カット2. 梅雨の空き教室

 

 『一年三組 佐藤くん。至急、第四教室までお越しください』

 

 静寂に包まれた薄暗い教室の中に、凛とした声が響き渡る。聞き慣れた声だ。

 その後、ブツッと放送の切れる不協和音が耳に入った。

 「馬鹿なのか」

 思わず心の内が漏れる。

 今の放送を聞き流したほとんどの生徒は、誰かを呼び出している放送だと思ったはずだ。けれど、よくよく聞いていれば分かるが、この放送には致命的なミスが二つほどあった。

 溜息交じりに肺の空気を吐き出して、頬杖をついて窓の外を見やる。

 そこにあるのは、六月というこの季節に相応しい光景。

 曇天の空とザァザァと降り注ぐ雨。そして、校舎から漏れる明かりで揺らめく水面だ。

 下校時刻ということもあり、眼下には黄ばんだ合羽に身を包んだ学生と、やけにカラフルな八角形が屯っている。本来であれば、鬱陶しい喧騒がここまで轟いてくるはずだが、そんな様子はまったく感じられない。窓を打ち付ける雨音が外の景色を歪めていた。

 幾許かの時間、俺は何を考えるでもなく外を眺めていた。

 そして、そろそろ気づく頃だろうと、窓から目を離した。

 先ほどから開きっぱなしの文庫本に視線を戻す。

 教室が暗いせいで、さっきからページを捲る間隔が非常に長い。画数の多い文字が潰れて、何と書いてあるのか読めないからだ。集中はおろか、活字を読むのが辛いまである。

 明かりを点けたいのはやまやまだが、蛍光灯の寿命が近いらしく明滅するので、薄暗い部屋で我慢している。

 生憎スマホの充電も少ないので、なるべく早くしてほしいんだが。

 そう思った瞬間、ガラガラと教室の扉が開かれた。

 「あ、ここにいたんだ」

 校内放送よりも幾らか音質の良い声が聞こえる。

 活字から目を離して本を閉じる。

 遅かったな、と思いながら顔をあげれば、予想だにしない彼女の姿に三度瞬きをした。

 「……鈴木。お前、なんでブラウス着てねーの?」

 そこに佇んでいるのは、確かに俺が待ち侘びていた少女。

 艶やかな短い黒髪に凛とした顔立ち。ほんのり焼けた白い肌が目立つ、鈴木だ。

 けれど、俺が驚いたのはその容姿。制服を着崩すことすらしない彼女が、ブラウスを着ていなかった。勿論、ブレザーもだ。

 まるで水着だと言いたげに、白い下着だけで俺と相対している。

 「丁度そこで、雨漏りの水を溜めてたバケツをひっくり返したの。それで上半身だけ濡れちゃった」

 廊下を指さしながら、淡々と身に起こった事象について説明してくれる。

 が、俺が気にしているのはそこじゃない。

 視線を逸らしつつも、彼女に指をさして問う。

 「お前のそれは水着か?」

 「? いや、普通にブラだけど」

 きょとんとした表情は、まるで俺がおかしなことを言っているかのように錯覚させる。

 「そういや、お前はそんな奴だったな」

 何処か他人とは違う不思議な性格。そんなところに俺は……。いや、それはいい。

 彼女には羞恥心の欠片が無いのだろう。口からは嘆息しか出てこなかった。

 薄暗い教室の中で彼女は俺に近づいてくる。

 曖昧だった彼女の華奢な身体はどんどん輪郭を正し、スッと引き締まった腹部のくびれとふくよかな肉つきが鮮明になった。肩に貼り付けてある絆創膏、更には下着の柄まで見えてしまう。

 机一つ挟んで相まみえる。

 「代わりの服は?」

 「ないよ」

 「ジャージとか体操着は?」

 「全部家」

 「ちょっと待ってろ」

 机の横に掛けておいて鞄を開いて、中からジャージの入った袋を取り出す。

 「ほれ」

 「ん、ありがと」

 最低限の会話で俺達は意図を通じ合えたらしい。

 上半身ほぼ裸の彼女は、もたもたとジャージを袋から取り出した。サイズは間違いなく大きいだろうが、この際仕方がない。

 俺だって立派な男子なのだ。静寂の包む薄暗い教室に、半裸の女子と二人きり。欲情しないはずがない。

 艶めかしい肌や一挙手一投足で揺れる豊満な胸。静けさのせいで明瞭に聞こえる吐息に加えて、肌寒いのか少し震えている瞳。

 彼女の所作すべてが煽情的に見えてしまい、自分を咎めるようにこめかみを抑えた。

 暫くすると、項垂れた俺をじぃっと見つめている視線に気づいた。顔をあげれば、彼女はとっくに着替え終わっている。

 だぼっと着こなすその容姿が、否応なしに妄想を掻き立てそうになり、急いで口を開く。

 「どうした?」

 すると、とんでもないことを口にしてきた。


 「いや、ここではシないんだ、って」


 咳き込んだ。それはもう、喋れないくらいに。

 両手を広げて、まるで待っているかのような彼女の姿が、余計に呼吸を乱す。

 会話が出来ない状態に陥り、教室には俺の咳だけが暫し響いた。

 「……なんでそう思った?」

 呼吸を整えたのち、彼女に尋ねる。

 「だって、こんな人気のない場所に呼んだから」

 「呼んだのはお前だからな!」

 あられもない言いがかりをつけられた。呼び出しの放送をしたのはお前だ。

 「大体、あの放送じゃ俺はやってこないぞ。三組には、佐藤の名字が付く奴が俺を含めて四人いる。特定できないんだわ。あと、俺はずっと第四教室にいた。お前が第四教室と間違えて他の教室にいたんだよ」

 俺は寧ろ被害者だと言いたい。

 「そうだったんだ。ごめん」

 意外にも素直に謝ってきた。

 「いや、別に謝るほどのことじゃないけど」

 まさか謝られるとは思っておらず、俺も言葉を濁す。

 「でも、放送は伝わると思ったよ?」

 彼女はくすりと笑った。

 「だから、佐藤は四人いるんだって。誰に言ってるのか分からないだろ」

 「でも、わかったでしょ」

 しんとした声が教室に響く。

 「私の声だってわかったでしょ?」

 「…………まぁ、な」

 そりゃ分かるに決まってるけどさ、と彼女の顔を見れば、にへらと笑みを浮かべたままだ。

 それがどうも艶めかしくて、理性を保つべく再び視線を逸らした。もし他の佐藤がここに来たらどうするんだよ。

 「それに」

 と彼女は付け足して、自分の肩を指さした。

 そこにあるのは絆創膏。

 「ドキドキはするけど、嫌じゃないから」

 まるで誘惑するように、俺の瞳を覗き込みながらゆっくりと言うと、荷物を持ってぱたぱたと教室を出て行った。

 「………………はぁぁ」

 残された俺は深く息を吐くことしか出来ない。

 熱を帯びた顔を冷ますように、俺は鞄に本をしまい立ち上がる。

 「……帰るか」

 あの絆創膏が一昨日ついたものだってことも、あの下に何があるのかも俺は分かっている。

 だから、逃げるように教室を出た。

 「はやくっ」と小さな声が廊下の先から聞こえる。

 俺は少し足を速めて、廊下を歩いて行った。


 教室に残ったのは、しきりに降り続ける雨音だけだ——

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