第2話 明日、地元新聞の大見出しになる私の冬の日


 一度だけ、ありったけの勇気を絞り出して、聞いてみたことがある。


「来週、チカちゃん、家に呼んでいい? お誕生日、祝ってくれるんだって……」


 母は、祖父母から押しつけられた年賀状の宛名書きの手を止めて振り返った。

 青白い顔で仏壇の隣に立つ私を、まるでジャムの瓶でウサギを飼いたいと言い出したかのように、驚き呆れて言う。


「無理に決まってるでしょ。もし急にお兄ちゃんの友達が来たらどうするの」


 それで話は全部おしまい。

 こたつに広がったはがきに向き直って、母はまた筆ペンを走らせ始めた。

 それ以上話しかけるな、と無言で放たれる圧力の前に、私は静かにうつむいて泣き声を押し殺していた。

 いつか、目の前で母がしている宛名書きが、全て私の仕事になることを知らないまま。

 その日の食卓で、泣いてわがままを言ってごめんなさいと、わざわざ家族全員の前で謝らされることすら知らずに。


  *


 お正月が嫌いだ。

 誕生日も近く、一年で一番私がみじめになる時期だから。


「ただいま……」


 横開きの大きな玄関を開けて、私はなるべくひっそりと声をかけた。

 暗く長い廊下の突き当たり、細く開いたふすまから、うす黄色い帯のように長く光が落ちている。

 誰かが出てくる気配はなかったから、私は両手に持ったスーパーの袋を一旦床に下ろした。戸を閉めて再び荷物を抱え、靴を脱ぐ。

 廊下は冷え切り、歩くたび薄いスリッパに冷気が染みてくる。


 トイレの手前で曲がり、真っ暗な台所の壁に指先を這わせてスイッチを押した。

 かち、かちと何度か点滅してついた蛍光灯は、古びてどこか薄暗い。

 白い息をそうっと吐きながら、軽自動車に満載したおせちの材料を、三回に分けて台所に運び入れている。


 最後の一往復の途中で、トイレから出てきた兄とはちあわせた。


「おい、高卒」


 私の学費を食い潰してFラン大学を留年した兄は、ニヤニヤしながら私を見て言った。


「酒」

「あ、はい……」


 反射的に頷いてしまってから、逃げるように台所へ駆け込んだ。

 江戸切り子のグラスと冷酒の瓶をお盆に並べながら、もの悲しさと苛立ちがもやもやと胸に溜まるのを、諦めがなだめてきた。

 せめて嫌な顔をしてやればよかったのに、後ろから「早くしろよ、使えねえな」とぼやく声に、口が勝手にか細い声で謝っている。


「ごめんなさい、お待たせしました……」

「遅っそ。やっぱカスだわ」


 言うだけ言って、兄は私からお盆を受け取ると、廊下を歩いて行ってしまった。

 私は、ぺたぺたとしみったれた音を立てて、中途半端に並んだ昆布やお酢の瓶を改めてしまい始めた。


「おーい、酒持ってきたよー」

「あ、たーくんありがとぉ」

「流石は今の時代の長男よねえ、こんなに嫁に優しいなんてあたしの時代には考えられなかったわ」

「まあ俺けっこうコンプラ厳しめな男だからさぁ」


 私なんて、幸せな方だ。

 多分、シンデレラよりはまだマシだ。


 レジ袋を丁寧に畳んで戸棚にしまいながら、胸の中で繰り返し唱える。

 私と兄の間には、人生の中で稼げる額とか出世しそうな可能性とか、皆の役に立つから大切にされるっていう理由があった。

 純粋に気に入らないからというそれだけで悪意と鬱憤をぶつけられるよりは、だいぶマシなのだろう。

 今までと同じように自分へそう言い聞かせ、無心でかまぼこを飾り切りにしていると、ジーンズの後ろポケットがブブブっと振動した。

 画面を開くと、可愛い猫のアイコンが現れて私はほっと息を吐く。


『れいちゃん、私さっき地元に着いたよ。

 電車で長老先生に会ったんだけど、全然変わってなくて笑っちゃった。

 年賀状贈りたいって言ってたから、住所変わってませんって教えたよ。

 お土産渡したいから、都合のいい時に後でうちに来てね。


 チカ』


 小学校の頃から仲良くしてくれている友人は、うちの事情も知った上で、この時期に必ず私を呼び出そうとしてくれる。

 それがありがたくもあり、同時に正月に外出するなんて、と口うるさく言われるだろう事を思って憂鬱になる。

 酒が入っている家族は誰であろうとあっさり手が出る。

 父がチカちゃんに嫌味を言ったらと思うと、不安で背筋が寒くなった。


 世の中に優しい人は沢山いるはずなのに、その人のことを大切に思えば思うほど、自分から遠ざけることになるのが虚しい。

 私は心臓のあたりに重苦しさを抱えながら、のろのろと返事を打ち始めた。


『ありがとう。おかえり。

 今ちょっと忙しいからすぐには無理だけど、連絡くれるだけで嬉しいよ』


 家族とのんびりしてね、は逆に気を遣わせるだろうか、と指を止めていたら、かんぱーい、と甲高い声が居間の方から響いて来た。


「やっぱこういうのって、言われっ放しの方にも原因があると思うんですよね。自分で戦うなり逃げるなりしろよって感じ」

「いや、はっきり物を言う子は気持ちいいな。流石は我が家の嫁。黙って被害者面をされると、こっちが勝手に悪者になって気分が悪いからな」


 居間からどっと笑い声が湧き上がるのが耳障りだった。

 私のことだろうと思いながら、黙って冷たい台所に立っている時、心の端が砂になって崩れるような気がする。

 私の好きな物は全部馬鹿にしてもいいと思っている父が、私の好きな番組を大声でけなしているのが聞こえる。

 あの人が、私の友達をけなすのが一番嫌で、いつの間にか地元で仲が良かった子達は、みんな疎遠になってしまった。

 なのにあの人は、多分私が失った物の何もかもを、きっと忘れているのだろう。

 奥歯を噛んで、聞こえないふりをして、チカちゃんにのろのろと返事を打ち込んだ。


『チカちゃんは、家族とゆっくり過ごしてね』


「っていうかねえー? 何か言われるのが嫌なら、こっちに何かされる前にちゃんとしとけっつうの」

「やだー! お義母さん、台所に聞こえますよ」

「いーのいーの。あの子、褒めてもらおうと思って頑張ってたことないから」


ふいにぷっつりと、と頭の奥で何かが途絶えた気がした。

一言でいいから認めてもらいたくて、馬鹿みたいに勉強していた中学生の頃の、腱鞘炎になりかけた腕の痛みが鋭く記憶によみがえる。


 ──チカちゃんは、お正月が終わったら東京に帰る。


ひときわ大きな笑い声が聞こえた時、私は送りかけたメッセージを全部消して、一行だけ返信を書き込んで送った。


『じゃあ今から行くから待っててね』


 私は、中途半端に切られたかまぼこに背を向け、洗って伏せられた重箱の横を通ってじゃらじゃら鳴る玉のれんをくぐった。

 ちょうど酒が入って盛り上がった笑い声が背中で響く。


 学生時代から使っている黒いコートをまとって外に出ると、きんと冷たい空気と薄曇りの空が出迎えてくれた。

 ふらふらした足取りで軽自動車に乗って鍵を回すと、いつも通りのエンジン音がやけに大きく聞こえた。

 家族にはいつもスマホの位置情報を握られているけれど、さっき全員お酒を飲んでいたから、しばらくは追ってこられないはずだ。

 静かな打算と共に、私は人通りのないひび割れた道路へ車を滑り込ませた。

 田畑が両脇に広がる道をしばらく走って国道に出ると、チェーン展開している店々が次々と通り過ぎる。

 わずかに残った正気が、戻らなくては、と頭の後ろの方で警報を鳴らす。

 けれど、じんと痺れたようになった思考が、そのあからさまに正しい危機感を無視して車を走らせた。


 あいつらにやり返してやろう、鼻を明かしてやろう、という気持ちは到底なかった。

 ただ疲れて、呆然と意識がぼやけていた。


 重苦しい恐怖と焦燥を乗せて、どうしてもUターンの決断ができないまま、また一本国道を左折する。

 くねくねした山道を上り、やがてたどり着いたのは、チカちゃんの実家である山寺だった。


 参拝者用の駐車場から少し歩いて、ひとけのない長い石段を登る。

 いつもは地元の人しか来ないここも、今日は階段脇に赤いのぼりが立って、新年に備えていた。

 顔を上げると山門の向こうから、何となく慌ただしい空気が伝わってくる。

 もうすぐ一年で一番の繁忙期に入るからだろう。

 そう思ったら、急に不安になってきて足を止めた。

 誘われたとはいえ今から行くなんて非常識だったに違いない。チカちゃんだって迷惑だろう。


 石段の真ん中で振り返ると、葉を落として木々を生やす山の裾野に、土がむき出しの田畑が広がっているのが見えた。

 これは一般的に、眺めが良い、と言える景色なのだろう。

 けれど、心は硬く痺れて何も感じない。

 私は唇を噛んで、石段の上で立ち尽くした。


 美しい景色を見たくて歩いてきたけど、ずっとたどり着けない。

 どこまで走ればいいの。いつまで走れば報われるの。


 誰かがもういいんだよと抱き留めてくれる夢を何度も見た。

 けれど、星のように励ましてくれる人はいても、何もかもを救ってくれる救い主は、一度として現れなかった。

 振り返った時に寄り添ってくれるのは死神の手で、それはいつだって親しげに手を振っている。

 いつも、あの手を取ったらどうなるんだろうと思って、気付けば高い階段や、学校の屋上なんかを見つめていた。


 今ですら頭の隅で、このまま地震が起きたら、足を滑らせたら、誰に後ろ指をさされることもなく何もかもが解決できるだろうかと甘い誘惑が耳元で囁いている。

 ぼんやり急な石段を見下ろしていた時だった。


 ふっと今まさに石段を登ろうとする老人が目に映った。

 参拝客だろうか。ゆっくりゆっくり、踏みしめるように石段を上る姿は大変そうだったが、背筋がしっかりと伸びていかにも元気そうだ。

 ほの暗い願いを抱いていたことが気まずくて、私はそそくさと老人から背を向ける。


 けれどその時、ふっと記憶に電流が走ったような気がして、慌てて振り返った。

 だいぶ後退したおでこ。少し縮んだ背丈。それでもやっぱり。間違いない。


「あの、ええと、長老先生……?」


 こわごわ声をかけると、だいぶ小さな声だったのに老人は顔をあげた。

 穏やかな目をした先生はちょっと眼鏡の奥でまばたきをすると、のんびり微笑んで私の名字を呼ぶ。


「おや、こんなに早くにお会い出来るとは。ご縁ですね。よかった、よかった」

「先生、お元気でしたか」


 中学校三年の時の記憶がよみがえるのを感じながら、私は震えそうな声を抑えた。

 この年老いたかつての担任の先生は、私の家のことを一番心配してくれた。

 定期代がもったいないと言って、元から志望していた所よりずっと学力の低い自転車県内の高校に変えさせられた時も、何度も三者面談をしてくれたのだ。

 その時は結局、家で親と兄になじられるのに耐えられなくなって、自分から先生に「もういいです」と言ってしまった。


 その時の、悲しそうな顔を今でもよく覚えている。

 私は期待に応えられない不出来な生徒だった。

 けれど私は、今まで会った先生の中で長老先生が一番好きだった。

 先生は、石段を降りようとした私に首を振ってとどめると、ゆっくり私のところまで上がってきた。


「おかげさまで、何とかやっていますよ。あなたこそお元気でしたか」

「あ、ええと……」


 口ごもる私に先生は、そうですか、と全部分かっているようなため息をついた。


「いえね、本当はあなたに会いに来たんですよ」

「私に?」

「ええ。あなたは本当に真面目な生徒でしたからね。高校の卒業後はご実家の手伝いをされると聞いた時は、私も随分動揺してしまって……ひどいことを言ってしまいました。それがずっと、気になって気になって……」


 私は怪訝な顔をして先生の顔を見返した。


「えっと、先生、何か言いましたっけ」


 三者面談の後に、職員準備室でこっそりインスタントコーヒーとクッキーをごちそうしてくれた事の印象が強くて、嫌なことをされた覚えがまったくない。


「覚えておられませんか。あの時、まだ若かったあなたに、自分を救えるのは自分しかいませんから、もう少し頑張ってみませんか、とね……」

「そうでしたっけ……」


 言われた気もするが、その時の私には小さな諦念と共に忘れられてしまったのだろう。

 結局、頑張れなかった私が悪いのだし。


「後になって、なんて残酷なことを言ってしまったんだと、とても後悔しました。努力出来るのは環境の力あってこそだと言うのに、本当にすまないことをしたと思いまして……」

「せ、先生。顔を上げてください」


 石段に額がつきそうなくらい深々頭を下げられて、私は胸がぎゅっと熱くなった。

 何百人もいるだろう生徒のひとりを、覚えていてくれたのだ。ずっと心配してくれたのだ。

 その事実だけで、鼻の奥がツンとなるくらい、嬉しかった。

 いいんです、忘れています、と繰り返して頭を上げさせる。

 長老先生は、そうだ、と言って黒い古びた肩掛け鞄から、大型書店のマークがついた紙包みを取り出した。


「お年賀を送ってからにしようかと思いましたが……こちらを差し上げます」


 言われるがままに受け取って中身を取り出すと、分厚い本が三冊も出てきた。

 一番上には赤い文字で、大学を卒業したのと同等の資格を得られる検定の、対策問題集だと書かれている。


「これは……」

「これで勉強して、大きな街に引っ越されるというのも、人生の選択肢にあるのだということをお伝えしたくて」


 穏やかな声が、おしつけがましくなく私の心の中にすべりこんでくる。


 ──あの家から出て行けるかも知れない。


 それは、かぼちゃの馬車で舞踏会に行くかのような、夢みたいな話だった。

 出来るわけないと思っていても、他でもない先生がそう言ってくれると、馬鹿みたいに期待が胸に膨れ上がってくる。


「わ、私、馬鹿なので、勉強しても無駄ですよ……」

「そんなことはありません。今からいくらでも勉強できますよ」


 泣きそうな声で言う私に、先生は理科の化学式を説明する時よりもきっぱりと、自明の理のごとく言い切った。


「本当ですか」


 声が震えて、喉がからからになった。

 胸に熱いものがこみ上げて、手元の三冊の本が、ガラスで出来たハイヒールよりも大切なものに感じられてくる。


「私なんかでも、勉強、できますか」


 はい、はい、と長老先生は何度も頷いた。

 その目に、私と同じような涙がうっすらと滲んでいる。


「もちろんですよ。今年で教師は定年ですが、塾の講師をしようと思っています。随分と暇になりますから、オンラインでなら、毎週でも、それこそ毎晩でも都合をつけますよ」


 目の前が明るくなった気がした。

 黒い田畑と冬枯れた山々の広がる景色が、急に色鮮やかに見える。

 その山の向こうの、映像でしか見たことがない大きな街の景色やざわめきが、耳の中に広がっていく。


 もしそうなれたらどれほどいいだろう。

 小さくてもいい。私一人だけの部屋に引っ越して、私が働いた分のお金を全部私の為に使えたら。

 自分のために食事を作って、誰に用事を言いつけられることもなくゆっくり食べられる毎日が送れたら。

 そうしたら私は、どれだけ幸せで、豊かな気持ちでぐっすり眠れることだろう。

 目に涙のたまった私を見て、長老先生が一歩、近づいた。


「よろしければ、連絡先をさしあげますから……」

「おい!」


 聞き慣れた怒鳴り声に、全身の血が凍った気がした。

 見下ろせば、石段の一番下に、大柄な熊みたいな男が立っている。

 父だった。

 彼は赤ら顔のまますごい形相で私を睨み付けている。酒が入っているのに、父用の車を運転してきたのだ。

 目の前が暗くなる。胃の中が痺れて舌が強ばり、冷や汗が噴き出した。

 父は、ずんずんと石段を登ってくる。

 挨拶する長老先生のことを無視して、凍り付いたように動けなくなった私の手首を乱暴に掴むと、火を吹かんばかりに怒鳴りつけた。


「台所放り出して、何やってんだ!」

「ご、ごめんなさい……」


 ちょっと、おやめなさいと長老先生が間に割って入ろうとしたが、頭に血が上った父は、この人がかつて私の担任だったことをすっかり忘れているようだった。

 私の腕から問題集を奪い、馬鹿にしきった顔でふはっと笑う。


「なんだこれ? おまえみたいな馬鹿が出来るわけねえだろ。俺の娘なんだから」

「おやめなさい。あなたと娘さんは別の人間です。彼女は非常に真面目で優秀な人間ですよ」


 ようやく長老先生の声が耳に届いたのか、父が振り返った。

 父の目には、見知らぬ老人に非難されたようにうつったのだろう。

 元々赤かった顔に、猛烈な怒りが立ち上った。乱暴に腕を掴まれたまま、バンッと頭を平手で叩かれる。

 首がもげそうだった。顎が鎖骨にぶつかり、口の中を噛んだ。


「ごめんなさい、ごめんなさい……!」

「親に迷惑かけやがって……! 俺に恥かかせやがって……!」

「何をしている! やめなさい!」


 うめいて前かがみによろめいた私の後頭部やうなじに、何度も何度も平手が落ちる。

 息を止めて身体を硬くして懸命にやりすごしたが、まるで隕石が落ちてきたような痛みと衝撃があった。

 長老先生が、父の肩を掴んだのが目の端にうつる。

 その時、山門の方から、甲高い悲鳴が聞こえた。


「れいあちゃん!」


 チカちゃんの声だ、と痛みの中で辛うじて思った。

 叩かれた反動で偶然顔があがり、階段の上が見えた。

 ベビーブルーのコートを着たチカちゃんが、小さなバックを持って駆け下りて来る。


「ちょっと、何してるんですか!」

「この馬鹿のしつけだよ!」

「やめてください、れいあちゃんを放して! 警察呼びますよ!」


 警察、と聞いて父が反射的に私の腕を放した。最後の腹立ち紛れの一発が、よろめいた私の背骨の上にきれいに入る。

 息が吸えなくなって目の前が真っ白になった。一瞬、酸欠で気を失っていたらしい。

 気がついたら、上下の感覚がなくなっていて、頭の位置も足の位置もわからなくなっていた。


 曇った冬空が一瞬、目の前にひろがる。


 どん、と頭に強い衝撃。

 めまぐるしく入れ替わる地面と空。硬い石に、何度も何度も頭がぶつかる。痛みも痺れも一緒くたに、全身が嵐に投げ込まれたようだ。

 チカちゃんが、悲鳴のような声でお寺の人を呼んでいる。

 大げさな事はやめろ、何ともない、このまま連れて帰ると叫ぶ父の声も。


「謝れ、れいあちゃんに謝れ!」


 チカちゃんの甲高い絶叫が聞こえる。

 いつだって、朗らかなではつらつとしていた声が、怒りに燃え、かすれてひきつれている。


「許さない! 私、ずっと許してないから! れいあちゃんが大人しいからって調子乗ってたあんたのこと、絶対許さないから!」


 気がつけば私は、冷たい石段を頬に感じながら、ぼんやり灰曇りの空を見上げていた。

 全身が燃えるように痛い。息ができない。ひきつった呼吸が喉の奥でわだかまって痙攣している。

 階段の上から、チカちゃんの持っていた小さなバックが転げ落ちてきて、湯気の立つ赤い水たまりの中に落ちた。

 私に駈け寄った長老先生が、電話で救急車を呼んでくれている。

 その焦った低い声を聞きながら、私は嗚咽のように謝った。


「ご、ごめん、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」


 期待してごめんなさい。身の程知らずな望みを抱いてごめんなさい。ずっとぼんやりしていてごめんなさい。


「がんっ……頑張れなかった私が悪いんです、戦わなかった私が悪いんです。全部、私が馬鹿だったのがいけなかったんです」


 高校の時にもっと頑張ればよかったんだ。中学校の時にもっと抵抗すればよかったんだ。いいや、昨日でも去年でも、どこかで戦えばよかったんだ。

 ずっと言われっぱなしでやり過ごしていたから、こんな目に遭うんだ。


「そんなことあるわけないでしょう!」


 長老先生の、聞いたこともないような大声が耳に響く。


「そんなことは絶対にないんです。聞いてください、お願いします。あなたのせいじゃない、あなたのせいなんかじゃない」


 やめて欲しかった。

 私が悪いんだと思わなくっちゃ、もう何にも納得できない。


「戦えなくしたのは誰ですか。奪ったのは誰ですか。あなたは悪くない。踏みつぶされることはあなたのせいではない。何がなんでも」


 でも、先生。ねえ先生。

 もしもずっと私が頑張ってきて、それでも駄目だったのならば、もう何の手立てもないじゃないですか。

 ただ運が悪くって人生を食い潰されるってなんですか。

 生まれた時から絶望が決まっていたってことですか。


「あなたが精一杯やっていたのを、責められるいわれなんか、誰にも、どこにもないんです」


 目の端に、チカちゃんの小さなバックから、大きな一枚のクッキーが転がり出ているのがぼんやり見えた。

 大きくひび割れていたけれど、ミントグリーンのアイシングで縁取られた、可愛いピンクの文字はくっきりと読める。


 れいあちゃん、お誕生日おめでとう


 私の目尻に涙が伝った。

 全身が寒くて寒くて、酸欠に近い感覚が頭の中に広がっていく。

 急速に視界がモノクロになって、激しい痛みが眠気になっていく。


「れいあちゃん、救急車呼んだからね! しっかりして、絶対に助かるからね!」


 暗くなった視界で、大事な友達の血を吐くような声が、線香の煙のように薄れていく。


「ああ、どうして、どうしていつも私はこうなんだ。いつだって遅い……」


 何年経っても変わらず優しかった恩師の手の熱が、砂の崩れるようにさらさらとすり抜けていく。


 ああ、これだけでいいや。

 こんな風に声をかけてくれる人がいるなら、もう私、いいや。


 チカちゃんごめんね。先生、ごめんなさい。

 私、今、すごくほっとしているの。

 もう、怯えながら眠らなくていいんだね。


 ふっ、と最後のため息をついた時。

 耳の奥で何かが聞こえた気がした。


 かそけき声に憐れみを

 ついえし命に言祝ぎを


 それは子供の声のような、金属がこすれ合うような、不思議と耳に残る声だった。


 かなたにて冬に凍えて眠り

 こなたにて芽吹きて咲けり


 意識も、温度も、音も、痛みも何もかもが平らになっていくのに反して、声はどんどん増えていく。虫の声が急に重なって増えるように、次々と同じ声が大きくなる。


 新しき時を開く星の娘

 妖精の青き血を継ぐ姫

 回帰せし竜に冠を載せるもの


 猛烈な音に、崩れていく意識が、魂が絡めとられるようだ。


 星はめぐり、めぐり、めぐり、今こそ満ち足りた!


 全身が震える大合唱。意識が粉々に砕けそうな大音量が響き──ふいに、止んだ。

 全てが無になったような静寂。

 低いため息のような声がひとつ、響く。


『そなたこそ竜の王権の象徴レガリアなり』


 それきり、私の意識は途絶えた。


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