scene 0 Anemone
カミーユ・トランティカは、幸せな家庭に生まれた。
名の知れた公爵家の使用人長である父。優しく穏やかな子供思いの母。三歳年上のしっかりした兄。そこそこ裕福な家。
「おとうさん! 今日は帰りはどのくらいになるの」
「今日は公爵の家で宴会があるからね。少し遅くなるかも知れないな。母さんにそう言っておいてくれるかい?」
「わかった! ……おとうさん?」
元気よく返事をした時、頭に手をぽんと置かれてカミーユは怪訝な顔になった。そんなカミーユに、父は口の端で笑った。優しい目。
「ごめんな、あんまり家にいてやれなくて。今度の休みに家族で街に連れて行ってやるからな」
「おとうさん……」
わしゃわしゃと髪を撫でられて、カミーユは顔をくしゃくしゃにする。
と。父はくるりと後ろを向いて、柱の影に立っていた兄・カミオにも微笑みかけた。
「お前も。放っておいてすまないな」
カミオは不貞腐れたような、でも少しだけ嬉しそうな顔で、「べつに大丈夫だよ」と応えた。
家庭では優しくて、頼れる父。そしてその父は、執事服を着て黒い蝶ネクタイを結ぶと、途端に凛々しくなる。一度お使いで母に頼まれ、封筒に入れられた書類を渡しに行ったことがあったけれど、父はまるで別人のようにてきぱきと同じ使用人の部下たちに指示を出していた。ふと庭の門の前できょろきょろしているカミーユに気づく。
「カミーユ、どうした?」
「これ、おかあさんが渡してきてって。なんか、ようやく聞き出せたからとかなんとか言ってたよ」
父はスッと目を鋭くすると封筒の中を一瞥して、やがて微笑んだ。
「なるほどな……。ありがとう、気をつけて帰れよ」
「うん!」
かっこよくて優しい父が、誇りだった。大好きだった。
そして。母は。
カミーユが五歳ぐらいだった頃だ。ある日の夜遅く、何かが低く歌うのを聞いた気がしてカミーユは目を擦りながら薄がけの布団を抜け出した。暑くて寝苦しい夏の晩だったのだと思う。窓は開いていて、その何かは声を押し殺すようにして歌っていた。
「どこに行くの」
暑さに兄も深く眠っていなかったらしく、掠れた声で尋ねられ、「水、飲んでくる」とだけ答える。
当たり前だが廊下は真っ暗で、慣れていなければリビングまで辿り着けないほどだ。音の聞こえてくるリビングには灯りもつけていないらしく、ドアの隙間から光が漏れ出しているようなこともなかった。あれだけ蒸し暑かったのが嘘のように、空気が冷えている気がして、自分の心臓の音を聞きながらそっとドアを開いた。
リビングの母が驚いたように静かに顔を上げて、そして微笑んだ。苦笑のような笑みの中に照れ隠しのようなものを感じて、カミーユは目を瞠る。
「ごめんね、カミーユ。起こしちゃったかしら」
「おかあさん……なに、してるの?」
母の腕の中には見知らぬものがあって、それが低くハミングしているのだった。
「これはね、チェロっていう楽器よ」
「チェロ……」
小柄な母が座ったのと同じぐらいある楽器の優美な弧を描く縁に、窓から差す月明かりが溜まっている。綺麗に結い上げられたカミーユと同じ紫がかった灰色の髪が、僅かな光にきらきらと輝く。右手の長い棒のようなものを弦に当てがって引いたり押したりするたびに美しい声で唸る。フレーズが連なり、美しくて甘いメロディーになっていく……。
「この曲はね」
目を閉じてチェロを弾きながら母が呟く。
「トロイメライっていうの。〈夢〉っていう意味なのよ」
その音色に、ただ聞き入っていた。なんて美しいのだろうと思った。静かに歌うチェロと、それを抱く母と。
一曲が終わって音がふっと途切れて数秒。神聖な静けさが眠った家中に満ちた。
「すごいよ、おかあさん!」
目を輝かせるカミーユに、母は「ふふ……」と笑う。
「実はね、ずっと昔、お母さんがまだ子供だった頃ね、チェロを習っていたの。短い間だったけど、小さい楽団に入っていたこともあったのよ? もうやめちゃったけれど、時々こうやって夜にね、弾きたくなるのよ……」
「おとうさんは知らないの? おかあさんが弾いてること」
「うーん、気付いてるんじゃないかしら。でも好きにさせてくれてるみたいね」
そしてはっとしたように、「本当にごめんね、やっぱり夜に弾くとうるさいわよね」と慌てる。
「もう夜遅いから、おやすみ。お母さんももうやめるわ」
「うん。……ねえ、おかあさん」
「うん?」
「僕もチェロ、弾いてみたい! 弾けるようになりたい、おかあさんみたいに!」
その次の日から、カミーユは母に頼み込んでチェロを弾かせてもらうようになった。先生である母はいつだって丁寧に教えてくれた。少し動揺しながら、そして少し、嬉しそうに。
そんな母が、気に入っている店があった。気に入っている、というかそこのおかみさんと友達だったのだ。家の近くの鍋屋。母が子供の頃にできたらしい、落ち着いた雰囲気の暖かい店。どの鍋もすごく美味しくて、おかみさんは快活で話が面白くて、でもカミーユとカミオにとってはそれだけじゃなかった。
あの店には、シャトリー姉さんがいた。
カミーユの九歳年上の、鍋屋の娘さん。面倒見が良くて、おかみさん譲りの明るさを持っている。
「カミーユ! カミオ! いらっしゃい!」
店のドアを開ければ、いつだって元気よく声をかけてくれる。色素の薄い赤茶の髪がさらりと吹き抜ける見えない風にたなびく。琥珀色の目はいつだって精気に溢れている。
「元気?」
母が微笑みながらおかみさんに小さく手を振りながら、テーブル席に荷物を置いて座る。
「ええ、おかげさまでね。……じゃあお鍋ができるまで二人は外でシャトリーと遊んでおいで」
そう、おかみさんが言ってくれる。
年上なのにいつだってカミーユとカミオを馬鹿にせずに話を聞いて遊んでくれるシャトリーが、二人は大好きだった。
シャトリーと遊んだり、話したり。母に教えてもらいながらチェロの練習をしたり、シャトリーに聞いてもらったり。そうしている間に月日は過ぎて行った。
十六になっても呑気にそんな生活を続けているカミーユとは対照的に、兄は真面目に勉強したり、父の仕事場に出入りしたりしていた。見るからに忙しそうで、働き詰めのカミオに、一度だけ言ったことがある。
「兄さんは、辛くないの」
それまで机で必死なような顔で何か書いていたカミオはキッと顔を上げて睨むような視線でカミーユを見据えた。
あまり、気の合う兄弟ではなかったと思う。母親に似ておっとりした性格のカミーユと、父親似で計算しててきぱきと動くカミオと。だからそれなりに大きくなってからは同じ家にいてもあまり話さなくなった。カミオはもう、シャトリー姉さんのところに一緒に行くこともない。知らない間にカミオとの間に溝ができて、なんとなく話しづらくて、そうしている間に溝がどんどん深まっていく。誰が悪いわけでもないけど、カミーユは少しだけ寂しかった。
その兄が久方ぶりに真っ直ぐにカミーユを見つめていた。
「辛いか辛くないかじゃないってわからないのか。俺は父さんの仕事場に就かなきゃいけない。公爵家に仕えなきゃいけないから、今はこうしているんだ」
「でも、兄さんは支配人になる必要は別にないんだよ? 父さんも、好きな将来を選べって言ってたじゃないか。……僕、兄さんは頑張り過ぎだと思う。なんだかこのままじゃ兄さん潰れちゃうよ」
「ッ……」
カミオがぐっと顔を顰める。そして、ややあって僅かに表情を緩めた。
「……なあカミオ、お前、楽団に入りたいんだろう」
「え」
唐突な言葉に狼狽する。兄は笑った──のだと思う。あまりに色々なものがそこには滲んでいて、よくわからなかった。
「いつも楽しそうに練習してるもんな。俺も聴き齧ってるだけだけど、上手いと思うよ。うん。だけどな、本当に音楽で食っていくのはやっぱり大変なんだよ。絶対、なんてない世界だよ。いつまでも売れないことだって当然ある。その時、うちの家は父さんの稼ぎだけで食っていくのか」
カミオは手をカミーユの頭に置いて、ぐしゃりと撫でた。雑な仕草なのに何か沁みるものがあって、何も言えなくなる。兄の手は自分のものよりも力強くて、大きくて、温かかった。
「……っとまあ、少しでも家族に何かできないかって思って俺はこうしてるわけだけど、お前は好きにしろよ。俺の分まで、お前はやりたいことをやって生きろよ。とりあえずしばらく心配がないようにはするから」
「にいさん……」
あんまり話したりしてこなかった。仲良しな兄弟ではなかった。だけど、兄のことが好きだなぁと思う。
そう。気が合わないと思っていた兄は、家族を、カミーユを一番に考えてくれている人だった。そしてカミーユはこの時気づけなかった。将来安定するかわからない弟と、父に頼り切りの家計に、自分がしっかりしなきゃと。その責任感のようなものに蝕まれ始めていたカミオに。
それからまた時が経って、カミオは公爵家支配人見習いとなった。そしてカミーユは、相変わらずのチェロの練習に明け暮れる日々だ。
チェロを抱いて、その振動を肌で感じていると、落ち着く。自分はこの楽器で歌うことができる、人に何かを届けることができる。そんな気がして。暇さえあればチェロを弾いた。弾くことに義務感を感じることはなかった。
そして、そんなひたすらなカミーユの熱が溶けた音色に耳を傾けてくれたのは、シャトリー姉さんだった。
「カミーユが弾いてる、その音を聴くとね、何かが体中を駆け巡るの」
二十八になったシャトリー姉さんは、それでも無邪気さと明るさは変わらずにそう言う。カミーユは照れ隠しに笑う。
「何かってなに」
「何とも言えないよ。言葉にできないもの。それが、うわぁって」
「うわぁって……?」
ふざけて鸚鵡返しに聞き返すと、シャトリー姉さんは少し頬を膨らませながら、「とにかくそうなのよ」と言ってそっぽを向いた。
シャトリー姉さんが鍋屋のおかみさんを継いだのもその頃だった。彼女の母は病気で働けなくなったために、三十に達していない若さで店長となったのだった。
そしてその夜遅くもまた、カミーユはシャトリー姉さんのもとへとチェロを背負って行った。
戸締まりをしていたシャトリー姉さんは、店の中からカミーユの姿に驚いて、窓から顔を出した。
「どうしたのよ!? こんなに遅くに。もう店、閉めちゃったわ……」
「いいんだ。私は、シャトリー姉さんに会いに来ただけだから」
ごめんね、遅くなって。カミーユは微笑んで、眠りについたかのようにいつもと違って暗い店内に入れてもらう。一つにまとめていた長い灰紫の髪が乱れているが、気にも留めずにチェロをケースごとテーブルに立てかけて、後ろ手に隠していた花束を取り出した。夜の闇に、赤い花が溶け込む。
「いつも私の拙いチェロを聞いてくれてありがとう。これを受け取ってほしくてさ」
「カミーユ……」
シャトリー姉さんは唖然としたような顔でおずおずと花束を受け取った。「この花……」と呟いている。
「うん。薔薇でも良かったんだけどね、姉さんならこっちかなって」
紅色のアネモネが可憐に花開いている。この花の花言葉は……。でもカミーユは心の中で首を振った。言葉なんかで伝えれば、なんだかこの思いは安っぽくなってしまいそうで。自分には、言葉の代わりに音楽があるから。
「カミーユ、あたし……」
シャトリー姉さんはまだ驚きが冷めないように目を見開いて花に視線を落としたまま何か言いかけて、すっと顔を上げた。
「いいわ。ねえ、店をまず完全に閉めちゃうから……あたしの部屋においで」
シャトリー姉さんの部屋は、鍋屋の店内と同じように暖かい雰囲気を持っていた。
「その椅子、使っていいわ。……ああ、電気はつけないで。なんかこの空気感が壊れちゃいそうで」
そう言いながら、彼女は質素なベッドに腰掛ける。
カーテンがさらりと揺れた。月と星の光が、僅かに差し込んでいた。まるで、カミーユがチェロに出会ったあの真夜中と同じように。
無言のまましばらく二人して俯いていたが、やがてカミーユは「弾くね」と言ってチェロをケースから取り出した。静かに構える。慣れた楽器のポジション。手に馴染んだ弓の感触。なのに何故だか、不意に全然違うものにすら思えて。緊張している自分に気づいて、苦笑した。シャトリー姉さんにはいつも聞いてもらっているじゃないか。何を自分は。
そっと弦の上で弓を引いた。CとFの音が繋がる。優しくチェロが唸る。
曲は、トロイメライ。本来バイオリンで奏でるメロディーを一オクターブ落としてチェロで弾く。甘くて優しくて、でもどこか寂しさのようなものを含んだ旋律を、低く、低く歌い上げる。
「あのね」
シャトリー姉さんが俯いた状態で何か話し出す。
「あたし、カミーユにずっと隠してたことがある」
カミーユは何も言わずに頷いて、少しだけチェロの音を抑えた。
「知ってるわけないよね、うちの鍋屋はね、カミーユの家からたくさんのお金を貰ってるの。それもかなりの額。多分、カミーユのお父さんが仕えてる伯爵家ともやり繰りしてくれているんだと思う」
カミーユのお母さんが初めてカミーユとカミオを連れて来た時、うちの店は潰れかけてたのよ。そうシャトリー姉さんは言った。ロレンタ王国外での不景気が影響して、もともと少なかった客がより一層減ってしまったためである。おかみさんは案じていた。既に自分が病に侵されていることに気づいていたからこそ、この店を継ぐことになる娘、シャトリーのことを。
こんな財産にもならない店を渡してシャトリーの人生を縛るくらいなら、いっそのこと自分が病気で本当に動けなくなる前に閉店してしまおうか。そんなふうに考えていた当時のおかみさんに手を差し伸べたのが。
「カミーユのお母さんだったのよ。私のお母さんの友人だったから」
カミーユの母は、それからずっと鍋屋を救うための資金繰りを父としていたらしい。全く気づかなかった。気づかなかったけれど。
伏線はあった、と思う。
「ようやく聞き出せたから」。そう言って、いつか父に渡してくるようにと渡されたあの書類の封筒。あれは鍋屋の経営状況の書類だったのかもしれない。いつも母がおかみさんに「元気?」と声をかけていたのは、病気のことを知っていたからなのだろう。もしかしたらその後でいつもおかみさんが、シャトリーと遊んで来なよとカミーユとカミオに言ったのは、二人で話さなければいけないことがあったから。
心の中で納得しながら、ああ自分は何も見ていなかったのだと思う。儚げなチェロの音色に重ねるように、シャトリー姉さんは独り言を呟くように話し続ける。
「赤いアネモネの花言葉を、知っているわ。ありがとう、すごく嬉しい。……でもね、アネモネという花自体が持つ言葉を、もう一つ知ってるの。〈見捨てられた、裏切られた〉よ」
曲が終わりへと向かう。始めと何も変わらない調子の旋律が続く。ぽたり、とシャトリー姉さんの握りしめた拳に透明な雫が落ちた。
「ごめんなさい。黙っていて、ごめんなさい。裏切られたって思ったよね。だってうちに資金を繰って渡してることが伯爵家の人間に知られたら、カミーユたちは大変なことになるでしょう? 伯爵家とそれに仕える人間が、どこか一つの家に利益を与えることはいけないことなのよ。……ええ、もううちの鍋屋は大丈夫。安定してきた。だけどそれと引き換えにカミーユたちの家はかなり危ういところに立っているのよ。あたしたちが立たせてしまったのよ」
だからカミーユにお礼を言われる筋合いなんて、ないの。むしろ責めていい。嫌ってくれてもいい。それくらいのことをして、今あたしは生きてるの。
最後の一音が細く伸びた。惜しげもなく余韻を残して弓を上げると、カミーユは立ち上がった。チェロを座っていた椅子に立てかけて、目の前で下を向いたまま目を合わさないシャトリー姉さんを、そっと抱きしめた。強く触れたら壊れてしまうものを大切に、大切に抱えるみたいに。
「それでも」
チェロを弾き始めてから初めて声を出したカミーユに、シャトリー姉さんはようやく身体の力を抜いたらしかった。脱力の後に微かな震えが残っているのを直接に感じた。
彼女はこんなにも小さかっただろうか。さっき立って向き合った時に気づいたが、もうカミーユはシャトリー姉さんよりも背が高かった。兄よりはずっと華奢なのに。
「私は、変わらない」
言葉なんてもうこれ以上いらない。この思いだけが事実だ。あなたがたとえ、自分を裏切っていたとしても、見放していたのだとしても、それでも私は変わらずここにいる。
父が支配人長の立場から解雇されたのは、それからすぐのことだった。
地獄のような日々の始まり。財産は家を残して全て奪われ、どうしようもなく光の差さないどん底に一家は突き落とされた。生かされること、殺されること、与えられること、奪われること。その全てが、人の手の中にあった。
父はそれでも初めのうちはどこかの遠い街に働きに出たりもしたけれど、所詮安定などできなくて。母が部屋で声を押し殺して泣いているのを聞いて、居た堪れなくて。
「なんで」
兄は呟いた。
「なんで」
なんでなんでなんで、どうして。どうして……?
兄は知らなかった。これが全て、父と母がやっていたことが原因で起こったことだと、鍋屋に公爵家の資金を渡していたことで起こったことだと、知らなかった。
知らないんだ……。
全てを知っているカミーユは、ただどこか呆けたように変わっていった全てを見送るだけ。どこか遠くから眺めているような気持ちで。
トランティカ一家は、やがて家の外に出なくなった。出れば、ロレンタ王国公爵家の汚点だと言われる。郵便受けの中はいつだって脅迫状のようなもので一杯。
どうにかしなきゃいけない、と持ち前の責任感で、誰よりもカミオはそう思っていたのだと思う。……兄はついに、行動を起こした。支配人見習いの仲間数人と共に、突然解雇をした公爵を手に掛けてしまったのだ。
あっという間に兄たちは捕まって、父もまた責任を問われて、皆終身刑となった。家はカミーユと母の二人になった。
ある日、母はカミーユを連れて鍋屋を訪ねた。その時の必死の母の表情を覚えている。徐に床に座り込み、そこに頭をつけて最敬礼をする。
「お願いです。この子を、引き取ってください。お願い、します……」
このまま家にいれば自分もろとも殺されてしまう。それだけは避けたい。この子だけは、全てに関係のないこの子だけは助けてあげたい。そんな考えが母にはあったのだと思う。
シャトリー姉さんは、止まった表情をぼろぼろに崩して首を振った。あまりにも複雑に絡み合った思いがそこにはあった。だって、カミーユとシャトリー姉さんは……。
母は、そりゃそうよね、と苦笑にも似た表情で謝ると、店を後にした。
その夜。
「公爵を殺めて、生きていられると思ってねえよなァ?」
がんがんがん……とひたすらにドアを叩き、それでもカミーユたちが開けないとわかると体当たりで入り口を壊したらしい。二人の男が家に入ってきた。十二時を回った頃だった。
物音に部屋を出てリビングのドアを開いたカミーユが見たのは、母の髪を引っ掴んで容赦なく彼女を殴りつける男の姿だった。母は血まみれだった。何度もナイフでも刺されたらしい。無惨に止まらない血が流れている。
「カ、ミーユ……にげてえええっ!!」
それが母の断末魔の叫びとなった。どんっと鈍い発砲音が響く。目を見開いたまま、胸にもぽっかりとした穴を開けて絶命した母の顔。目を背けても、閉じても、脳裏に焼き付いて離れない、人の死に顔。
無意識のうちにくるりと踵を返して、駆け出していた。カミーユ、逃げて。その言葉が咄嗟に響いたのだと思う。玄関へ、玄関へ。逃げろ。
だが、「おっと」という声と共に、ドアを開けようとしたところで引き倒された。勢い余って壁の鏡の上にがつんと倒れて、その衝撃で鏡面が砕けた。
「……っく」
痛みに体を丸めてずるずると蹲ったカミーユの腹に、男たちは容赦なく蹴りを入れた。何を言う気力もない口から、呻き声が漏れる。
「逃げられると思ってんのかよッ! こいつは次男か?」
「カミーユ・トランティカ……。まあ名前なんてどぉでもいいだろ、……殺せ」
そうだな。男がにやりと嗤う。朦朧とした意識の中でその顔を見上げて、ああこの男は殺し屋だと思った。それもひたすらに金だけで雇われた下品な殺し屋。自分は、こんな奴にやられるのか。
嫌だ、とただ思う。
下卑な笑いを浮かべる男が何かきらりと光るものを振り下ろしたその瞬間、何も考えずに頭をがくんと下げていた。長く下ろしていた髪が斜めにざっくりと切れて落ちる。
割れた鏡の破片を握りしめた男が目を見開いてから、頬を歪めた。
「生意気な……!」
もう一人の方がカミーユに馬乗りになり、顔面を殴りつけた。憎悪の表情。それを見て最後に、カミーユの記憶は途切れた。
……。
…………。
「貴方は命を救われることを望む? 生きることを望む? 今なら、助けてあげられるわ。貴方が、それを望めば。……貴方は、何を望む?」
知らない少し幼いような女性の声を、聞いた気がした。
「僕は……」
もう何もわからない。助けて。暗闇から救って下さい。
「僕は、変わらず、ここに……いるんだ……」
「わかったわ!」
あなたに、変わらない力を、永遠を、あげる。
……。
…………。
あれは、あの声はきっと、魔月目の民の声だったのだろう。そう、今になって思う。死ねない身体を手に入れてしまったあとで、そう思う。
殺し屋にやられた怪我は一瞬で完治した。その代わりに、自分で切った手首の傷も痕すら残さず消えてしまった。。
病気になることもなくなった。その代わりに、睡眠薬を飲んで自殺しようとしても一切効くことはなかった。
魔月目の民への答え、「僕は変わらずここにいる」。魔月目の民はカミーユに、〈永遠〉を与えた。魔月目の癒者としての能力には不可能はない。だって、どんな治療技術も、「それが存在する未来へ」と言えば取ってこれてしまうから。カミーユは永遠の命を手に入れた。それと同時に開けない夜が存在する事を知った。
死ねない自分は生きてさえいないのだと思った。そして生きてさえいない自分はもう誰でもないのだと。
あれからずっと、カミーユは名前を変えて生き続けている。ジーグ。それは組曲の一番最後の、狂ったような舞曲。狂って狂って狂ったように踊り続けて、舞台をいつまでも降りることのできない自分への皮肉。
それが、カミーユ・トランティカ、そしてジーグという人間の、全てだ。
そして今、一人の少年と向かい合う。
「見ていましたよね、ジーグさん──いえ、カミーユ・トランティカ」
両目が青い少年。初めて会った時に感じた、他の人間の匂いはもうない。でも彼の中に弱さと、そしてそれを認める意志を感じて、嫌悪感を覚える。弱ければ生きてなどいけない。何も守ることなんてできない、ただ奪われるだけだ。
なのに目を輝かせ、真っ直ぐにこちらを見つめている。
君は一体、誰。
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