1カット~誰かの日常の一幕~
雑記 秋
カット1. プール掃除
七月一日。
ハレバレとした青空が視界を覆いつくし、肌をじんわりと焼きつける太陽の光が地表に流れ込んでくる。
「じゃっ、榊くん。はじめよっか!」
手のひらで目元に影を作れば煌めく視界は鮮明になり、少し離れたところにいる彼女の顔が良く見えた。
「そうですね。始めましょうか。坂本先輩」
片手にホース、片手に掃除用ブラシ。準備万端、と言いたげな彼女は笑顔を返してくる。
そんな彼女の姿を俺は独り占めしている。もしこの状況が校内に知れ渡ったら、次の日から男子諸君らに嫉妬あるいは憎悪の視線を浴びせられること間違いなしだ。
でも、後悔は無い。
「先輩。似合ってますよ」
スクール水着を身に纏った、楽しそうな彼女の容姿を見られたのだから。
俺の視線に気づいたのか、彼女はにぃーっと活気ある笑みを浮かべた。真っ白な歯が見える。
「えー、榊くんって見かけによらず女たらしなの~?」
目元で眼鏡をくいっと上げる真似をしてくる。
「眼鏡を掛けてるから○○、みたいな偏見やめた方が良いですよ。あと、俺はプールと先輩のコントラストが似合うって言っただけですから」
「さいですか」
「さいです」
少し先輩の声音が下がった気がした。
柄にもないことを言ってしまったからだろうか。
「じゃあ、ホントに掃除しよっか」
彼女はそういうと俺から離れていく。
少しだけ、ほんの少しだけ、彼女の顔が落ち込んでいたような、そんな気がした。いや、気づいてしまった。
気のせいだと思いたいが、生憎彼女とはそこそこの付き合いがある。見間違えることは無い。
俺は彼女にすら意思を開陳出来ないのだろうか。まったく嫌気がさす。
床を擦るブラシの音がやけに大きくなった。
——発端は昨日の昼休みだった。
学校の屋上は進入禁止だ。張り紙が貼り付けられ、屋上までの階段は使われなくなった机と椅子で埋められている。
ただ、肝心の扉の鍵が壊れており、知る人ぞ知る暇つぶしスポットとして生徒に広まっている。
俺は何となく屋上で昼ご飯を食べたくなり、一人階段をのぼったのだ。
そしたら、先客として坂本先輩がいたのだ。まさか知り合いがいるとは。
誰かしらいるとは思っていたが、とりわけ男子からの人気が高い先輩がいるとは、予想だにしなかった。
先輩とは部活が同じというわけではないので、学校での絡みは少ない。
けれど、家が近いのと母親同士の交流があり、仲は結構良かったりする。今でもたまにゲームをしたりするし。
この学校においてそれを知っている人はいない。学年が違うから校内で話す機会もない。
一緒に下校するなんてことも無い。そんなことをしたら、誰に何を吹聴されるか分かったものじゃない。
そんなわけで、学校では久しぶりの談話を楽しんだ。
結果、会話に花を咲かせすぎて長居をしてしまい、見回りの教師に目撃されプール掃除の刑に処された、ということだ。
けれど、かくも美しい彼女と一緒に掃除が出来るのなら、それは罰ではなく褒美な気もする。そんな軽佻浮薄なことを考えている時点で、罰にはなってないか。
ホースの口を指で押さえて、勢いよく汚れを洗い流す。
「ねー」
耳をくすぐる鳴き声がした。
今の声を録音しておけばきっと大儲けが出来た、などと考えてはいない。
「なんですか」
汚れを落とすときのコツは、汚れを雑念だと思い込むことだ。汚れが落ちていくたびに心が洗われていく気がする。
「なんであのとき庇ったの?」
他愛のない導入の声音だったせいで、びくんと身体が反応してしまった。
「なんのことか分からない」
無意識に視界が水たまり一色になった。腑抜けた顔が目に入る。
ぴちゃぴちゃと彼女が近づいてくる音がする。足元にきめ細かな白い素足が映り込んだ。
「先生が来た時、『俺が連れてきたんです』って言って、私を庇ったよね」
顔をあげれば、不満げな顔が良く見える。
「気のせい」
「そういうの、いらないから」
声色にはほんの少し苛立ちが見えた。
「別に庇ってないだろ。現にお前だって掃除させられてんだから」
「榊くんのおかけで、私はプール掃除しなくていいってことになったからね。だから、先生に志願したじゃん」
「そんなことする必要ないだろ」
あの時は驚いた。
せっかく彼女だけ助かると思ったのに、自分から掃除をしたいって言いだすから。
「さっさと教室に戻ればよかったのに……」
何気なく俺はそんなことを言った。
「あるよ」
けれど、さっきまでの明るい声とは違う。芯の通った声が響いた。
「私のせいで榊くんが一人になるのが嫌だったから」
「…………そうか」
その真剣な瞳は、俺の胸中を見透かしてきそうで怖い。故に不明瞭な相槌しか打てなかった。
「私は掃除する理由を言ったよ。だから、私を庇った理由を教えて!」
「…………」
「教えて」
「…………」
「お・し・え・て」
「…………」
これは粘られるやつだな……。
吸い込まれるような彼女の瞳を前にして、俺は深く息を吐いた。
「お前が怒られてるところを見たくなかった……。これでいいか?」
本音を言うのが嫌いだ。馬鹿にされたり否定されたりしたときに、傷つくから。
けれど、どうも彼女の前では嘘がつけないらしい。思考回路が鈍るのは、暑さのせいだと信じたい。
瞬間、冷たい水が頭から注がれる。
「ぶわぁっ!」
火照った身体から一気に熱が逃げていくのが分かった。
「あははっ」
俺の素っ頓狂な反応に、彼女はお腹を抱えて笑い出す。
「おまっ、やめろって!」
「やめないよ! だって面白いし」
顔にドバドバとなだれ込んでくる冷えた水は、視界をうずめる。
そんな中、「あっ、そうだ」と彼女は言った。
「あのときの榊くん、凄くかっこよかったよ。あと、今みたいに敬語を使わないでくれた方が、私は好きだよ」
またしても、俺の心を揺さぶる声が流水の間から聞こえた。と思ったら水が止む。
「そんな嘘はお見通しなんだよ」
そう言い放ってやろうと彼女を見れば、その顔は太陽のように真っ赤になっている。
「……………………日焼けクリーム塗ったらどうだ」
その気持ちに気づくまいと、苦し紛れに言葉を発する。無意味だと分かっていながら。
「……………………返事は?」
ガリガリと後頭部を掻く。
感情を悟られまいと、落ちた眼鏡を探すようにしゃがみこんで答えた。
「好きな人が怒られてるのなんて、誰も観たくないだろ」
「……っ、それって」
ジリリリリと蝉たちが鳴き始めた。
その程度の合唱に彼女の言葉が掻き消されることは無かったけど、恥ずかしいので割愛する。
ただ一つ言うとするならば、俺の顔は焼かれたアスファルトのように茹っていた。
ああ、暑い。
夏の始まりを予感した。
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