scene 5 Wish and Pray

 一九五〇年一月二日。

 真っ白な十一羽のハトが、ロレンタの王宮を飛び出し、大空を滑空した。それはまるで天からの使いのように、それぞれの目的地へと手紙を届けた。

〈拝啓 十五年前の悲劇を見た〈子供たち〉へ。

  〈悲劇〉の全貌を解き明かすため、協力していただきたく思う。

   明日、王宮へと集まってほしい〉

 簡潔な文章。誰から、と明記されていなかったが、その紙質から相手が相当に立場の高い人間であることはわかった。そして、その相手がこの手紙に想いを賭けていることも。

 その翌日、かつての〈子供たち〉であった九人が、王宮に集まった。それぞれが初対面のような状況下で動揺していた時、声がかかった。

『よく来てくれた。十五年前の、〈子供たち〉』

 まだ青年よりも少年に近いぐらいの顔。肩のあたりで揃えられた、見事な金髪。どこか張り詰めたように光っているオレンジの瞳。彼はまさしく、ロレンタの次の国王と言われるレオナルド・ヴェリエ・ドゥ・ジャレットだった。


❇︎❇︎❇︎❇︎❇︎


「こんな綺麗なお城に、メイベルなんかが入っていいんでしょうかねぇ……」

 王宮の門の前で、メイベルは途方に暮れていた。衛兵が、声をかけたものが迷っている様子でちらちらとこちらのことを気にしていた。道に迷っているのか? いや、それとも不審人物なのか? もう少しこっちに来てくれないと話しかけられないな。

(旦那様は、王宮の大広間と言っていましたが……)

 やっぱり、聞き間違いだろうか。耳が悪くなってきているのを感じた事はないけれど。

『明日から最後の戦いに入るので決起集会を開くのですが、料理人が一人だと大変そうなので少し手伝ってあげてくれませんか? 主に鍋料理です』

 今朝、若主人がそう言っていた。メイベルは当然「もちろんですよ」と答えたのだった。それにしても、明日で〈仕事〉の決着がつくとは、結構凄い事じゃないだろうか。ロジェと出会った四年前、既に彼は〈趣味じゃない方の仕事〉を持っていた。

 長らく共に過ごしてきた夫と死別して、食うための仕事を探してロレンタの郊外から出てきた時、ロジェと出会った。今でも覚えている。

『是非うちの家政婦になって欲しいのですが』

 大人になったばかりのような、メイベルにとっては完全に子供で、しかもマントに仮面をしたかなり変わっている若者に声をかけられて、最初は戸惑った。来る日も来る日も「働かせていただけないか」と街中で歩きゆく人に声をかけていた頃だった。

『ええっと、あなたは……』

『ロジェと申します。メイベルさん、ですよね? 仕事を探している方がいるらしいという噂を聞いて、声をかけさせていただきました。……実はワタシ、家事の類が一切できないので困っていたんですよ』

 そして彼はニヤッと笑った。

『ワタシは本業の事情でいつ帰って来なくなるかわからないような身なので、その時はご自由に家をアナタの物にしてくれて構いません』

 あれから四年。今ではロジェが拾ってきた少年もまた家の一員に加わり、メイベルもずっと楽しく働いている。あの時「いつ帰ってこなくなるかわからない」なんて言っていた彼は、随分と安定したように思う。一度ぼろぼろになって帰ってこられた時には仰天したが、今ではそんなこともない。刹那的に無茶をするようなことが無くなったのではないかと思う。

「あのー、すみません」

 ぼんやりと回想していると、後ろから急に声をかけられてメイベルは目を見開いた。過去に戻ってしまったのかと一瞬考えたが、ありえない。そもそも若い女の子の声だ。

 振り向くと、軽く首を傾げた状態の女性がいた。メイベルの若主人と同じぐらいの歳だろうか。赤茶色の長い髪が無造作に流れ、その耳でぴかぴかと大きなイヤリングが光っていた。意志の強そうな黄色の目が瞬かれる。彼女は重そうな籠バックを手に下げていた。

「メイベルさん? あたし、イダと言います。ロジェの同僚で、〈王の剣〉の中でよく料理してます」

「あなたが旦那様がおっしゃっていた……」

「はい。今日は手伝ってくれるって聞いて、本当に感謝してます。さっそく大広間まで行きましょう!」

 籠鞄を持ち直し、琥珀色の瞳をきらきらさせて笑うイダに、メイベルは思う。ほらね。

 ほら、こんな優しくて明るい子がたくさんいて、毎日が楽しくて、この街は捨てたもんじゃないでしょう。人間も捨てたもんじゃないでしょう? 未来はきっと、明るくて暖かいのだと、そう思う。


❇︎❇︎❇︎❇︎❇︎


 〈王の剣〉、アナスタシア、セレスティーヌ、メイベルの十人が大広間に集まり、団欒とした会となった。

 白く湯気を立てる鍋も、並べられたシンプルな木の皿やマグカップも、全てが優しく見える。明日に控えた戦いのことなんて一切口にされる事はない。あるのは愛おしいような思い出話と、未来への期待。

 一つだけ、誕生日席になったところが空いている。誰も何も言わないが、他の席と変わらずに食器が並べられていた。

「三月十三日。なんの日なのかなって思ったらさ」

 その席に目をやって、ルーカスが僅かに寂しげに微笑んだ。寂しげ? いや、少し違う。遠い昔を懐かしむような目の色だ。

「誕生日だったんだね、レオナルドの。前回ディオンが〈王の剣〉に入って初めての食事の時に言ってた気がする」

「覚えてますよ、とヨルは応じます」

「そうか。ジーグが提示したのは姫君が眠ってから五年後のレオナルドの誕生日まで、だったんだな」

 そしてそれは、明日。

「結局、言っていた件について調べられたのか?」

 スザクに聞かれて、ディオンは頷いた。

「はい。話したほうがいいですか?」

「いや、いい。話さなくて。……これは今ここで暗い話をするな、と言いたいわけではなく……言ってみれば一種の信頼だな。お前が、はい、と言ったからには大丈夫なのだろう」

 そう、照れ臭げな顔をして見せた彼に、ディオンは純粋無垢の笑顔を浮かべて、「スザクさんがそんなこと言うなんて、何か悪い物でも食べましたか?」と言ってみた。

「いいこと言う」

「ナイスツッコミ、少年くん」

 けたけたと軽い感じの笑い声を立てたのはイダとロジェだ。

 と、ここでアレキスが立ち上がる。

「乾杯しよう、音頭を取っていいか」

 こういうところで中心になって場を立てたりまとめたりするのは、やっぱりアレキスさんなんだなあと思う。ほら、今まで好き勝手に喋っていたみんなが途端に彼を注目する。アレキスは穏やかな表情で、マグカップを上げた。

「俺たちの最後となるであろう仕事はきちんとやる。もう俺たちに恐れるものは、失うものは何もない。行くぞ、諸君!」

「「「「「乾杯!!」」」」」

 木のコップがこつん、とくぐもった柔らかな音をいくつも立てた。


 お邪魔します、とロジェが部屋に入ってくる。もとから、来るだろうと思って既にアレキスはドアを完全に閉めないでいたのでノックは無しだ。

 決起集会は割と早めに終わり、全員でホテルに引き上げてきたあとだった。流石に王宮の客室を使わせてもらうのは遠慮したのだった。エドワードは「手配ぐらいやらせてください」と言っていたけれど、その後で彼が色々王宮機関の人たちに言われてしまうのは申し訳ない。近くにあった高級めなホテルをせっかくだということで取ることにした。

「で、何か用か?」

 アレキスが問いかけると、ロジェは後ろ手に隠し持っていたらしいワインボトルを出した。どうです?と笑う。

「下のバーになってるところから持ってきました。いつかグラスを交わせるといいですねって、前言ったことがあったでしょう?」

「あー、言ってた気がする」

 というかよくそんなことを覚えている。あの後すぐロジェはアレキスが盛った睡眠薬にあてられて寝落ちたのではなかったか。若いってこええ、と思ってしまうアレキスである。

「んじゃ、一杯行くか」

「ええ」

「お前、ワイン持ってきたのはいいけど、グラス忘れてる」

「誰が忘れたと?」

 ロジェがわざとらしくにこっと笑って、頭からシルクハットを取って見せた。そこに手を突っ込んでいる。

「おいおい、嘘だろ」

「何が嘘なんです?」

 じゃーん、と効果音をつけて取り出した手には、二つのワイングラスが握られていた。いちいち芸の細かいやつだ。

 雪のように白い薔薇の花の一輪挿しが優雅に佇む。小テーブルでとぽとぽ……と透明なグラスに透明なワインを注ぐと、気泡が鮮やかに軽やかに煌めいた。少し上品に薄暗い部屋の明かりが、光と集まって水面に落ちる。ロジェが注ぎ終わったグラスを優雅な手つきで持ち上げて、スワリングした。珍しい神妙な顔つきだ。

(はて……?)

 やや間が空いて、ロジェが真っ直ぐ見つめてきた。深緑の目が少し不思議に光る。

「アレキスさん」

「ん? 改まってどうした」

 ワインを口に含むと、意外と苦い味がした。表情を変えないように心がけつつ、問い返す。ロジェはグラスを小机に置いて仮面を外した。周りの消えきらない傷が露わになる。

「この眼球は、魔月目の民の誰かが、未来から取ってきてくれた義眼なんですね。セレスティーヌさんの話を聞いている時に、気付きました。弾き飛ばされ、森の中で倒れていたワタシを見つけて、治してくれたんでしょうね」

 確かに、初めてセレスティーヌと話した時に、ロジェは訊ねていた。

『義手や義足、さらには義眼を取って来ることも可能ですか』

『ええ。できると思いますよ』

 あの時、アレキスもあっと思った。そうか。今のロレンタでは存在し得ない技術を使ってロジェのこの傷ついた眼球を治したのは魔月目の人間だったのか、と。

「闇の中で、ワタシが聞いた声の話はしましたよね」

 貴方は眼球を元に戻すことを望みますか。生きていれば見たくないもの、目を背けたいものがたくさんある。それでも、光を望みますか──。

「アレキスさん、ワタシが一度失った両眼球りょうめを取り戻してまで求めたものは、光です。幸福な未来です。闇の中で、どん底を知っていながら、それでも貪欲に手を伸ばした。光を願った」

 ロジェは笑った。諦めのようで、哀しみのようで、それでもどこか愛おしさのようなものが滲んでいた。

「ワタシはこの世界に、今がどんなに絶望的であっても、幸せな結末があることを信じています。もう死に損なっているなんて、言わない。最後のその時まで生きていきます」

「それは、決意か? 奇跡が起こるのを信じるという」

 問いかけると、彼はようやくいつも通りの飄々とした顔で「何を言っているんですか、アレキスさん」と言った。そして小テーブルの花瓶から一本の白い薔薇を抜き取った。

「奇跡は起きるんじゃない。起こすものでしょう──?」

 その手の中で、ゆっくりと色のない花びらがが鮮やかなコバルトブルーへと変化していた。下の方から、ゆっくりと。……奇跡を、起こす。

 エエッとアレキスは叫んで立ち上がった。その拍子に膝をぶつけ、がたん、と小テーブルが揺れる。ロジェが「危ないですねえ」と笑ってグラスを押さえた。


 静かに隣の部屋のガラス戸が開く音に、ルーカスは手すりにもたれかかっていた身体を起こして振り向いた。夜風が涼しく、月光が煌々と降り注ぐバルコニーだった。

(隣の部屋は……ええっと)

 ああ、彼女か。ルーカスはにこっと笑って、手を振った。

「やあ、イダ」

「なんとなくバルコニーに出てきてみたのよ。そうしたらなにさ、繋がってるのね。初めて知った」

 月見てんの? そう聞かれて、頷いた。

「綺麗だよねえ、月」

 呟いてから、気付く。ああ、そういえば。からかう意味合いも込めて、「ここは西洋だからね、東洋のほうの裏の意味じゃなくて」と付け加える。イダは案の定真っ赤になって、「むあ!?」と叫んだ。

「何言ってんのよ! 言われなけりゃ思い出しもしなかったわ! この暇人!!」

「事実、暇なんだよねえ。子供たちがいるから早めに集まりは切り上げたけど、寝るには早いし。ロジェとアレキスあたりはさっきワイン飲んでたよ。でも戦う前日に酒ってのは俺としてはどうなのかな……」

「すぐ酔うからってこと? 前にこうやってあんたんちで一杯やった時、そうは見えなかったけど」

「いや、むしろ俺自身はアルコール大丈夫すぎて、気をつけないと一緒に飲んでる相手をベロベロにしちゃう」

「あーはいはいすごいわね。ぱちぱちぱち」

 いかにも適当な感じで手を叩き合わせる。別にすごいだろう、なんて言っていないんだけれど。なんだか今晩のイダは少し何かに苛立っているようだ。鋭くそれを感じ取って、どんな言葉をかけるべきか考えあぐねていると、彼女の方から「あのさ」と言ってきた。

「あんたさ、怖くないの?」

「何が?」

 イダは顔を顰め、荒っぽく前髪を掻き上げた。

「戦いが、よ。他に何があるっていうのさ? あんたもあたしも、死ぬかもしれないのよ。あたしたちが必死なように、敵だって必死なの。誰も口に出しては言わないけど、生きて帰れる保証なんてどこにもないの……!」

 本当に静かな夜だ。優しく頬を撫でる風の他には、何も音がしない。ルーカスは頷いた。

「わかってるよ、うん。わかっているけどっていう話じゃないの?」

「ええ、そういう話ね。決意に決定? レオナルドの意志? わかってるさ。〈王の剣〉の存在意義は二十年前の事件解決。でもねえ、恐怖って感情って理屈じゃないでしょ?」

 イダがさっと手を伸ばして、ルーカスの手を取ろうとした。彼女がそれをできなかったのは、ルーカス自身が一歩退いて手を後ろに庇ったからだ。

 イダの手に自分の手が触れられるのを、無意識のうちに咄嗟に避けようとしていた。それを驚くのではなく、苦笑にも近い思いで受け止める。そんなルーカスに、イダはため息をついた。

「ほら」

 そう彼女は言った。

「あたしは気づいてた。あんた、レオナルドの一件以来、人に直に触れられなくなっているんだろう?」

「ばれてた?」

「エドワードに初めて会って握手を求められた時、あんたはにこにこ笑って気付かないふりしてそれに応じなかった」

(意外とよく見てるんだなあ、イダは)

 〈血肉ノ技〉を使い、死ぬ間際のレオナルドの身体を夢中で抱えたあの時。この身体は人の体温がじわじわと失われていくのを感じた。もろに影響を受けた。その生々しさに。

「うん。無意識でも俺だって怖かったんだろうね、あの時。人が冷たくなっていくのが怖かった──というよりは恐怖としてすら受け入れてなかったかも。情けない話だけど」

 また笑う。自分自身に対する嘲笑を浮かべたルーカスに、イダが「もう笑わないでよ」と言う。

「あんたはいつだって笑ってる。苦しくても悲しくても。あたし、あんたの作ったような笑顔を見てると、時々すごく悲しくなってくる」

「そんなこと言われても……」

「無理して笑って、虚しくはならないわけかい? あんたは何もそんなことしなければいけない理由はもうないの。……あああっ、なんであたし今こんなこと言ってんだろ。自分でもわけがわかんないんだけど……、あのね、辛い時は辛いって言って欲しいの。笑顔でバリアを作らないで欲しいの。あたし、前、みんなの笑顔が好きって言ったけど、でも作り笑顔は違うんだよ」

 わあっと何かが溢れ出したようにイダは捲し立てる。その目の焦点はわざとか、ルーカスの目の上ではなく少し斜め下の方に結ばれていた。必死だ、と思う。もどかしそうに、それでも必死で伝えようとしてくれているのだとわかる。そしてそれを見て……。

 不思議と不思議な気持ちに、なる。

「イダ」

「何が言いたいんだかわかんなくなってきた……。それであの」

「ねえってば、イダ?」

「っっなにさ」

 心の中で呼びかける。ありがとう。俺なんかのことを気にかけてくれて、好きでいてくれて、本当にありがとう。俺は君が。 ……君が?

「スザクがなんであんなめちゃくちゃ理系な頭脳派の人間になったか知ってる?」

 突然の関係ないようなルーカスの問いかけに、「はぁ?」と彼女は声を上げた。構わず、続ける。

「あれはね、もとは生きるためだったらしいよ。彼は孤児院に預けられる前、ずっと両親からの暴力に晒されてた。結構な飲んだくれだったらしくて、さ。施設に入れられてからスザクは絶対にあんな風になるものかと誓ったんだって。必死になって勉強して、施設で横行する暴力をもひたすらに軽蔑して、あいつは今まで生きてきたんだ。学力を盾ににして」

「処世術……」

「それに近いんじゃない? 俺とスザクは方向は違ってもすごく似てると思う時があるよ。あいつは学問に徹した。で、多分」

「あんたが振り翳したのは、笑顔?」

 ルーカスは頷くことはせずに淡く笑った。

「孤児だったこともそうだけど、人生、当たり前に楽しいことばっかりじゃないから。壊れそうになることだってある。それでも笑うのは、自分を保つため。悲しみや苦しみだけへ真っ直ぐに落ちていきそうになるのを、食い止めるため。人はそれを処世術と呼ぶのかもしれないね。……イダ」

 下唇を噛み締めていた彼女は顔を上げた。何よ、と言いながらその瞳が揺れる。ルーカスは短く息を吸って、パッとイダの手を取った。薄く鳥肌が立つのを感じる。思い出さないことがないわけはない。だけど。

 それでも尚、この顔は自然に笑顔の形を作り出す。

「俺はイダにも笑ってて欲しいけど?」

 ぐっと笑みを深くして悪戯に見つめたルーカスに、イダがかああっと赤くなった。今までで一番。

「ああっあんたはいつもそうやって……! う、うるさいのよっ‼︎」

 もう知らない、とかなんとか叫んで真っ赤に染まった顔を背け、走って行ってしまう。タッタッタ……と石でできた床に足音が響く。

(……めちゃくちゃ照れてる)

 うん、自分のせいだけど。

 ガチャン、とやや乱暴に彼女の部屋とバルコニーを繋ぐ扉が閉まる音がした。ルーカスは再び柵の手すりに上半身を預けるようにもたれかかり、静かに微笑みながら月を見つめていた。


❇︎❇︎❇︎❇︎❇︎


「出発のときだって、あの時、義兄さんは言っていましたよ」

 メイベルとはホテルで別れ、薔薇の森に突入する前に、王宮の門の前をわざわざ通った。もしかしたら、という思いが多分〈王の剣〉の皆にあったからだ。そして──。予想通りに、少し望んでいた通りに、エドワードはそこにいた。「もうそろそろ出発するころかなと思ったら居ても立ってもいられなくて、門まで出てきてみました」とはにかんだような笑みを浮かべた。

 壮大な装飾を施された巨大な門の前。両側に二人立った衛兵たちはちょうど境目付近にいる〈王の剣〉たちと時期国王候補の青年を見て何も言わずにいてくれていた。朝から仕事、お疲れ様です、とディオンは心の中で声をかけて背筋を伸ばす。

「あなた方も、今がその刻なのですね」

「ええ」

 頷いたのはアレキスだ。エドワードさん、と改まった口調で呼びかける。

「ローズ姫に会わせてもらったことなんかから既に気付かれているかとは思いますが、私たちの仕事は二十年前の〈魔女の悲劇〉の真実を追求することです。ここにいるアナスタシアとセレスティーヌさんを覗く全員があの時その只中にいた〈子供〉たちです。そして今から行くのは、他でもない〈魔女〉との決戦だ」

 エドワードは少し驚いたような顔をした。

「それを、私に話していいのですか」

「話したい、というのが私たちの総意です。〈王の剣〉はレオナルドが最初に定めた決まりにより、一人につき一人ずつ、組織の内容を話すことを認められています。私は既にアナスタシアに話していますが、まだ誰にも話していない者もいる。その分です」

「どうして……」

「わざわざ貴方に話すのは、色々お世話になったっていう感謝からです。あと……」

 アレキスは照れたように斜め上に目をやって頭を掻いた。

「その……なんていうか、貴方には私たちのことを知った上で味方であって欲しいっていうエゴ、なんですかね……」

 なんですか、それは。後ろからロジェが笑う。清々しい風が吹き抜け、彼はシルクハットを押さえた。

「この人、言いたいことがあると落ち着いた言葉を選ぶことが出来ないんです。気を悪くしないであげてくださいね」

「気を悪くするなんて、そんな」

 エドワードは顔の前で手を振った。

「嬉しいです。ええ。私はあなた方の味方でありたい。本当、私なんかに何か出来ることがあるのなら、今すぐにだってやりたい。でも今までやってきたことは、全てあなた方の功績です。それを忘れずにいてくださいね。王宮の人間の多くは、あなた方を疎ましく思っている。それでもあなた方はもっと自分を誇っていいのです」

 戦いになるのですか──と彼は尋ねた。〈王の剣〉たちは皆、何も言わずに頷いた。エドワードは一瞬視線を落とした後顔を上げて、頷いた面々をしっかりと見返した。

「どうなろうと、眠っている姫君のことはお守りします。それから、この城も。だからこちらのことは気にしないでください」

「ありがとうございます」

 スザクがきっちりと深く頭を下げた。

 そうだわ、とイダが声を上げる。

「帰ってきたら、またみんなでご飯食べたい! 今度はエドワードさんもどうです!?」

 いいこと思いついた、というようにはしゃぐイダに、エドワードは嬉しそうにした。いいんですか、と言いながら、本当に切実そうに笑う。

「それは、是非。その時はまた広間を使えるようにしますね」

 またしてもスザクが頭を下げる。

「本当に、お世話になりっぱなしで申し訳ない」

「こちらこそ、足止めしてしまって申し訳ありません」

 と。ルーカスが肩をすくめる。

「謝り合ってないでよ。ほら」

 そう言ってにっこり笑ってエドワードに向かって手を振った。ひらひらと、春の蝶のように手が揺れる。

「行ってきますね」

「必ずや王国にかけられた呪いを払って帰ってきます」

 そうロジェが重ねる。

 エドワードは何か声をかけようとしてとして、何を言おうか迷うように口を閉ざして、結局何も言わずに微笑んだ。小さく、手を振り返しながら。


 鳥が囀りを交わす。空が青く輝く。こんな美しい晴れの日に。

〈王の剣〉は最後の仕事へと出かける。


❇︎❇︎❇︎❇︎❇︎


 電車でアイジカーナ街まで出て、そこから少し歩くというまえに一度行ったその道をゆく間、ディオンは終始無言だった。それを気にしてか、アナスタシアが下から顔を覗き込む。

「緊張してるの? 不安なの?」

「……どうなんだろうなぁ」

 鬱蒼とした森がどんどん迫ってくるのを見ると、やはり恐怖が迫り上がってくる感じがある。胸を締め付けられるのを、冷たい手で心臓を鷲掴みにされるのを感じる。

 でも。

 なんだか、心がぽかぽかとして温かい。熱いとさえ言える。不思議と悪い感じはしなくて、ただひたすらに高揚している。なんでだろ。

「自分でも、よくわかんないや」

 えへへ、と笑ったディオンにアナスタシアが少しだけ目を丸くした。そして、小さく花が咲くように笑みをこぼした。


 着いたぞ、とスザクが声を上げたのはその数分後。視界全体に薔薇の森が広がる。毒々しくも真っ赤な、血のような色の巨大薔薇がぽつぽつと開花していた。

 その端の方では蔦や茨に閉じ込められて退廃とした城が聳え立っていた。薔薇城だ。

(この森に、入るんだな)

 二度目だ。だけど、一回薔薇の森に突っ込んで行ったのがもうひどく昔に感じられる。

 ごくりと唾を飲み込む。ここから先はどこに敵がいてもおかしくない。そして〈魔女〉はきっと森の中央にある儀式会場にいる。

「誰かここに連絡係として置いていくのも俺はありだと思うが、残りたい者はいるか」

 スザクの問いに、その場にいた九人の誰もが自分の内に一度尋ねた。ここに本当に入りますか? まだ今ならやめられる。

 だが、結局手を挙げた者はいなかった。それを受けてアレキスが安心したような顔をした。活気づけるように、「連絡係なんて置いたところで戦いの最中に連絡の手段なんて考えてられないからな」と肩をすくめた。

「よし、立ち止まっていても仕方ない。とりあえず進むぞ」

 同じように表情を持たず直立した木々が嘲笑うようにざわめくその中を、早足に進む。一度でも足を止めたら、もう進めなくなってしまいそうで。この森を支配したこの恐怖もまた〈呪い〉だろうか。暗々とした葉に遮られて、あれだけ鮮やかだった空が吸い込まれそうな闇と化している。

 その時。

「ようやく来たみたいね。待ちくたびれたわ」

「せっかく楽しいパーティーの準備をしていたというのに、なんと遅かったことデショウ」

「その分、楽しませてもらわなくちゃ! うふふふ」

「思う存分、暇つぶしをさせていただきマス……!」

 辺りの森の中、二つの声が駆け巡る。ディオンは硬く身体を強張らせた。敵だ。近くに、いる。自分達にもう気付いてる。

 ルーカスが鋭い声で囁いた。

「聞いたことある声だよ。男の方。〈道化〉だ」

 ハッとする。スザクが言っていたのを思い出した。

『あと二人は手下がいるな。一人目が〈分身術)と〈風〉の使い手の女。二人目に、レオナルドのことを……、レオナルドが戦った、道化師と名乗る男』

 ルーカスが聞いたことがあると言った方が、レオナルドとルーカスで戦った道化師だとして、もう一つの声は。

 考えが頭の中を巡った時、僅かにディオンの頭より下の辺りで低い声がぽつりと呟いた。

「……きり」

 え? きり? 霧だろうか? でも少し発音が違った気もするし、霧なんて出ていないけれど。そう思いながら呟き声のした方に目をやる。そして、驚いた。

「ヨルさん?」

 いつもの無表情……とは言い難い険しい顔で、ヨルは扇子を構えていた。ディオンが見ているのに気づいて、「気にすることはありませんよ、とヨルは言っておきます」と言う。

「気になりますよ……。きりっていうのは?」

 聞き返したディオンを、静かに、と制するようにアレキスが人差し指を立てたその時。パッと白いものが眼前に閃いた。咄嗟のことに動けない。何も言わずに背後にいたセレスティーヌがディオンとアナスタシアを後ろに引き寄せて庇う。束の間の恐怖、緊迫、その後に。

「ヨル、久しぶりね。もちろん覚えてるわよね?」

 そう問いかけたのは、一人の少女だった。肌は白、髪も白、ワンピースも空中にふわりと広げた布もまた白で、瞳だけが琥珀色だ。彼女は空に浮かびながら口の端をくいっと意地悪な笑みの形に持ち上げた。

(って、今なんて言った? ヨルさんに、久しぶりって?)

 はっとヨルを見ると、彼女はきつく引き結んでいた口を開いた。その手で扇子の刃が鋭く光る。黒い服が闇を吸い込んでより一層、黒い。

「何のことをおっしゃっているのやら、ヨルは計りかねます」

「アルヴィターノ女学院」

「一体、何の」

「またの名を──」

 白の少女は作り物のような恐ろしい笑顔を浮かべていた。

「アルヴィターノ殺人教育学校少女製作処、でしょう?」

 これまでぎりぎりのところで感情を見せていなかったヨルの目に、初めて怒りとも哀しみともつかない激しい光がよぎった──その刹那。

 白と黒の、二人の姿が消えた。

「ヨルッ!?」

 イダが叫ぶ。どういうことなのよ、と声を張り上げる。誰もが唖然とし、状況を測ろうとしていた。そんな中、ロジェだけがくっと顔を上に向けた。

「しまった……!」

 そう呟いて、愛用の紳士杖を顔前に掲げる。空から降りかかってきたいくつもの紫色の球に向かって杖の先が火を吹いた。パンッ、パンッと軽すぎるような音がして球から発せられた爆風を、彼は杖で薙いだ。斬っと頭上でいく筋もの風が唸る。

「ここは引き受けますから、先へ」

 振り払うようなロジェの言葉に、アレキスとスザクが先頭になって、「行くぞ」と先頭に立った。他の人もそれに続こうとする中、ディオンは顔を顰めた。

「ロジェ、そんな、だめだよ。誰かしらあと一人ぐらい……」

 後ろ髪を引かれる思いのディオンに、ロジェは意外と厳しい顔をした。きっぱりと首を振る。

「〈魔女〉はね、二十年前の記憶を省みるに、ドラゴンを持っているよ。こんな手下のところなんかで二人以上の人数は割けない」

 そして、少しだけ表情を緩める。

「キミにはキミのやることがあるんだろう?  ……進んでください、アレキスさん」

 またカカカカカ……という乾いた笑い声と共に、球が宙を飛び回る。早く、行くぞ、とアレキスが低く叫んだ。

「儀式会場へ!」

 二十年前に悲劇が起こった、あの場所へ。


 タヴィアは泣き出しそうな自分に鞭打つように、強張った顔を真っ直ぐ前に向けた。アルルカンとキリは──敵が森に足を踏み入れたのをわかった瞬間に飛び出していった。キリは、相手をしたいと言った黒い少女と、アルルカンは他の誰かともう戦いを始めているだろう。でも敵が二人しかいないはずなんてない。タヴィアを含め、誰しもが今日という日に賭けているはずだから。

 ここでは、自分のことは自分で守ってみせる。それだけじゃない、敵なんて木っ端微塵にしてやる。いつまでだって弱い自分ではいられない。

「……出でよ、闇に使わすもの」

 低い声で囁いた。自分の声が意外にも落ち着いているのを感じて、恐怖が少しだけ薄らいだ気がした。ざわめく薔薇の森が、タヴィアのことを守るように煌々と広がっている。

「マレフィセント・ドラゴン──!」

 空間が蜃気楼のように揺らめき、黒曜に艶めくドラゴンが現れた。タヴィアは白い額を鱗に覆われたドラゴンの頭に当てた。低く呟く。

「私は、負けないわ」


 理屈じゃなくぞくぞくと這い上がってくるような気配に、イダは「待って」と声を上げた。

「出る。何か」

 手に持っていた短刀二本の鞘を投げ捨てて、両手に構えた。その瞬間、影の中から巨大な咆哮が迸った。

「ドラゴンだろう……。〈魔女〉の宿り魔か」

 スザクが囁く。その隣で、アレキスがメリケンサックを指にはめた。彼が宿らせている狐を使う気らしい。

「医療班がセレスティーヌさんとアナスタシアちゃんで、大将がディオンね」

 ルーカスの言葉に、薬草の入った籠を持ったセレスティーヌ、アナスタシアはそれぞれ頷いた。ディオンが「大将、ですか」と呟く。スザクが眼鏡をカチャリと押し上げた。

「ああ。その三人のことは必ず守ること。ディオンを〈魔女〉の元へと到達させると同時に、ドラゴンは押さえ込む」

 それぞれがそれぞれに決意を呑み込んで、薔薇の木々に遮られた儀式会場へと入って行った。


「良かったわ。ヨルが私のことを覚えていてくれて。さすが親友、だものね。ねえヨル、あなた変わったわね」

 濃い二重のせいで人を見下したように見える瞳を細めて、キリは笑った。対してヨルはひたすら無言のままに扇子の攻撃を繰り出す。

「……」

「そこはあなたも変わったね、とか言うところじゃないの?」

 あまりに白い布が目にちかちかする。邪魔だ。風を巻き込んで浮遊するだけでなく、そのためのものでもあるのかもしれない。

 だがヨルにはヨルなりに身体能力には自信があった。〈術〉なり宿り魔なりに頼らなくても、脚の跳躍力でそれなりに空間に浮いていられる。ここまでの身体能力を得たのは……。

 アルヴィターノ女学院にいたせいだ。全て全て全て。

 アルヴィターノ殺人教育学校は、王国内の孤児院から〈少女〉へと育てられそうな子供を攫い、そして立派な暗殺者へと育て上げる。表向きではただの女学校であるために、外から見れば何も気づくことはないが、実際にアルヴィターノの卒業生はスパイや殺し屋になったりもしている。

(あの世界で、少女とは、武器だった。道具でしかなかった)

 あまりに辛い〈教育〉。実習という名の殺人行為。少女でありながら鞭打たれ、罵倒され、そして学校側の〈教育費〉を稼ぐために金持ちの男たちに身体を売ることもあった。多くの少女たちはその中で心を壊し、崩壊していった。発狂し、自殺していった少女たちを見る理事長の目はただ冷酷だった。

『壊れた人形に用はない』

 処分、処分、血沫。壊れた人形なんて、要らないから。目の前で沢山の同年代の少女たちが死んでいった。過酷な研修で命を落とし、仲間のそれを見て病み、いつしか自ら死んでいく。

 心を閉ざしてしまうのは、あまりにも楽で。

 ヨルはいつしか自分のことを客観的にしか見なくなった。いや、違う。外からこうして〈自分〉を眺めているのは本当の私なんかじゃない。一切の感情を切り取ってしまった抜け殻。

 本当の〈自分〉は、テラリウムのような囲われた空間で、意思なく揺蕩っている。

 大丈夫。守ってあげるからね、私が。〈ヨル〉のことを。〈ヨル〉は外で起こっていることなんて知らなくていい。見ていなくていい。透明なテラリウムの底に沈んだあなたは。

 あなたは……。

『ヨル、私と組まない? あなたは才能があるわ。二人で優等生として卒業まで行きましょうよ』

 精神を病み、壊れ、消されていく少女たちの中に、ただ一人心の底から返り血を浴びて悦んでいる少女がいた。壊れているんじゃない。感情が抜け落ちているのでもない。そしてそんな彼女の、何故かヨルはお気に入りだった。

『ヨルの無表情でひたすらに人を殺していくところが好きだわ。血を浴びても眉一つ動かさないの』

 アルビノの人間。見た目が歳を取らない特異体質。実習という名目のもと監督官の指示をもとに初めて人を殺した時、彼女は「私にとって殺人は復讐なの」と笑った。まだ簡単な武器しか持つことを許されていなかったために、シンプルな短剣を握りしめ、それをひどく優しい表情で見下ろしていた。

『この学校に入る前から、ずっと人間たちから狩られる側だったわ。馬鹿みたいでしょう、可笑しいでしょう。不死の血だとかなんだとか言って私のことをずっと追っていた人たちが、今や私の獲物でしかないなんて』

 そう言って、口元についていた血を拭う。

「ねえヨル? ぼーっとしてないでよ。せっかく再会出来たのに」

 今、彼女は──キリは、ヨルと向かい合う。ひたすらにヨルが繰り出す攻撃を見事に交わしながら、ひどいわねえ、と腰に手を当てて見せる。そして、思い出したように「ああ、勘違いしないでね」と言った。

「さっき、ヨルのことを変わったって言ったのは、内面のことだからね? だってあなた、外見はあの時からずっと変わっていないわ。十年ぐらい経ったはずなのにおかしいわね? 私みたいな特異体質的なものじゃないでしょ?」

「……内面」

「え? なんて言ったの?」

「ヨルの内面の、一体どこが変わったと言うのです」

 キリはあら、と呟くと嫌味っぽく微笑んだ。彼女が動きを止めようとするのを感じて、ヨルは攻撃を一旦切り上げた。キリの笑みが深まる。

「そういうところよ。ヨル、あなたの一挙一動に、感情を感じるようになった。前のように動きの一つ一つが美しくなくなってしまったわ。醜くなったわ。攻撃をするたびに、あなたの顔を迷いがよぎる。せっかく〈親友〉だったのに。今のあなたと私は相容れないわ」

 ねえ──。そう呼びかけて、彼女は僅かに右手を振り動かした。ハッと咄嗟に頭を横に反らしたが、空に舞った髪が鋭い風の刃に一筋真っ直ぐに切れてはらりと落ちていった。〈風操術〉。キリの使う〈術〉の一つ……。

「ねえ、ヨル。どうして自分のことを邪魔する人たちを殺してはいけないの?」

「どうして……」

「誰もが自分のことを主人公とした物語の中に生きているわ。そしてこの物語の主人公は、私にとって私しかいないのよ。他の人々はみんな引き立て役。ああ、ヨルには〈親友〉として名前がついているだけいい方だと思ってね?」

 駄目だ、と思った。この娘は女学院を卒業した時に最後に見て以来、何も変わってない。見た目だけじゃなくて、内面まで。全てが全て、自分のためにできていると思っている。彼女にとっては、〈親友〉と勝手に呼ぶヨルも、今仕えているであろう主の〈魔女〉も、さらにはアルビノの彼女を捉えようとする間抜けな人間たちも、みんながみんな脇役でしかない。彼女が主役の物語に、ストーリーを付け加えるための。

『これ以上、俺たちは誰も失いたくないし、だったら失わせたくもない。それが俺の考えだ……』

『約束はできない、とヨルは言います』

(アレキス様、それに〈王の剣〉の皆様。本当に、申し訳ありません。やはりその取り決めは守れそうにないです。……そして)

 それを申し訳なく思っている自分がいることに、ヨルは何より驚いています。

 施設を卒業した時に二つ、誓ったことがある。それを思い出せ。今しかないでしょう?

 この再会が偶然だったとしても、運命として定められていたことだったにしても。ここで会ったが百年目、このを殺すのはこの私だ。


 ロジェの放った白く光るカードと飛んできた球がぶつかり合い、激しく爆発した。その衝撃で地面に叩きつけられたが、痛みを堪えて立ち上がる。と、目の前にシュンッという音と共に一人の男が姿を現した。

 派手な青いタキシード。目の下の涙の印。この世の全てを嘲笑っているかのように皮肉に細められた目。口の片端がくいっと持ち上がる。

「これはこれは、あの弱くて無様で愚図なジョーカーじゃないデスカ。まだ生きていたとは驚きデス。一体いつまでだらしなく生き続けるつもりでショウカ」

「生憎、死のうとするのはもうやめたんですよ。そして今、アナタを倒す……のではなく押さえ込むためにここにいます」

「アンタなんかに捕まえられては一生の恥デス。押さえられるぐらいならさっさと死にますヨッ」

 目にも止まらぬ速さで道化師は懐から拳銃を取り出した。その銃口が火を吹く一瞬前に、ロジェはその腕を掴んでその方向を変えた。ダンッ……と背後の薔薇の木に一発打ち込まれる音がして、首筋に鳥肌が走った。ばきばきばき、という音とともにゆっくりと木が折れて地面に倒れたようだ。その隙をついて、アルルカンが銃を持っていない方の手で拳を腹に叩き込んできた。

「……っは」

「なに、前よりも動きは良くなってますよ。宿り魔に頼り切りにならなくなったからデスカネ。あれ以来、宿してないでショウ?」

 ロジェは何も答えずに体勢を立て直し、アルルカンの方へと走った。そのまま紳士杖を振り上げて突っ込んでいく。道化を目掛けて振り下ろしたが、気が付いたら目の前に誰もいなかった。

「……?」

「残念なことに、〈瞬間移動術〉が使えちゃうんデスヨネ。あーあ、やっぱりまだ、アンタには殺す価値が無さそうだ」

 背後からの声に振り向くと、にやにやと笑ったアルルカンが立っていた。彼が腕を振り下ろし、その速度だけで、ぱりん、と何かが砕けた。白い破片が宙を舞う。

 仮面が、真ん中から真っ二つに割れて落ちた。目の周りの傷──二十年前にロジェが犯した罪の刻印が露わになる。

 頬に風圧を感じて咄嗟に仰け反って倒れた頭上を、球が掠めていく。額の皮が裂けたらしく、血が流れ出す。

(……これでは)

 視界の半分を赤く染めていく血を、拭い去った。立ち上がりながら、長く息を吐き出した。既に体の至る所が痛みを訴えているが、どうにか無視する。

(何も変わっていないじゃないか、あの時と)

 あの時──レオナルドに指令を出されて、ルーカスと共に薔薇の森に入り込んだ時、アルルカンと会って一戦を交えた。確かその後で、オーギスの日記帳を偶然拾うというのがレオナルドの本来の目的だったらしいけれど。

 とにかく、あの時、命からがらにほぼ逃げたような状態になったのだった。圧倒的な敗北。それも自分の意気地のなさとどうしようもない悪質さを顔前に見せつけられた上で。

 当時、ロジェは素晴らしい宿り魔を持っていた。日の光を受けて煌めく白雪のような翼、丸くて大きな鳶色の瞳のグリフォン。弱みのない宿り魔に、ロジェは完全に頼り切っていたのだと思う。強い宿り魔をつけていることに、安心しきっていたのだと思う。

 アルルカンの〈術〉に依存しない体術に、大敗した。

 あの瞬間のことを、鮮明に覚えている。どうしたって勝てないとわかった後で、逃げる方法をルーカスと考えていた矢先のことだった。

『ロジェ! 宿り魔が!!』

『──!!』

 ルーカスの声に振り向くのと、光り輝くグリフォンに向かって道化師が爆球を投げるのが同時だった。やられる──と思った。グリフォンが殺される。そうすれば、宿しているロジェもまた同じ傷を負って、死ぬ。

 無意識のことだったのだと思う。というより、無意識のことだったのだと思いたい自分がいる。あれを意識してやったことだったなんて思いたくない。

 グリフォンの目の前で球が爆発するその直前に、ロジェは宿り魔との契約を解除した。契約を解かれた宿り魔がどうなるかなんて知らない。でも間髪をおかずに巻き起こった球の爆風と衝撃で、グリフォンは焼け死んだに違いなかった。

 ダァァァン──と凄まじい音が辺りに木霊して、消えた。道化師はそこまでをすべて見届けて、嗤った。

『よくもまア、宿り魔を捨てて自分だけが生き残るなんてことができますヨネ。なんて情けなイ。……殺す価値もないッ』

 道化は消えた。「ロジェ!」とルーカスが駆け寄ってきた。

 一連の出来事を見ていながら、ルーカスは〈王の剣〉やレオナルドに、ロジェと宿り魔のことを何も言わずにいてくれた。だから、彼以外このことは知らない。グリフォンのことは、何らかのことを考えてただ解除したのだろうと思われている。

 でも。

 咄嗟にでも何でも自分の身を守るために宿し、共に戦いに挑んだ宿り魔を自分の手で消してしまった。それは変えようのない事実で……。

 だから、ロジェは二度と宿り魔を使うことをしない。


「どうして……、私のことを、いつまで邪魔するつもりなの。許さない。許さないわ……!!」

 真っ黒なローブを羽織った、まだ大人になり切っていない風貌の少女。その瞳が怒りに、ただひたすらに紅く燃えていた。小柄な彼女を守るかのように翼を広げた漆黒のドラゴンが動くたびに、その鱗がしなやかに煌めく。ばさっ、ばさっと翼を動かすそれだけの動作から風が巻き起こり、スザクは吹き飛ばされまいと体勢を低くした。

(このままでは、ディオンを〈魔女〉に近づけるどころか、自分が飛ばされないように必死ではないか……)

 美しかったであろう石の柱が無惨に倒れ、タイル敷の地面にはヒビが入ってその下の芝が見えている。至る所を蔦が這い、苔が蒸していた。二十年前、〈魔女〉であるタヴィアが〈悲劇〉を起こしたその場所。ロレンタの人々の中では忘れ去られようとしていたあの過去を、引きずり出したのはレオナルドとスザクたち自身だ。

(責任が、あるだろう? 俺には)

 最後まで戦う義務が、ある。俺たちには。

(出でよ、狼……!)

 心の中で呟くと、白銀の毛並みを光らせながら巨大な白狼が姿を現した。狼が足をついた途端に、その付近の地面に薄く煌めく霜が張る。だがそれも熱気ですぐに溶けてしまった。……ドラゴンが火を噴いたのだ。僅かに掠めた炎がちりちりと髪の毛先を焼く。フェンリルの力で払った。

 他の〈王の剣〉たちもまた同じように、間合いを図るように半円を作って並びながら、攻撃に手を出せずにいるようだった。

 と。その時、視界の隅を凄まじい速さで黒いものが駆け抜けて行った。鋭利な光。短刀だ。イダのものだろうか?

 それを認めた瞬間、スザクはハッとした。まずい。確認していなかった。

 宿り魔とその宿り主は、一心同体。宿り魔の負った傷は宿り主も負うし、片方が死ねばもう片方もまた然り。

 ドラゴンを刺し殺せば〈魔女〉をも殺してしまうことになる──。

 カキン、と鋭い音がして、ドラゴンに当たった短刀が地面に落ちた。やはり投げたのはイダだったらしく、彼女はもう一本の短刀を構えていた。それを「待て」とどうにか抑える。ドラゴンの鱗には傷がつき、流血していた。もともとがあまりに大きいだけあって、ドラゴンはなんてことも無いように動いているが、それでも傷は傷だ。人間側は、とその翼に庇われるように立っている〈魔女〉の方を見る。

(なん、と……?)

 スザクは眼鏡を押し上げた。〈魔女〉は、ドラゴンと同じように激しい感情で瞳を激らせながらも、無傷のままに立っていた。

(そんな、嘘だろう?)

 まさか、あの黒いドラゴンが〈魔女〉の宿り魔ではないなんて。

 それに気づいて唖然とした時、黒い翼が放つ旋風に、スザクは背中から地面に叩きつけられた。


 無言になった空中戦。お互いがお互いを殺そうと、鋭い風の刃と扇子の鋼が煌めき交わす。パッとヨルの頬から血が飛ぶのが見えた。その返り血に、キリの持つ白い布が汚れた色に染まる。

(っ……、なんなのよ、ヨル)

 どうして。キリには実のところよくわかっていなかった。どうして、自分はヨルを殺そうとしているのか。どうしてヨルは自分を殺そうとしているのか。……親友だと、いうのに。

 女学院時代、初めて実習の時にヨルと組んで、「ああ、なんて自分と似た子なのだろう」と思った。

 人を殺すことを、厭わない。まるで道具みたいに、血飛沫を上げさせることが仕事の、武器みたいに。濁りのない瞳も、殺し方の美しさも、キリ自身のものと種類の違いはあれど、同族だ──と思った。それ以来、キリはいつだってヨルと組んで殺人実習を行った。息の合った動き、支え合い。お互いの考えもまた、手に取るようだとキリは思っていた。

『ねえ、ヨル。あなたは私の親友ね?』

 あなたと私は影と光。共に寄り添わなければ存在できない。共に力に歯止めをかけ合わなければ存在できない。でも、どうして?

 力に歯止めをかける必要なんてないわ、これは無責任で愚かな社会に対する報復。やりたいだけやればいい。ればいい。なのに。

 どうして、どうして、どうして。

「それは──」

 記憶の中でない、現実のヨルが口を開いた。キリは思わず表情を止める。目の前には、ただ飲み込まれそうなほどに黒々とした瞳が、冬の湖面のように凪いでいた。

「私たちが、本当は存在してはいけない人間だから。キリにも本当はわかっているんでしょう……」

 スパンッと目の前に一線が走り、いつの間にか強く握りしめていた布が真っ直ぐにたれた。


「嘘よ! 違う、存在しちゃいけないなんて」

 だって、私が主人公なのに。逆上したキリは目を吊り上げて、甲高い声で叫んだ。ヨルは攻撃の手を止めないまま変わらない瞳の色で彼女を見つめていた。自分の口調が変わったことに今更ながら気づいた。ヨルが形ばかりの常体で話すのは、そうだ。キリだけだった。

「あなたは私とまた人を殺すの。それが一番、私たちに似合うんだから。私とあなたは〈親友〉で、いつも一緒なんだからッ!」

「それは駄目だよ。キリ、あなたは私と一緒に消えるの。沈もう、終りへと」

 こうしてキリと向かい合い、敵として戦うのは二度目だと、どこか客観的に場を見下ろす自分が言う。

『最後の集大成として、あなたたちには殺し合いをしてもらいます。目的のために弱い者は切り捨てていく、その強さと狡猾さを身につけるために』

 アルヴィターノ殺人教育学校。最後に殺す相手は、これまで共に訓練に励み、協力してきた同期の仲間たち。真に強い武器としての少女を作り上げるための最終工程。これを乗り越えない限り、卒業できない。それは留年なんて生優しいものじゃなく、「乗り越えられない」というのがそのまま死を意味するから。

 施設内での戦闘。ヨルとキリは、いつも通りに二人で他の少女たちを容赦なく切っていった。キリは楽しそうに。ヨルは〈ヨル〉を閉じ込めて。……そして、最終的に無数に転がった少女たちの亡骸と血の海の中で向き合った。キリの目が変わらず爛々と光っていたことを覚えている。

『さよなら、親友』

 だが、ヨルにも死ぬ気はなかったから。本気でぶつかり合った。血沫、血沫、血沫。キリの動きが、自分の鏡に映った姿のように見えていた。切って切って、切られて切られて……。勝負が決することはなかった。

『二人とも素晴らしいです。ここまでの才能と能力があるのだから、相打ちになって二人とも死ぬようなことになっては大損です。両方合格にしましょう』

 そのままそこで意識を失い、数日間の間こんこんと眠った。目覚めた時には、キリはもういなかった。施設を出る時に、ヨルは二つのことを自分の中で誓った。

 この戦う能力は、人を殺すためじゃない、誰かを守るために使うこと。そして、人を殺すのは自分もまた死ぬ時なのだと。

 施設の外の世界を本当の意味で初めて見て、そして驚いた。自分はなんて暗くて狭いところにいたのだろう。あんな血生臭いところにはもう行きたくない。

 だけど。

 一度でも血に手を染めた自分は、やはりもう一点の穢れもない状態には戻れない、他の人たちと同じように立ってはいられないのだとも、わかっている。

 その時、ドン、という強い衝撃を肩に感じて、ヨルは目を見開いた。自分の肩に柄のない小刀が突き刺さっていた。それを確認してから遅れて痛みを感じ出す。冷や汗が吹き出した。

「よ、ヨルに、私が殺せるわけないじゃない! だって今だってあんたは、私のことを殺せずにいる! 手を下せずにいるのに、共に消えようだなんてそんな……!」

 そう、キリが目を血走らせて叫んでいた。

「守りたいものなんて作るから、人は弱くなるの!!」

 ヨルは傷の具合を確認しつつ、宿り魔の力を使って空中に浮かんだ。小刀を抜けば血が噴き出すのは目に見えているので、放っておく。

「ヨルは……」

 扇子を構える。やはりキリは強いな。だけど、戦いを放棄するなんてできない。したくない。

 それは、なぜ。

「施設を出てから、沢山の感情に触れました。沢山の人に、沢山の愛おしい思い出をもらいました。それらを守りたいと思うのは、いけないこと?」

「……ッ!! あなたは私と一緒にいなくてはならないの! 私と以外の時を大切にしないでよ! あなたには、私と一緒に戦う〈親友〉の役目をあげたんだからっ……!!」

(ああ……)

 どうして、伝わらないのだろう。〈ヨル〉、あなたはもうガラスの容器から解き放たれたと言うのに、あなたの声は彼女に届かない。それがなんだか、自分でも不思議なぐらいに悲しくて、寂しくて。それでも。

 出でよ、不死鳥フェニックス──。

 力の限り、叫べ。共に在り、縛り合う、それだけのための〈親友〉の称号なんて、


「「そんなもの、要らない──!!」」


 ロジェは紳士杖から魔弾を打ち続けながら、目の前の男に向かって声を張り上げた。

「要らない。アナタが殺す価値なんて、初めから求めてなんていない! ワタシはもう、最後の最後の、その時まで生き続けると決めたから!! アナタなんかに殺されてなるものか。醜くても、見苦しくても、足掻き続けるんだ……!」

 絶望を知っている。運命という名の環境に翻弄される、どうしようもなさを知っている。それでも、この手は明るい方へと手を伸ばす。

 っ……と声を立てずに、しかし確かにアルルカンの目の温度が急激に下がったのを感じた。

「へえ、そうデスカ。そうやってアンタはまた幼稚な正義感で死ぬことすら放棄するんデスネ」

 それならもう、消してあげマス。殺す価値がなくても、仕方ない。お嬢さんがそれを望んでいますからネェ。

 ドドドドド……と、アルルカンが手から爆球を放った。あっという間に爆発の只中に閉じ込められる。マントが破れる。皮膚が裂ける。既に身体はぼろぼろだ。でも。

 胸が熱いのだと、レオナルドの言ったその意味が今はよくわかる。

 腕を勢いよく払うように広げた。土煙がロジェを中心として外へと靡く。もくもくと渦を巻くその中に飛びかかってくる人影を見て、すんでのところで紳士杖を構えた。アルルカンの握る棍棒のような薔薇の枝と杖がかち合い、乾いた音を立てる。火花を散らす。力のせめぎ合い。ロジェは歯を食いしばった。ああ、なのに。こんな時なのに、脳裏をよぎるのは様々な言葉だった。

『ロジェ、気づいているか?』

 これを言ったのは、レオナルドだったか。仮面舞踏会のことを報告した後、二人きりで話した時。アルフラード夫妻からの手紙を受け取った後に。

『お前とディオンは、すごく似ているんだ。否定するか? 確かに少年に相応の素直さなんて、ロジェにはないかもしれないが。……だけど、本当に似ているんだよ』

 怖いのは自分自身で、いつだって、自分の中に悪を見つけようとするところ。周りの人たちのことを、自分が思っている以上に大切に見つめるところ。

 ディオンと会ったばかりの頃、ずっと自分と正反対だと思っていた少年。でも。

 レオナルドに言われた時、ロジェは微笑んだ。小部屋の中が、不思議なほどの窓の外の光に満ちていた。

『わかってますよ。レオナルドに言われなくても、わかってます』

 そうか、とレオナルドは静かに笑っていたっけ……。

「っああああああァァああっ!!」

 ガツンッ……!という硬い手応えと共に握りしめた杖に力を込めた。アルルカンの棍棒がばきんと折れて吹き飛んだ。ひゅっと息を吸い込む。

「……っ!?」

 アルルカンが驚いたように目を見開いて、自分の手を見つめたのが一瞬。ロジェは動くことも出来ずに、肩で息をしていた。握っていた紳士杖が滑り落ちる。ほぼ手に感覚がない。

 刹那の沈黙の後、アルルカンが「ははは」と嗤った。その色を無くした瞳の奥に、炎が閃く。

「ははッハハハハハ……ッ」

 ピエロの衣装のような、先の尖った靴で容赦なく蹴り上げられる。なすすべもなく宙を舞い、そして叩きつけられた。

「っが……ごほっ」

 咳き込んだところを踏みつけられ、顎を踵で押し上げられた。顔を覗き込まれる。アルルカンの顔からは、あのいつもの皮肉な笑みが消えていた。

「よくもまア。ここまでやりましたヨ。褒めてあげマス。でも、もう終わりだ」

 のし掛かられて、抵抗しようと前に突き出した右腕を手刀で突かれた。ごき、と耳障りな音を立てて呆気なく右腕があり得ない方向に曲がる。

「っ……っ」

「アンタたちの声、五月蝿うるさいんだよっ」

 殴られて、殴られて、殴られた。思考が白く霞む。ぼやける。もう終わりか? 痛ぶられて、死ぬのか? ああ、やっと終わるのか。……いや、違う。まだ終わってはいけないだろう?

 諦めるの、諦められるの?

 あああっ、何をしている、ワタシは──。

 かっと目を見開くと、馬乗りになったアルルカンが隠し持っていたらしい刃物を振り上げたところだった。折れた右腕を、刃の前に振り上げた。刃物が腕に垂直に食い込むのと、身体を起こした反動で拳を形作った左腕を持ち上げるのが同時だった。スパンッと切れた右腕が転がっていく。痛みなんて感じていられない。アルルカンの頬を、左拳で全体重をかけて殴りつけた。最後の、力だ。

 もつれるように二人で地面に倒れ込んだその時。揉みくちゃに絡み合っていたアルルカンの身体が、突如動きを止めた。

──此処に、その命を謳う。王の命を懸けて……。

 聞き覚えのある声に、ロジェははっとアルルカンの方を見た。彼はあり得ないというように、呆然と自分の身体に視線を落としていた。

「あっああ……ァァァ」

 アルルカンの胸で、明るくて強くて暖かい光が確かに灯っていた。その意味を悟って、目から熱いものが零れ落ちる。

「レオナルド……」

 激しく、強く、美しく燃え立つ、アルルカンは己から発せられるその光に飲み込まれて、やがてその光ごと消えた。消滅した。星の爆発のような、灯を目の裏に焼き付けて。

 〈血肉ノ技〉、ファランドール。あのレオナルドの使う最期の技が、呆気ないわけなんてなかったのだ。最後の最後で、彼はロジェを救った。〈王の剣〉に道標みちしるべの光を灯した。

 残った左腕で顔を覆う。肘の辺りで斬られた右腕が、思い出したように痛み出す。……この痛みを抱えて、生きよう。久しく流していなかった涙を無茶苦茶に拭って、立ち上がる。


「おいおい、大丈夫かよ」

 ドラゴンの凄まじい風と熱気に顔を顰めながら、アレキスはスザクに手を差し伸べた。だが彼は、珍しく慌てたような顔をして、叫んだ。

「そんなことより、さっき言ったことは間違いだ! あのドラゴンは宿り魔なんかではない、〈魔女〉の術によって具現化されたものだ!」

「ええっと、だとするとつまり」

「あのドラゴンの動きを抑えるなどという甘いことは言っていられない。そもそも実際に存在しているわけではないからな。だから──倒す」

「ああわかった」

「ああわかったって……」

「だってお前が計算して考えたことだろ? 俺たちが疑うことは何もない。……ほら、喋ってる余裕はないから」

 差し伸べた手と、伸ばされた手が重なる。〈二人〉だったのが〈一つ〉になって、そして前を向く。

「怪我はないな?」

「大丈夫だ。イダとルーカスががんがん闘っているようだから、俺たちは守りにつくかな……」

「イダとルーカスだけじゃないぞ」

 アレキスはにやっと笑った。

「ディオンも頑張ってる」


「ドラゴンは力を抑えようとするな! 倒す方向で行け! それは宿り魔ではない。〈具現術〉で作り出された化け物だ!」

 僅かにアレキスの声が届く。巻き上げる土煙と激しい風に、ディオンは腕で顔を庇った。右手に握った短剣が重い。

(〈具現術〉っていうことは、このドラゴンを倒してもタヴィアさんには何も影響しないってこと……?)

 頭の中で立ててきた〈作戦〉。だがまだ駄目だ。今やったってなんの意味もない。タヴィアさんに伝えるためには。

 ドラゴンがめちゃくちゃに羽ばたいた翼が掠める。服が破けた。飛んできた破片で剥き出しの足が傷つく。辺りを見ても、土埃で誰も見えない。……この世界に僕は一人?

(違う)

 見えなくたってみんながいる。一緒に戦ってる。怖くないなんて言わないけれど、それでも。

「タヴィアさんっ!!」

 会わなければいけない人の名を叫びながら、走り出す。


「っは……」

 短剣の、最後の一本を黒いドラゴンの足に突き立てて、イダは息を吐き出した。剣を刺した鱗と鱗の間からどくどくとどす黒い血が溢れるように流れ出している。顔を背けた。

 ドラゴンの吹いた炎で、服の裾が焦げてぼろぼろだ。相手にはほんの僅かなダメージしか与えられていないというのに、既にイダは切り傷だらけである。視界は土煙で霞み、二メートル先も見渡せない。そんな中なのに、不思議と〈魔女〉の声は聞こえる。

「許せない……許せないわ。私はもう、誰も味方を失うわけにいかないのに!!」

(ああ、まだ……)

 〈魔女〉は懲りていないの。まだ戦いを続けようとするの。あんただって苦しくないの? あたしは……。

 今こうして短剣を刺して、すごく、苦しいよ。

 切って傷ついたところが、痛い。旋風の中で立っているだけで、もう疲れた。だけど、本当はわかっている。一番今嫌なのは、相手を傷つけながら自分の心もまた傷ついているのをどうしようもできないところだ。

 と、轟々という音の中、惚けたように突っ立っていたその時。

 きらり、と白くて鋭いものが視界の隅に光った。急に周りの音が消えて、全てが酷くスローモーションに見えた。光ったのは。

(ドラゴンの、爪)

 真っ直ぐに振り下ろされる。避けなきゃ、と思うのに身体は金縛りにかけられたように動かない。

(あたし、死ぬの?)

「イダっ!!」

 鋭い風がぐるんと周りを回転した。ザンッという金属と金属がぶつかり合うような音ともに、周りの空が唸る音が戻ってきた。いつまでも来ない衝撃に知らぬ間に閉じていたらしい目を恐る恐る開いて、イダは悲鳴を上げた。

「あ、あんた何やって……」

 ルーカスが、イダを守るように折れた長剣の柄を眼前に構えた姿勢で、立ちはだかっていた。その右肩を、押さえ切れなかったらしい長い爪が貫通していた。血が染み出すのに、恐怖が喉を刺して何も言えない。

 彼は、なのに歯を食いしばりながら吐息と共に笑った。瞳が底光する。

「へーきだって」

 その体から、突き刺さっていた爪が抜ける。ルーカスは一瞬痛みに顔を歪めて、「行って」と言った。

「……お願いなんだけど、アレキスとスザクを見つけて、ドラゴンの目を潰すように言ってくれない?」

「あ、あ」

「俺は大丈夫」

 そう言うと、そのまま背を向けてまたドラゴンに向かっていってしまう。イダは泣き出したい思いを抑えつけて反対側へと走り出した。

「……ばかっ、あああぁぁ……」

 嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。戦いなんて、もう本当に嫌。血を見るのは嫌。怖いのは、痛いのは嫌い。

 大荒れの土煙の外、セレスティーヌとアナスタシアのところにアレキスを見つけて、ルーカスの言ったことを伝えると、彼は「よし、わかった」と言ってすぐさま轟々と風が吹き荒ぶ中へと飛び込んで行った。

「イダは二人を守ってくれ!」

 自分がドラゴンの炎の届かないところに来たとようやく理解して、イダはその場にへたり込んだ。いけない、と思うのに足に力が入らない。息を吸って吸って吸って吸い込んで……。

「大丈夫ですか」

 セレスティーヌに顔を覗き込まれて、我に返った。アナスタシアも心配そうにこちらを見ている。

「……っ」

 アレキスは、言っていた。あの、最後の晩餐で乾杯した時に。

『もう俺たちに恐れるものは、失うものは何もない』

(そんなわけ、ないじゃない……)

 こんなに怖いのは、震えが止まらないのは、失うものがあるからだ。ありすぎるからだ。

 〈王の剣〉の中で、本当の「孤児院育ち」と言えない自分は、割と幸せな人生を送ってきたとわかっている。自分は我儘で、絶望に対する耐性も持ち合わせていない。だけど。

 いるのなら、今どこかで見ているのなら、神様。

 あと一つだけ、お願いをさせて下さい。私から何も奪わないでください。もう失いたくないんだ、何も。

 ここまで考えて、はっとした。

(失いたくないっていう思いは)

 あの今まで憎しみ、ひたすら忌み嫌ってきた〈魔女〉が持っているものと変わらないではないか。「私はもう、誰も味方を失うわけにいかないのに」と、そう彼女は言っていた。

(じゃあ、あたしと〈魔女〉を分け隔てているものは、何)

 もしかしたら、今ああやって孤独を恐れて、めちゃくちゃな暴力だけを振るってより一層惨めになっていたのは、自分かもしれないのだ。ああ、あたしが彼女のことを憎悪する権利なんて、ない。

 愕然と、呆然としたイダに、セレスティーヌが細い手を差し伸べた。僅かにその口元が勇気づけるように微笑む。

「願うことと祈ることは違うと、思いませんか?」

「……? あたしは」

「祈るのはきっと、本当にやれることをやり尽くしてどうしようもなくなった時。願うのはそうではなくて、戦いを放棄することなく、進むことだと思います」

 だから、私たちは願い続けます。

 アナスタシアがにこっと笑って母の手に乗せられたイダの手をぎゅっと握った。


❇︎❇︎❇︎❇︎❇︎


 真っ黒なスカルゴンが王宮の聖門の前に現れたと聞いた時、エドワードは何をするでもなく中庭に佇んでいた。

 三月十三日はもう春だと言えるのだろう。計算され尽くした角度で水を噴き上げる噴水よりも、まばらに咲きかけた花々の方が可憐で美しかった。その上を蝶々がひらひらときらきらと躍るように舞っている和やかな、日。黄金の光に満ち溢れた庭園。

 すうっと息を深く吸い込んだその時。のんびりと王宮敷地内を循環しているはずの衛兵が駆け込んできたのだった。

「え、エドワード様! 今すぐ城内にお入りください」

「どうしたんですか」

 あくまで丁寧口調で慌てた様子のないエドワードに、衛兵は痺れを切らしたように叫んだ。

「聖門の前に、怪物が現れたのです!」

(怪物……? 〈王の剣〉の皆さんと関係があるのか。それなら)

「……っすぐに外にいる人たちに避難するよう伝えてもらえますか」

「はあ、エドワード様は?」

「私もすぐにそうしますから」

「エドワード様!?」

 そう言うが早いか聖門の方向へ駆けていくエドワードに、衛兵は唖然として口をつぐんだ。今までに見たことがあった、落ち着いていて蚊も殺せなさそうな次期国王候補の姿とは違って見えたから。


「スカルゴン……」

 その大きさと悍ましさに圧倒される。ばさっばさっと羽ばたく翼。黒々と光る骨と、怪しげな赤に光る瞳。その姿はまさしく、生きて動くドラゴンの化石だ。

(〈魔女の悲劇〉と無関係なわけはないよな……)

 おそらくこのスカルゴンは宿り魔ではない。宿り魔ならば、確実にその近くに宿り主がいるはずだが、今この場にいるのはエドワードのみだ。兵たちは誰もまだ駆けつけてきていない。……だとすると、何かの〈術〉なのだろう。そういえば〈具現術〉というのを聞いたことがある気がする。

 なんでもいい。どちらにせよ。

(王宮だけは、私が守らなければ)

 そう、誓ったから。誰かしらが駆けつけてくるまで、この私がこれより先には行かせない。それが今の自分にできることだ。弱くて優柔不断で不甲斐ない自分だけれど。だけれど……。

「出でよ、流馬ホース!」

 流れ出す水のような、浅葱色に煌めく若馬がその立髪を靡かせて現れた。


❇︎❇︎❇︎❇︎❇︎


 ヨルの宿り魔は、不死鳥。代償は肉体の成長。

 宿したのは、アルヴィターノ女学院を出て二つの誓いを立てた時だった。決意を絶対的なものにするために、使い勝手がいいとは言えない不死鳥を成長期の少女としては精神的に小さくはない代償を払って宿した。

 そう、使い勝手はあまり良くない。

 平常能力は、脚力にプラスで少しだけ滞空時間が伸ばせるというそれだけ。見た目は変わらなくても、当たり前のように歳と共に筋力は落ちる。

 でも。一つだけ、誇れる技がある。

『ねえ、ヨル。あなたは私の〈親友〉ね?』

 ヨルは前を向く。キリ、あなたに言うことはもう何もない。小刀の刺さった肩の痛みなんて、もう感じていない。耳元で唸る風の音も聞こえない。

 目に映るのは、とことん自分を主人公として行為を正当化し、その挙句に狂ってしまった白い少女だけ。あなたと私の二人だけ。そして──、二人で消えていくんだ。

 人を殺して、生きていてはいられない。どんな理由があったってそれは悪でしかない。ほら、現にあの女学院はヨルが卒業して二年後、王国の偵察により実態が露見して、呆気なくも廃校した。

(さよなら、キリ)

 血に濡れた白いレースワンピースが、黒い長く垂れた袖が重なる。それを最後に……最期に見て、目を閉じる。

「〈血肉ノ技〉、──咲カセ死ニ花」

 私が最後に殺すのは、キリと自分自身だ。


 儀式会場の方向を探りつつ歩き出したところで、ロジェは別の方角から凄まじい地面が鳴る音を聞いた気がした。その直後、大きな木々の向こう側で、大きな爆発と共に黄金の火花がいくつも跳ね上がって消える。それはまるで──大輪の金の花が一斉に咲き誇ったかのように。

 真っ暗な森の中でただ一瞬の光を放ったそれの中に、見覚えのある小さな身体が宙を舞うのを見て、唇を噛み締めた。どうしようもないと心のどこかでわかっているのに、走り出す。ああ、走ることしかできない、自分は。

(ヨル、さん……!)

 我武者羅で、滅茶苦茶で、苦しくて──。

 薔薇の木の下。禍々しくて美しい大輪の薔薇の花の下。倒れている黒い姿を見つけて、ああっとロジェは顔を覆った。左腕と、肘から下がなくなった右腕で抱き起こす。黒い長く垂れた袖と、黒い焼け焦げたマントが、重なる。

「ヨルさん……ヨル」

 服はぼろぼろで、腕や顔も傷だらけだ。土埃に汚れている。ふと、その小さな手がまだ折れ曲がった刃付きの扇子を硬く握りしめているのに気づいて、ぎゅっと胸を締め付けられる。

「もう、戦う必要なんて、ないんですよ……。……あなたは、敵を倒したんです」

 視界の中、もとは白かったであろうワンピースの少女が既に息絶えた状態で倒れていることには気づいていた。

 ぐちゃぐちゃになった感情を顔に滲ませた、その時。

 抱き抱えたヨルの瞼が微かに震え、最期の力だというようにゆっくりと持ち上がった。薄く開いた深くて黒い瞳の中に、星が散っていた。

「わたし、たちの……」

「…………」

「わたしたちの、関係は、一体何だったのでしょうか──。私、たちは何で、どんな言葉で、結ばれていたの……」

「私たちは」

 声が掠れた。自分の中に咄嗟に言葉を見つけて、叫んだ。

「仲間だ! ……仲間、ですよ──」

 仕事の〈同僚〉だって、ただの仕事仲間なんだって、いい続けてきた。だけど気付かぬ間に私たちは立派に〈仲間〉になっていたんだ。利用し、利用されるだけの関係なんて嘘。ただどことない気恥ずかしさで、みんな真っ直ぐに見つめ合うことを避けていただけ。

(〈王の剣〉の皆が、好きだ)

「そう、ですか。それなら……」

 ヨルの目が、眠りに落ちるように静かに閉じた。

「……よかった」

 語気に滲んだ微かな微笑み。指でそっと、ヨルの顔についた血を拭う。その身体をそっと薔薇の木の幹に持たせかけるように横たえた。

 これは、決別。

 素直になれず、大切なものから顔を背けてきた自分との。


 アレキスの腕に、一羽のカラスが降り立ったのはドラゴンの片目をルーカスと協力して突き刺したその時だった。

「……やっと、片目か」

「うん……」

 ルーカスの肩が激しく上下している。さっきから気づいていたが、かなり流血しているようだった。この状態では立っているのもかなり辛いだろうに、よくアレキスがドラゴンの目にナイフを突き立てるのを補助してくれたものである。

「お前、セレスティーヌたちのところに……」

「いい」

 言いかけたアレキスを制した声は、思っていたよりも力強かった。

「お願い。戦わせて」

 アレキスがぐっと口を引き結んだ時。

 一羽のカラスが懐に飛び込んできた。

「いてっ……」

 突然のことによろめきかけていたのをどうにか踏ん張り、カラスを腕に止まらせる。なんなんだ、このカラス。

(ん? カラス……?)

 そしてハッとする。ああ、鳥使いのあいつはいつだっていろんな鳥を使っていたけれど、その中でも気に入ってよく使っていたのはこのカラスだった。

「ヨルか!? どうした!? 近くにいるのか──」

 さまざまな思案が頭を駆け巡り、必死の思いで叫んだアレキスに、しかしいつかのようにヨル本人が姿を表すことはなかった。

 カラスは小さく光る黒い目から一雫だけ涙をこぼし、あっという間に色のない空へと飛び立っていった。軽い翼の音だけが聞こえた気がした。

「っ……。……そう、か」

 アレキスは空より高いどこかを仰いだ。


❇︎❇︎❇︎❇︎❇︎


 自分は何のためにここに生きているのだろう──。そう思ったことが何度もある。生まれて二年ほどいいところの孤児院で過ごし、王宮の人間に拾われ、王族となった。でも、それは何故。

 スカルゴンと対峙して追い詰められたエドワードは、嗚呼と心の中で呟く。諦めの微笑。その頬に、流馬を怪物にぶつけたことで出来た切り傷が走っている。

(私は、いつになったってどうしようもないな)

 当たり前のように戦った経験なんて欠片もなく、宿り魔をがつがつ攻撃させてもスカルゴンには傷ひとつつかない。むしろ、聖門に少しずつ近づいてきている。今にも王宮敷地内に入ってきてしまいそうなほどに。それを必死で抑えようとしているのだが……。

(これで次期国王候補なんて、笑わせるよな)

 国王となれば、国を守らなければいけないのに。そして国王にならない選択肢などないというのに。だってこのまま行けば一年後、エドワードは成人と共にきっと国王にされる。それを決めるのはエドワードではないから。

(義兄さん……)

 私は、義兄さんみたいに自由に生きていく強さを持っていないよ……。不安で、無力で、押し潰されてしまいそうで。

 息が詰まりそうなほどに切実に、そう呼びかけた時。振り下ろされた骨の翼に、エドワードは弾き飛ばされた。受け身を取る術すら持たず、無様に倒れる。その間に怪物は聖門を壊そうと、鋭い爪のついた前足を振り上げていた。

(それだけは……!)

 王宮は守ると、約束したのに。ああ、私はそう言ってしまったのに。

 一瞬のうちにさまざまに考えが浮かんでは消え……そしてはたと気づいた。一つだけ、この怪物を止めるだけの打撃を与えられる方法がある。流れるような立髪を揺らして立っている流馬を見つめた。それをやれば、自分は……。

(確実に死ぬ。でも、それはこの運命から逃れる手でもある)

 なんだ。気づいてしまえば一瞬のことだった。それは尊敬している義兄を追うことでもあった。エドワードは自分でも気づかないうちに晴れやかな笑みを浮かべる。

「〈血肉ノ、技〉──」

 そう呟こうとした、その時だった。


「お止めなさい」


 ぼん、と肩に手が置かれる。

「勝手に死のうとしないで下さい。あなたが背を追いかけるあの人は、本当にあなたがそうすることを望むでしょうか」

 聞き覚えのある落ち着き払った、老人の声。信じられない思いでエドワードは振り向いた。

「え、エオリアル大臣……」

「流石に王宮機関の嫌われ者ですからね、名前を覚えていただけているとは光栄ですよ」

 片眼鏡が白銀色に光る。レオナルドをいつも厳しく叱責し、あの奔放さを表立って嫌っていた大臣だった。義兄もまたそんな彼のことを厄介者扱いしていたっけ。

 視界の端。スカルゴンへと一つの大きな影が猛突進していく。見れば、深い紫を揺らめかせながら、バッファローがスカルゴンに体当たりを食らわせていた。エオリアル大臣の宿り魔なのだろう。そして。

「エドワード様! ご無事でしたか!?」

 沢山の兵たちが駆けてきて、怪物に立ち向かっていく。いかに魔物でも数には敵わないらしく、あっという間に形成が逆転する。

 茫然となっているエドワードに、エオリアルが呼びかける。

「あなたが今ここで死ぬ意味は何もないと分かりましたか」

「……」

「でもまあ、意味があるつもりだったんでしょうけれど。国王になりたくない、とかでもそれ以外に選び用がないとか、色々ごちゃごちゃと悩んでいたでしょう?」

 エドワードは目を上げた。「それは」

 エオリアル大臣はいつもの厳格な顔を僅かに緩めた。

「あなたは国王になることができる。……でもならないこともできる。どうしても国王になどなりたくないというのなら、王宮からこっそりでも何でも逃げてしまえばよかった。考えようともしなかっただけで、逃げる方法は無いわけではなかった。違いますか」

 エドワードは何も言えずに黙っていた。無いわけじゃない、考えなかっただけ。自分はいつでも運命から逃げることができた、なんて。

「逃げるのならどうぞ。私は止めませんよ。なりたくもないのに国王になった人間の末路を見るのはうんざりですからね。それにあなたは気づいているはずです。今のロレンタ王国には、もう失踪者をもろ手を上げて探す余裕などないことに」

 周辺国は既に戦争へと火花を散らす。技術の発展とは無縁のロレンタがそこに巻き込まれればひとたまりもない。ずっと守ってきた〈魔〉の力は王国の境を越えれば使えないのだから。

「あなたは、どうして」

 どうして今になってそんなことを言うのですか。助けてくださったのですか。そう尋ねかけたエドワードに、大臣は笑う。

「偉そうなこと言いながら、この歳になっても自分の心はわからないものですよ。……一つだけ言うなら、レオナルド前国王陛下は、国王として見れば最悪でしたが、一人の男としてはなかなか憧れるものでしたよ。そしてあなたは生きている者の義務として、意志し続けなければいけません」


❇︎❇︎❇︎❇︎❇︎


 背後から声を掛けられたのは、片目をアレキスたちに潰されたドラゴンが暴走するのを必死で避けつつセレスティーヌとアナスタシアをイダと共に安全地帯へ誘導して、自分は再び戦いへと入っていこうとしたその時だった。聞き覚えのある声に、スザクは振り返り……アッと声を上げた。

「ロジェっ!」

 仮面を外した姿を初めて見た。左目の周りに深い傷跡が走っているが、陰険に見えるわけでは無い。何より、深緑の不思議な目はいつもと同じ光を湛えていた。だがそんなことより……、

「お前、その腕……」

 右腕の肘から先が、無い。破ったマントか何かできつく縛ってあるようだが、それでも僅かに血が滴っていた。あの道化と戦った時にやられたのか。だがここに生きて辿り着いたということは、戦いには勝ったのか。

 スザクが色々考えている一方、ロジェは顔色一つ変えずに、 

「そんなこと言っている暇はないでしょう。アレキスさんとルーカスさんは? あとディオンも」

「あの中に」

 土煙と炎が渦巻く儀式会場の中央を指差す。アレキスもルーカスもディオンもまったく見えないけれど、ドラゴンの黒い頭と不気味に光る赤い目だけが動いている。あの三人、無事だろうか。

 と。ロジェが有無を言わさない手つきでいつも彼が持っている紳士杖をスザクに押し付けてきた。

「持って。銃みたいにして構える」

「あ、ああ」

 鋭い語調に、言われた通りに腕に構える。ロジェは「悪いけれど、体力的にあと一発が限界です」と言いながら、残っている左手をスザクの肩に添えた。

「ドラゴンの残りの目を撃ってください。ワタシはもう銃を構えられない。さあ、早く。ワタシが〈銃〉から魔弾を放ちます」

 スザクは押し黙って、杖の先をドラゴンの目に向けた。だが先が震えて、なかなか定まらない。

(そんな、馬鹿な。この俺が)

 動じている、この状況に? 弾はあと一弾。あと一弾で動いている的を仕留めなければいけない。アレキスとルーカス、それにディオンも、もう体力的に限界だ。これ以上のチャンスはない。……だが、できなければ。

 こちらは無傷では、ないだろう。あれだけ既にドラゴンが暴れている中、無闇な場所に弾を撃ったりすれば。

(一体、弾を命中させられる確率は、何パーセントだ)

 計算が、できない。っああ、動じるな。動揺するな。落ち着け……。

「スザクさん」

 ロジェの顔を見上げると、彼は不思議そうな顔で、そして驚いたことに微かに微笑んでいた。

「アナタが緊張しているの、初めて見ましたよ。フフッ……新鮮」

 いつも通りを装って安心させるようなその笑みが少し強張ったものであることに気づいた時、何かがすとんと落ちたような感じがした。

(ああ、俺だけではないのだった)

 らしくもないことを言ってもいいなら、そう。なんだか……。

(勇気を出せる気がする。……ありがとう)

 紳士杖を一度下ろして、再び構え直した。もう銃口となる杖の先は揺れたりしない。片目を瞑って真っ直ぐにドラゴンの赤く光る眼へと向けた。宿り魔の影響ではっきりとしない遠く。でも。見るんじゃない、感じろ──自分の全てで。

(距離は約43.5メートル。風は南西から。つまり……)

「いつでも」

「よし、行くぞ。 三、二、一──」

 パアァァン……と残響を散らせながら空気が鳴る。数秒のタイムラグ。そして、獣の長い長い悲鳴とも咆哮ともつかない声が響き渡った。


「……嫌だっ」

 タヴィアは両腕で目を庇いながら叫ぶ。怒り、焦り、名前すらつかない強い感情。さっきまでタヴィアを包み込むように広がっていたドラゴンの翼はひしゃげたように倒れてしまっていて、タヴィアはもう今無防備な状態だ。風が当たる。怖い。寒い。冷たい。自分が、自分のドラゴンが放った炎が熱い。

「嫌だ、嫌だ嫌だいやだいやだ」

 〈具現術〉で作り出したマレフィセント・ドラゴンの両目が潰された。もう戦わせられない。できる中で一番強いやつだったのに。そして、残っていた体力で王宮の方にと出現させたスカルゴンももう倒されて消えてしまったみたいだ。操ろうとしても感触が無い。

 駄目だ、ああぁ……。

 力が抜けていく。ドラゴンと繋がっていた見えない糸がちぎれるのを感じる。もう誰もいない。いない、いない、いない。

 タヴィアはよろよろとその場に蹲った。括っていた長い黒髪が風に解けて、無造作に靡く。タイル敷きの地面に散らばったたくさんの破片。黒いような赤いような染み。全部、私がやったなんて。

 助けて。お願い。誰か……。

 だんだんと土埃が地に落ちて、視界が開けてくる。それは、唐突に飛び込んできた。

「タヴィアさん!」

 一人の少年が息を切らしながら駆けてきた。左目だけが、赤い。蘇芳色。〈彼〉の瞳、そのものの色だ。

(どうして……)

 どうして、知らない少年なのに、〈彼〉を思い出させるの。


「タヴィアさん!」

 ディオンは前に見える黒いローブの少女のもとへとひたすらに走る。ドラゴンが消えたことで晴れた視界。

 耳を覆って蹲るようにしていた少女が顔を上げて、信じられない、というような顔で見つめ返してきた。ディオンは息を切らしながら、叫ぶ。今まで言おうと考えてきたことなんて、頭の中からもう砕け散って、それでもただ今伝えたくて。

「タヴィアさん、あなたは──」

 その時、不意にタヴィアが眼光をきつくして腕を振った。それだけで空が歪むように蠢き、立っていられずに地に倒れ伏す。肘を勢いよくタイルの床にぶつけ、歯を食いしばった。

「私が──。私が、味方が欲しいと思うことが、味方を失いたくないと思うことが、そんなにいけないことだっていうの!? わ、私は、この復讐に成功しなきゃ、ジーグ様にも見捨てられて……」

 切れ切れに泣き声のような声で、少女は叫んだ。真っ赤な瞳の奥で、もう炎は燃えていない。塗りつぶされたようにただただ赤い。

(どうして)

 どうしてこんなにも、彼女は独りぼっちに見えるの。

 孤立じゃない、孤高でもない。完全なる孤独。

(どうして)

 ああ、それは……。

 実際に彼女には何も見えていないからだ。彼女は誰をも感じていないからだ。復讐なんかじゃない。もうあなたの目的は復讐なんかじゃなくて、もっと違う、独りじゃなくなることじゃないの? 復讐が成功したって、あなたはより一層孤独を深めるだけだ。

 ディオンはゆっくりと立ち上がった。

「あなたは、気づいていないだけなんです。あなたを、大切に思っている人がいる。独りにならなくていいんだ!」

「嘘よ……! みんなが私を嫌いになる。私から離れていくの!」

「どうしてそう思うんですか」

 ディオンの問いかけに、タヴィアは怒鳴り散らした。俯いて、足元に向かって吐き捨てるように言う。

「だって見てよ! 誰ももういない。ねえ、私のことを本当に思ってくれる人間がいるというのなら、どうして〈彼〉は、私の幼馴染の、一番によくわかってくれていたはずの〈彼〉がいないの!?」

「〈彼〉?」

 ジーグのことじゃ、ない。手下のことでもないだろう。幼馴染。タヴィアの幼馴染と言えば……。

「〈彼〉は、私のことを嫌いになったの。裏切ったのよ!! 復讐をしようとする私のことを、見限ったのよ、オーギスは!! だからいなくなったの……!」

 一瞬、何を言われたのかがわからなかった。オーギスが、どうしていないか? そんなの。だって、彼は、タヴィアのことを庇って……。

(タヴィアさんは、そのことを知らなかったんだ)

 自分の中で、何かがぼろぼろと崩れていくのを感じた。残ったのは、哀しみ。あんなにも彼は、タヴィアのことを見ていた。思っていた、のに。

 思いがけないことに停止した思考。言葉がぽろりと零れ落ちた。

「タヴィアさん、オーギスは、あなたの幼馴染の彼は、死んでしまったんですよ……」


「え……」

 タヴィアは愕然として、目の前で苦しそうに言葉を発する少年を見つめた。あり得ない、あり得ない、あり得ない。だけど。

 私のことをいつだってわかろうとしてくれていた彼は、何も言わずにいなくなるような人じゃなかったと今更のように思う。勝手にいなくなるなんて、今までになかった。

「お、オーギス、が……死」

「……はい」

 少年は、話した。オーギスは〈自戒術〉を使って魔月目の禁忌──過去への移動を犯したタヴィアの身代わりとなったこと。そして彼の肉体は死に、今その人格だけが少年自身に宿っていること。

「彼の日記帳を介して彼の記憶と直接話した時、オーギスは最後に言っていました。そばにいるって言ったのにいられなくてごめんって、あなたに伝えて欲しいと」

 少年の顔が痛々しそうに歪んでいる。タヴィアは顔を両手で覆って俯いた。

 魔月目の民であることに苦しんでいたあの頃。ジーグと出逢ったあの頃。私には自分の絶望と運命の不条理に対する反感しか見えていなかった。ずっと近くで自分のことを見て、理解しようとして、そして間違った方向に行こうとするのを止めようとしてくれていた人に、気づけなかった。

(私の盲目が、オーギスを殺してしまったんだ……)

 ああ、そうだ。彼がいなくなった後で、自分についてきてくれていた人たちもまた、もうここにはいない。タヴィアのために死んだ。タヴィアのせいでこの世から消えてしまった。

『タヴィアさん』

 グラザードは優しい目をして、

『タヴィア様!』

 キリはタヴィアを姉のように慕い、

『お嬢さん、』

 アルルカンは皮肉の裏で励ますように笑った。

 周りを見渡せば、自分が残した爪痕が広がる儀式会場。ずっと怖くて、怯えていて、肯定して欲しくて、これを心から悪いことだなんて思ってこなかった。

(でも、私は一体何人を傷つけた?)

「私は、もう誰にも手を伸ばせない。手を取ってもらう資格なんて、ない」

「違う!」

 〈彼〉と同じ色の左目の少年は、呻くように叫ぶ。

「わかっているでしょう、あなたを愛したオーギスは、あなたがそんな風に言うことを望まない。あなたは……」

 あなたは。そう言って、少年はもどかしげな表情をし、そして目を閉じた。肩から下げた鞄の留め具を、その手がおもむろに外す。

「タヴィアさん、さっきも言った通り、僕のこの左目はオーギスのものだ。あなたに……。あなたを、彼に……会わせます」

 鞄から取り出したその手には、古そうな一本の短剣が握られていた。

(どういう……。ま、さか)

 タヴィアがハッとした時、少年は自分の右目、青い眼にぴたりと短剣の切っ先を向けていた。ぽろり、とその青い目から透明な涙が一粒こぼれ落ちる。それは剣の刃を静かに伝って落ちた。

「あなたがそんな風な思いをしたこと、魔月目の民の人たちはそんなにも苦しんでいたのに、見て見ぬ振りをしてきたこと。ロレンタ王国は差別という闇の上で輝いていたこと。自分だって酷いことをしてきた人間の一人だって、わかってます。だからオーギスに会わせてあげる。……いえ、会ってください。彼の言葉を聞いて、彼のことを見つめて。お願い、します」

 快晴の空のような瞳が潤んでいる。ああ、本当に彼の左目がオーギスだというのなら。青い右目を差し潰せば。

 なのに、考えているのと全然別の言葉が、口から漏れ出す。

「やめて。もう、やめて……!」

 もう、誰も傷つけちゃいけない。もう、誰にも自分のために死んでほしくない。そう、心が叫んでる。

 周りなんて気にしない、子供のように涙が止まらなくて、もう何もかもぐしゃぐしゃで。

 お願い。白く霞んで何も見えなくなった視界で、それでも目の前の少年に懇願する。あなたは、生きて。私みたいにならないで。……オーギスはあなたを選んだの。

 その時だった。

 風が、強く吹いた。鬱蒼と茂っていた薔薇の木々が驚くほど優しくさわさわと揺れた。

「ここは……悲劇の終わる、ここは何年の何月?」

 と。懐かしい声を聞いた気がした。涙を拭う。嘘だ、とそう思う。そんな訳……だって、さっきこの少年が、〈彼〉は死んだって言って……。

 だが、声の方を向けば、〈彼〉がいた。〈彼〉──オーギスは最後に見た時の姿のまま、今のタヴィアより数年幼い姿で、立っていた。

 目の前の少年が、信じられないと言う顔をして、短剣を下ろす。

「オーギス、君は」

「教えて。何年の何月?」

 オーギスは声をかけた少年の方をひたと見据えて、ただ問いかけた。

「一九一一年。三月、十三日」

「ありがとう」

 オーギスは知らない人に接するように、少し頭を下げる。それを見て少年が怪訝そうな顔になり何かを言おうとして、そして口をつぐんだ。ああ、そっか、と納得したように頷くと、僅かに俯いて微笑んだ。

「……君は、言いたいことを言いにきたんだね」

 小さく呟く。

 意味がわからずに混乱しているタヴィアの方を、今度こそオーギスが見つめる。タヴィア、と彼に名前を呼ばれる。蘇芳色の瞳。いつだって自分を見守っていてくれた目。

「タヴィア、今この少年が教えてくれた〈今日〉、一九一一年三月十三日がおまえの〈悲劇〉の終わりだ。そしておれが来た一八九一年十二月二十九日、まさにおまえが〈悲劇〉を起こしている。もう時間がないから、言いたいことだけを言うよ」

 彼は一輪の花が綻ぶように、ふっと笑みを浮かべた。

「タヴィア、不幸にならないで欲しい。生まれ持った境遇や過去を省みて、いくつもの絶望を見つけると思う。でも、おまえが進むのは未来だ。運命を呪ったって、運命は変わらないから。だから、前だけ向いて歩いて。もう振り向かないで。おれは、おまえが生きていてくれるだけで幸せだ」

 そして彼は、花びらが散るように光となって消えて行った。

 うわああぁぁぁ、と人目も憚らずタヴィアが泣き出すのと共に、ディオンは小さく喘ぎながら、自分の中で何かが言葉を発するのを感じていた。

 何か?

 違う。〈彼〉しかいないだろう?


(ディオン)

(……うん?)

(色々、ありがとう。おまえの身体、もうそろそろ返すよ。もうおれはやりたいことを全部やったから)

(うん……)

(自分勝手で、ごめん。それから本当にありがとう。またな)

(……待って、ねえオーギス)

(何?)

(……いや、やっぱり、)


 何でも、ないや。


 身体から何かが消えていく。優しい光が溶け出していく。オーギス、君はこんなにも暖かい光を持っていたんだ。そして、それと同時に頭の中に浮かび上がってくるものがあった。

 十六年分の、記憶。

 アルフラード夫妻の、前見た時よりずっと若い顔が見える。おとうさん、おかあさん、と幼い自分は舌足らずの声で呼ぶ。ディオン。アルフラード夫人が溢れるほどの笑顔になる。生まれて来てくれてありがとう。あなたのこと、大好きよ。うん、おかあさん。ぼくもおかあさんとおとうさんのこと大好きだよ。ああ、ディオン、ディオン、ディオン……。

 身体の中を一気に駆け降りる記憶の数々に、空を見上げた。青いな、と思う。心が熱かった。涙が滲むのに、なのに笑う。

「ディオン!」

 と。抱きついて来たのはアナスタシアだ。長い横髪が揺れる。

「がんばったね!! ……あっ」

 驚いたようにディオンの顔を見上げて目を見張る。

「ディオンの目、両方すごい綺麗な青色してる」

「本来の色に、戻ったんだね」

 顔を上げると、ロジェが微笑んでいた。

「ロジェ」

「右目を短剣で刺そうとしたの、本気だった? そんなわけないよなあって思いつつ、ディオンってそんな演技をするタイプじゃないからかなり驚いた」

「違いますよ」

 ディオンは真っ直ぐにロジェを見つめる。

「演技じゃなくて、本気でした。本気だったけど、でも短剣を刺す気はなかったかな……。タヴィアさんならあそこで止めてくれるって思ってたからこそ、本気になれたんです。……でも、どうして刺されるつもりはないってわかったんですか?」

「それはさ」

 ロジェは笑いながら、微かに首を傾けた。

「沢山のものに触れたキミはもう、自分のことも大切にできると思ったから」


(なるほどな)

 スザクは心の中で呟いた。ずるずると近くの石柱にもたれかかるようにして身体が崩れていく。終わったのか、戦いは。そう思うのと同時に思い出したように疲労が襲い、束の間目を閉じる。

 どうしてこの場に〈オーギス〉が現れたのかについては察していた。彼は過去から来て、そしてあたかもタイムカプセルのようにその声と姿をこの時空に残していたのだ。

 ディオンに宿った少年はまだ何かを隠している、というのはずっと前からわかっていた。〈記憶石〉の中の映像で彼が〈悲劇〉の中から数十秒だけいなくなっている部分があったからだ。だが。

(少年がその数十秒を、こんなことに使っていたとは)

 魔月目の能力で未来──全ての悲劇の終わりへと移動した。ただタヴィアに言いたいことを言う、それだけのために。

「……スザク」

 と。その声に目を上げると、アレキスに顔を覗き込まれていた。その後ろにはセレスティーヌもいる。

「怪我はないか? 無いわけないよな、だって顔に切り傷が走ってる。目の下だ。ちょっと見せてみろ」

 やや強引に眼鏡を剥ぎ取られると、もうほぼ何も見えない。全体的に色が薄くて霞んだ視界は、目の限界を訴えていた。

(宿り魔との契約も、そろそろ解除するかな……。戦いも終わったところだから)

 これ以上代償として視力を消費し続ければ、やがては失明してしまう。

「っと……、よし、眼鏡つけていいぞ。他に怪我は?」

 聞かれて、首を振りながら意志の力で立ち上がった。

「いや、俺は全体的に軽症なのだからいい。他のやつらは? ロジェの腕はもう今はどうしようもないとして……。ああ、ルーカスは!?」

 そうだ、あいつはかなりの怪我をしていなかったか。とくとくと血を流しながら、歯を食いしばって荒く笑っていたのを見た気がする。今、どこに──。スザクは辺りを見回した。

 だが、アレキスの背後でセレスティーヌが「そっとしておいてあげて下さい」と小さい声で言った。

「あれほどの出血は、もう今からどうこうできる物ではありません。残念ですが……」

「る、ルーカスを見捨てるのか!? あいつは……」

 その時、視界がようやく儀式会場の外の森の中に彼を見つけた。正確には、彼に覆いかぶさるようにしているイダを。意味もなく嗚呼、と思う。

 魔月目の力なら──という考えはすぐに捨てた。もう、その力は消え去るべきものだ。今ここにいる誰ももう、魔月目の力を利用して人を癒すことなど、求めていない。そうしたところで誰も癒されることはないのだとわかっていた。だってあれは……時空を歪める技だから。人の子の罪だから。

 ああ、それならルーカスは。

(っっ……)

「あいつは、最後まで戦わせて欲しいと、はっきりと言ったよ。笑いながら」

 アレキスが、言う。その顔が笑おうとしているかのように歪んでいる。

「誰しも自分より強い意志を持った奴を止めることなんて、できねえんだよ……」

 彼は諦めたような、でも悔しくてたまらないような顔をしていた。メリケンサックがはまった拳が震えるほど硬く握られている。

 心の中で一つの結論に辿り着いていながら、「ヨルは?」と残酷にも尋ねた。アレキスは色を無くして、黙ったまま首を振った。


 イダは自分の服が血の鮮やかな赤に染まっていくのすら気にすることなく、ルーカスのことを抱きしめた。もう離したくなかった。離さない、離さない、離さない、そう思うのに、彼はもう遠くへと行ってしまうんだ……。

 あれだけ暗くて怖いと思っていた森の、鮮やかな緑に包み込まれる。木々の揺らめきが哀しくなるほどに優しい。

 微かにふっと彼が笑うのを感じて、見ると、ルーカスは優しく目を開いていた。口の端にも血が付いていながら本当に穏やかな表情だ。目と目が糸で結ばれるようにスッと合う。その彼の笑みの中に僅かに満足感のようなものを見て取り、イダは唇を噛み締めた。

「あんたが……、あ、あたしのせいで……。ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」

 言葉がぽろぽろと溢れだす。セレスティーヌが願うことと祈ることは違う、と言っていたけれど、今のあたしには祈ることしかできない。無駄だっていうことはわかりながら、何を祈っているのかすらわからずに。

「時間が、戻ればいいのに。そしたら、あたし……」

 あたし……? あんなドラゴンの前で爪が襲ってくるのを何もできずに立ち尽くしたりしないと、そう言いたいの? それとも。

 不意に、イダの手を温かくて少しだけ大きな手が触れた。

「時間が戻ったとしても」

 ルーカスが呼気の中でまた微笑む。彼が息を吸うたび、ひゅっと喉が鳴る。嗚咽で声が詰まって何も言えない。

「俺は、同じ道を行くんだと思う。〈王の剣〉になって、どんな時でも笑いながら生きて、そして……イダに、恋をするんだ」

 神聖な沈黙。

 だけど──ややあって、彼は笑いながらも少しだけ寂しそうな目をする。

「イダ、君は生きていく人として、俺のことを忘れなきゃいけない。忘れなきゃ、ダメだよ?」

「ば……か」

 やっと声が出せた。ありえないほどに手が細かく震えている。震えながら、イダは怒っていた。

「わ、忘れられるわけないじゃない……! ほんとにバカ。バカ、なにやってんのよ……」

 なんで、いつもと変わらないような顔しながら死にかけてるのよ。あたしを置いて遠くへ行こうとしているのよ。……違う、そうじゃなくて、あたしが本当に言いたいのは。

 ルーカスの手に包み込まれた右手はそのままに、左手でそっと耳のイヤリングに触れた。しゃらり、と精巧に作られた雫型が揺れる。このイヤリングは──ルーカスにもらったものだった。

『へえ、あんた……ルーカス、だっけ? 〈趣味の仕事〉でデザイナーやってるの』

 まだ〈王の剣〉として集められて出会ったばかりの頃、そう話題として挙げたことがあった。自己紹介をした後だった気がする。彼は嬉しそうに頷いた。

『そう。自分的には趣味とかじゃなくて割と本気でやってる。……あ、例えばこの今着てる服も一応デザインしたよ』

 自分の着ている服を細長い指で軽く引いて、笑う。さっきまでとは少しだけ違う、その体裁でない純粋な笑顔に驚いた。大人でもこうやってあっけらかんと笑ったりするのだと。自己紹介したことで彼が自分より二歳しか年上でないことはわかっていたが、イダには自分が精神的に子供であるという自覚があった。守られて生きてきた、不幸というものを知らない自分は大人ではないと。

 思わず、イダも笑顔になっていた。

『すごいわね、似合ってるさね。うん、あんたが本気で好きで服のデザインやってるんだなってわかる』

 それからしばらく経って、そんな会話は忘れてしまった頃。〈剣〉の集まりの時に、ルーカスが「ねえ」と話しかけてきたのだった。

『作ってみたからあげる』

 そう金の雫型のイヤリングを渡されて、イダは目を白黒させた。

『悪いからいいわよ! こんな凄いもの絶対売ったほうがいい』

『凄いって言ってくれるなら、俺はイダにもらって欲しいな。前にイダが服を褒めてくれたのが嬉しいかったから。それに、余った素材で作ったから気にしないでいいよ』

 それ以来、イダはいつだってそのイヤリングを耳に付けている。宝物だ、と思う。だって、ルーカスが本物の笑顔と共に自分にくれたものだから。

「ルーカス……」


 ねえ、ルーカス。あたしは。

 もうなにも言わなくたってわかってるよ。……ねえ、イダ、ありがとう。

 何が──、

 俺にたくさんのものをくれて。俺は、君を。

 っ……、あたしも、あんたを。


「愛してる……」


 時間は惑いなく進み続ける。時は降り積もっていく。それでも変わらない思いを、あたしは持ってる。持ってるから……前に、行ける。行くのだ。


 虐げられてきた民たちの復讐。それはつまり、魔月嫌われ者たちの夢というもの。

 失って失わせて、戦いは終わった。〈王の剣〉の任務は終わった。あとは眠れる姫君が目を覚ますのを待つだけだ。全ての呪いは解かれたのだから。

 全ての呪い、は──。

「いや、まだ終わってない」

 少年は、青い両目を爛々と光らせて呟く。一切の疲れを忘れてしまったように、ただ前を見据えている。

「見ていましたよね、ジーグさん──いえ、カミーユ・トランティカ」

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