第3話 その音は鼓動


どぉーん、どぉーん、どぉぉーん……。


遠雷の音が聞こえる。

それとも祭り囃子の太鼓だろうか。


ほの赤く薄暗い闇の中は、きっと毛布なのだろうと思った。

あたたかくて、やわらかくて、とにかく眠たい。

ずっとここでまどろんでいたかったのに、急に私を包む暖かな毛布が動き回り、頭をぎゅうぎゅう締め付けた。

私は恐怖し、必死に抵抗したけど、身体は勝手に回転しながら細い管に押し込められる。


狭くて苦しくて泣きたかったが、口を押さえられて悲鳴も出ない。

永遠に続くかと思った痛みは急に終わり、突然寒く、明るくなった。

両脇を何かに掴まれる。両手だとは思ったが、それにしては巨大すぎる。私の脇の下から腰の方まで包む手なんて、あるはずがない。


心もとなくて不安で、とにかく寒い。

あまりに頼りなくて、私は泣いた。

本当に久しぶりに、声をあげて泣くことが出来た気がした。

すぐに暖かい何かに全身をくるまれたが、ひたすら不安であることに変わりはない。

私は喉の限りに泣きわめいた。

何しろ人が居ることは分かるが、目は濁った水の中にいるようにぼやけ、耳はぼわぼわと反響して言葉を聞き取れないのだ。

ただ、声色が高く、賑やかだったから、歓声のようだ、ということだけが分かった。


──求めていた子供が来たよ 


あいまいに反響する歓声の中で、急に、はっきりとした囁き声が聞こえた。

くすくすと笑う声は砂糖菓子のようだ。

澄んだ囁きが、私の耳の近くを通過する。


──欲しかった子供が来たよ


声はまるで蝶か雪の破片のように、いくつもいくつも近づいては離れ、楽しそうに歌う。

私は驚いて泣くのを止め、きょろっと目を動かした。

ぼやけた視界の中で、不思議とその姿だけは明確に見える。まるで、視力以外の力を使って見ているかのようだ。

ほの明るい、かげろうような淡い影が額の上を通過する。


そこに居たのは、小さな小さな人間達だった。


ガラス細工のような薄い羽を背に持ち、花びらを縫い合わせた服を着ている。

うっすらと輝きながら空を飛び、私に気がつくと、誰もが私に微笑んで手を振った。

おとぎ話に出てくる妖精そっくりの姿に、私はぱちくりとまばたきをした。

くすくす笑いながら妖精は歌う。


──星の魂を持つ娘 妖精姫を受け継ぐ者

──ようやくようやく生まれてくれた!


生まれた?


その途端、全身に痛みとおびえが広がった。

血に濡れた石段。曇った空。怒りに歪んだ父の顔。冷たい台所から聞く嘲笑。

全身を締め付けるような絶望がかけめぐり、私は切り裂くように泣き出した。


ようやく終わったと思ったのに。

やっと安心して眠れると思ったのに。

もう生まれたくなかった。もう生きていきたくなかった!


あの太鼓のような音は、母の心臓の鼓動だったのだ。

悲鳴のような泣き声は、けれど赤ん坊の産声だと思われたらしい。

暖かな手が私を抱きとめて、何か優しく囁く。

妖精の声は聞こえても、生まれたばかりの赤ん坊の鼓膜はうまく普通の音をとらえられない。

ぼんやりした濃淡だけがある世界の中、急に甘いものが口の中に流れ込んできて、私はまた眠くなっていった。


  *


しばらく、まどろんでは泣き、甘いものを口に流し込まれてまた眠る時間の繰り返しだった。

周囲の輪郭はぼやけ、鼓膜を叩く音はあいまいだ。

人らしき影は入れ代わり立ち代わりして私の世話を焼いたけれど、そのどれもがぼやけた色の塊にしか見えなかった。

ふいに私は眠りから目覚め、うつらうつらとまどろみながらぼんやりと惰性で目を開けていた。

天井付近は相変わらず薄茶色にぼやけていたが、周囲は底の方からぼんやりと白っぽく明るい。たぶん昼間か朝なのだろう。


ふいに、赤い花びらをまとった妖精が、秋のトンボみたいについーっと頭上を通り過ぎた。

はっきりとその姿が見える、というだけで今の私にとっては何よりありがたい。

誰だって、目も耳もほぼ利かない状態で知らない人に囲まれるのは不安だろう。

そのうえ私は、生まれたばかりで寝返りもうてないのだ。


──待って、行かないで! 


必死になって呼びかけたつもりだったが、口から出たのは、あー、とも、うー、ともつかない音の震えだけだった。


それでも音だけで通じたのか、妖精はふんわり一度山なりに舞い上がると、ゆっくりと私の鼻先に降りてきた。

お人形みたいに小さい、緑の髪をした少女は、トンボに似た半透明の翅をぷるぷるっと震わせて折りたたむ。

ちょっとスカートをつまんでお辞儀をすると、機嫌よさそうにくすくすと笑い、小さな小さな指先で私の鼻をつつく。


──ここはどこなの。何もわからないの、教えてくれませんか?


もしかしたら、視力が未発達な私でも妖精が見えるように、妖精も言葉がなくても伝わるのではないだろうか。

わずかな期待と共に、また、あう、に近い言葉を操った。

けれど、妖精はくるんと首をかしげると、私の頬やまつ毛を楽しそうにすべすべと撫で、ころころと鈴のような涼しい音を立てるだけだ。


──聞こえていますか? わかりますか?


妖精は、嬉しそうにふんわり笑うと、私のほっぺたに頬をきゅっと押し付けた。

顔を左右に揺らして頬ずりをし、嬉しそうにぴぴぴぴ、と翅を震わせる姿はかわいいし嬉しいけれど、言葉が通じている気配はなさそうだ。


──まあ、赤ん坊だもんね。


我が身を嘆いたら、いかにも赤ん坊らしい、あぶぅ、という声が自分から漏れて気恥ずかしかった。

その拍子に、楽しげに私に頬ずりをしていた妖精は、ふいに何かに気づいたかのように突然振り返り、ひとつ手を振って飛び立ってしまう。


──ああ、行っちゃった。


寝返りすら打てない身で、はっきりと見える存在が遠くに行ってしまうのは、置いていかれたような気がして寂しかった。

悲しくなればすぐに涙が出る赤ん坊の身体で、我慢することは難しい。


じわじわと涙が出そうになるのが嫌で、仕方ない、仕方ないと私は必死に自分に言い聞かせた。

だって、妖精は気まぐれだし、人をからかうものだと言うじゃないか。

絵本に書いてあった。仕方ない。


──絵本、か。


おとぎ話の妖精は、前世、小学校の図書館で読んだ時に知った。

だってお母さんは忙しかったから。

いつだって祖父母の介護と家事に追われて忙しく、私に絵本を読んでくれることはなかった。でも、お兄ちゃんの部屋には、沢山の図鑑や絵本が本棚にぎっしり仕舞われていた。

親子の読み聞かせの本、と書いてある表紙の文字を見るたびに、うらやましくて寂しくて、でもどうしても気になって、一人でこっそり口に出して読んでみたっけ……。


思い出したら悲しくなって、本当に涙が出てきた。

この赤ん坊の身体は、取り繕うということが出来ないらしい。

悲しい時も怖い時も、我慢して笑ったりできず、ただむき出しの感情のままに泣き出してしまう。

しかも、一度泣いてしまえばもう勢いがついてしまって、衝動が収まるまで自分でも泣き止むことができないのだ。


うわあああ、と口から泣き声がほとばしるのを感じていると、視界に急にぬうっと大きな手のひらが現れた。

どうやら、ずっと隣に寝転がっていた人がいたらしく、手のひらで腹をすっぽり覆って私を抱き上げてくる。ぼやけた視界の中でも、何もかもの縮尺が大きく、まるで恐ろしい、得体の知れない巨人にあやされているようだ。

いいや、赤ん坊だから私が小さいのだと、わかってはいるけれど。


「……いあ、……こね……え……」


ぶわわ、ぼわわ、と私を抱き上げた誰かの囁く声が鼓膜に反響する。あいまいにぼやけた肌色の塊は、おそらく人の顔なのだろう。

声がするたび、口らしき場所で赤いにじんだ色の塊が上下する。


私は震えて、ますます泣いた。

ぼんやりした視界と聴覚の中で勝手にめぐる人々の営みはおそろしい。

半分くらいは身体に引っ張られて赤ん坊の感覚でも、残り半分はしっかりと前世の記憶を保持しているのだ。


家族は、怖い。

これはもう、ただの反射だ。

かつて窓から落ちたから高い所が怖い、刺されたから蜂が怖い、溺れたから海が怖い。

それと同じように、叩かれ、突き落とされて死んだから家族が怖い。

もう、自分でもどうしようもない。

心の底から湧き上がる嫌悪感で、気持ち悪くてならない。


「……いあ、……よ……さん……いあ……」


そもそも、妖精が飛び交う世界なのだ。

私を抱き上げているのが本当に人間かどうかも、まだ確証は持てない。

考えれば考えるほど嫌な方向に思考が向かって、体を反らして泣き喚いた時だ。

けれど身体を反らした表紙に、さっきの赤い花びらの服を着た妖精が、私を抱えている誰かの肩にふわりと腰掛けているのが目に入った。

私から離れたと思ったが、案外近くに居たらしい。


妖精は、私と、私を抱き上げる人の顔を見比べると、にこにこと笑って、口の動きを真似てみせた。

伝えよう、という感じではなく、ただ面白いから真似てみた、という風に無邪気に。

私は、つい泣き声を弱めて妖精の唇を見つめる。


「……いあ、……こね……え……」


私の耳に、ぼわ、ぼわわ、と鈍い音が反響する。ぼやけた肌色の塊が上下する。


『れいあ、いいこね』


妖精が真似た唇は、確かにそう言っていた。

ひくり、と痙攣して思わず泣き声すら止まる。

私は、愕然として心臓が潰れるような心地になった。


生まれ変わっても、そうなの?

私は、この名前から、逃れられないの?


──だとしたら、人生だって……これからの人生だって、きっと変わらない。


静かな絶望は、やがて諦観となり、そして突き抜けて何故か決意になった。


今度もダメだ。絶対、きっと今度もダメだ。

私はきっと今回も、昔みたいに頑張って、頑張って、そのまま逃げられることなく、夢だけを見て虫のように叩き潰されるに違いない。

でも、長老先生は言っていた。

いつから始めたって遅くはありませんよって。


そして私は、死の間際、もう怯えながら眠らなくて良いのだと心から安堵したのだ。

だったら。


──私、何とかして死んでみよう。


傷つく前に、逃げよう。

今度こそ、安心して眠るために。


ひどく後ろ向きな──そのくせ決意に満ちた独り言は、あうぅ、とまさしく赤ん坊ですという声にしかならなかった。


妖精が、誰かの肩でくすくす笑っていた。

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