scene 6 Be in a Dream
「どうして、わかった?」
どこか寂しそうな瞳の男は、尋ねる。
「どうして、私の正体に気づいた? きっかけは何」
ディオンは少し考える。「そうですね……」と呟く。初めて薔薇の森の中で向かい合った時あれだけ恐怖を感じたのに、今は不思議と怖くない。すぐそばで仲間たちがディオンを見守ってくれているからかもしれない。
『一つ調べたいことがあります』
オーギスと記憶の中で出会った後の集まりの時に、ディオンは他の〈王の剣〉たちに言った。
『僕が一度、薔薇の森の中で出会った、ジーグという人物について調べたい。タヴィアさんに真実を突きつけるだけじゃなくて、全ての呪い、というのには彼のことも含まれてる気がするんです』
だから。
『人は皆弱いよ。弱く造られてると言ってもいいかもしれない。ではそれは何故だろう──』
『──それは、周りの人と助け合い、補い合うため。哀しみや苦しみを分かち合うため』
(そうだ。そうなんだよ……)
みんながいるから、弱くても強くなれる。そして。
(ジーグさん、あなたはそれを、忘れてしまっているだけなんです)
「初めにおかしいと思ったのは、オーギスの話を聞いた時です。あなたはタヴィアさんに、虐げられてきた魔月目の民として復讐することを唆した。期間を定めて、その間〈悲劇〉を起こしたのがタヴィアさんであること、それからその真意を隠匿することを課した。でも」
それは、本当に魔月目の民の復讐と言えるだろうか。本当に復讐がしたいのならば、〈悲劇〉を起こしたのが魔月目の民であることも、理由もまた明かすのではないだろうか。ジーグのやり方はむしろ。
「これはあなたにとって、魔月目の民に対する復讐だったのではないですか」
魔月目なら、タヴィアさんじゃなくても良かったのではないですか。あなたは、絶望の過去を持つあなたは、遊戯盤を作った。駒は皆、ジーグを歪めてしまった者たちだ。権威の象徴である国王・レオナルドと、ジーグに〈永遠〉を与えた魔月目の民である少女。
そうではないのですか。
「見事だね。そうだよ、その通りだ」
ジーグは嗤う。狂って狂って狂って嗤う。
「だがこの魔月目の少女を本当の意味で壊したのは、君たちだろう?」
過去から来たオーギスの言葉を聞いて泣いていたタヴィアは、今はもうどこか虚な目をして座り込んでいた。
ディオンは首を振った。
「違います。タヴィアさんは壊れてしまってなどいない。誰も彼女を壊してなんていない。これから僕たちが、タヴィアさんのことを孤独になんてしないから」
「君たちは──」
「ジーグさん、認めてください。
ジーグは後ずさる。だが口元には全てを嘲るような笑みを浮かべている。ああ、やられた。やられたと言えよう。確かにレオナルド側の人間が〈魔女〉の正体に気づいた時点でジーグの負けだ。だけど。
(フィナーレはまだ、残っている)
「ああ、見事だよ。君たちの勝ちを認めよう。だがしかし、勝ち残った君たちも今から私の手で殺される運命」
さっと広がった袖の中に隠していた拳銃を取り出して、少年に突きつけた。彼は表情を止めたまま、僅かに瞳を揺らした。
いつでも、殺せる。
私は、いつでも君を撃つことができるんだよ?
ジーグが作った遊戯盤の最後。それは、結局のところ足掻いたって目的を達成したって誰も救われないという結末。
この世にハッピーエンドなんて無い。あるのは血も涙もない現実だけ。
この〈永遠〉を手にしてから八十年もの間、ずっと見続けてきた夢の意味を、心の奥底では気づいていたのだと思う。血まみれの部屋の中で「助けて、助けて」と泣きじゃくる子供は、きっとジーグ自身だ。そして、誰かあの子を助けてあげてとひたすらに叫ぶのもまた自分自身。ずっと、自分は誰かに助けて欲しかったのだと思う。光の差さないどん底に、誰かが手を差し伸べてくれるのを待っていたのだ。
でも。
(誰も、助けてはくれなかったじゃないか)
だから、この冷酷な世界にささやかにでも報復を与えるために、ジーグは遊戯を考えた。
その遊戯の最後には、
(誰も残らない……!)
その見ていて哀しくなるような微笑みを消し去りたいばかりにディオンは叫ぶ。
「いいえ! これであなたの遊戯は終わりです! 過去の悲しみも、苦しみも、忘れることなんてできなくても、それでも僕らは進んでいく」
ねえ──。ディオンは必死に微笑みかける。拳銃の恐怖よりも、ただひたすらに伝えたいという思いばかりが先走る。先走って、行く末を照らす。
「僕たちはまた、みんなで集まってご飯を食べようって約束してるんですよ。知ってますか? イダさんの作る鍋は本当に美味しいんです。心から温かくなれるんですよ。美味しいものを食べて、不幸になる人はいませんよね」
「何を……。君たちに未来はない! 今からこの私が……」
「鍋を並べて、沢山の人で集まって。今までのことなんかを笑い話にしながらはなせたらいいな。ジーグさん、あなたもどうですか? 是非来てほしいなぁ……。……理想論かもしれない。そんなの無理だって笑われるかもしれない。それでも、誰もが幸せな未来を望んだっていいと思うんです」
「私が、君たちを全員殺して……」
「ジーグさん」
目の前の男を見つめる。ようやく目があった気がした。見つめ合ってしまえば……。ああ、弱い人だな、と思う。人に、たくさんのものを奪われたから、だから寂しいのに誰も近づけまいとする。彼の握りしめた拳銃の先は、初めからふるふると揺れていた。
(あなたが起こした〈遊戯〉は、決して許されないことだ)
遊戯だって? 全てがただのお遊びだったっていうのか? ふざけるな。そのたかが遊戯のせいで、一体何人もの人間が傷つき、血と涙を流したと思っている。仕方ないとなんて言わない。何も罪がないなんて言わない。それでも。
ジーグは本当に、ただ寂しい人だ。一人の、独りの人だ。
君は──そして自分は一体、誰。
生きてさえいなくて、自分が誰であるとも言えなかったあなたは、それでも誰かに自分の生きる意味を教えてほしかったんでしょ?
それなら、僕が。
辛くて、どうしよもないようなことがこの世には存在することを知っている。だから生きていたくない、投げ出したいという思いを知っている。だけど、ごめんなさい。僕はあなたに生きていてほしいです。死んでほしくないんじゃない。生きていてほしいのです。
「僕は、僕だ」
花が咲いたみたいに、春風が周りを優しく包み込むみたいに。笑うの。ほら、見て。〈薔薇の森〉なんて呼ばれていたこの森には日の光が差している。足元には優しい色の花々が綻ぶ。春なんだ。長かった冬は、ようやく終わる。
「何を言って……」
呟きながら、ジーグは銃を下げた。無意識の動作らしい、彼はただ茫然としているように見えた。
「何度でも言います。僕は僕。それ以外の誰でもない、ただ一人のかけがえのない僕。だけど」
僕の中にはもう、たくさんの人が当たり前のようにいるんだ。ロジェがいて、アナスタシアがいて、アレキスが、ヨルが、スザクが、イダが、ルーカスが、セレスティーヌが、エドワードが、メイベルがいる。力強く「弱い自分を愛せ」と手を握りしめてくれたレオナルドがいて、ああ、そうだ。愛しい記憶と共に、両親がいる。そして。
(ジーグさん、もうあなたも僕の中にいるんです……)
「一人じゃない。たくさんの人が光のように集まって、そして僕がいるんだ。だから、僕が心に宿すのは、全てです。……ジーグさん、あなたは一度、ゆっくりと休めばいい。そしてまた歩んでいけばいい」
あなたの中にだって、本当はたくさんの人がいるはずなんだ。思い出して、幸福な記憶を。触れ合った温かさを。あなたもまた、一人じゃない。
微笑みと共に、さあ、呪いを解こう──。
「
国中にかけられた呪いが解ける。
もう大丈夫だと、誰かが囁く。
終わり始まりへ……。
❇︎❇︎❇︎❇︎❇︎
そっとそのドアを開いたのは、アレキスとアナスタシアだった。いつかの時のように、エドワードが「部屋の外にいますね」と囁いた。
眠れる姫君の部屋。大人数で入るのは憚られたのと、あのあと疲れ切ったディオンが熱を出して寝込んでしまったので、とりあえず二人で訪ねてきた。
「失礼します……」
アレキスの恐る恐るというような声に、アナスタシアも静かにぺこりと頭を下げた。
窓からふわりと風が吹き込み、カーテンが揺れる。目を閉じた姫君の頬に、ぽうっと光が差していた。アレキスは低い声で囁いた。
「ローズさん、私たちは貴女のお兄様の仲間です。全ての呪いが解けたと、そう伝えに来ました……」
その言葉を待っていたかのように、何かが煌めき散ったのを感じた。はっと隣でアナスタシアが息を呑んだ。
「アレキスさん……!」
見れば、硬く目を閉じて眠っていた姫君の睫毛が微かに震え、その目がゆっくりと開いた。花開くように。兄より幾分暖色の強いオレンジの瞳がゆっくりと焦点を結んだ。
「あれ……?」
柔らかい声で不思議そうに呟いて、そっと自分の手を見つめる。見事な金色の髪が輝いて、純白のシーツの上に流れていた。
「私、ずっと眠って……?」
訳がわからないように、アレキスとアナスタシアの方を見つめる。その目が優しく、話してと促していた。
「貴女は、糸車の針に指を刺されて、五年前からずっと眠っておられました。覚えていらっしゃいますか」
ローズ姫は少し考え込むような仕草を見せた。
「ええと……、はい。たしか新しい城ができたばっかりで、兄さんと塔の小部屋に入った時でした。そこからのことはあまり覚えていません。……そうだわ、兄さんは今、どちらに?」
アレキスは表情を変えまいと努めた。一歩後ろに下がったアナスタシアがアレキスの服の袖をぎゅっと掴んだ。
「レオナルドは……」
あえて「貴女のお兄様」でも「前国王陛下」でもなく、名前で呼んだ。どうしてそうしたのかは自分でもよくわからないけれど、強いて言うなら……。彼は仲間だったからだ。
「レオナルドは、貴女のために戦って、そして逝きました。誇らしげに、満足げに、笑っていましたよ」
はっとローズは目を見開いてそして口に手を当てた。そして、何も言わずに唇を弾き結ぶ。
束の間の沈黙を破って、アレキスは話した。呪いによりローズが眠ってからの五年間で何があったのか。その、長い長い物語を。つっかえつっかえのアレキスの話は長くかかったが、誰も何も言わずに聞いていた。窓の外に広がる空は、真っ青で澄み渡っていて、悲しみを知らないような明るい色をしていた。
全てを聴き終わって、身体を起こしたローズは微かに声を震わせた。
「そう……ですか。兄さんは……いいえ、兄さんだけじゃないわ、あなた方も。なんて言えばいいのかしら……」
ぽたり、とその白い手に透明な雫が落ちた。ローズさん、とアナスタシアが駆け寄る。俯いていたローズが顔を上げた。彼女は微笑みながら、眉根を寄せて、静かに美しく泣いていた。ごめんなさい──と苦笑いの滲んだ声で言う。
「私がここで泣くのは、とても烏滸がましいとわかっています。ええ、あなた方の悲しみも、苦しみも、あなた方だけのもの、だわ。だけどどうしてでしょう、訳もなく止められずに、溢れるの……」
アレキスは何も言えずにアナスタシアがローズの手を取るのを見つめていた。ローズは、ああと呟きながらアナスタシアを抱きしめた。
「ありがとうございます、呪いを払ってくださって。でも、どうしましょう、私は兄さんが命に換えたほどに、あなた方が戦ってくださったほどに、そんなに価値のある人間ではないのです。そんなに、私は。私は……。……でも、兄さんならそれでも生きろって笑うのかなぁ……」
「ローズさん」
アレキスは揺れそうになる声を呑み込んで、穏やかに語りかけた。
「私たちは自分たちのやりたいことをやっただけだから、お気になさらないでください。たくさん傷ついて、たくさんのものを失ったけれど、私たちに後悔はありませんから」
眠りについた当時のままの姿の、姫君。まだ十五年分の年月しか生きていない、細くたなびいている少女なのだ。重いものは背負わせたくなかったし、兄のレオナルドもまたそれを望みはしないだろう。それに、そうだ。後悔なんて、〈王の剣〉の誰にもないのだから。
と。その時、ドアがそうっと開いてエドワードが顔を覗かせた。
「あの……」
遠慮がちに声をかける。入ってください、とアレキスは笑う。話したいことがあるのなら部屋の外で待っているなどと言わずに一緒に入ればよかったのに。成人直前とはいえ、この青年もまだ子供なのだと思う。アナスタシアやディオンも含めて、みんないい子供たちだ。素直で真っ直ぐで捩れたところのない、本当にいい子たちばかりだ。四十歳を前に年寄りじみたことを言わせて貰えば。
エドワードは直立不動の姿勢で部屋に入ってきて、ローズの前にぴしりと立った。重大な宣言をするみたいに。
「ローズ姫様、貴女のお兄様は、本当に強い瞳の方でした。あの方には自由を持てるだけの強さがあったんです。僭越ながら、私も、貴女のお兄様のようになりたいです。王国を新たなものにする、手伝いをしていただけますか。未来を共に築いていってはくれますでしょうか……!」
涙を拭って、ローズが頷きながら笑った。
「もちろんです。ええ、もちろん。……ところで」
少し困ったような笑顔に変わる。
「あなたは……? どこかでお会いしたことがあった気がします」
エドワードがわっと赤面して一瞬下を向いた。
「す、すみませんっ、私は次期国王の、エドワードという者です。血は繋がっていませんが、貴女様の従兄弟にあたります」
「あっ、こちらこそすみませんでした。思い出したわ、相当前ですが確か王室に入った時に挨拶に来てくれましたよね? 宴会などで遠くから見かけたこともありましたし……」
ローズはそう言いながら、少し頬を膨らませた。
「あなた、私より一つ歳下の可愛い男の子だったはずなのに……」
エドワードは少しだけ照れ臭そうな顔をする。
「覚えていていただいて嬉しいですよ、義姉さん」
アレキスは人知れず笑って、アナスタシアに行くぞと声をかけた。
「二人で話したいこともあるだろうし、俺たちはとりあえず引くか」
「うん!」
アナスタシアが元気よく返事をしてから、ちょっとだけニヤリとした。
「アレキスさん、若い人たちに遠慮してるの?」
「うるさいうるさいっ! 今からディオンのお見舞いにでも行こうと思ってたのに、連れていってやらなーい」
「あああっ、ひどいぃ」
❇︎❇︎❇︎❇︎❇︎
「おじゃましまーす」
そう言ってアナスタシアはアレキスと共にロジェとディオンの家に入った。突然押しかけたものの、家政婦らしいお婆さんは優しく上がらせてくれた。で、リビングに入ると、驚いたことにスザクがいた。逆にロジェの姿は見えない。
「おう、アレキスとアナスタシアも来たのか」
スザクが驚いたようにも驚いてないようにも見える顔で頷いた。
「あ、アナスタシア。いらっしゃい」
ディオンはやんわりと手を振った。意外と元気そうで安心する。
「寝てなくていいの? 大丈夫なの?」
「ん? ちょっと疲れちゃってただけだから、よく寝たしもうそろそろ大丈夫」
薄手のパジャマにニットカーディガンを着ているのを見ると、普通の男の子なんだよなぁと思う。一昨日あんなにタヴィアにもジーグにも立ち向かってしっかりとしていたのが嘘みたいに。
どこにでもいる少年。だけど、どこにでもいない少年。だってディオンという人間はこの世にただ一人だから。
『僕は、僕だ』
彼がそう言った意味が、わかる。
当のディオンはなんてことはない顔をして、
「立ってないで座ってよ」
いきなり二人で来ちゃったのに椅子足りるのかなぁなんて思ったが、なんの心配もなかったらしい。リビングの端に椅子が三つも余分に並べて置いてあった。ロジェが帽子から椅子を出した話はディオンに聞いたことがあったけれど、まさか誰か訪ねてくることを見越して出しておいたのだろうか。帽子から三つも?
アナスタシアとアレキスが椅子に座ったところで、家政婦のお婆さんが「紅茶とコーヒーどっちがいいですかぁ?」と尋ねてくれた。
「紅茶でお願いします」
当たり前のような顔をして答えるアレキス。本当はコーヒーの方が好きだろうに、アナスタシアが飲めないからわざわざそうしてくれたのかなぁなんて思う。家政婦さんも一杯ずつ別々のものを淹れるのは大変だろうから。
「ロジェはどうしたんだ?」
尋ねたアレキスに、スザクが「それが……」と答える。
「あの腕、さすがにあのままでは不便だからと、王宮技師が義手を造るらしい。あいつは最初大丈夫って言い張っていたが、王宮側がな……。今まで自由人の前国王率いる〈王宮特化特別組織〉と言って散々目の敵にしてきたから、そのお詫びのつもりなのだろう」
「あー、なるほど」
「というわけでロジェは今、義手を造るために色々測定に行っているわけだ」
家政婦さんがにこにこしながらティーカップを前に置いてくれる。花のような香りが広がって、アナスタシアは息を吸い込んだ。
「で、ここにいないのといえば、あとはイダか……」
大人たちの会話はまだ続く。ディオンが自分のマグカップを両手で包み込んで見るともなしにその中に視線を落としている。ぼんやりとしているみたいだ。まだ回復しきっていないだろうし、当然か。
アレキスが顎に手をやった。
「ああ、あの娘は……」
暗い色が囲んだテーブルの上に差した。
「あの娘には、一人で傷と向かい合う長い時間が必要なんだろうな。あいつ、いなくなっちゃったんだもんなぁ……」
あいつ、が誰を指しているのかなんてすぐにわかる。いつも笑顔だった彼。イダが好きだった彼。
(ルーカスさんだけじゃないよ……)
もう一人の顔も思い浮かぶ。子供のような幼い外見に、静かに凪ぐ瞳。誰よりも強い何かを持っていた彼女。
訪れた平和の〈未来〉の下に、計り知れないほどの悲しみがあるって、わかってる。忘れられるわけないし、忘れなくてもいいのだろう。見つめて、抱えて、廃れさせることなく新しい記憶もまた重ねていく。
と。唐突にディオンが呟いた。
「僕がしたことは正しかったのかな……」
誰もが何も言えずにディオンを見つめる。彼の目はひたすらカップの中を映していた。
「別にね、もう気にして落ち込んだりしません。でも、本当にあれで良かったのかな。タヴィアさんは救われると思うんです。オーギスが、いるから。思い出と記憶があるから。でも、ジーグ……カミーユさんはどうなるんだろ。これからあの人は、全てを忘れてしまったあの人は生きていけるんでしょうか」
ディオンにより呪いが解かれた彼は、〈永遠〉と共に今までの記憶を手放した。普通の人間、となったわけである。
結局、ジーグとは、カミーユ・トランティカとは、どういう背景を持った人間だったの? アナスタシアが訊く前に、ディオンは話し出した。ロジェと共にイダの鍋屋に行って、彼女の祖母に聞いたという話。
聴き終わってから少し考えて、アレキスが答える。
「彼にも愛おしい思い出と記憶が、忘れてしまったけれどあるだろう? だから、それが微かにでも光となって導いてくれたらな」
「シャトリーさんと、あとチェロの思い出ですね」
ディオンが呟いて、また重苦しい沈黙が立ち込めようとした時だった。「少し待て」とスザクが思いついたように声を上げた。
「シャトリーさんと、すごく似ている人間を俺たちは知っているだろう。褐色の髪に、黄色の目」
突然の問いかけに、アナスタシアは首を傾げる。
「イダさんのことですか? なにか関係が……」
「イダは鍋屋のおかみさんに孤児院から引き取られた身だ。だから血の繋がりはないと思っていたのだが、もしかたら……?」
「そ、そういうことなのか……?」
もしかしたら、シャトリーとカミーユの間には子供ができていたかも知れない。どう考えても公認ではないだろうから、施設に預けたとして……、その子供が大人になってからまた子供を産んだら?
謎は多いし、遡ればもう何十年も昔の話だから確かにすることなんてできない。イダがシャトリーと外見が似ているのは本当にたまたまである可能性だってある。何より、本人であるイダも、そのおかみさんもきっと何も知らないには違いない。
大それた事実の可能性に、一瞬惚けたようになっていた場で、沈黙を破ったのはディオンだった。
「そうかもしれないし、そうではないかもしれない。もう誰にもわからないけれど、それでも今生きてる人たちが幸せだといいな」
彼は微笑む。なんとも言えない感情に溢れた笑顔だったけれど、アナスタシアは悪くない顔だなぁと思った。
幸せって本当、わからない。
幸せに輝いて歓喜しているその裏に、何人もの人間の涙があるかもしれない。それは幸せだと言える? でもきっと不幸な悲劇があったとして、それをくり返しているかのような現実があったとしても、何かが変わっていくのだろう。それが明るい方向へだと、信じている。
❇︎❇︎❇︎❇︎❇︎
頬に触れた朝日に、彼は目を開いた。長い長い夢を見ていたような気がする。どこか泣いてしまうほどに残酷で、それでいて鮮やかな美しい夢だった。
(ここは)
ゆっくりと起き上がって、窓の外を眺める。小さな木造りの家にいるらしい。小鳥たちが囀り、色とりどりの花々が咲く、春の森の中だった。向こうの方に、古びた城が見えて、感嘆の息をつく。寂しげだが美しい廃墟だ。今さっきまで見ていた夢の中のように。綺麗だけれど……なんとなくあれは〈過去〉となった場所なのだろうと思って、彼は遺跡のような城に背を向けた。
と、部屋の隅に立てかけられていた大きなケースが目に入る。丸みを帯びたこの風変わりな形は。
(ああ、私はこれを知っている……)
ケースを開いて、抱きしめるように、中に入っていた楽器を取り出した。光を浴びて赤いような色で光る茶色のチェロ。何年もの時を経たニスの匂い。どうして、こんなにも懐かしい。
弓を構えて、恐る恐る抱いたチェロの弦の上で押し引いた。うわぁんと微かな唸りを上げて、しっかりとした音が響く。その振動を直接胸に感じて、不意に泣きそうになった。どうして、どうして、どうして。
そして思い出した。夢の中で、誰かが自分のために言ったこと。
〈理想論かもしれない。そんなの無理だって笑われるかもしれない──〉
〈──それでも、誰もが幸せな未来を望んだっていいと思うんです〉
〈僕はあなたに、生きていてほしいです〉
遡る、遡る、声が。
〈その音を聴くとね、何かが体中を駆け巡るの……〉
〈──言葉にできないもの。それが、うわぁって〉
誰のものだかわからない声が、自分のことを押す。明るい方へ、光差す方へ。
チェロを弾きながら、涙を噛み締めるように頷く。
これから、私は。
(ただ、たくさんの思いを音にしよう。誰かに、届くように)
誰かが自分に教えてくれた。明けない夜はないことを。
誰かが助けてくれた、自分の光になってくれたことを、忘れない。
ありがとうと、伝えたい。
窓から吹き込む優しくて心地よい風がくすぐったい。彼は淡く微笑んで、蒼く輝く空を見上げた。
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