第2話
だから、私はそれを指摘したのだ。翌日の面談でのことだった。
「坂井アキラくん。あなたに、姉はいませんね」
「————ッ」
坂井アキラは顔を覆い、背を丸める。
その表情は、予想外の指摘を受けて、精神的ショックを受けたというのとは違う。
まるで、予期していたある衝撃に備えて身構えるかのような感じだった。
許してほしい。今の私には、矯正医官としての私がこれを言うべきであった、職務にふさわしい言動であったとは思われない。だが、私はその時、ある可能性に囚われていた。
坂井アキラが語ったことが、彼が過去に直面したある現実と関連している、その可能性だ。
「あなたにお姉さんはいませんし、殺されてもいません。だけど、殺された人物がいる。それはあなたの母だ。あなたとは十五歳差で、十年前に亡くなっている。つまり」
一度言葉を切り、それから私は続ける。
「殺されたと言うのは、あなたの姉ではなくて、お母さんだったのでは」
それから私は聞く。予想もしない、彼の哄笑を。
今思い出しても、私はそれを、文字に起こすことはできない。
「——あなたは」
努めて平静を保ち、私は彼に問いかける。
「上出来だよ、センセイ」
それは、今までとは打って変わった声だった。その声は確かに坂井アキラが発しているのだが、十七歳の少年が発するとは思えない、嗄れた声だった。
「——あなたは、何を見たのですか?」
私の問いに、『坂井アキラ』は——『彼』はせせら笑う。
「そこまで推理できてるなら、後は明らかなんじゃないのかね?」
私は昨日から今日までの間に読んだ、坂井アキラの母に関する事件記録を思い返す。
坂井メイ、享年二十二歳。
不安定な生活をしながら、一人息子のアキラの養育に当たっていたものの、アパートの部屋からは激しい叱責の声が聞こえるなど、児童虐待を疑われていたようだ。
事件当夜は交際相手がアパートにおり、二人は口論からの揉み合いに発展し、相打ちの形で二人は互いを刺殺したものと見られている。
「ええと。お母さんをあなたが姉と呼ぶ理由は」
「お母さんなんて呼んでほしくないね。あいつは俺に、お母さんとは決して呼ばせなかった。コブ付きだと男が逃げて行くからと、歳の離れた弟を抱える姉のロールプレイをして、俺にもそれを強要した。それだけのことだよ」
「……すみません」
「どうした?」
私は思わず謝ってしまうが、『彼』は逆にそれを訝しむ。
「話したくないことを、無理に話させてしまって」
「俺が話したくないように見えるか? 俺は話したい、だから話してる。それでいいだろ? とにかく、あいつも——『アキラ』もそれを信じ込んでいた。『姉』を疑いたくない『アキラ』と、それが嘘だと知っている『俺』だ。俺たちは次第に解離していった」
「…………」
私は黙り込む。最初の印象通り、坂井アキラは頭が悪くない。
そして、解離性人格障害。自分がその状態にあることを、坂井アキラは理解している。
「あいつはひでえもんだった。彼氏のご機嫌を取るために、『アキラ』をぶん殴らせるなんてしょっちゅうだった。それから『アキラ』を寒空の下に追い出して、その間に自分たちはよろしくやる、そういう算段だ。で、そういう時には『アキラ』が俺を表に出させて、自分は裏に引っ込む。だから『アキラ』も嫌いだよ、俺は」
「……それが、あの話に繋がるんですか。『姉』を殺した連続殺人犯という、あの話に」
考え込みつつ、私は口に出して言った。この奇妙な事件に惹かれていたことを、私はどうやら認めなければならない。
「そうだ。『俺』だよ。あれは」
「——つまり」
呼応するように、『彼』は口を開く。
「俺が殺した。あの事件は、俺がやったことだ」
——あの日も彼氏が家に来ていた。歴代で最低の男だ。
どっちかというとあの女とのセックスより、俺を甚振る方がお好みだったんじゃねえかな。
で、その日奴が思いついたのは、あの女に湯を沸かさせて、それを俺にぶっかけることだ。
まともにやられたら死んじまう、だから俺は抵抗した。
はずみであの女が熱湯を浴びた。
逆上した二人は、台所の包丁で俺に襲いかかってきた。——
「……だから刺した。気がついたら、俺は血の海に立っていた。どこもかしこも血だらけで——そういうことだよ」
「…………」
ずっと黙り込んでいた私だが、やがて口を開く。
「いくつか、分からないことが」
「何だ? 俺はイライラしてんだ、手短にしてもらいたいね」
そういう彼の目が僅かに潤んでいたことを、私はまるで写真のように記憶している。
「もしあなたが二人を殺したとしても、それは正当防衛で、罪に問えるようなことじゃない。なぜ、彼は——『アキラ』君は、連続殺人犯と言ったのでしょうか」
そして、彼はその言葉を吐く。
「これから、殺すからだ」
そうして、彼は自分の喉元に手を伸ばす。そこには、光るものが握られていた。
「なあ、もういいだろ? 俺は、話すべきことは全部話した。見るべきものは、全部見た」
そうして、彼は小さなノミを突き立てる。自分の喉へと向かって。
飛び散る血飛沫。それはまるで、曼珠沙華の花弁のようだった。
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