連れ戻されて努力が水の泡だ。
幸い、生まれたばかりの視力と聴力でも、明るいか暗いか、うるさいか静かかくらいならばわかる。
周りが寝静まった後に、私は一人身体を鍛え始めた。
の、だけれど。
「ぐっ……あううぅ……」
両手は動く。足も動く。
でもとにかく胴体が重たすぎた。さらに言うと頭が大きすぎる。
両手を握り、足で床を蹴り、体をよじる。
それをたった三回繰り返すだけで、早々に息があがってしまった。
肘をついて上体を起こそう、頭を上げようとしても、首の筋肉がなさすぎて無意味に震えるだけで終わる。
というか、こんな貧弱な足で持ち上げられるような重さの胴体を、そもそもしてない気がする。
赤ん坊の身体、あまりにも無力がすぎない?
「ああぅう……」
彼らが突然泣く理由がわかった。
きっと自主的に筋トレをしていて、疲れたタイミングで泣くのだ。
現に私だって身体は温かく、両手足が痛くて、首の筋肉がしんどくて、勝手に涙が出そうだ。
あと何をしていなくても関節がみしみしと痛い。たぶん成長痛だ。
こんなに辛いのなら、いっそ普通に寝ていた方が楽なんじゃないか。
いっそ流れに任せて、成長を待った方がいいんじゃないか、と思い始める自分を何とか宥めて泣くのを堪える。
ぐっと唇を引き結んで、手を握り、顔をしかめ、
「うわあああああん!」
結局、肉体の衝動にひっぱられて、努力むなしく大声で泣いた。
すぐ近くで眠っていたらしい誰かが起き出し、誰かと話して、どちらかが私を抱き上げた。
家族に触られるのが怖すぎて、私は体力の尽きるまで泣き喚いた。
*
辛いことを耐えるのは得意だったはずなのに、赤ん坊になってからどうにもうまくいかない。
何度か筋肉痛に耐えることに失敗して泣き喚く羽目になった私は、そのせいで当の恐怖の対象たる家族らしき相手に宥められ、そのせいで恐慌をきたして疲れ果てるまで泣くのを繰り返しだ。
正直、ものすごく疲れる。
やはり、一刻も早くこんな世の中からは脱出しなくては。
その一心で、皆が寝静まるのを待ち、私は何とかこっそりと練習を続けた。
そして幾日か、あるいは数十日の長い時間をかけたある夜。
私は、ようやく自分の胴体、特に腰あたりを持ち上げることに成功したのだ。
しかも首だけ動かして、視界を90度くらいまでなら動かせる。
おかげで、にじんだ視界ながらも、ここがどうやら大きなベッドの片隅だという事も、なんとなく察せられた。
私は、わかりやすい我が身の成長にじーんと喜びをかみしめ、調子に乗った。
自分って成長できるのだ、というのは思えばかなり久しぶりの実感だった。
前世では停滞ばかりしていたから、昨日の私より、今日の私の方が何か出来るようになるのだ、と思えばむやみに嬉しかった。
それって、時間の経過に伴った、ただの一般的な赤ん坊の成長なのでは、と思う気持ちは押し込めて無理やり前向きになる。
ちょっと悲しい気持ちになると、身体がすぐに泣いちゃうので。
身体が動く、それだけの事でもむくむくとやる気が湧き上がり、自信につながる。
私は更に研鑽を重ね、朝と夕に身体を持ち上げ続け、胴体をねじり、首を動かし続け、とうとうある夜、
「あうっ……」
ころん、と寝返りを打つことに成功したのだった。
天地がひっくりかえる、というのはまさにこの事だった。
うつぶせになったままで顔を持ち上げれば、今まで見飽きていた天井の色とはまったく違う景色が飛び込んでくる。
まだ大いにぼやけてはいるが、それでも自分の力で手に入れた景色だ。
「ううぅ……!」
私は大喜びで両手をシーツに沈め、腕立ての要領で胴体を持ち上げ──そして二秒も持たずに撃沈した。
やはり頭が重たすぎる。
そういえば、腕の外側の筋肉は鍛えても、背筋と腕の内側の筋肉は使っていなかったのだから、よく考えたら当然かもしれない。
諦めて、片膝をシーツにめりこませて、体をねじる。
途中で体力が尽きたので、ぜいぜい言いながら変にねじれた体勢で休憩し、再び力をこめる。
ころん、と再び身体が転がった。
私は感動に打ち震え、歓声をあげないように両手で口を覆った。
動けるって、移動できるって、なんてすばらしい……!
すでにかなり疲れてはいたが、興奮のおかげか涙は出なかった。
珍しく、妖精が慌てた顔をして私の額に飛び乗ってきた。
今日は、赤い髪をした、緑の新芽を縫い合わせた服を着た小さな女の子だ。
淡く光る妖精は、私の顔の近くで蝶に似た翅をふるふる揺らすと、両手で私の頬を押し、もどって、もどって、とばかりに肩や肘を押し付けてくる。
一匹(一人?)の妖精につられてか、どこに隠れていたのか、赤や白、黄色の服を着た他の妖精達も現れて、同じように行列になって私の頬を押した。
けれど、どうやら妖精は実体がある訳ではないようで、頬にふわふわと温かい風が当たる程度だ。
その程度のことで、私の念願の寝返りは止められない。
一度要領を得てしまえば、あとはもう同じことの繰り返しだ。
景色がどんどん変わっていくのが面白くて、何より動けることが楽しい。
ぽっぽと身体が温かくなって汗ばむのも気にせず、懸命に転がった。
動くたびに、匂いが変わる。
回るたびに、景色が新しくなる。
先へ行ける。
まだ先に、先へ。次の景色に──
「わあーーー!!!!」
甲高い声が突然耳に飛び込んできて、体を強張らせた。
それと同時に、すかっと背中が涼しくなって、あっという間にバランスを崩す。
あ、ここ、ベッドの縁か。
頭がぐらりと落ちて、胴体がまるごと重力に引っ張られた。足を踏み外す。勢いがついて身体が回る。
落ちる。
思ったと同時に、頭と体を温かいもので一気に包まれた。
容赦なくぎゅうっと締め付けられているので苦しい。
抱き上げられる時に似た感覚だったが、体を包む手が、何故かとても小さい。
「あ、あぶなかったぁ……」
うわあ、と幼い女の子の、ひそやかに震える声が飛び込んでくる。
「かわいい……」
目をこらせば、にじんだ肌色の塊の真ん中あたりに、丸い緑色の塊がふたつ、閉じたり開いたりを繰り返していた。
すりガラスの向こう側で、緑のライトが点滅しているかのような景色の中で、幼い子供の声がひそひそと響く。
「おねえちゃんだよ、ヴィクトリアだよ。トリアおねえちゃん、言ってごらん?」
私を抱えているのは、緑の目をした、子供だったらしい。
おそらく彼女が、ベッドの端から落ちた私を抱きとめたのだろう。
そうぼんやり理解はしたけれど、落下の衝撃で私はまだぼんやりしていた。
前世でも、階段から落ちて死んだ。
そのことを思い出すと、自分から落ちようとしていた癖に、頭が真っ白になったのだ。
放心してぼやんとしている私を、大人しいと勘違いしてくれたのだろうか。
かわいい、かわいい! と嬉しそうにこそこそ笑い声をあげた彼女は、私の頭をぺたぺたと触って髪を引いた。
おそらく、撫でているつもりなのだろう。
「すべすべ……ふわふわ……ちっちゃいねえ……かわいいねえ」
そういえば、ややわかるようになったとは言え、ここまではっきり言葉が分かるなんて不思議だ。
頭の中では日本語の意味として理解できるのに、耳から受け取る単語は不思議な響きの歌のような言葉なのが奇妙だった。
もしかしたら、妖精と同じで、頭の中の違う部分で聞き取っているのだろうか……。
目をぱちくりとして視線だけわずかに動かせば、耳元に暖かな風が当たり、小さな妖精の足の裏がちらりと見えた。妖精が私の耳へ必死に身体をこすりつけているらしい。
そんなこと出来るなら、もっと早くに教えて欲しかった。
ぼんやりと思っている私の耳に、幼い少女の声がはっきりと囁く。
「あたしね、妹はじめてなの」
とびきり嬉しそうな声は幼いけれど明るくて、どこかチカちゃんを思い出させた。
どうやら今世の私には姉がいるらしい。
前世の兄は、地元でもちょっと土地を持った家の娘とデキ婚していたから、家庭内で権力を持った気の強い義姉はいたが、実の姉は初めてだ。
「ね、ユレイア。ユレイアちゃん。お姉ちゃんだよ」
──ユレイア
ひそかに、私は衝撃を受けた。
今世の私は、ユレイアというらしい。
どうやら、千佳子ちゃんのことをチカちゃんと呼ぶように、レイアというのは単にあだ名として呼んでいただけのようだ。
妖精の姿からして、西洋のどこかだろうと思っていたけれど、本当に私は日本ではないどこかに生まれてしまったらしい。
私は、ユレイア。
もう「れいあ」ではないのだ。
それは重たい鎖を脱ぎ捨てるような解放感と、どこに行っていいか分からないまま旅行鞄を持たされるような心もとなさを同時に感じるものだった。
ふいに、かつての夢が胸にわきあがる。
長老先生が差し出してくれた参考書と共に、私の胸にあざやかに広がった将来の夢。
勉強して、自由になる。
家族が誰も追いかけてこない町で働いて、稼いだお金を自分の為だけに使いたい。
自分で選んだカーテンがそよぐ朝に、小さな机に肘をついて、お気に入りのマグカップに淹れたほうじ茶を吹き冷まして飲みたい。
その家に友達を呼んで、とびきり美味しい湯気の立つお茶を淹れてあげる、そんな一瞬の淡い夢を。
──私は、あの家族から、自由になったんだ……。
けれど、あの時抱いた夢はもう、二度と実現することはない。
叶うことなく消えた夢の残滓が、ふいに切なく胸を締め付けた。
「トリアお姉ちゃんね、ユレイアがうまれるの、たのしみにしてたのよ」
降り注ぐ可愛らしい女の子の声に、喪失感と解放感がうずまいた胸の中がかき回される。
抑えようもない希望が、ぽつんと水に落とした砂糖のように音もなく広がっていく。
──本当に?
ありえない、ありえないと自分の中の傷ついた部分が悲鳴をあげる。
期待するのは怖い。傷つくのが怖い。だから最初からなかったことにしたい。
でも。
「はい、いいものあげる。もうすぐ春なの、だからみつけたの」
女の子の声と共に、体が少し動いた。
どうやら、ポケットか鞄か、身に着けたものから何か取り出したらしい。
顔の前に、黒っぽい塊と、白っぽい塊が突き出される。
小さな姉は、いたずらっぽく囁く。
「ないしょでもってきたのよ。おかあさまに、怒られるもの」
──見たい
呟いた言葉は「あうぷう」と赤ん坊のつぶやきになる。
目の前の二つの塊を、ぼやぼやと滲んだ謎の物体ではなく、ちゃんとこの目で確かめたい、と強く思った。
小さな幼いお姉さんが、生まれたばかりの妹に、春のお土産を持ってきた。
それをこの目で見たい。確かめたい。
私が、もしも本当に、新しい人生を歩めるのならば。
かつての家族とは、違う関係を築くことが出来るのならば……。
私の願いが通じたのか、妖精達が翅をこすり合わせて、鈴のような音をこぼして飛んだ。
嬉しそうに微笑むと、白っぽい塊や、黒っぽい塊に集まって、ゆるゆると贈り物を撫でる。
すると、贈り物は妖精の管轄になったのだろうか。子供の持っている小さな何かが、すうっと輪郭をせばめ始めた。
縁がはっきりして、色の濃淡が細かくなる。
凹凸がつき、立体的になっていく。
私は、おそるおそる息を詰め、徐々に姿を現す贈り物への期待を、必死に押さえつけ、押さえつけ、それでも食い入るようにそれを見つめ──息をのんだ。
「……!?」
でかいトカゲの尻尾と、蛇のぬけがらだった。
生々しく青緑色の尾はまだびくびくと震えていたし、半透明のビニールみたいな蛇は目玉もくっきりと立体的で、しかも私の身体より長かった。
全身におぞけが走って、鳥肌が立つ。
可愛らしい女の子の声は、誇らしげに、楽しそうに可愛く囁いた。
「ユレイアだから、とくべつよ」
もちろん私は大声で泣き喚いたし、私の泣き声に驚いて小さな姉も泣いた。
──もう絶対に絶対に! 希望なんか持つもんか!
どうやらほんの少し席を外していたらしい大人達が次々と部屋に駆け込んできて私を抱き上げてあやしたが、家族というものにほとほと絶望している私は決意を込めて力の限り泣き喚いた。
私の二度目の人生は、最初からちっとも思い通りにならなかった。
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