scene 4 With the Past

 崩御したレオナルド・ヴェリエ・ドゥ・ジャレットの葬儀は、当然と言えば当然だが豪奢に荘厳に執り行われた。美麗絢爛に飾られた花々、豪華で巨大なバロック調の飾りのついた十字架。何頭もの馬や兵隊服のような黒い衣装に身を包んだ人々によって運ばれてきた、真紅のシルクの布を被せられた棺。

 全てが人形やおままごとのような作り物に見えて、こんなのはレオナルドには合わない、彼はこんなの望まないと思って、〈王の剣〉たちは途中でロレンツェ聖王国立教会を抜けてしまった。特化特別組織のための席もまた用意されてはいたものの、王族や政治家たちの視線があまり好感的なものでないこともわかっていた。


 目がチカチカするような金や銀の装飾に包まれた教会から出てきて、罰当たりながらアレキスは息をついた。他の六人もまた伸びをしたり、ほっとしたような様子だ。

 空が、呆けたように青い。

 どこまでもすっからかんで、からっぽの空が、無限に広がっていた。

(レオナルドなら、あいつなら、本当はこんな葬儀なんて嫌がるに違いないのにな)

 皮肉なものだ。立ち場とは、称号とは。

「これから、どうする」

 スザクもまた、頭上の晴天のようながらんどうの声でそう呟いた。教会を何の断りもせずに出てきてしまってこれからどこに行くか、という問いか。それとも、レオナルド亡き今どこに向けて進んでいくのかという問いか。

 後者だろうな、なんとなく。

 そしてその問いに答える者は誰もいなかった。みんなどこか俯いて、口数が少ない。何かを一心に考えているようで、でも実は何も考えちゃいなくて、それでもこの絶望感と空虚感を紛らわせるために何か考えるようなことを探している。そんな感じ。

(俺たちほんと、これからどうすりゃいいんだ)

 司令塔を失った〈王の剣〉は、どこへと向かう。解体することは──ないだろう、多分。確信も根拠もないし、そう信じたいと思っているだけかもしれないけれど。

 言葉のない、七人の間に風が吹く。

 沈黙の中に──突如。

「あ、あのっ!! 王宮特化特別組織の方々ですか⁉︎」

 走りながら張り上げたような、揺れる大声に呼びかけられた。今出てきた教会の方からだ。「王宮特化特別組織の方々」というその呼び方を訝しみつつ顔を上げた。

 見事な銀髪を一括りにした若い男が走ってきながら手を軽く上げていた。いかにも高価そうな黒い燕尾服に身を包んでいる。ぱっと見た筋肉のつき方から戦闘能力はなさそうだと思ってから、内心で苦笑した。自分は何を警戒している。

 ようやくこっちまで走ってきた彼は、膝に手を当ててぜえぜえと息を整えつつ、〈王の剣〉たちを見渡してきた。

「えっと……、あの、すみません。突然呼びかけたりして……。は、なしたいことが、あって……」

 よく見ると、彼は「男」というよりは「青年」と言った方が近いぐらいの顔立ちをしているようだった。爽やかな若緑色の瞳と細くて真っ直ぐな眉から真面目そうな印象を受ける。それにしてもこの人は一体──。

「あなた、誰ですかとヨルは〈王の剣〉を代表して問います」

 ヨルが一歩前に進み出た。身体の後ろにしているので青年からは見えないだろうが、右手にちゃっかりと畳んだ刃つき扇子を握っている。

「そうですね、すみません。まず名乗るべきでした。私はエドワード・ヴェリエ・ドゥ・ジャレットと申します。王族でありながら王族の血は引いておりません」

「エドワードさん、と言いますと」

 ヨルは恐ろしいほどの無表情のままで、確認するように言った。

「次期国王候補の方ですね、とヨルは認識しています」

 アレキスは思わずえっ──と声を上げた。

「次期、国王候補!?」

「え、あ、はい。一応そう言われている、というか。と言っても、また国王が若いと国が安定しないと大臣たちが話しているところですし、そもそも私はまだ十九で成人していないので、国王になることはできません。……そんなことより」

 国王が若いと国が安定しない、というところは確かに頷ける。レオナルドのことを思うに、国のこと以前にきっと本人が辛いんじゃないか。選べない運命のこともそうだし、どうにもレオナルドは思い詰めてしまった節があった気がする。もしかしたら。

(みんなで考えられれば、あいつが死なずにすむ未来があったんじゃないか)

 一人で色んなものを抱え込んで、考えすぎたからこそ、まるで死に急ぐような結果になってしまったんじゃ無いか。〈王の剣〉で他の誰よりも長い人生経験から、そんな気がする。

 身元を明かしたエドワードの勢いは止まらなかった。

「前から王宮特化特別組織の皆様にはお会いしてみたいと思っていたんです。こんな機会でもなければ話しかけられないと思って。……いや、こんな機会なんていう言い方は良くないですよね、すみません。でも義兄さんが大切にしていた王宮特化特別組織を見てみたくて。義兄さんは本当に真っ直ぐな人で、眩しくて。政治なんかより大事にしていたものが……」

「〈王の剣〉」

 突然口を挟んだアレキスにエドワードが、えっという顔をした。

「王、の剣……?」

「俺たちの、正式名称。王宮特化特別組織じゃ長いだろ」

 アレキス、とイダが止めるような素振りをした。いいだろ名前くらい、と力が抜けたように笑う。

 エドワードの話に何度も出てくる「義兄さん」って多分。

(レオナルドのことなんだろ……?)

 王族の血を引いていない王族? レオナルドとはどういう関係だ。どういう立場なんだ? だがそんなことをずかずかと聞けはしないからな。

 当然だが、王族は揃いも揃ってレオナルドのような気さくな人間ではないだろう。むしろ彼は国王にしては自由すぎたともいえる。でも彼のそんなところに、自分たちは──。

 惹かれたんだろ。

「王族の方が葬儀を抜けてきてしまって大丈夫なのですか」

 スザクが腕を組んで聞いた。エドワードは臆することなく少し照れ臭そうな表情になった。

「多分、あとで怒られてしまいます。召使いたちとか、母に。ですが私は思うんです」

 義兄さんはきっと、壮大な葬儀なんてやって人がたくさん慎重な顔してるのを見て、馬鹿だなぁって呆れて笑うんじゃないかな。

 アレキスは顎に手をやった。死者の思いなんてものを勝手に憶測して語るのは好きではない。それは万人によって変幻する、自己のための像でしかないから。だが。

 想像してみるとするならば。

(俺的にも、レオナルドは多分、誰が葬儀を出て行ってしまっても気を悪くしたりはしないだろうな。……だがなぜ俺たちと同じ発想ができるんだ?)

 アレキスは穏やかに微笑んでいるエドワードの横顔を盗み見た。

 レオナルドが親しい者以外と話す時、彼はきちんと「王らしい」振る舞いをする。こんなのはレオナルドじゃないと、見ていて寂しくなるほどに。だとするとこの若者に、エドワードに対して、レオナルドは少しあの奔放な性格を開いていたのだろうか。

 もうわからないさ、今となっては。

(あいつとは、もっといろんな話をするべきだったな。いや……)

 話をしたかったな、レオナルドと。任務や〈王の剣〉に関係ないことまでたくさんのことを。話を聞かせてやりたかったし聞いてやりたかった、という思いもある。

「〈王の剣〉さん」

 エドワードが呼びかけてきた。

「こんなことを言うのはおこがましいかもしれない。でも、もしも私に何か出来ることがあれば、なんでも言ってください」

 ありがとう、と言ってにっこり笑ったのはルーカスだ。

「そうやって言ってもらえるだけで、俺たちは嬉しいです」

 エドワードが握手を求めるように右手を差し伸べたが、ルーカスは気づかなかったのか右腕を左腕の肘あたりに後ろ手で回した体勢のままで微笑んでいる。

「さっそく、一つ頼んでもいいですか」

 結構ズカズカ行きますね、とロジェが横で笑いながら呟いた。

 エドワードは中途半端な感じになっていた手をおずおずと引っ込めて、頷いた。

「もちろんです。なんですか?」

「今なお眠っている姫君──ローズ姫様に会わせてくれませんか」


❇︎❇︎❇︎❇︎❇︎


 大臣たちはあまりいい顔をしないでしょうから今のうちに──。そうエドワードは言っていた。

 スザクは複雑な思いで、ローズ姫の眠る部屋のドアを見つめた。レオナルドの妹であり、ロレンタ王国の姫君であり、永遠の眠りに…言うなれば今、死に近い状態にある少女の部屋だ。他の〈王の剣〉の面々も、それぞれ思うことがあるのか何か考え込んでいる様子だ。葬儀から一言も発していないディオンは俯いていた。

「部外者はいない方がいいでしょうから、私は部屋の外にいますね」

 エドワードに言われて、スザクはドアノブに手をかけた。こんなところで立ち止まってはいられない。

「ほら、行くぞ」

 なんとなくゆっくりと、音を噛み殺すようにしてドアを開けた。恐ろしいほどの静けさに包み込まれ、息ができなくなりそうだった。

 ふわふわとした純白のベッドに横たわる姿に、スザクは唇を引き結んだ。

 枕の上に広がった兄と同じキラキラと光る金髪も、胸の上に置かれた呼吸と共に静かに上下する華奢な手も、綺麗な薔薇色の頬も、全てただ眠っているだけで、今にも動き出しそうに見えるのに。なのに。

(やはり何かが違う。目を覚ますことはないのだと、思う)

 生誕祝宴会で、〈魔女〉が姫の死を宣言した後、十二人目の最後の〈子供〉は、姫君は死ぬのではなく眠るのだと叫んだ。全ての呪いが解けた時、姫君は目覚めるのだと。

 だが、〈全ての呪いを解く〉とはなんだ。解いたところで、どうやって姫君は目覚める? ……結局、レオナルドがあれだけ二十年前の真実を解明しようとしてきたのは、永遠に眠る妹に対して何もできない罪滅ぼしだったのか。

(贖罪、か……)

 と。頭を垂れて瞑想に耽っていた時。

「スザク様、そこの引き出しを開いていただけますか、とヨルは伺います」

 ヨルが少し目を細めて、スザクのすぐ後ろにある小机を見ていた。小さな引き出しがついていて、そこから銀色の細い鎖のようなものが僅かに垂れていた。

「えっ、ああ……」

 また自然と慎重な手つきになりながら引き出しを引いて、ハッとした。細い鎖は、あの仮面舞踏会でリアーシス夫人から盗み取ったペンダントだった。群青色の雫型の石が深い輝きを湛えていた。これが二十年前の記録を直に残している〈記憶石〉だ。

 そして引き出しの中には、ペンダントの他にも二通の手紙があった。さっと取り上げて、宛名を見る。どちらもレオナルドが書いたものらしい。片方には「親愛なる〈王の剣〉へ」、もう片方には「ローズへ」と丁寧な筆記体で書かれていた。

 軽く目配せを交わして、〈王の剣〉宛ての手紙の赤い蝋印を剥がした。手が軽く焦っているかのように震えている。

 手紙の他に、一枚のカードが封筒から滑り出た。そこには住所と「セレスティーヌ」という名前が走り書きされていた。

『二人目に、セレスティーヌという魔月目の女性と会ってくれ』

 レオナルドがそう言っていたのを思い出し、胸が苦しくなった。あの死は、本当に計画されたものだったのだ。

「親愛なる〈王の剣〉へ

 この手紙をお前たちが読んでいるということは、とりあえずオレの計画通りに事が進んでいるっていうことなんだろう。オレが死ぬ前に言いたいことを全て言い切れているとは思えないので、二度目になるかもしれないが伝えておく。まず勝手な行動について謝りたい。色々考えた上での勝手な行動で、許してもらえるなんて思ってはいない。そしてお前たちのことを差し引いたにしても、私事に国を守るために使うべき宿り魔を使ってしまうのは大きな罪だ。だが、後悔がないというのも事実だ。死ぬっていう未来が見えたからこそ、オレは今生きてるんだなぁと思えるんだ。本当、馬鹿だよな。笑ってくれて構わないさ。

 さて、ここからはひたすらな懺悔だ。〈王の剣〉発足から、ずっとお前たちには隠していたことがある。何故オレがこんなにも〈魔女の悲劇〉について調べていたのか、という話だ。実は、五年前、お前たちのことを集める前に、オレは一人の男と出会った。彼はジーグと名乗った」

 そこまで読み上げたところで、ディオンがひゅっと息を吸い込んだ。赤と青の目に塗りつぶされたような暗い色が差した気がした。

「どうした? 大丈夫か?」

 スザクが声をかけると、彼はややあって「大丈夫です」と答えた。

「ちょっと色々思い出しただけで。…続けてください」

(そうか。薔薇城に行った夜森の中で会った男というのはジーグと言っていたか……。よほど怖かったのだろうか)

 気を取り直して手紙を再び読み始めた。

「彼はオレに、〈魔女の悲劇〉の真実を解き明かすことができたら、妹にかかった呪いを解いてやると言った。期限はローズが眠りについてから五年後の三月十三日まで、つまりあと大体一ヶ月。真実、というのは主に〈誰が起こしたのか〉〈何のために起こしたのか〉の二点だな。そして多分、その真実とやらを知るだけではなく〈魔女〉につきつけなくてはならないんだろうとは思う。あの男は〈魔女〉側にも手を回しているようだったから。だからお前たちには一つ一つ手がかりを得るために〈任務〉にあたってもらっていた。そしてお前たちと会うと同時に、セレスティーヌという女性と会ったりもしていた。彼女は未来を見る予言の力を持っている。術の一種なのか何なのかはわからないが。それによって教えてもらった未来をもとに〈任務〉は出していた」

 誰もが驚いて、何も言うことができなかった。

「そしてこの〈記憶石〉のペンダントを手に入れた今、全ての証拠は揃ったといえる。……とは言っても、もとから二つしかないのだが。いや、三つか。二つと一人か。

 そこで、オレが直に出す最後の任務だ。ディオンに行ってもらいたいと思う」

 また少年の方をちらりと見つつ、続ける。

「まずこの部屋の棚にある、黒い本を取り出してほしい。ディオン以外は全員知っているだろうが、〈魔女〉の近くにいたとされる者の日記帳だ」

 これですね、とロジェが取り出して、ふと微笑んだ。その深緑の瞳に後悔とも諦めともつかない色が一瞬だけ滲んだ。

「確かワタシとアレキスさんとで任務に当たっている時にたまたま拾ったんだか。そうしたらなんだか知らないけれど敵に襲われて、ひどくやられましたね」

「やられたというか、やられかけたというか、な。だが今思えば、この本を拾ったのも偶然じゃなくてレオナルドの目論み通りだったのかもしれないよな……」

 アレキスが軽く顔を顰めた。

 この話はどう転んでも良い方には行かないな、と判断し、「ほら、静かにしろ」とスザクは呼びかけた。思いの外鋭い声になった。

「ディオンじゃなくても、〈記憶石〉の中の記録を見ることはできる。だが日記帳の中のものを本当に開示できるのはディオンだけなのだろうと思う。だから任せた。二十年前のことを暴け。他の詳しいことはあえて言わずにおく」

 先を目で読んで、はっと読むのをやめてしまいそうになる自分を鞭打った。抑揚のない口調でないと壊れてしまいそうで、怖い。

「オレは今まで、未来を変えることでさんざん世の中の秩序を乱し、人の子の道理に背いてきた。そして、それを誰に打ち明けることもなく隠匿した。だが、なんの慰めにもならないかもしれないが、そんなオレの誇りが、お前たちなんだ。何度でも言う。やってきたことに後悔はかけらもない。それにこの結末があってこそ、オレは今生きていると思える。……ありがとう。またな。また、どこかで」

 唐突にも終わったその手紙に、重厚な森閑が落ちた。


❇︎❇︎❇︎❇︎❇︎


「ディオンは? また……」

 ロジェが問いかけると、メイベルは胸の前あたりでしわしわの手をぎゅっと握った。天井のあたりを見上げて、小さく頷く。

「……はい」

 三日ほど前、レオナルドの葬儀に参加してから、いや、それよりも前──ミラク草原に行って帰って来てから、ずっとこんな感じだ。ディオンはご飯の時なんか以外、基本彼の部屋になっている屋根裏部屋にこもっている。始めは仕方ないかとも思っていたが、さすがに心配になってくると言うか、なんというか。

(人の心配する前にどうしようもない自分をどうにかしろって感じでもあるが……)

 昼が終わり、まだ夕焼けにはなりかけていない橙の光が家の中を照らす。青い球形の一輪挿しに生けられたスズランが、少しそっぽを向いている。すこし逡巡した後、ロジェは立ち上がった。

「軽くディオンの様子を見てきますね」

「それがいいかもしれないですねぇ」 

 階段を上って、ドアに手をかけて、躊躇った。ドアの隙間から光が漏れていないのを見て、明かりをつけていないのだなとなんとなく思った。結局すぐに開けることはなしにノックをする。

「ワタシだけれど」

 ワタシだけれど? 自分は何がしたいのだろう。部屋に入ってもいいかな? それとも、どうしているかなと思って?

 迷って色々考えている間に、少し遠くの方から声がした。

「あ、うん、ロジェ……。入ってください」

 一枚板に阻まれて声の表情まではわからず、ただ「うん、入らせてもらうね」とだけ答えた。

 ドアを開ける。ディオンは壁際のベッドの上で蹲るように膝を抱えていた。ロジェが入ってきたのを感じて上げたらしい顔が、見る間にぐちゃぐちゃになる。泣いてはないし、笑っているわけもない。ただ持て余すほどに沢山の微妙な感情を押さえつけようともがいているかのように。

 木の小机の上に、青い石のペンダントと黒い革張りの日記帳が投げ出されたように無造作な感じで置かれていた。これらを使って任務に当たるのは、もう少し話し合ってみてからにしようということになっていた。

「ロジェ、僕……」

 と彼は言った。

「どうしてもわからないんです。一つ、聞いてもいいですか……?」

「当たり前だよ。なんだい?」

 ロジェは後ろ手でドアを閉めて、立ったまま先を促した。

「……レオナルドは、生きていることを感じたかったから、あんな風に、自分を犠牲にして……?」

 小さい少年の手が、無意識にかベッドの白いシーツを撫で付ける。何度も、何度も。

(ああ、そうか)

 この結末があるからこそ、オレは生きていると思えたと。誰もが一生懸命に生きているから、この世界は美しいのだと。レオナルドの言葉から、そういう風にも読み取れる。

(でも、ワタシはむしろ……)

「多分、レオナルドは生きていることを実感したくて死んだんじゃないと思うよ。死にたくなんてなかったんじゃないかな」

 ロジェの言葉にディオンが歯を食い縛るのがわかった。「死ぬ」という強い言葉を選んだのはわざとだった。レオナルドはもう、死んだ。あとから誰が何を言おうと、その事実は変わらない。二十年前の事件だって、なかったことにはならないように。

「あの結末は、レオナルドが自分自身のこともまた一つの駒として、一人の人間として扱った結果だとワタシは思う。目的のためには手段を選ばない人だったのはわかると思うけど、その〈手段〉の中に自分も参加した形かな」

 だからこそ、後悔はないとレオナルドは言ったのだ。

 ディオンが気に負わなければいけないことは、何もない。

 レオナルドが前を走り、ロジェたち〈王の剣〉たちでその背を追ってきた。だがレオナルドはそんな自分達の横に自ら並んで、そして去っていった。「じゃあな」と清々しいほどの笑みを残して。これから〈王の剣〉は誰を追うこともなく、ただひたすらに走り続けなければいけない。だから。

 だから?

(だから元気を出せ、落ち込んでいるな、とワタシは言うのか。そんな無責任な言葉を)

 ディオンが膝の間に顔を埋めた。シーツがくしゃりと動いた。皺と皺の間の溝に、ただ夕暮れ色の光を遮って闇が溜まった。

「そっか。そう、ですね。変なこと聞いてごめんなさい……」

「別にそんなことない」

「大丈夫に、なるんです。もう少しで」

「……」

 黙ったロジェに、ディオンが重ねて言う。

「今はすごく、レオナルドのことが悲しくて、わけがわからなくて、苦しいけど、もう少しで大丈夫に、なります。だから……、もう少しだけ待っていてください……」

 見放さないで、置いていかないで、と嗚咽が混じったような声に、胸を締め付けられた。

 そっと、一歩、また一歩、進む。ディオンの隣に座った。葛藤。自分は今、何を言おうとしているのか。何を自分という分際で、偉そうに感傷に浸っている? 抑えろ、抑えろ、抑えろ。

 だけど、ただ痛くて。

 苦しさに、勝てなかった。

 蹲ったディオンを抱きしめるように腕を回す。包み込んだその小さい体から、やがて力が抜けていくのがわかった。

「……ごめんね」

 零れ落ちたのは、そんな悔いと謝罪の一言だった。

 ディオンが弾かれたようにびくんとして顔を上げようとしたが、ロジェが強く抱きしめているので、できない。

 何かが崩れ落ちたようなこの顔を見せたくなかった。

「君が今、辛い思いをしているのも、レオナルドがああしなければ行けなかったのも、二十年前にたくさんの人が傷つき、死んでいったのも、全部全部、ワタシのせいだ」

 ワタシがあの時、〈魔女〉が「そしてローズ姫は十五歳の誕生日、糸車の錘の針に指を刺して、永遠の眠りにつくわ……」と言ったあの時、勝手なことをしなければ。

『違う! 姫様は眠るだけだ。それは永遠ではない! ローズ姫様は、全ての呪いが解けた時、愛と共に目覚めるはずだ───!!』

 幼稚な正義感。十二人目の〈子供〉。今、呪いの力を少しでも弱めることができるのは自分しかいないという醜いエゴイズム。それらを振り翳してロジェが叫んだから。

 姫君一人の命だけで済むはずだった犠牲が、何十倍、何百倍にも膨れ上がった。姫君の命だって、救えたとはいいがたいのに。

 ディオンがくぐもった声で「え……」と呟いたのを感じた。

「多分、あの時ワタシが何も言わずにいれば、姫君は確実に命を落としただろうね。だけど、その分他の人たちには何もなかった。〈魔女〉が怒り狂って暴走に走ることはなかったはずだから」

 何が永遠。何が呪い。何が愛──。

 誰よりも重い罪を抱えて、誰よりも生きていてはいけないというのに。

『邪魔をしないで!!』

 〈魔女〉の攻撃により、失われた両目を、再び得ることを望んでしまったのは、どうして。

 〈王の剣〉に入ったのは、自分の罪と共に消えるためだったといのに、なのに汚らわしくも今日まで生き残ってしまっているのは、どうして。

 自分の目の前で、宿り魔が──いや、宿り魔だったものが木っ端微塵になっていったあの光景は、今も目に焼き付いている。残酷かつ凄惨。そして全ては自分の責任……。

 飄々としているふりをしながら、いつだって怖くて必死で、生きていたくもない、泥沼の中を生きているのに疲れた。なのにこの身体はなぜか、それでも歩くことを望み、死ぬべきところで死ねない。

「死に損ないの幽霊だ。ワタシは」

 どうしたって、どうしたって、どうしたって。

 どうしようも、ない。

 と。ディオンがぐっと強引に顔を出した。彼はわっと小さく叫んで、ロジェの腕を振り払うと、わざと怒っているような、それでいて泣きそうなような顔をした。

「違うよ。ロジェは幽霊なんかじゃない。僕とおんなじ人間だよ。何にも悪いことなんてしてない。罪なんて何もない。ほら、その結果、あんなにかわいいお姫様が一人、まだ生きてるんです」

 そう言って、励ますように僅かに笑う。どこかで聞いたことがある台詞だな、と呟くと、ディオンは「アレキスさんです」と答えた。

「僕が勝手に薔薇の森に入っていっちゃった件」

「ああ」

 そんなこともあったな、と思った。そして──。

(ああ、辛いことだけじゃ、なかった)

 悲しいこと、諦め、報われなさ。その中に、数々の笑顔や小さな喜びがあったことを忘れちゃいけない──。

(まだ、もう少しだけ、歩き続けられるだろうか)

 もう少しだけ。生きていれば楽しいことがある、なんてありふれたことが言いたいわけじゃなくて。それでも、まだ生きてみようか。朽ちるまで。

 なぜだか、この身体は生きることを、光を願うから──。

 そこまで考えて、ハッとした。

「ありがとう」

 仮面をスッと抑えて、目を閉じた。少し微笑む。

 「今はすごく苦しいんだ」と言ったばかりのキミは、それでも誰かを励ますのだね。真っ直ぐな言葉をぶつけるのだね。勝てない、と素直に思った。その純粋さ、聡明さには。

「……弱いところを見せてしまったね」

 でも、ワタシもきっと、もう少しで大丈夫になれる気がする。


❇︎❇︎❇︎❇︎❇︎


 いつものローブを羽織って、姿見を見つめた。漆黒に流れる黒い髪。深緋色の目。セレスティーヌはきつく唇を引き結び、顔を覆い隠す大きなフードを被った。

 自分が五年もの間、自分の力を活かすことで尽くしてきた国王が、亡くなった。限りないほどの恩を感じているし、どうでもいいわけなどないけれど、セレスティーヌがその葬儀に参加することはなかった。……魔月目だから。

 見る者に恐怖を与える、赤い目。目が合えば石にされてしまうなどという迷信も、昔からそのままに残っている。魔月目の民は、危険人物。首都であるガルタ内に、魔月目である自分がいることを知られてしまった時点で、もう身の安全はない。ましてやたくさんの偉い人たちが集まる葬儀になどのこのこ行けるわけはない。

(ああ、私の出した結論は、本当に正しかったのだろうか……)

 国王陛下が死ぬ、という結末以外には、本当に道はなかっただろうか。もうわからない。未来を変えるために現代を変えることはできても、現代を変えるために過去を変えることは、できない。能力を持っていたって、時の流れには逆らえない。

 その時。セレスティーヌは息を呑んだ。

「……!」

 部屋の外からいくつもの人声が近づいてきているのを感じて、ドアの方を鋭く見つめた。手近にある机の引き出しを手探りで開け、中からどこにでもあるようなちゃちな短剣を手繰り寄せた。

 いつ、後ろから刺されてもおかしくないような生活。

 人々がこっちに向かってきているのがわかる。安いアパートの一室だ。ドアなんて簡単に蹴破れる。

(とうとう、魔月目であることが露見した……?)

 考えるのは後。今はどうにか逃げ生き延びなければいけない。

 いつ、殺されるかわからない生活。

 それでもその生活を続けてきたのは。

 タンタンタンタン……と場違いにも軽やかなノックの音が響いた。無視をする。わざわざ自分から開けるものか。そうやって油断させようとしても無駄だ。ドアの外にいる敵は、かなり数が多そうだ。少なくとも三人。足音と声がうるさい。

「あのー! すみません!」

 男の声がした。

 息が荒くなる。短剣を強く握る。逃げられるのか? 攻撃の手段をろくに持たない、一人の女性が。だったら部屋の窓から飛び降りる? だが小さいアパートながらここは一応二階だ。そして窓の外はすぐに大通り。すぐに逃げられるように、とここに住んだのが裏目に出たか。命の保証はない。

 タンタンタンタン……。

「セレスティーヌさんは、いますか!?」

 既に名前までに知られているとは。

 警戒感で手が震えていたが、ドアの外の男が次に発した言葉に、セレスティーヌは別の意味で短剣を取り落としそうになった。

「俺たちは〈王の剣〉という者なのですが」

(王の、剣? こ、国王陛下の部下であり、この私が今まで未来を見てきた……)

 無意識のうちに、ドアの鍵を開けた。凄まじい勢いでドアが開いて、起こった風でローブのフードがはらりと落ちた。白い丈の短いローブを羽織った女の子が、抱きついてきた。

「お母さん……っ!」

 と叫んで。

 見上げてきた顔は。

「アナスタシア……」

 セレスティーヌは震える手で自分の実の娘の頭を抱いた。


 アナスタシアが真っ黒なローブに身を包んだ女性に抱きついたのを見て、ああ本当だったんだな、とディオンは思った。

 結局、〈王の剣〉は再開した。あえて話し合ったりすることもなかったし、一人一人、それなりにレオナルドの死は乗り越えつつあった。疑問もまた残ったが……。

『ジーグって男は本当に真実をこっちが掴んだら、姫の眠りを解いてくれるのか? 解けるのか、能力的に?』

『そういう類の宿り魔がいればできるんじゃないの』

『ってか、あの場で「全てが解けたら姫は目覚める」って声に出して言われたんだから、〈術〉も何もなくても真実が分かった時点で呪いは消えるんじゃない?』

『だとすると……』

『ジーグってやつはただレオナルドの力を試そうとしていたみたいに見えるけど、なんのために?』

 などと。

 エドワードという伝手を利用して、王宮の大広間に集まることができ、いろいろ話していたのだが、レオナルドの言っていた「セレスティーヌという魔月目の女性」の話が上がった。

 そしてその時。

『セレスティーヌって、わたしのお母さんだよ!』

 とアナスタシアが声を上げた。確かに彼女の母は首都のガルタで働いているが危険なのでアナスタシアのことは家に残したと聞いたことはあったので、そんなこんなですぐにでも会うことにしたのだった。

 最初はセレスティーヌの家にアナスタシアとアレキスの二人が訪ねていく予定だったのだが。

『勝手に娘を預かってる男と実の母親が娘を挟んで一対一になるなんて、普通に考えて結構嫌だ!』

 とアレキスが言ったために、ディオンもお供としてついていくことになった。ディオン的には、

(僕と僕の実の両親を会わせる時、ロジェもそんなふうに思ったのかな……)

 なんて思ったり思わなかったり。

 そして今、アナスタシアとセレスティーヌが向き合っている。母と、娘が。アレキスがめちゃくちゃに複雑な顔をしてディオンの隣に並んだ。……それもそうか。

「あなた方は、どうして……」

 セレスティーヌがこちらを見つめて、驚いたような信じられないような顔をした。フードが取れているので、潤んだような赤い目がよく見える。

 アレキスが腕を組んで壁にもたれかかった。

「俺……私たちにレオナルドが出した任務で、この子」

 アレキスはぽんとディオンの肩を叩いた。一人称が改まったものに変わっている。

「ディオンの本人確認をするために薔薇城の〈神の日記〉を見に行く、というものがあったのはご存知ですか」

「え、ええ……。確か、本来の目的は薔薇の森付近に現れる黒服の怪しげな男とあなた方〈王の剣〉を遭遇させたい、ということで……」

 やっぱりそういう目的だったのか、とアレキスが低い声で呟き、軽く顔を顰めた。

「そう、それです。その時、ディオンがその男に襲われているお嬢さんを見つけて助けました。その後、薔薇の森に一人で暮らすのは危険だ、ということで勝手ながら私の助手の者の家で過ごさせていたのです」

 ちなみに、その助手というのはジェシーという名の女性で、丸眼鏡をした優秀な薬剤師であるらしい。アレキスが〈王の剣〉を趣味の仕事としてやっていたり、アナスタシアがそれに関わっている件は「余計なことに首を突っ込むのは本意ではない」と我関せずを決め込んでいるそうだ。アナスタシアにそう聞いただけで、ディオンは会ったことがないけれど。

 つと、アナスタシアが大きな瞳で母を見上げつつ口を挟んだ。

「叔母さんはね、家を出てっちゃったんだよ。だからわたし、一人だったの」

「それは……」

 セレスティーヌがスッと目を細めた。空気が鋭くなった気がした。何について? アレキスが勝手に娘のアナスタシアをガルダに連れてきて住まわせていたことか、それともアナスタシアの叔母さんがアナスタシアのことを捨てて家を出て行ってしまったことか。

(または、どちらも?)

 しかし、予想に反してセレスティーヌは、

「感謝してもしきれません。なんとお礼を言っていいか……。アナスタシアを助けてくれた件に関しても、その後のことも」

 そして。

「これからもアナスタシアのことをお願いしてもいいでしょうか……」

「──!?」

 アレキスが声にならない声を上げた。

「これからも、というのは──」

「私と一緒にいては、危険だということです。私が魔月目なのにこんなところにいる、ということもそうですが、国王陛下のために未来を見る、という行為は魔月目の民の掟にも反しているのです。私が戻る場所などありません。アナスタシアには、こんな生活をして欲しくない……」

 アレキスが「……それもそうかもしれない」と独り言のように言って、黙り込んだ。対照的に、ディオンは黙っていられなくなって一歩前に出た。

「それでも、親子なら、本当に大切に思うのなら、一緒にいるべきではないのですか!? あとから後悔したって、時が戻ることはないんだ。アナスタシアは、あなたと離れて暮らすことを本当に望んでいますか」

 ディオン……、とアナスタシアが小さく言うと、止めるように手を伸ばした。わかってる。この母子おやこにディオンが口出しする権利なんて何もない。

 でも、必死だった。だって。

「僕と、僕の両親は……」

 ただ一度の選択のせいで、〈親子〉とは言えなくなってしまったんです。

 静かな青い炎が燻るように。視線を床に落としたまま、ディオンは拳を握りしめていた。

 と。

「……わかっています」

 セレスティーヌが囁いた。今にも消えてしまいそうでありながら、決然とした声だった。

「…………」

「知っています。私の自分勝手でしかない、アナスタシアにどんなにか今、寂しい思いをさせているかということも。ですが」

 彼女はディオンのことを真っ直ぐに見つめて、少しだけ眩しそうに微笑んだ。子供のディオンに対してだというのに、すごく丁寧な口調だ。

「国王陛下がね、最後にお会いした時に、約束してくださったのです。其方の力を借りて全ての呪いを解くと共に、〈魔月目〉という括りを無くそう、と。もうこの未来を見る力なんて使わなくていい。全ての人が手を取り合う社会を作ろう、と。もう少しだから、とあの方はおっしゃっていました」

 僭越ながら、私はそれを信じているのです。

 セレスティーヌはそう言い切った。

「それまでの間だけ、アナスタシアをお願いしたいのです。もちろん、あなた方〈王の剣〉のこれからの活動にも全力を挙げて協力させていただきます。ですから……」

(そっか……。それなら)

 これ以上、ディオンが言うことは何もない。

(来るといいな、誰もが境目なく手を取り合える未来)

 これまで黙っていたアレキスが「では」と言う。

「セレスティーヌさん、あなたを交えて話し合いたいことがたくさんあるのですが、いいですか」

「もちろんです」


❇︎❇︎❇︎❇︎❇︎


 二月最終日、〈王の剣〉にアナスタシアとセレスティーヌを交えた九人がいつもの大広間に集まっていた。

 ……それで。

「はああっ!? ま、魔月目の民には、もとからそういう力があるってわけ!?︎」

 イダは半ば仰反りながら、叫び声を上げた。〈剣〉である他の六人もまたぽかんとしている。ヨルだけは軽くいつもより目を開いたか、という程度だったけれど。

 大広間の豪奢な椅子に遠慮がちに腰掛けたセレスティーヌは頷いた。

「そうなのです……。これは私だけに限ったことではなく、やり方さえわかればアナスタシアでも持てる能力なのです」

 えー?とアナスタシアが足をぱたぱたさせながら現実味がなさそうに声を上げた。


『貴女が未来を予知した、そのレオナルドが利用していた力はどういうものなのですか?』

 集まりが始まって開口一番、そう尋ねたスザクに、セレスティーヌは少し困ったような顔をして答えたのだ。

『未来を予知する、というよりは未来に実際に行って見て来る、と言った方が近い能力ですが……。実は、魔月目の民全員が持っている力なのですよ』


(なんで誰もこんな重大なことを知らないのよ!?)

 考えて、すぐに気づいた。誰も知らない、というか、誰も知ろうとしてこなかったのだろう。呪われた者たち、と言われていた魔月目の民のことだから。

「力に関して話せば長くなりますが……」

「是非お願いします」

 ルーカスが微笑んだ。では、とセレスティーヌが話し出す。

「魔月目の民、とは本来〈癒者〉と呼ばれる者たちなのです。どうして黒髪赤目になったのかは存じませんが。そして、未来に行く力は人を救うために使う、というのが私たちの掟です」

「どうやって、です? 人を救うために使うというのは」

 スザクが眼鏡をカチャッと鳴らして口を挟んだ。

「そうですね……。例えばですが、何か重い怪我をしたとします。すると、今の技術では治癒させることができなくても、未来の技術でそれが可能になっていたりするわけです。薬ができていたり、だとか。それを私たちが未来に出て行って取ってきます」

 ああ、なるほど、と頷いたスザクの横でロジェが鋭い目をした。

「義手や義足、さらには義眼を取って来ることも可能ですか」

 セレスティーヌは少し不思議そうな顔をした。

「ええ。できると思いますよ。それに記録の中では、患者さんを直に未来まで連れて行って未来で治療をして戻ってきた、という例もあります。ああ、だから魔月目でない方を連れて時間移動をすることも可能です」

 イダは「へえ、人を連れても行けるなんて」とか感心して聞いていたが、ロジェはその話には興味がないようで、「そうですか……」と呟いて仮面のあたりに手をやると、椅子にもたれかかった。

 隣に座ってグラスをいじっていたアレキスが、軽く気遣うような顔をした。

「……ロジェ」

「いえ、大丈夫です」

 ロジェは手を前に押し出すようにしつつ首を振った。

(……?)

 ロジェとアレキス以外は首を傾げた。変な空気感になったところで、「質問してもいいですか?」とルーカスが口を開いた。

「薬や治療器具を取って来る、と言っていたけど、つまりそれは時間軸に影響を与えられるってことですか? ……ええっとつまり、その行った先のものを動かしたり、介入ができるってことなのかなって」

「はい。それはそうですね。変動未来と確定未来、という言葉がありますが、私たちが行くのは変動未来です。今の行動によって、十分に変わることがありうる未来。絶対的なものではありません」

「そしてもう一つ」

 ルーカスはぴんと人差し指を立てた。

「貴女がたの力で、過去に行くことは可能ですか?」

 その場にいた誰もがハッと息を呑んだ。時間軸の各々に干渉することができる力。それを過去に行って使えば。

 事実上、過去を塗り替えられる。

(そんな、まさか──)

 イダは軽く戦慄を覚えたが、セレスティーヌは首を縦には降らなかった。

「能力的には可能でないかとは思います。しかし……」

「しかし?」

「過去に行ってそこで何かをした時点で、私たちは死にます」

 広い空間に張り詰めた沈黙が積もる。死ぬ、と鸚鵡返しにイダは囁いた。

「そ、それってつまり、〈血肉ノ技〉を使ったみたいな感じってこと……」

「……ええ。実際には何も宿しているわけではありませんが、喩えるならば。禁忌に触れることになりますからね……」

 声を出せなくなったイダに変わって、ルーカスが「なるほど」と言って頷いた。

「じゃあ結局のところ過去を変えることはできない、と。……わかりました。ありがとうございます」

 と。一人立ったままでテーブルに寄りかかっていたヨルが「一つ、ヨルも質問させていただきます」と言った。

「この魔月目の民の持つ力について、レオナルド様には説明されましたか?」

(え? 当然説明したんじゃ……)

 だがセレスティーヌは首を振った。

「……説明、させていただきませんでした」


(やっぱり、ですね)

 ヨルは一人内心で頷いた。セレスティーヌは時間移動の力が魔月目の癒者としての能力に由来することをレオナルドに話してはいなかったのだ。

「何故ですか、とヨルは問います」

「それは……。やはり、仮にも魔月目の民の者として、その民の本来の存在意義というか正体を明かすことは気が咎めたからです。……私があの方──国王陛下と出会ったのは、私がガルタに来て占い師を名乗り始めた頃であって、あの方は多分私が固有な持った能力だという認識をされていたのではないかと」

 確かに、占い師であれば長いローブで顔を隠しても、未来を予知したとしてもおかしいことはない。むしろそれを仕事にできるわけだ。うまく魔月目であることを隠せれば。

 そしてそんな〈占い師〉のセレスティーヌにレオナルドが目をつけた、と。

「どうして今になって」

「話す気になったか、ということですよね。それは、私もまた未来を見て来るだけではなくて、未来へと動いていかなければいけないと思ったからです。何かしら変えていかなければいけないのだと。自分勝手だ、ということは重々承知しているつもりです。それに〈王の剣〉の皆様方も、他の人にはこのことは話さないでいただきたく思います」

「それに関しては心配されなくて大丈夫です」

 スザクが答えた。

「〈王の剣〉もまた王宮特化特別組織としてしか認識されていない、しかも国の重要人物の多くからは遠巻きにされている集団ですから」

「はい。国王陛下がそのようにおっしゃっていました。……ですが、どうして」

 セレスティーヌがヨルの方を兎を思わせる赤い目で見つめてきた。

「どうしてわかったのですか? 私があの方に能力についての説明を十分にさせていただいていなかったことを」

(それは──)

 それがわかっていたら、多分レオナルドはもっと早く二十年前の事件を起こした〈魔女〉の正体に気づいていたと思うからだ。

「正体、というのは……」

「その〈魔女〉は、魔月目の民だったのではないでしょうか、とヨルは考えます。とりあえず過去に行くこと自体は不可能ではないわけでしょう? ディオン様、ロジェ様、スザク様がおっしゃっていましたよね。〈神の日記〉の二十年前のあたりから、書き換えられたことが疑えるような状態であったと。それは過去が変えられたため、だったのではないですか」

 はああっ!? とまたしてもイダが叫んだ。


❇︎❇︎❇︎❇︎❇︎


(ええっと、調べなきゃいけないのは、どうやって魔月目の〈魔女〉が未来に行くのではなく過去に行って、そして生きて帰ってこれたのかって……。それについて説明がつけば、ヨルさんの仮説が立証されるわけか)

 調べて、それを〈王の剣〉たちに報告すること。……でも、どうやって調べればいいんだ? ディオンは困ってテーブルの上にただ並べた状態の黒い皮張りの日記帳と群青の光をたたえたペンダントに目を落としていた。自室ではあるがなんだか落ち着かない。

「大丈夫?」

 ロジェが覗き込んでくる。怖いから近くにいてほしい、と情けないながら頼んでいたのだ。

「どうやってレオナルドの言う〈記憶〉を見ればいいのかわからないっていうのと、何かやったところで一体何が起こるんだっていう……」

「まあそうだよね。でもレオナルドによればキミしかできないみたいだし、何かしらやるしかないっていうのもまた事実じゃない? とりあえず開いてみるとか」

「そうですよね」

 適当なページをパラパラとめくる。古そうに少し黄ばんだ紙が心地よい音を立てた。

「そういえばこれって誰の日記なんですか? これを手に入れたのって、僕が〈王の剣〉に入る以前の任務で、ですよね?」

 ロジェが顎に手を当てて、くいっと軽く首を捻った。

「そうだね……。レオナルドが、魔女の近くにいた者の日記だって言ってたけど、具体的にどういう立ち位置の人間だったのかはわからないんだよね。一応全部に目を通してはあるけど、女性名、どころか男性名も出てこない。それに、二十年前のことに関わりそうな内容も書かれていない。ただ、日常の風景なんかについて淡々と綴られたものだよ。……ああ、でも」

 彼はそっとディオンの手から日記帳を取ると、一番後ろの見返しを開いて示した。「これを書いた人の名前だけはある」

〈一八八七年 オーギス・アルベルト〉

(オーギス……? 聞いたこともないけど。っていうか名前だけわかったところでなぁ)

 それにこのペンダント。これはスーザン・リアーシスという伯爵夫人のものであって、偶然二十年前のことを少しだけ記録した、という話だった。別にディオンだけで中身を暴く理由はないのでは? 

(っていやいや、僕に出された任務なんだから……)

 なんとなく持ち上げたペンダントを、日記帳の見返しに置いた時だった。一瞬、〈記憶石〉が凄まじい光を発した、と思うと、〈オーギス・アルベルト〉という文字が燃えるように赤く発光しながら浮き上がったように見えた。

「──え」

 引っ張られる。どこかに。すごい力で日記帳の方へと引き込まれる。咄嗟に座っていた椅子の背もたれを掴んだが、敵わない。握った手がほどけて、椅子から離れる。

「ディオンッ!!」

 と。その手をがしっと握られた。

 ロジェ!? だめ、離して。ロジェまで一緒に引き摺り込まれちゃう! 離して、離して、はなして──。

 風が渦巻き、部屋の中がめちゃくちゃになる。日記帳のページが静止することを忘れてばらばらと捲れる。

 突如、視界が真っ暗になった。風圧で髪や服が上へと舞い上がる。下から風が吹いている? いや……。

(僕が下へと、落ちているんだ)

 ロジェは? 見えない。暗くなると同時に腕を掴まれていた感覚は消えた。

 落ちる。落ち続ける。光もなく渦巻く闇の中。

「ねえ。……ねえ、ディオン」

 誰の声。暗闇の中、無数の方向から響く、この低い声は。でも聞いたことがある。一体、どこで。

「記憶を失ったこと、後悔してる?」

 記憶って、十六年分の? そんなの……。

「でもさ、おまえが望んだことだよ。最初に言い出したのはおまえなんだよ、全部全部」

 頭の中にいくつもの「?」が浮かぶ。疑問がやがて反発へと変わる。嘘だ。だって僕は、記憶がないからこそ、両親のことを苦しく思う。十六年もの時を忘れ去ったからこそ、ちっぽけな自分を情けないと思う。なのに。

 眩しいほどに白い、闇の切間が近づいてきて──


「……っ」

 軽く気絶していたようだ。身体のあちこちがずきずきと痛くて、呻き声が漏れる。朦朧と霞む頭を振りながら、ディオンは起き上がった。

(ここは──)

 辺りを見渡して、すうっとぼんやりしていた頭痛が引いていくのを感じた。真っ暗な森に囲まれた、さらに言うなら大理石のタイルが敷かれた〈儀式会場〉とでも呼ぶような場所に、ディオンはいた。ステージのように一段高くなったところには柱が何本か立ち、何本かは倒れ、そしてもう何本かは今倒れている最中、というように斜めのまま空中に止まっている。おかしいのはそれだけでは無い。儀式場には、何人もの〈人〉がいた。色のない彼らもまた静止していて動かない。それどころか石になっているようだ。ところどころ風化していたり割れていたりする。庇うように、先が砕けた腕で手を覆っている人。驚いたように目を見開いた人、柱の下敷きになって悶えている人。誰もが苦痛の表情のままに一方向を向いていて──その先には、ローブで顔を隠した一人の少女と巨大なドラゴンのような動物がいた。

 音も匂いもない、時が止まった世界。

(そんな、ばかな)

『二十年前のことを暴け』

 ここがどこであるか、という問いの答え。ふと舞い降りてきたかのように唐突にディオンは悟った。だが信じられない。

 ここが〈魔女の悲劇〉の最中の一場面だなんて、信じられるわけがない。

 ステージ上で、沢山のレースで囲われた可愛らしいベビーバスケットの上に覆いかぶさり、半分柱の下敷きとなっている男性と女性。豪華としか言いようのないドレスやマントに身を包み、すぐ近くにはヒビの入った王冠が無造作に落ちている。着飾った人々の中央の長テーブルが目に入った。年齢はまちまちだが、そこに並んでいるのは皆子供だった。目を抑え苦痛に顔中を歪めている小さな子や、テーブルに突っ伏したり、椅子にしがみついて吹き飛ばされまいとしている子。この子たちの中の何人かが大人になった姿を知っている。〈王の剣〉の過去の姿であり、あの当時に呼ばれた〈子供達〉。……吐き気を感じて蹲った。

 記憶の中だからこそ、人々も周りの景色も全て石として無色に表現されているが、これが実物になったらいったいどれほどのものだろう。どこも血まみれで、傷だらけで、それでもまだ終わらないという絶望の只中はどれほど恐ろしいだろう。でも。

 どれほど恐ろしいだろう、なんて考えられている自分は幸せ者で甘いのだと思った。これは本当に二十年前に起こったことだというのに。そして、自分もまたその中にいたというのに。

「やあディオン、よくきたな」

 後ろから不意に聞こえてきた声にまるで心臓をいきなりわし摑みにされたみたいに。息が詰まった。

 その低い声は、やっぱり聞いたことがある。認めたくはないけれど。それも僕の中で。

 仮面舞踏会でディオンが敵に首を絞められかけた時、代わりに表に出てきて助けてくれた、〈彼〉。〈破壊〉の術を使った、僕の二重人格。

 恐る恐る振り向いて顔を上げた。そこには同い年かそれより少し上ぐらいの、大人っぽい顔立ちの少年が立っていた。

 灰色と黒の布を重ねて折り返しただけのような簡素な作りの服。マフラーに口元を埋めているため、いまいち表情が掴めない。真っ黒な髪。そして赤く光る目。

(魔月目の民……。でも、どうして今〈彼〉が)

 ここに出てこられたんだ? ディオンは別に気を失いかけていたわけでもない。いや、もしかして今見ているのは全部夢で、さっき落ちてきた衝撃で実は意識不明状態だとか? 考えるほどにわからなくなってくる。一人で軽くパニックに陥っているディオンを無表情で一瞥して、彼は少しだけ表情を緩めた。肩をすくめて見せる。

「二重人格、というのは少し違うな。おれがおまえの中にいる、というのは、おまえがおれを宿したからなんだ。宿り魔みたいなものだよ。だからおまえは宿り魔を他には宿せないだろう? 代償は全ての記憶。あとは人間を宿らせるにあたっての負荷で左目の色も変わったみたいだけど……」

「……」

「そんな批判的な目で見るなって。これはおまえが最初に言い出したことなんだからさ。……って、そんな風に言われてもわからないよね。おれはオーギス。タヴィアの──全ての元となった事件を起こした少女の、幼馴染だ」

 日記帳のことを思い出した。〈魔女〉の近くにいた人間のものだという話だった。

(じゃあ──)

 目の前に立つこの少年、オーギスこそが日記帳の持ち主であり、二十年前の手がかりを真に持った人間なのか。

 そう考えていると、オーギスは軽く不思議そうな顔をした。「日記帳だけじゃないけど」と言う。かなり長めのマフラーが風に靡いた。

「えっ?」

「記憶石を使ってここに来たんだろ? その石だってもともとおれが持ってたものだよ。どうやら事件の中で落としたみたいだけど」

「……いや、ペンダントは落ちてたんじゃなくて、とある伯爵夫人が持っていたものだよ? 代々家系で受け継いでいるものだとかなんとかで」

「……うそ?」

 これまでほぼ無表情だったため大人っぽく見えていたが、驚いたように目を開いた表情はディオンと変わらないぐらいの年相応だった。オーギスは「え、そんな」と呟きながら薄く笑った。なんだか少し意地悪そうな笑みだ。……これが素の表情か?

「じゃあその人嘘ついてる。多分落ちてて綺麗だったから拾ったとかじゃない? すごいね、人間の欲っていうのは」

「ええ!?」

 ……スーザン・リアーシス夫人。まさかの泥棒でした、みたいな? というか人間の欲ってなんだよ。

「ええっと君も人間だよね?」

「当然だろ。醜い欲なんてのは誰しも持っていて、おれにだってあるよ。別に悪いこととは誰も言ってないでしょ、すごいねって言っただけで」

「……」

 口論は得意じゃないので、ディオンは話を変えることにした。

「ところでここは記憶石の中の世界なの?」

「ああ。さらに言うなら、この空間は記憶石が作り出した者であり、今おまえが話しているおれは、日記帳によって具視化されている状態だ」

 だとすると、レオナルドはこの空間にまでは踏み込むことができたのだろう。それでほとんど全てを察した……と。

(それならつまりヒントが隠されているはずだよね)

 この景色にも。

「そうだな。探してみれば? おれとしてはあまり嬉しくないけど」

「君……オーギスは僕の考えてることがわかるの? さっきからさ」

 ペンダントの話といい、もっと前の二重人格の話といい……。そういえば仮面舞踏会の時も、ディオンが考えたことを彼が言葉として拾って対話している形だった。

 オーギスは腕を組んだ。

「わかるよ。少しだけど。さっきも言ったけどおれはおまえに宿されているわけだから」

 オーギスは「それで」と区切った。何かと口を挟んでくるディオンに軽く呆れたようだ。早く話を進めたそうな感じの雰囲気を出している。空気読めよ、とか思っていそうだ。

「それは置いておいて、おまえがここにいられる時間も無限じゃないから、さっさと本題に入ってもいい?」

「ちょっと待ってよ」

「……なんだよ」

「ここから君のことも連れて出て、というか君に僕から出てきてもらって、〈王の剣〉の前でそれを話してもらうのはできないの?」

 オーギスは目を瞬いた。

「……? まだ気づいてないわけ?」

「えっ?」

「これをおれに言わせるかな、普通……。あのさ、おれは既にただの人格であって、おまえが今見てるのは幻影みたいなもの。日記帳があるおかげで見えてるだけ。幻影とはやっぱり少し違うか……実態はあるけど、これはおれの体とは言い難い。そんなだからそもそもおれは、この記憶の空間から出ることができない」

 ほら、と言って差し伸べられた手を取ってみた。掴むことができたし、彼の方もしっかりと握り返してきたけれど……。熱も冷たささえも感じない、何もないような手だった。

「……!?」

 ディオンは目を見開いた。それと対照的に、オーギスは目を細めた。蘇芳色の眼光が鋭くなる。ディオンに対して怒っている、というよりは自分か、他のどうしようもないことを哀しんでいるみたいだ。

 そう。

(僕にはなぜか哀しそうに見える。性格は意地悪そうなのに)

「ディオン」

 呼びかけてきた彼は、腕を軽く広げていた。〈魔女の悲劇〉の記憶を、動かない灰色の景色を背景に。そして少しだけ皮肉っぽく笑う。顔を歪めただけだったかもしれない。

「おれはもう、生きていない。肉体は、この事件の最中で、もう死んだから。……さあ、こうしちゃいられないんだって何回言わせるんだ? 話すから、もう何も言わずに聞いて」

「……うん」


❇︎❇︎❇︎❇︎❇︎


 ハッと意識が戻った瞬間には、ロジェは起き上がり、立ち上がっていた。軽くよろめきかけ、手の甲を額に当てて眩暈が治るのを待つ。

(しまった……! どれくらいの間気絶していたんだ? ディオンは)

 あの日記帳の方へと引き込まれていく彼の手を咄嗟に掴んだ直後、どこか真っ暗なところに落ちていったのだった。そこで空中分解して……。

 辺りを見渡すと、ただ動かない灰色の森が広がっていた。よく見れば、薔薇の木と針葉樹が見えない境目を隔て、分かれて立っている。

(針葉樹の森が薔薇の森に変わっていく瞬間。だからここは、二十年前の記憶の中)

 だとするとここは〈記憶石〉の記憶の中か。だが〈記憶石〉にこんな空間を作り出す力がある、とは聞いたことがないから、実際にこの場所を作り上げているのは日記帳のほうか。

(日記帳の力を引き出せるディオンのことを掴んでいたから、ワタシもここまでこられた、と……)

 それならば今ここに広がっている中心あたりに彼は引き摺り込まれているはずだ。つまりは、あの〈悲劇〉の最中さなかを模した儀式会場に。

 そしてそこには、触れたくない忌まわしい過去がある。自分が犯してしまった罪が眠っている。

 見たくない、見たくない、見たくない。だけど。

 懐から伸縮性の紳士杖を取り出した。ディオンやスザクと薔薇城に行った日以来、いつでも持っておくようにしているものだ。宿り魔を持たないロジェの、一番の武器。

(何を立ち止まっているんですか、アナタは)

 足を止めたくなる自分の気持ちを叱咤し、ロジェは駆け出した。薔薇の木が広がっていくその中央、二十年前の儀式会場へ。


❇︎❇︎❇︎❇︎❇︎


 じゃあ話すよ──。そう言ったオーギスは、静かな表情をしていた。少しだけ不思議そうな表情でもある。

「本当は要点だけ言えばいいんだけど、なんでだろ、おまえには全部知っておいてもらいたい。誰かに知っておいてほしいっていうか……。だからおまえが聞きたくなかったとしても全部、話す。口は挟むな」

 いちいち「おまえが聞きたくなかったとしても」だの余計な言葉をつけるのは性格上の問題だろうか、と思いつつ、ディオンは頷いた。

「うん」

「──あるところに、というか森の中に、一人の魔月目の少女が住んでいた」


 彼女の名前はタヴィア。当たり前のように孤独だった。ただ一人の話し相手だった幼馴染のおれがいても、尚。そもそも魔月目の民の中では「森の中以外で暮らしてはならない」という掟がある。それは当然、人と交わらないようにするためだ。時空の移動ができる力は、誰に悪用されてもおかしくない。だから他にも「癒者として意外に力を使ってはならない」、「魔月目の力を、魔月目でない者に明かしてはならない」などと決まりがあった。

 その掟により、森とロレンタの街の間には見えない境ができていき、魔月目の民は孤立した存在となった。中には、森に迷い込んできてしまった〈普通の人間〉と魔月目の民が出会い、情に絆されて子を作ることもあったが、到底長続きはしなかった。大概の場合、〈普通の人間〉は時が経ってからその恐ろしさに竦み、逃げたから。そして魔月目の民のその見た目から、目があった者は石に変えられるという噂までたち、いよいよ交わることは無くなった。でも。

 一番恐ろしいのは、誰もがそれを「仕方ない」と諦観していたことだった。

 怖がられながら生きたいわけでもない、危険な目になど遭いたくないから、自分たちもまた下手なことはせずに森に閉じこもっていよう。そう、魔月目の皆が思っていた──ただ一人、タヴィアを除いて。

 彼女はよくおれに言った。

『どうして赤い目を持つ者は、他の人間たちと会ってはいけないの? 間違っているわ。私たちが何か、悪いことをしたと言うの?』

 ある時、森の境目付近で魔月目の人間と〈普通の人間〉が出会い、口論になったことがあった。その魔月目の民は意味もなく危険視され、銃で撃たれて殺された。タヴィアは更に言い募った。「街の人たちは魔月目の自分達をよく知らないからこそこうなってしまう。本当は同じ人間として手を取り合えるはずなのに」と。

 多分、タヴィアは森に閉じ込められて虐げられながらどうしようもなく生きている意味が掴めなかったんだと思う。だからその、夢物語のような理想論に縋っていたんだろう。そうしなければ耐えられないほどに、彼女はあまりにも真っ直ぐな一本の直線だった。誰かに冷たくされた時には、おれに泣きついてきたこともあった。彼女が涙を零せるのは、一人の時でも、他の誰の前でもない。おれの前だけだったのに。なのにおれは──タヴィアが悩み、足掻こうとしているのを、隣で見ているだけだった。

『ねえ、オーギス、あなたはこのままでいいと言うの? あなたはこのまま、この森から外を見ることなく、生きていけると、いうの?』

『おれは、それでもそうやって生きていくしかないんだと思う。誰を呪うわけでもない、それが運びだから』

『悔しいとは……』

『思わないわけじゃない。それでも、どうしようもないことがこの世にはある。そして無理やりどうにかしてはいけないこともまた、この世にはある。それでも、いつでもおれはそばにいるから。だから、泣かないで』

 不器用に付け足して励まそうとするおれにタヴィアは落胆したような、納得しきれないような、そんな顔をして涙を拭った。


「これは、ロレンタ王国の歴史の、裏側なんだね。裏側の黒い部分」

 ディオンは足元に視線を落として呟いた。そのまま大理石の段に腰掛ける。

 輝かしい奇跡と眩い魔法に満ち溢れたロレンタ王国の影に、暗くて陰鬱な差別があった。何人もの人の慟哭を森に閉じ込めて、王族たちや街の人たちは平和を謳い、盃を交わした。

 口を挟んだことに対して何か言われるかと思いきや、オーギスが石段の上に立ったまま腕を組んで、「そうだな」とだけ答えた。

(僕だってその街の人たちの一人には違いないって言うのに)

 オーギスはそのことに関しては何も触れない。いくらだってディオンのことをなじれるだろうし、詰られ踏みにじられたとしてもディオンは何も言えないのに。ただ動かない空を見つめた横顔に幾千もの思いを隠して。


 そんな時に、あの男が現れたんだ。何もかもを嘲るように烟った紫目と、裾が長い真っ黒なコートがおれには死神にしか見えなかった。彼は……ジーグと名乗った。

『君は、ずっとそうやって己の内での葛藤に耐えていたんだね』

 そう言ってタヴィアの手を取った仕草も、優しげに細められた瞳も、労わるような包み込むような微笑みも、全部怪しいと思った。何かこの男は企んでいるとおれは思った。だけど。

 初めて自分の話を親身になって聞いて、肯定してくれたジーグに、タヴィアは心酔していった。おれは止めた。止めようとした。

『タヴィア、絶対にあの男はおかしい。変な道に踏み込むな!』

『ジーグ様はおかしくなんてないわ! あの人は、初めて私の話を聞いてくれた』

『タヴィア……!』

 守りたかった。彼女のひたむきさを、誰にも悪用してほしくなかった。でも、タヴィアの話を「どうしようもない」などと一蹴したおれは、あまりにも無責任で、今更守りたいだなんて言うのは烏滸がましいとわかっていた。

 ジーグはおれたちの意見が割れたことにも鋭く気づいたようだった。気づいた上で、タヴィアに切り札を差し込んだ。

『それならば、実際に行動を起こしてみる気はないかい?』

 どうやって、と尋ねたタヴィアに笑って見せた。

『君たち自身が持っている力で、だよ。過去を変えるんだ。虐げられてきた魔月目の民たちが、その民の持つ力で復讐をする。美しいと思うだろう?』

『美しいわ……』

『……タヴィア! 目を覚ませ! おれたちは未来に行くことができるけれど、過去に行くことは禁止されているんだ! 過去に戻った者は厳しく罰せられる。死が待っている!』

『君、そんなのは迷信だよ。タヴィアは今から素晴らしいことをしようとしているんだ。これ以上、このことに関して反対している君が口を出すのはおかしくないかい?』

『お、おまえは、どうして……!?』

 魔月目じゃないのにも関わらず、どうしてタヴィアをそうやって唆す? おまえの本当の目的は、なんだ。掴みかかってそう聞くと、彼は「別に」と肩をすくめた。

『私は迫害に対する恨みから動いているわけじゃないよ。私にとってこれは遊戯なんだ。影の人々の不幸の上に立って尚権力を手にしている王宮側と、これまで傷つけられてきた君たちの思いは、どちらが強いのか。──タヴィア、私は君に賭けているんだよ』

 そしてジーグは「知っているかな」と言って人差し指を立てた。

『今から十七年前に、城とこの森の間あたりにある儀式会場でロレンタの姫君の生誕祝宴会が行われた。そしてそこに様々な〈子供〉が呼ばれて、姫に言葉を贈る儀式が行われた。その場で発せられた言葉は、そのまま真実になるんだ』

『知らなかったわ、そんな儀式……。そもそもお姫様の生誕祝宴会なんて行われていたのも知らなかった』

『それはそうだろうね。だって、魔月目の民は一人も呼ばれなかったのだから。ロレンタの人間でありながら、十二人の〈子供〉の中にだって一人もいなかった』

『そんな……』

『タヴィア、過去を変えてみないかい──?』


「つまり、一度は何も起きず平和に起こった生誕祝宴会があったってこと!?」

 ディオンは思わず叫んだ。オーギスは相変わらずのつれない表情で頷いた。

「あった。今おれが話していたのは、既にパラレルワールドと化した生誕祝宴会の十七年後の話だ。……事件が起こったのは今のおまえにとって何年前だっけ?」

「二十年前」

「そう。じゃあ説明すると、その今から三年前に、タヴィアは更に十七年前の過去に行って、事件を起こしたわけ」

 頭が混乱してきた。ええっと、つまりディオンたちが前提としている〈事件が起こった世界〉の前に〈事件が起こらなかった世界〉があったわけで……。ああ、とここで思い出した。

(あの〈神の日記〉を見に行った時……)

 ヨルも言っていたように、確か〈魔女の悲劇〉のところから筆跡と紙質が変化していたのだ。それはまるで書き変えられたように。

「理解した? おまえの頭の中がこんがらがってないといいけど」

「うん。とりあえずは。でも今にも頭から煙が出てきそう……」

「……」


 ジーグはタヴィアに言った。自分のための物語を作り上げてみないかと。糸車で糸を紡ぐように、悪意と恐怖でバラバラになった世界を再び一本の筋に戻さないかと。そして──その世界の頂点に立つのは君なのだ、とも。復讐を果たせ。要約すれば、ただそれだけの話で……。

 そして、とうとう悲劇は起こされた。

 タヴィアがとうとう過去に手を出した。一人で行こうとした彼女の手をぎりぎりで掴んで、おれも追っていくことができた。

 ジーグに言われた通り、おれが口を出す資格なんて何もなかった。それでもいても立ってもいられなかったし、過去に行くことは禁忌だから、〈血肉ノ技〉を使ったのと同じようにタヴィアは殺されてしまうと思ったから。……彼女はそのことを本来は知っていたはずだけれど、もう既に忘れてしまっていたんだと思う。それだけ必死で、ジーグに追い縋って、足掻こうとしていたから魔月目の禁忌など頭から消え去っていただろう。

『ローズ姫は十五歳の誕生日、糸車の錘の針に指を刺して、永遠の眠りにつくわ……』

『違う! 姫様は眠るだけだ。それは永遠ではない! ローズ姫様は、全ての呪いが解けた時、愛と共に目覚めるはずだ──!!』

『邪魔をしないで!!』

 タヴィアの言葉に対して、最後の、十二人目の〈子供〉が叫んだのを引き金に儀式会場は一つの嵐の渦中となった。風が渦巻き、柱は倒れ、破片が飛び、傷ついた人も、気絶した人も入り混じって……。

 その一方で、おれは。

 おれは禁忌を犯したタヴィアの死を防ぐ手立てを考えようと躍起になっていた。タヴィアが過去に飛び出して行ったことが魔月目の掟に認識される前に。時間が、あまりにもなかった。あまりにもなかったから。勢いに任せて一つだけ思いついた。


「思いついたんだ!」

「ああ、思いついたよ。おれ自身の使える〈術〉でタヴィアを死なせない方法を、ね」

 オーギスは思わず立ち上がったディオンを真っ直ぐに見つめてきた。蘇芳色の目に、何故だか暗い光が宿っていた。

「〈破壊術〉のこと? 舞踏会で助けてくれた時の」

「いや、違う。もう一つの方なんだけど……〈自戒術〉って知ってる?」

「じかいじゅつ?」

「知るわけないよな。……というか知らない方がいいし、絶対勧めはしない。……そのわざは自分自身を滅ぼすことになるから」

 オーギスは苦々しい笑みを口元に滲ませた。

「……?」

「自分自身を好きなようにあつかえる、という技だよ。例えば今のこのおれ。〈自戒術〉によって自分の一部を日記帳に残したから、こうやって今話せている。それを使ってさ……」


 それを使って、つまり自分を操って、おれはタヴィアの身代わりになった。彼女が罰せられる寸前だったのだと思う。〈自戒術〉を唱えてタヴィアの罪を背負ったその直後、身体を切り刻まれるような痛みが走った。

『ぐはっ……』

 その場に崩れ落ちて、ただ死を待った。後悔は……なかったんだと思う。どちらかというと幼馴染の命を救ったことで満たされたような気がしていた。ひたすらに真っ直ぐな彼女は、少し道を間違えてしまっただけで、やり直せるから。どうしようもなく利己的で、弱くて、大切な人を守れなかった自分とは違うからって。……美しいほどに赤い血と、命が、身体から流れて出て行くのを感じていた。

 でも本当は。

 痛くて仕方なくて、これが本当に正しい選択だったのかわからなくて。不安で。

 誰もが惨劇の中で、それぞれに悶え苦しみ、血を流していた。瓦礫の破片が頭に当たって死んだ者もいただろう。おれ一人なんかのことを誰も気にもとめないほど酷い有様だった。

 なのに。倒れて呻き声すら出さずにいるおれを庇うように抱えたやつがいた。

 同い年ぐらいの見た目でさ、茶色い髪に、澄んだ青い瞳……。あの儀式に呼ばれていた〈子供〉の一人だったんだろうな。

『駄目だ! 死んじゃ、だめだあっ!』

 目に必死の色を浮かべて叫んだ彼は。その少年は。

『もうすぐだから、もうすぐ終わるから、生き延びて……!』

『──ど、どうして、おまえは、他人のことなんて……。おれは……魔月目だ……。なのになんでおまえ、そんな顔をして、おれのこと……』

『魔月目とか、魔月目じゃないとか、関係ないだろ!!』

『──っ』

『同じ人間だ。そうだよね!? ……ねえ、どうしたらいい?』

 少年の声が急に弱々しくなった。おれの傷をさっと見て、助からないとわかったのだろう。それを必死でおれに悟らせまいとしながらも、顔に出ていた。

『どうもしなくていいよ。他人であるおれのことより、自分のことだろ』

『君は……』

『おれは、もういいから。だから──、その代わりに彼女を助けてやって』

 既に意識が朦朧としていて、おれはうわ言で色々呟いたんだと思う。タヴィア、とか助けたかったんだ、とか。

 気づけばあれほどうるさかった耳元の風が止んで、心地よいような暖かい空気に包まれていた。そこで死んだ──わけじゃなかった。「できるかわからないけど」とあの少年が呟く声が聞こえたから。

『おまえは……何をしようと』

『君を、僕の中に取り込む。僕に宿らせる』

『……は』

『これしかないんだよ! 僕は君に今みたいな卑屈でいてほしくない。今出会ったばかりだけど、生きてほしい』

『何言ってんだよ! 生きてほしいなんて、無責任にもほどが……。それに人間を宿り魔にするのはほぼ不可能だ。相当な代償がいる。……おまえは、いままでの記憶は確実に全部失うことになる』

 おれを抱き抱えていた少年の顔に、初めて躊躇うような色が差した。少しの沈黙のあと、泣き出しそうな顔を上げて、呟いた。

『それでもだよ……』

 そしておれは、彼に取り込まれるのと同時に、最後の力を使って少年の肉体を安全な未来へと送った。ここにいれば、いつ少年もまた致命傷を負うようなことがあってもおかしくはなかったから。


 それが、全てだ──。そうオーギスは話を締めくくった。

「その少年が」

「わかってるよ。僕だって言うんでしょ」

「そう」

 ディオンは俯いた。「それで?」と問いかけた声が、思いの外低くなった。

「それでっていうのは?」

「君の肉体はそれで死んだの? 結局、君は」

 タヴィアさんを庇って、死んだの? オーギスは軽く首を傾げた。

「肉体は死んだ。人格はおまえの中、だけど。……ディオン、なんか怒ってる?」

「怒ってるかって?」

 キッと顔を上げて、その勢いのままにオーギスの胸ぐらを掴みかかった。意外なほど呆気なく彼の体が倒れて、馬乗りになるような形になる。もはやディオンは何も考えていなかったが、偶然にも地面の石のタイルが割れて、芝生が出ているところだった。

「痛っ……。ディオン……?」

 恐る恐るといったように目を見開いてディオンの顔を凝視するオーギスに、吐き捨てる。

「怒ってるよ。すごく怒ってる。僕が君を取り込んだとか、記憶がなくなったとか、そういう話じゃない。君は自分の命を捨てて誰かを庇うことを美しいと思うの!?︎」

「タヴィアの身代わりになったこと?」

 オーギスもまた険悪な表情を剥き出しにした。

「美しいだなんて思ってない! でもそれしかおれにはなかったんだよ!」

「なかったかもしれない。確かにタヴィアさんを助けるために、君は犠牲にならなきゃいけなかったのかもしれない。それでも、それを完全に正しいことのように話すのは許せない。〈ディオン〉は君に生きてほしいと言ったんでしょ?」

 全ての記憶を持ち、あの場にいた彼──〈ディオン〉は。

「彼だけじゃない、タヴィアさんだって多分、オーギスに生きていて欲しかったに違いないよ! ……そばにいるって、言ったんだろ?」

 押さえつけて覗き込む形になったオーギスの顔がくしゃりと歪んだ。彼は抵抗するのをやめて、ただディオンの顔を見つめ返してきた。迷子になった子供みたいな、表情。

「ディオン、おれ……」

 と。

 わずかな足音を耳が拾った。音を殺しつつ駆け足で近づいてきている。

(ここには誰もいるはずないのに。でもいるとしたら……!)

 咄嗟に振り向いて片膝をつき、オーギスを後ろに庇って両手を広げた。

「敵じゃない、攻撃しないで!」

 叫んだのと同時に、飛び込んできた黒い影が振り上げていた棒のようなものの攻撃を素早く横に流したのが見えた。ザンッと一陣の風が巻き起こり、止まる。

「その少年は?」

 そう問いかけてすくっと体勢を直したその影──ロジェが肩をすくめた。


「あ、あのね、ロジェ。この人はオーギスで、日記帳の中にいた人で……」

 片膝をついたままの体勢で要領を得ない説明を始めたディオンを、知らない少年が軽く突き飛ばして立ち上がった。キッとディオンを睨む。

「おまえもだろ! 人のこと庇って、平然と自分の命を晒しているっていうのは」

「それとこれとは違う! この人はロジェっていって僕の……、えーっと」

 あれ、なんて言えばいいのかなぁ。どうやら困っているようなので、助け舟を出した。

「仕事の同僚であり、同居人じゃない?」

 ロジェは構えていた伸縮性の紳士杖を縮めた。まだ完全にしまうことはできない。このオーギスというらしい少年が、本当に敵でないと言えない以上。ディオンが騙されている可能性だって、まだある。

 当のディオンは首を傾げた。

「それもそうなんですけど、もっとなんていうか、その……」

 納得がいかなかったらしく彼は唸った。そして、ああ、と言って閃いたような顔をして笑う。

「僕の保護者です」

「……」

「ロジェがついてきてくれてるとは思わなかった」

「ついてきたというか……」

 日記帳に引き摺り込まれたのはディオンのみで、自分は彼の腕を掴んでいたために来られただけだ。要するに、服やらの装飾品や、手荷物と同じ扱いだ。

 一人、蚊帳の外になっていたオーギスというらしい少年が突然動かない空見上げて、「ディオン、もう時間がない」と低く囁いた。

「おまえたちはもうそろそろ帰らないと、日記帳から出られなくなる」

「どうして!?」

「もともとここはおれの記憶でできている空間だ。つまりは過去を〈自戒術〉の力で無理やり保存しているわけで、人が立ち入れば劣化が激しくなる」

「ああ、そっか……」

 ディオンは頷いたが、ロジェはまだよくわからない。

「彼は……?」

 小声で尋ねると、ディオンはまた微妙な顔をした。

「日記帳の持ち主で、タヴィアさんっていう〈魔女の悲劇〉を起こした〈魔女〉本人の幼馴染で、……そして僕の言ってみれば二重人格の〈彼〉です。あとで話すけど、彼はここから出ることができないんです」

「敵では……」

「ありません」

 彼はきっぱりとそう断言した。今までオーギスは、二重人格の件でディオンのことを苦しめてきたというのに。オーギスのことで「自分が暴走したなら、迷うことなく殺してください」とまでロジェに言ってきているというのに。

(でも、詳しいことはまたあとでだな)

「どうやったら、ワタシたちは元の場所に戻れる?」

 ロジェの問いかけに、初めてオーギスが答えた。

「それについては心配ない。おれが送り返せばいいだけ」

 そして少し俯いて、ロジェたちに背を向けた。

「勝手に招いたのはおれだから、流石にそこまではやる」

「じゃあ、頼むよ」

 ディオンが一歩前に出て、オーギスに近づいた。

「オーギス、最後に、いいかな」

「何」

 ディオンは、彼にしては珍しいことに結構きつい目をしていた。ロジェはなんとなく一歩退いた。この二人の空間に、容易に踏み込んではいけない気がした。

 ディオンが、引き結んでいた口を開いた。

「オーギス、僕は君のことが嫌いだ。性格悪いし、いつも一言多いし、目つき悪いし、それに自分のことを酷く扱って、勝手に死のうとして、実際に肉体は死んで。すごく嫌いだ。嫌いなんだけど……、何か僕にできることはあるかな」

 オーギスがはっと背を向けたまま動きを止めた。

「おまえは、またそうやって……。最後の最後で、甘すぎるんだよ」

「違うよ、弱いんだよ」

「それでいて優しいんだろうな」

 オーギスが何故だか微笑む気配があった。事情を知らないロジェにも、その切なげな感情が伝わってきて、哀しくなった。

「じゃあ、一つだけお願いする」

 なんでも言って、とディオンが「君が嫌いだ」と言ったままの口調で、しかし切実な響きの声で言った。

 オーギスが振り返る。これが彼を見る、彼の声を聞く最後になるのかな、とロジェは思った。さっきのディオンの言葉で、オーギスが既に生きていない人間だと察していた。

「そばにいるって言ったのにいられなくてごめんって、タヴィアに伝えて」

 来てくれて、ありがとう。じゃあ、また。


❇︎❇︎❇︎❇︎❇︎


 純白のシーツの上に腰を下ろして、エドワードは頭を抱えた。

 王宮の生活塔、自室。もうずっと前──養子として王族に迎え入れられた時から使っているこの部屋が、今はまったく知らない場所のように思えた。

『エドワード様は既に国王になる未来を持った身だ。王族の男性は、既に彼しかいない』

『だが実際に王族の血が流れているわけではない。それに、崩御されたレオナルド・ジャレット陛下のこともあったから、あまりに若い国王というのは考えものだとわかっただろう』

『しかし。ではどうするというのです?』

『まだ猶予があるだろう? エドワード様はまだ成人されていないため、そもそも今すぐに国王に立てることはできないのだから、少なくともそれまでの間は政治権は国王ではなく議会である我らにある』

『それまでに、つまりあと一年の間に……』

『我々は次の国王を決める』

 大臣たち二人が立ち話をしているのを、聞いてしまった。

 エドワードは養子だから、王族の血が実際には流れていない。母は国王がリザード陛下だった時代の王妃の妹で、彼女は不妊症を患っているから、子供を身籠ることができない。そこでその哀しみを少しでも紛らわせるために、孤児であったエドワードが養子として迎え入れられた。

(私は、国王になるのだろうか……)

 今、自分がまだ引き返せる位置に立たされているのは、大臣たちがはっきりとは決断しかねているのは、この身体に流れる神聖ではない血のお陰だ。そして同じ血を持っていながら、エドワードの父が王になることはできない。エドワードは養子であれど王族の子として迎えられたが、父は王族の家族という完全に王族ではない立場だ。つまり、結局のところ今の法で王になれるのはエドワードだけ。

 歳上の義従兄弟にあたったレオナルド陛下と同じ道を、自分もまた歩むと言うのか。答えは既に出ている。

(……無理だ)

 自分には。嵐の中で、それでも前を向いて立ち上がることが、できない。

 寝台のシーツに皺が寄るのを気にかけて、ゆっくりと体を倒して横たわった。うなじに当たったきつく結んでいた髪の紐をそっと解く。

 国王として批判されながら最期には自分のために生きた義従兄弟も、彼を慕い、彼亡き今も一つの目標に進んでいくあの〈王の剣〉たちも眩しくて。眩しすぎて。自分には、あんな風に共に未来を見て笑い合えるような人がいないから。

 あと一年。あと一年で、エドワードは成人の儀を迎える。

 そうしたら──どうなるか。

(私に、選択肢はあるだろうか。ないだろうな)

 二十歳になった瞬間、きっと儀式の中で問われるだろう。「お前は国王になるか」と。でもその時には既に引き返せなくなっている。「はい」と答えるのが当たり前の場で、問われるのだろう。

 国王になんて、なれない。なりたいと思えないけれど。全ては誰かが決めるだろう。それは大臣たちかもしれないし、運命かもしれない。運命からは逃げられない。誰も。


❇︎❇︎❇︎❇︎❇︎


 コカルという薬草の丸い実を集め終えて、息をついた。人間よりも植物のことを考えて温度を調整している温室なので、三月に入ったばかりだが少し暑い。アナスタシアは腕まくりをした。

「ジェシーさん、こっち全部終わりました!」

 アナスタシアの呼びかけに、同じように屈んでプランターの他の薬草を見ていたジェシーが白衣の袖を翻してにっこり笑った。

「だいぶ作業に慣れたわね。手際がいいわ」

 ジェシーは薬剤師であるアレキスの助手で、今アナスタシアの面倒を見てくれている人だ。薬草について詳しいのはもちろんのこと、優しいし、しっかりしていて、憧れである。ブロンドの髪を後ろで一本の三つ編みにして丸眼鏡をかけている、ふわりとした見た目の若い女性だが、性格は結構ドライな感じだ。

『アレキスさんがもう一つ仕事を掛け持っていることは知っているわ。王宮にまで通って結構大変らしいっていうのも。でも私には関係ないことですから』

 〈王の剣〉について尋ねることはないし、アナスタシアやアレキスが時々王宮に出かけて行こうとも「いってらっしゃい」としか言わず、いつもこのガラス張りの温室で薬草を育てている。アレキスとしてはこのくらいの距離感が扱いやすい違いない。

 アレキスが〈王の剣〉の集まりに行くのについて行ってみたり、ジェシーと薬草を育てたり、たまに調合させてもらったり。薔薇の森を出てこのガルタに来てからの生活はアナスタシアにとってそれなりに幸せなものだった。楽しい。毎日が。

 もちろん寂しくない訳ではない。母と共に暮らせないというのは。どうしているかな、と不意に思ったりして、会いたくなることだってあるけれど。

(それでも、いつか当たり前に会うことができるようにするために、魔月目にかけられた差別という名の呪いをも解くために今、〈王の剣〉が動いているから)

 アナスタシアは、前向きでいられる。

「疲れた? 一回休まない?」

 ジェシーに言われて首を振った。

「全然大丈夫です! 植物を見てるの、わたしすごく楽しい!」

 目をキラキラさせて答えたアナスタシアに、ジェシーは苦笑した。

「元気ねえ。でも私が疲れたのよ。休憩しましょう、ハーブティーを持ってきたの」

 そう言って、はじの方の白塗りのベンチに腰掛けた。アナスタシアもぱたぱたと駆け寄って隣に座った。

「朝淹れてたやつ?」

「そうそう。実はさっき採ってもらった実の植物の、クコルが入っているのよ。葉っぱのほうね。いい香りでしょ」

 差し出された水筒の中身を一口、口に含むと、爽やかな香りが広がった。冷たさが喉に心地よかった。

「今採った実の葉っぱが、こんな美味しいお茶になるんですね……」

「驚くわよね」

 僅かに換気のために開けられた窓からふわぁと涼しい風が入ってきて、ジェシーとアナスタシアの髪を揺らした。いくつもの種類の植物が葉を揺蕩わせた。

 突然、温室のドアが勢いよく開け放たれた。驚いてビクッとしたアナスタシアと対照的にジェシーは一切動じずゆっくりと水筒の蓋を閉じた。

「アレキスさん、寒い空気が急激に温室に入ると良くないので、開閉はそっとお願いしたいです……と何度も言っているのですが。植物が枯れてしまいます」

 膝に手を当ててぜえぜえ言っていたアレキスが顔を上げて、「すまん」と手を合わせた。とりわけ申し訳なさそうな顔はしておらず、右手でパタパタと扇ぐ仕草をしている。

「今走ってきた勢いで……。それよりここ、暑くないか?」

「温室ですからねえ。植物優先なのが当たり前ですよ」

「アレキスさん、あんまりここには入ってこないで薬の調合ばっかりやってますからね。あと薬屋の客の相手とか」

 二人から言い返されてアレキスが「いや、まあ、そうだけど」と口籠った。

「ほら、早く扉を閉じてください。何してるんですか」

 助手に怒られたアレキスは、しかし、すぐにガラス扉を閉めることをしなかった。

「ほら、お前も一回入れ」

 そう扉の外にいるらしい誰かに声をかけている。植物たちの伸びた葉のせいでよく見えず、アナスタシアが身を乗り出した時。

「では失礼します、とヨルは一礼します」

 そう言ってひらりと入ってきた全身黒い衣装の少女……いや女性は、〈王の剣〉のヨルだった。相変わらずの冬の湖面のような静かな深い瞳でベンチに座っているアナスタシアとジェシーを一瞥する。

「ええっヨルさん!?」

 またしても驚いたアナスタシアと違い、ジェシーは「なんか変わってる雰囲気の人だから……アレキスさんのもう一つの仕事の方の同僚さんね」と頷いた。彼女の中で、アレキスの〈もう一つの仕事の同僚〉、つまり〈王の剣〉たちは変人揃いの集団ということになっているのだろうか。なんかひどいなぁって……あれ、よく考えてみると本当にそうかも。大体みんなそれなりに癖があるかな。

「紹介はいらないわ。それでなんです?」

 そう言ってアレキスの方を見る。

「あ、ああ。軽くそっちの仕事の方で召集がかかったから行ってくるっていうのと、アナスタシアはどうする? ついてくるか? どうやらディオンとロジェあたりが新しい情報を得たらしい」


❇︎❇︎❇︎❇︎❇︎


「なるほど。日記に〈術〉を使って持ち主本人の人格が入っていたわけか。それで〈魔女〉のことを直に話してくれた、と」

 シルバーの眼鏡の縁を光らせたスザクに、ディオンは頷いた。

「はい。彼はオーギスと名乗りました。……ところで、今先に全部話してしまっていいんですか?」

 というのも、まだアレキスと彼を呼びに行ったヨルがいない状態だからだ。二十年前に〈魔女の悲劇〉が起こった理由を知ったディオンはロジェにそれを全て話した上で、ヨルを伝令役に〈王の剣〉に集まってもらうことにしたのだった。それで、ヨルはこの王宮から一番遠いところに住んでいるルーカスから順に知らせて回って、ガルタ内に家があるアレキスが一番最後だったのだが、彼が来る前にみんながさっさと集まってしまった。

 レオナルドがいなくなってしまった今もこの王宮の大広間を集合場所として使えているのはエドワードのお陰だ。彼は「できることはなんでもする」と言った言葉通り、突然やってきたディオンたちを誰にも見つからないように隠し扉から招き入れた上で広間の扉をしっかりと閉じてくれた。

『こんなことしていると知られたら王宮の人たちには怒られてしまいますね。義兄さんと同じことをして、と』

 そう言いながら、エドワードは複雑な笑みを浮かべていた。誇らしげなようで、照れたようでいて、それでいて哀しそうな笑みだった。

「さすがに二人が来るまで待つか……、あ? ああ」

 スザクが言葉を止めて、ロジェが微笑んだ。

「噂をすれば、ですね」

 ガチャンとドアが勢いよく開きかけて、その勢いが途中で止まってゆっくりになり、やけにそーっととアレキスが顔を見せた。その後ろでアナスタシアがくすくすと笑っている。

「何をしているんだ? アレキス」

 スザクが変な顔をした。

「いや、これはだな……。外の空気が急に入ると植物が枯れるだろ」

「ここには植物なんて観葉植物しかありませんよ、とヨルは言います。ほら、早く入ってください」

 後ろから顔を覗かせたヨルが自分の二倍ぐらいあるアレキスを押して入ってきた。

 召集をかけてから二時間、ようやく〈王の剣〉が全員揃い、大広間の席についた。

「それで? 少年くん、あたしはさっきからさっさと話を聞きたいんだけど」

 そう蓮っ葉な口調で言ったのはイダだ。彼女は一番最初からこの大広間に集まっていたので、軽く待ちくたびれているのだろう。

「あ、そうですね」

 〈記憶石〉の中の記憶空間に入り、そこで日記帳の持ち主本人の人格に出会った、というところは既にアレキスとヨル以外には話済みだが、一応そこから始めることにした。

「僕は、オーギスという少年と会いました。彼は〈魔女の悲劇〉を起こした〈魔女〉、タヴィアさんの幼馴染であり、そして僕の二重人格だったんです……」

 一度はロジェの前で内容をさらっていたために、意外とつっかえることなく言葉は出てきた。オーギスのこと。タヴィアのこと。魔月目の民たちや、その扱い。そして〈悲劇〉の起こされた経緯。オーギスが最終的にどうなったのか。既に内容を知っているロジェを除き、全ての人がそれぞれに唖然としていた。

「なんていうか、〈愛〉の物語だね」

 そう呟いたのはルーカスだ。頬杖をついて笑っているが、思いの外落ち着いた目の色をしている。

「変なこと言うけど、タヴィアって子とオーギスの間にあったのはさ、悪酔いしそうなちゃちな恋愛感情なんかじゃなくて、ひたむきな愛情なんだろうなぁって。なんか良くない? 少女を守りたかった少年と、誰かに守られたかった少女と」

「あんたねえ、これは物語じゃないのよ? 実話なの。あんたとか外部の人間がなんやかんや言っていいような話じゃあないね」

 突っかかったイダは相当に感情移入していたらしく、気丈な性格に反して唇を噛み締めていた。

「そうやって魔月目の人たちとまったく関係ないところで言い返してるあたしだって外部の人間に過ぎないんだけどね……!」

「イダ、らしくないよ」

「らしくなくてもあたしなのよ」

「……」

 それまで無言でことのしだいを見ていたアナスタシアが首を傾げた。

「魔月目の人と何も関係なくはないよ、わたしがいるもん。わたしは魔月目だからって言わずにちゃんと考えてくれる人がいるのはすごく嬉しいです」

「……ありがと」

 口を尖らせてそっぽを向きつつも、イダが小声で呟いた。やはりらしくなく照れているみたいだ。そのやりとりの横で、

「ディオン、そのペンダントを借りてもいいか。一応お前でなくても中の映像は見られるだろうから確認したい」

 そう言ったのはスザクだ。

「あっ、はい。もちろんです。ところで映像は僕は見てませんよ? なんだか時間が止まったみたいな空間に出たので」

「……? それは俺の知ってる〈記憶石〉の働きとは違う気がするが。そこも含めて見てみることにする」

 ディオンの差し出したペンダントを受け取りながら、まだ何か言いたそうな顔をしているので、「どうかしましたか?」と聞いた。スザクは軽く居心地の悪そうな顔をしながら、

「いや、その……、大丈夫なのか?」

「え? 何がですか?」

 きょとんとしたディオンに対し、ますますスザクは顔を顰めた。気まずいような顔をして手をひらひらと振った。

「気にしないでくれ。忘れろ」

「はあ……」

「スザクさんが見せた身に合わない気遣いは失敗ですね、とヨルは冷やかします」

 横からあくまで無情で無感情な声がした。言い返したら負けだと思ったらしいスザクが手の中の青い石に視線を落とした。

 その時、パチンパチン、と誰かが大きく二度手を打ち鳴らした。一瞬で大広間が静まり返る。その静寂の中央で、それまでディオンの話を聞いてから何やら考え込んでいたアレキスが立ち上がった。

「それで、これでレオナルドの言っていた〈悲劇〉に関する全てを解き明かすことができたわけだろ? あとはそれを〈魔女〉に突きつける作業」

 あえて正体のわかっているタヴィアを〈魔女〉と、戦うことを「突きつける」と表現したのは、きっと気が進まないからだ。自分のしたことを未だに直視せず、薔薇の森に立てこもっている彼女に、言葉は悪いが現実を見せる作業を、したくないからだ。

 突きつけるべき現実とは、つまり。

 「タヴィアのしたことは全て、やっかみと八つ当たりの結果であり、そのせいで貴女はこんなにも尽くそうとしてくれた一人を失っているのだ」というのが、誰も口にはしなかったが、暗黙の総意であるように思えた。仮に、タヴィアが魔月目の民たちの屈辱を晴らそうと思った結果だったのだとしても。

 タヴィアが悪者だとは言わない。彼女が全て悪かったとなんて、言えない。それでももし、〈真実〉という言葉を使って彼女と戦わなければいけないのなら──。やはり、タヴィアは善者とはなれないのだろう。

 誰も気が進むわけじゃない。でも、ロレンタの姫君にかけられた眠りの呪いと──そして王国全体に、かけられた〈恐怖〉という呪いを消し去るために、〈王の剣〉は今。

 ロジェが仮面を抑えて俯いた。

「戦いに、なるでしょうね……。向こうの壁は、硬い」

「ああ。そう容易くはないだろうな。なにせ今までで倒せたのは〈魔女〉の手下のたった一人だ。今までのことから考えるに、あと二人は手下がいるな。一人目が〈分身術)と〈風〉の使い手の女。二人目に、レオナルドのことを……、レオナルドが戦った、道化師と名乗る男。その二人を倒したにしてもそこでぼろぼろになっては〈魔女〉本人とは戦えない」

 冷静な声で分析するスザクに、アレキスが頷いた。

「だが、俺たちの最後の〈仕事〉かもしれないからやるしかないんだけどな。……一つ提案してもいいか?」

 全員が何も言わずに沈黙で先を促した。

「敵を倒すって言い方をしたが、スザクの言った手下二人も、タヴィアって子も、誰も殺したくない」

「どういうこと!?︎」

 イダが叫んだ。アレキスは「言った通りの意味だ」と返した。

「向こうは、一人手下を失っている。こっちだって、司令塔だったレオナルドを、それからそれより前に三人の仲間を失ったんだ。失った……もう、戻ってこないんだよ。命を奪うってのはそういうことだから。これ以上、俺たちは誰も失いたくないし、だったら失わせたくもない。それが俺の考えだ……」

 今ここに集まっている中で最年長のアレキスの低い声が、少し震えた。彼は綺麗で汚れ一つない白いテーブルクロスの上で拳を握りしめた。少し間があって、「なるほどね」と呟いてルーカスがどこか宙の一点を見つめた。

「うん。俺もできれば誰も殺したくない、かな。できることなら、としか言えないんだけどね……」

 和解は、多分無理。自分達と彼女達の間にできてしまった溝は、そんなにもう浅いものではない。話し合いで全てが収まるのなら、きっと誰も最初から傷つかなかった。

 誰もが、自分もだという顔をしていた。無駄な血は流したくないし、流させたくないのだと。……一人を除いて。

「約束はできない、とヨルは言います」

 静かに、だがきっぱりとした声が上がった。ディオンは思わず声を上げた。

「どうして、ですか」

「どうしてもこうしても、訳あってとしか今は言えません。申し訳なくヨルも思いますが」

 他に何も言うつもりはない、というように彼女は口を閉ざして、どこからか出した扇子を弄び出した。完全なる拒絶。だがアレキスは、それに対して何も言わずに、少しだけ残念そうな顔で「そうか」とただ頷いた。

「それでだ。決めることはまだある。まず、薔薇の森にいつ行く? 俺たちにもそれなりの準備は必要だが、タイムリミットがある」

「三月十三日、でしたっけ? 確か」

 ロジェが肩をすくめた。

「なぜその日なのかはよくわかりませんが」

「ああ、そうだ。三月十三日。なんの日だったかな……なんかあった気がするんだけどな。それはさておき、いつの日を決闘に選ぶ?」

「それは……。では三月十三日をその日にするのはどうです? もう二度とやり直せない、その覚悟を持つ必要があるでしょう」

「みんなはそれでいいか?」

 誰もが頷いた。

「それまでに軽く戦えるようにしとかなきゃね」

 ルーカスが少し複雑そうな笑みを浮かべた。

「戦法は何かあるの?」

 アレキスがここにきて初めて笑った。

「俺だって思いつきで喋ってんだから、あるわけないだろ。それに俺たちはこれまで行き当たりばったりでやってきたから──」

 だから今回も、これが最後でも、自分達らしく戦おう。決然と言い切ったアレキスに、

「珍しくかっこいいこと言うじゃないですか」

「急に頼もしいことを言うのだな」

 両側から茶化すような声が同時に入って、それまで緊張していた空気がようやく解けたように感じた。言うなら、今だ──。そう思ったディオンは「僕から一つ、いいですか」と声を上げて、立ち上がった。

「あっ、一つじゃないや、二つなんですけど……」

「何個でもいいよぉ」

 アナスタシアが笑う。長い横髪が揺れた。

「まず、戦法っていう話があったんですけど、僕にタヴィアさんとの決着を任せてくれませんか?」

「え」

 アナスタシアの笑顔が一気に止まった。表情を凍らせたのは彼女だけではない。

「待った待った……。ディオン?」

 ロジェが慌てたように手で止めるような仕草をした。今言ったことは、ロジェにも話していない。日記の中に入ってから今まで、一人で考え続けてきたことだった。ずっとずっと。

「だから、僕が誰かに邪魔されることなくタヴィアさんと話せるようにしてほしくて……」

「な、何を言っているんだい? 危ないし色々辛いと思うけど」

「そうだよ。ディオン、流石に決着の部分を一人で背負い込むのは……」

 僕だって怖いよ、と心の中で言い返した。危ないし辛いことなんて重々わかってる。わかっているけれど、それでも。

「でも、僕にしかできないことが、僕にしか言えないことがある気がするんです。だって」

 オーギスは、僕の中にいるから。僕が宿したから。

「僕はどうして、あの時から二十年が経った今にオーギスに送り込まれたのかって考えた時に……。本当に安全な場所に送る、というそれだけならばもっと後でもいいし、もっと前でもよかったと思います。どうして、今。僕には、何か役目があると思うんです」

 ロジェが呻くような素振りを見せた。頭でも抱えたいような心情に違いない。それを見て、ごめんなさいと申し訳なく思う。ごめんなさい。見てる側も怖いよね。こんな頼りない僕が、ね。でも、僕ももう傍観しているだけじゃいられないんです。

「っっ……。それで、とりあえず二つ目って言うのは……?」

「それは別に危険でもなんでもないって言うか、三月十三日までに、という話なんですけど……。一つ調べたいことがあります」

「それは、何?」

「────」

 ディオンの言葉に、はあっと誰かが吐息を漏らした。

「その一つ目のことも二つ目のことも、だが」

 ため息の主──スザクがいつもの鋭い眼光のまま、口を開いた。

「わかっているんだろうな? お前のことを心配している人間がいることを」

 ディオンは大広間に集まった〈王の剣〉たちとアナスタシアを見渡した。

「わかってます。でも……」

「俺もわかっている。そこまで自分で考えているのなら既に何を言われようと退くつもりはないんだろう? できる確率が1%でもあるのなら自分は行く、と言うのだろう?」

「スザクさん……」

 きゃああっとイダ声を上げた。

「少年くん、大きくなったねえ! ……ねえ、あたしから提案! 三月十二日の夜に、ここで決起集会しようよ! あたしまた鍋料理持ってくるからさ」


❇︎❇︎❇︎❇︎❇︎


「珍しいね。スザクから誘ってくるなんて。どうしたの?」

 ルーカスの、明るい茶色の瞳に真正面から見つめられ、スザクは答えに窮した。話がないわけではないのだが、どう切り出したものか。仕事の集会が終わった後で、すぐまた仕事の話というのはどうなのだろう。……それに、何故その話を〈王の剣〉の中でもルーカスに持ちかけるのか、自分でもよくわかっていないところがある。

 大広間での話し合いが終わって、それぞれ帰路に突き出した時、咄嗟にルーカスを捕まえて誘ったのだった。「喫茶店にでも行かないか」と。らしくもなくカフェに寄ろうと言って不器用に誘ってきたスザクに、ルーカスは例の如く笑顔で「いいよ」と答えた。

 スザクが何も言わないので、ルーカスは少し困ったような顔をした。細長い指で中身の入ったティーカップを包み込むようにして持っている。ややあって、

「なんかスザクとこうやって話すの久しぶりだよね」

 と彼はどこか優しいような目をした。

「……ああ、そうだな」

「〈王の剣〉ができたばっかりの時は結構二人でこうやって喋ったりしてたよね。なんか懐かしい」

 同い年なのを口実に、よくスザクとルーカスは〈王の剣〉の集まりがあるたびに一緒にいた。多分、あの頃はお互い一人ではいられなかったからだ。一人でいることを怖いと感じていた。底知れない闇の中に、また引き摺り込まれてしまいそうで。

(強くなったのだな。あれから)

 少しずつでも、やはり五年前とは違う自分がここに在る。

 そして強くなったと言えば。

「あの少年、変わったよな」

 ディオンのことだ。ルーカスが「いよいよ本題に関わってくる感じ? それともまだ?」と言った後で、なにやら思い出したらしくにやっとした。

「スザク、あの子に大丈夫なのかって聞いて、すごいわけわかんない顔されてたよね」

「……それは思い出さなくていい」

「うん。でも俺もちょっとあの時は驚いた。実のところ集まるまで心配してたんだよね」

 ディオンがまた過去に感情移入し過ぎて落ち込んだりしていないかって。彼はことの他生真面目な顔になってそう言った。

 あの少年は、今まで何かあるたびに考え込み、そして考え過ぎてしまった。それは人に言われたことに関しても。いつだって自分を下へ下へと見てきたように思える。だからこそ、オーギスという二十年前の過去の象徴と出会って、また何やら言われたり見たりしたことで自分を責めて一人で傷ついたりしていないかと思っての「大丈夫なのか?」という言葉だったのだが……。

『え? 何がですか?』

 と少年はあっけらかんと聞き返してきた。

「あれは傑作」

「うるさい」

 また笑い出したルーカスの背をペシっと軽く叩いた。〈王の剣〉のメンバーといると、築いてきた〈冷静沈着〉の体裁がよく狂う。秩序を持ち同じ向きを指していたコンパスの針が、様々な磁力に乱されてあっけなくばらばらの方角を向くような感覚を覚える。

(だが、それを悪いことだとは思わない、むしろそれが元の状態に戻ることなのかも知れないな……)

 素のばらばらだった状態を、過去という名の磁石で揃えられ、いつの間にか秩序を保たないと自分を保てなくなっていたのかも知れない。

 なんて考えながら遠い目をしていると、ルーカスが苦笑いの表情で、

「ちょっと待ってよ、もうそろそろ本題に入ってください」

「それもそうだな」

 自分としても少し余計なことを喋って回想しすぎた感じがする。これ以上やると墓穴を掘りそうだ。

 懐から、ディオンから受け取った〈記憶石〉のペンダントを取り出した。仮面舞踏会の夜からずっと変わらない群青の光が瞬いた。

「〈記憶石〉というのは、物理的な衝撃を受けると、そのあたりの情景を全て映像化して記録する働きがある」

「うん、知ってるよ。俺もこのペンダントを手に入れろっていう指示が出た時には色々調べたからね」

「しかし、ディオンが引き摺り込まれた空間は時が止まったような場所だったと言う。ここで違和感が二つ。一つ目に、何故映像ではなく、画像だったのか。そして二つ目に、そもそも〈記憶石〉に空間を作り出す力はない。ディオンが行ったのが、〈自戒術〉によるオーギスの人格と〈石〉の二つが組み合わさって生まれた場所だったのだとすると、何故オーギスはわざわざ空間を作り出したのか」

「ああ、そうだよね……」

 頷いてから、ルーカスは「でもさ」と言って頬杖をついた。

「スザクがそれを人にわざわざ言うってことは、もうそれなりの結論が出てるんでしょ?」

「読まれているようで悔しいが、な」

 肩をすくめる。ここまできたからには隠し事は無用だ。いつもの癖で眼鏡を中指で押し上げた。

「仮説を立てた。まず、映像というのは画像の集まりであり、無数の絵として切り分けることができる。よって、〈記憶石〉の中にあった記憶の内の一枚を切り取り、そこを空間にして、ディオンを引き込んだのではないか」

「そうだね。でも」

「それは何故か、というのだろう? こうは考えられないだろうか? 映像の中にオーギスがディオンに見られたくないと思った部分があったのではないか、と」

 押し黙ってしまったルーカスに、ペンダントをぐっと近づけた。

「実際に、見た。オーギスがどれほど小細工をしてディオンに隠そうとしようと、俺たちは〈記憶石〉の中の記憶を容易に開示することができる。そして面白いことがわかった」

 スザクはルーカスに石を向けた。深い色で輝くそれの中に、全てが青に溶けた映像が映る。一人の少年を足元から映すアングルだ。おそらく、この少年がオーギスであり、彼が落とした記憶石から見た風景なのだ。

 オーギスは軽く肩で息を切らしながら辺りを険しい目で見渡していた。タヴィアを追って〈悲劇〉の最中へ到着したところらしい。タヴィアは既に映っている範囲の中にはいなかった。と。オーギスが目を閉じて、何かを呟こうとした。しかし、躊躇うように目を開けると、唇を噛み締めた。

「俺なりの解釈でいくと、ここで彼は〈自戒術〉で身代わりになろうとして、一度それをやめた。そしてここから」

 映像は続く。オーギスが俯いて別の何事かを小さく呟いたように見えた──と思った瞬間、その姿が掻き消えた。

「いなくなった!?」

 ルーカスが声を上げる。

 そしてしばらくして、再びオーギスの姿が現れた。彼は一度、もういいや、というように力の抜けた笑みを浮かべると、今度こそ別の何かを囁いた。間髪を容れず、その身体が切り裂かれたように血まみれになり、崩れ落ちる。

「ここからはディオンが話していたのと同じだからここで終わりにする」

 スザクが思わず押し殺したような声になってそう言うと、ルーカスが口を手で覆って頷いた。

「つまり、オーギスは身代わりになるその前に、どこかへ行って何かをしてきた、と?」

「そうでないかと俺は考えている」

「オーギスはディオンに話済みで、ディオンがそれを隠しているっていう可能性は……」

 ルーカスがそう口に出した後で、ないか、と呟いた。いつもの笑っているような顔だが、心なしか眉根を寄せているように見える。

「あの子は、良くも悪くも隠し事ができるほど器用じゃないよね」

「俺もそう思うし、実際さっきの集まりの直後にそれらしく『他に言われたことはないな?』と聞いたが、ディオンはきょとんとしていた」

「ふうん……。……ねえ、日記帳の中にいたオーギスの人格と、ディオンの中に今もいる人格っていうのは同じもの、なんだよね? 彼が肉体が死ぬ直前で日記帳にわざわざ人格を入れたとは考え難いけど、実際に日記帳の人格が〈魔女の悲劇〉についていろいろ喋ってるわけだから」

「多分だが、それは〈悲劇〉が起こされるより以前に日記帳に入れられた人格にも、オーギスが経験を重ねるたびに記憶が付加されていく仕組みなのだろう。何故わざわざ日記帳に記憶を残したのか、と考えると……」

「タヴィアちゃんのため、か……」

 ルーカスが感嘆のような吐息を漏らした。

 タヴィアが〈悲劇〉を起こす前に、もうオーギスは薄々先のことまで見ていたのかもしれない。そして自分が万が一にもいなくなった後で、タヴィアが日記を開くことで自分の過ちに気づけるように、と。

(それが彼なりの優しさ、だったのか)

 さっきの集会でルーカスが〈愛〉という言葉を使っていたのを思い出した。愛の定義なんていくらだってあるだろうけれど、これも一つの形か。

「でもディオンしか日記帳を本当の意味で開くことはできないってレオナルドが言ってなかったっけ? それだとタヴィアちゃんは」

「別に自分の人格を思い通りに操れるなら、タヴィアにのみ有効にするだのいくらでも条件をつけることはできる。あくまでディオンが例外に入っているのは、オーギスがディオンの中にいるからだ」

「ああ、そうか……」

 〈自戒術〉。なんと恐ろしい術なのだろう、と改めてスザクは思う。自分の身をまるで使い捨ての駒のように利用するのだ。オーギスがわざわざ身につけるのにその術を選んだのは、やはり魔月目の民という身分があってのことだったのだろうか。いつ襲われても仕方ないから、と。なんて残酷な結果なのだろう。

「どちらにせよ」

 ルーカスがティーカップに視線を落として言った。

「謎がまた増えたってわけだね」

 ディオンに対して、オーギスは何かを隠した。ディオンは素直な性格だから、少し目眩しをすれば簡単に信じ込む節があるから簡単だっただろうが、スザクたち大人はそうもいかない。何を隠している、少年。石の映像から消えたあの数十秒、お前は何をしていた。

「他のみんなには言う? どうする?」

「言わないほうがいいだろう。一応あと二週間もなく戦いの場に入っていくことになるわけだから、無駄に心配の種は撒かないことにする。もしもオーギスが、オーギスの人格が何かを企んでいるのだとしたら、二人で阻止する」

 たった数十秒という時間で、彼が何か重大なことができるとも思えないけれど。

「りょーかい」

 ルーカスがわざとか軽い声で答えた。拳をグーの形で突き出してきたので、同じようにして返す。ぶつけ合うと、コツン、という確かな感触があった。


❇︎❇︎❇︎❇︎❇︎


 真新しい薄手のコートがふわふわと舞う。なんだかくすぐったい感じがして、ディオンは思わず笑った。五段の石階段を降りて庭に出ると、春がすぐそこにいるのを感じた。まだ冷たいけれど、それでも和らいできた空気。夢のように柔らかく膨らんだ蕾たち。ロレンタの冬は長いと、前にメイベルが言っていたことがあったけれど、それがようやく終わるのかも知れない。

『今日、昨日言っていた件で色々調べるために出かけてきたいんですけど……』

 そう朝食を食べながら切り出した時、ディオンは既に出かける準備は整っていた。コートも、いつもの鞄も。椅子の背もたれにそれらを引っ掛けて、メイベルが焼いてくれたトーストを食べ始めると、ロジェは「どこから手をつけるの?」と聞いてきた。

『ええっと、まずはイダさんの実家の鍋屋さんに行って、〈トランティカの消えた子供〉について色々聞こうかなぁと』

『ん? 君が調べるのはそっちじゃなくて……あれ?』

 一瞬だけ見開かれた仮面の下の深緑の目が、不思議と爛々と光っていた。

『そういうことなの?』

『僕はそうなんじゃないかと考えました』

 微妙に意味もなくぼかしたような会話の後、ロジェが一気にカップの中の紅茶を煽って立ち上がった。カツン、とカップがテーブルの上に置かれて、くぐもった音を立てた。

『出かけると思ってなかったから何も準備してない。悪いけど、少し待っててよ?』

 そう言って、すたすたとリビングを出て行った。

 ディオンが何も話すことなく色々と勝手に取り決めていたことについて、何かと思わないことはないに違いないし、勝手にしろと言われても仕方ないなぁとすら考えていた。でも。

(ロジェはそれでも僕についてきてくれるんだな……)

 そう思ったら熱いもので胸がいっぱいになって、なんとなくの照れ臭さを覚えて、ディオンもさっさと朝食を食べ終えてリビングを後にした。……それで、一人で先に庭に出てきてしまってロジェを待っているわけだが。こうやってじっくりと庭を見るのは久しぶりで、なんだか気分が高揚するの感じる。

 煉瓦造りの花壇にかがみ込む。ムスカリやネモフィラが小さな青い花を膨らませていた。そんな中、少しだけ大きな黒紅色の蕾が目に入った。中にはきっと鮮やかな赤色を閉じ込めて、身を縮めている。何の花だろうか。そっと手を伸ばして、ムスカリの下になっていた蕾の葉を上に出した。

「それはねぇ、アネモネですよ。可愛らしいでしょう」

 後ろから聞こえてきた声にびくんとして手を引っ込める。メイベルが目を細めて笑っていた。その手には使い込まれた感のある如雨露じょうろがあった。「水やりは朝の日課の一つですからねぇ」と言いながら、近くの花壇の土に水をかけた。そこから小さく芽を出している堅そうな葉はチューリップだろうか。

「す、すみませんっ」

「ディオンくんがちょっと触ったくらいじゃ枯れたりしませんから大丈夫ですよぅ。それにしても、他にもっと目立ってる咲きかけの薔薇もあるのに、アネモネが気になったんですか?」

 沢山の蕾が首をもたげ、葉を伸ばしている中で、真っ直ぐにこのあまり目立たない暗い赤の蕾に目が行った。この蕾がアネモネだってことにも気づかなかったのに。それがなぜかって考えてみると……。

「今見えてるのが花びらの裏側だから、暗いような赤に見えてるけど、これが開いたらどんなに綺麗だろうなぁって思った……のかな」

 メイベルは嬉しそうににこにこした。「咲くのを楽しみにしててくださいねぇ」と言いながら、しゃがみ込んで、優しい手つきで根元の方に水をかける。如雨露から飛び出す繊細な水の光が眩しい。

「ディオンくんは実際にアネモネって見たことがありますか? ……あ」

 オーギスから聞いた、自分についてのところはメイベルに全て話してある。ディオンが過去に春を迎えた記憶を持っていない、そもそも二十年前からタイムスリップしてきた状態であると思い出したらしい。彼女は少し気まずそうな顔をしたが、今更気にしてもいられないので無視してしまうことにした。

「あると思います。……そういえば、昨日ガルタに行った時、どこかの家でもう咲いてました。紫のだったけど。あれは早咲きだったのかな」

「それは多分開花を早めたんでしょうね」

「そんなことができるんですか」

 驚いて目を見開いたディオンに、メイベルは少し考えるように上を向いて頷いた。

「ええ……はい。確か蕾に霧吹きで水をかけると開きやすくなるんですよねぇ。そしてほら、早く咲いた花を見た人たちに一足早く春をお裾分けできるんですよ」

「春を、お裾分け……」

「でもねぇ」

 メイベルがアネモネの蕾を見つめた。優しい目。皺皺な白い手が、そうっと蕾を包み込んだ。

「春はまだまだこれからですから、焦る必要なんてメイベルはないと思うんですよ。ゆっくり、どの花も自分の早さで咲いていけばいいんじゃないかしらねぇ」

 種として、地面の下で長い眠りを終えて、ようやく咲けるのですから。そう言ってメイベルは静かに手を下ろした。よいしょ、と立ち上がってディオンに向けた顔には、一転して心なしか悪戯っぽいような笑みが浮かんでいた。

「ディオンくんもね、誰か好きな女の子ができたら、赤いアネモネの花をあげるといいですよ」

 急にそんなことを言われて、「えっ、あっ、ええっ!?」と焦る。目を白黒させているディオンに、メイベルは、

「赤いアネモネの花言葉は、〈あなたを愛している〉なんですよぅ。もうこんな老婆にそんなこと言われても誰も嬉しくないでしょうし、お花って普通男性から女性に贈るものですからね。ディオンくんに託します」

 いや、託されても。困ったところで、ガチャッと音を立てて玄関の扉が開いた。

「お待たせ……ってあれ、何赤くなってるの?」

 黒いシルクハットに黒いマント、手には紳士杖という見慣れた出で立ちだ。白い仮面もまたいつも通りだし、その穴から覗く深緑の目も変わらぬ落ち着いた色をしている。

 ディオンは「いろいろあって……」とだけ答えた。


❇︎❇︎❇︎❇︎❇︎


『忘れてはいけないよ。二〇十一年の三月十一日まで、君は君が事件を起こしたのだということ、そして復讐の理由を、王宮権力側に知られてはいけない。全ての真実を隠して、初めて君の勝ちだ。でないと、結局魔月目の者どもの嫉みということで片付けられてしまうからね。それでは、君の復讐が完成したとは言い難いだろう?』

 今から三年前にジーグと出会って、今から二十年前の世界で〈魔女の悲劇〉と呼ばれる事件を起こして、「流石に期限が三年間だと向こうにあまりにも不利だろうからね」とジーグに言われて今から五年前の世界まで戻ってきた。戻ってきて、手下を得て、初めにグラザードに全国王たちを毒殺してもらった。キリとアルルカンに薔薇の森を守ってもらった。大きな力を手にしたような気分になって、それでも孤独を感じないことはなかった。

(なんで、なんで彼は……)

 今、静かな足音を、儀式場の芝を踏むその音を耳が拾った。タヴィアはぱっと顔を上げて──泣き出してしまいそうになってその顔を歪めた。

「ジーグ、様……」

 倒れた大理石の柱から立ち上がって、走り寄る。足がもつれそうになるのがもどかしい。

「ジーグ様、私……」

「タヴィア」

 果たして、彼は。「復讐を果たせ」と言ったあの日。自分のしたことがいいことだと思えずに泣きついたタヴィアを励ましてくれたあの日。最後に会った手下を当てがい「また会おう」と言ってくれたあの日と何も変わらない姿で、彼は駆け寄ってきたタヴィアの頭をそっと撫でた。堪えきれずに、涙が頬を伝って顎から落ちた。

「よく、ここまで頑張ってきたね、君は」

「私は、ただ、もう苦しい目に遭いたくなくて──ずっと怖くて……」

「わかっている。君がどれほどの思いをしてきたか、私はわかっているつもりだよ。今までなかなか会いに来ずに、悪かったと思っている。そしてタヴィア、あと少しの辛抱だ。君は、復讐を完成させることができる」

 そして、ジーグは言った。

「君は強い。とても強いよ。私はそんな君を信じてきたんだ」

 彼の灰紫の髪が頬に当たる。微かに烟った紫の瞳に見つめられて、身動きが取れなくなる。あまりにも深いものを秘めているようで、どこか儚げで寂しげで、手を離したらいなくなってしまうんじゃないかと怖くなるような、瞳。

「私も、あなたのことだけを信じています」

 ジーグは神様だ。ずっと苦しくて、生きている意味もわからなくて、ひたすらな悪意と絶望感に溺れそうになっていたタヴィアに手を差し伸べたのは彼だけだった。だって、信じて、唯一だと思っていた幼馴染のオーギスは〈悲劇〉を起こしたタヴィアをあっさりと裏切った。タヴィアの前から消えた。

(嫌いになったのよ……、私のこと)

 もうそんな過去のことはいい。いらない、幼馴染なんて。自分のことをただ一人「強い」と言ってくれた人がいるだけで、いい。それにタヴィアは今一人ではない。強い手下がいるのだから。

「あと一度だけ」

 ジーグはそっとタヴィアから手を離した。

「あと一度だけ、敵がここに来るだろう。戦いになるかもしれない。でも君のことは〈白い風〉と〈道化師〉が守ってくれる。君は敵のやつらから何を言われようと、気にしなければいい。自分のことを信じ続ければいい」

「敵は、私のことをどれくらい知っているの……」

「知っていたとしても、知っている気になっているだけだよ。彼らは君のことを敵として倒せばいいものだと思い込んでいる。愚かだよ。愚かだ。でも君はそうじゃないだろう?」

「そうじゃ、ない」

 私はまだまだ戦える。戦える戦える戦える。

 絶対にジーグのことを失望させるものか。もう味方を失いたくないんだ。大切な人。守ってくれる人。赦してくれる人。

「じゃあ、またね」

 軽く頷きかけてきてくれたジーグに、タヴィアは唇を噛み締めるて、小さく頷き返した。


❇︎❇︎❇︎❇︎❇︎


 二度目の来店。様々な食材が混ざり合った匂い、少しだけ金属質な鍋自体の匂い。そして沢山の声。少し騒々しいぐらいの活気が溢れたイダの鍋屋は、楽しい感じがしてすごくいいと思う。

「いらっしゃーい、って……はああっ!? なんであんたたちがうちの店に来てるのよ!?」

 ぎゃああと叫んだイダは、店のものらしい焦茶色のエプロン姿だ。年季の入ったエプロンを着こなしててきぱき働いているのが新鮮で……、

(こんなことを言ったら怒られるかもしれないけれど、イダさんの飾らない感じ、好きだなぁ。……ルーカスさんが振り向いて手を取ってあげないのが不思議なぐらいに)

 イダは多分だけど未だに片想いである。ルーカスは多分イダの気持ちに気付いてるんだろうけど……というのが他の〈王の剣〉メンバーの共通の見解だ。まあ、子供であるディオンに言えることなど何もないのはわかっているが。

「黙るんじゃないよ。なに、ただ鍋を食べに来たの? なんとなくそうは思えないんだけど」

 ロジェが肩をすくめた。

「はい。残念ながら。……トランティカの子供について聞きたくて。ここに確か写真がありましたよね?」

 道中、何もそのことについて話すことはなかったけれど、既にロジェは〈トランティカの消えた子供〉と〈イダの鍋屋〉になんらかの関係があることを思い出していたようだった。

(なんていうか、さすがだよな……)

 ディオンと打ち合わせ済みであるかのように言葉を選んでいく。

「前も言ったけどあたしはその二人について何も知らないわ。だって写真に一緒に写ってるのはあたしのひいおばあちゃんだし。……でもまあ、おばあちゃんが何か聞いてるかもしれないから、会わせてあげる」

「ありがとうございます!」

 やった、と声を上げたディオンにイダが少し訝しげな顔をした。無意識らしい仕草で赤茶色の髪をかき上げると、丸い額がちらりと見えた。その耳で外しているのを見たことがない金色のイヤリングが揺れていた。

「少年くんが昨日調べるって言ってたのとの関係が見えないんだけど」

「僕にもよくわからないから聞きに来たんです」

「まあいいさ。好きにして。……二階の部屋で待ってなよ。おばあちゃん呼んでくるから」

 お願いします、と頭を下げると、「早く行きなよ」と言いながらイダはにっと笑ってロジェの肩を軽く小突いた。

「お母さんがあんたたちに気づいたら騒がれちゃうわよ。手品師ジョーカー様がまたうちの店にって。前はあの後大変だったのさ。レオナルドのことで色々あって全然そんな気分じゃない時にね」

 それは本当に申し訳ないですね。ロジェが軽く仮面の奥の瞳を苦笑いの形に細めて言った。

 レオナルドのことで、色々。今イダは軽い感じでそう口にしたけれど、きっとあの時、イダも含めて〈王の剣〉の中に深く傷つかなかった者なんていない。あの時のことだけじゃない、ディオンだって、今持っているのはたった約二ヶ月の記憶だけだけれど、その中にあまりにたくさんのことがあった。押し潰されそうになって、胸を掻き毟られるように苦しくて。それでも今日という日まで歩んできた。

(僕も少しは──強く、なれたのかな)

 弱くなくなった、とは言わない。強くなることと弱くなくなることは同じじゃないって思える。

『弱い自分を、愛せ』

 人が弱いのは、助け合い、補い合い、分かち合うため。人の数だけ散った物語の中で、僕の物語の主人公は僕だから。僕だけだから。たくさんの人の声に押されて、歩むんだ、これからも。


 前と同じように階段を上がって、小さい一室に入った。あの時から何一つ変わらない吊り下げられた裸電球と、座式の低いテーブル。見上げると、屋根裏部屋と繋がっているという出入り口がぽっかりと開いていた。あそこからヨルさんが入ってきたんだよなぁと思いながら笑ってしまう。

 そして、あの写真。イダの曽祖母と、カミーユ・トランティカ、カミオ・トランティカが写った一枚。すっかり古くなり色褪せた白黒写真。あの時は気づかなかったけれど他の写真もこのカミーユとカミオ兄弟が写ったものだった。すごく幼い頃のものもあれば、ディオンと同じぐらいのものもある。

「思えば不思議な部屋だね。まるでこの二人の子供時代の記憶を集めたみたいな」

 ロジェが顎に手を当てて呟く。ディオンはただ黙って頷いた。

 と。半開き状態にしていたドアが静かに開いた。一人の小柄な老婆が顔を覗かせた。メイベルと同じぐらいの歳だろうか。顔はしわしわだが、濃い赤茶の髪をきっちりと上にまとめ、背筋のぴんと伸びたシャキシャキと動く人だった。

「こんにちは。イダちゃんから話は聞いておりますよ。この部屋の写真について色々聞きにきたのね」

 しわがれた声は、思っていた以上にはきはきとものを言う。軽く威圧感すら覚えて、すっかり萎縮して「はい……」と答えた。そのディオンの様子にロジェが顔を背けるようにして笑いを堪えている。……いろんな人がいるなぁ。

「私もねえ、実際にこの二人に会ったことはないけれど、色々母から聞いているので知ってることは全部話します」

「どうしてですか」

 口を挟んだのはロジェだ。

「どうして、というのは」

「自分から進んで、というようにアナタが話すのはなぜですか。言ってみればアナタに全てを話す理由は本当のところないわけでしょう? 厄介払いのように適当な話をされてはこちらとしても本意ではない。ワタシたちが求めているのはあくまで正しい話のみなのでそこを確認する必要がある」

 ロジェ、とディオンは彼の袖を少し引っ張った。少し言い方がきついように思えた。自分達は教えてもらうことを頼んでいる側だというのに……。

 しかし、イダの祖母は「それもそうですね」と言って、驚いたことに少し笑った。まるで何かを思い出しているかのように。

「あなたたちにこれを話そうとするのは、私の中に深い悔いと焦りがあるからなのでしょうね」

「悔いと焦り……」

「母が会ったこともない二人の子供の多くを私に話したのは、他でもない、その話が忘れ去られてはいけないと思ったからだと思います。なのに私は今まで誰にも話してこなかった。それは本当に知りたいと思っている人がいなかった、というのもありましたが。ですが真実を知っているのにも関わらず〈トランティカの消えた子供〉という怪談のような、誰もが聞いて失笑する道化話になっていくのを見過ごしてきた。これにはなかなか自分を許せないところがあります」

 イダや彼女のおかみさんを連想しなくもない気の強さが、整った形がこの厳格さなのか。学校になんて行ったこともない……じゃなくて行ったかもしれないけど記憶がない状態にして、ディオンは厳しい教師と話しているかのような錯覚を覚えた。

(いや、今はそんなことどうでもよくて……)

「ですので、どうぞトランティカの兄弟についての話を私としては聞いていただきたいです」

「失礼いたしました、よろしくお願いします」

 一礼したロジェに倣ってディオンも深く頭を下げた。

「まずお座りください。長くなります。私も失礼して」

 押し黙って、クッションの上に座る。

 それでは──とイダの祖母は遠くを見つめる。

「これはもう一世紀近くも前の話です。私の母が赤茶の髪に黄色の目をした、若い綺麗な娘だった頃ですから。トランティカの兄弟……カミオ・トランティカとカミーユ・トランティカの名前はもう知っていることでしょう。カミオの方が三歳年上のお兄さんにあたります。彼らの父親は当時名の知れた公爵家に仕えていた使用人たちの頂点にいた者で、仕え人でありながらかなりの高い地位を持っていました。なかなか家に帰って来る日の少ない父親だったのでしょうね。二人は小さい頃、よく母親に連れられてうちの店に来ていたそうです。それで私の母が年上のお姉さんとして遊んであげていたんですね……。母──シャトリーはカミオの六歳上でしたから。それが、この店とトランティカの兄弟の繋がりです」

 前に来た時に見たあの写真の中、三人が並んでいる。白黒なのに何故だか鮮やかな印象を受ける写真だ。二人の子供を後ろから抱きしめるように腕を回して楽しそうな顔、照れているのかそっぽを向いて少し不貞腐れたような顔、無邪気に純粋そうにはにかんだように笑っている顔。兄弟と、〈よく遊んでくれたお姉さん〉。

〈カミーユとカミオ。シャトリー姉さんと〉

「その写真は確か、カミオが十歳、カミーユが七歳の時のものです」

「なんていうか、幸せそうですね」

 率直に感想を口にしたディオンに、イダの祖母は少し目を伏せた。

「ええ……ええ。この時はみんな幸せだったんでしょう」

 そう言ってぱっと顔を上げる。

「二人は成長しました。二人とも二十歳を超えた頃には、カミオはあまり店に遊びにくるようなことはなくなっていたそうです。彼は父の後を継いで、仕え人の職に就こうとしていました。一方のカミーユは、チェロ弾きを目指して小さな楽隊の手伝いをしたりしていました。たまに私の母に演奏を聞かせに、一人でこの店に来ていたそうです。それぞれの道がありながら、まだ二人とも家を出てはいなかった。……そしてそんな時に悲劇は起きました」

 ディオンの隣でロジェがゆっくりと目の動きを止めた。ディオンは「悲劇」という言葉に顔を顰めていた。嫌でも〈魔女の悲劇〉を連想する。悲劇なんて一つと言わず無数にあるのだと感じてしまう。

「カミオの父親が、突然に解雇されました」

「──!?」

「理由までは聞いていませんが、仕えていた公爵と他の伯爵家の者たちとの間の資産のやりくりの中で揉め事が生じ、高い賃金で雇っていた使用人は皆解雇。職を失い、財産はほとんど抜き取られ、トランティカ一家は奈落の底に突き落とされました。裕福だった生活も何もかもが一変。満足に日々のご飯も食べられずに、ひたすら死ぬまでの間を耐えるだけのような暮らしの中、ついに兄であるカミオが行動を起こしました」

 ああ、と心の中で呟いた。まだあるのか、と。

「父親が仕えていた公爵に、他の使用人見習いたちを率いて夜襲をかけて、殺してしまったんです」

 声が、出ない。

「カミオは揉め事を起こしたかしらとして捕まりました。終身刑を言い渡され、父親もまたその責任を問われ、同じ刑に処されました。カミーユと母親だけは家にとどまることにはなりましたが、どちらにしても同じような生活だったでしょうね……。そして当たり前のように、殺された公爵の身内の人間は無防備な二人に対して復讐をしようとしていたようです。……ある日、母親はカミーユを連れてうちの店に来たそうです。自分達を殺そうと誰かが狙っている。この子だけでいいから、匿ってくれないかと。既に一人前になって店を切り盛りしていた私の母……シャトリーはなくなく首を振ったんです」

「どうして……」

 その問いは中途半端に止まって、重くなった空気の中に散って行った。だって聞かなくたってわかってるんだ、本当は。カミーユを匿っていることを仮にでも知られれば、きっとシャトリーの前から代々継がれてきた鍋屋は潰れる。店員も客も殺されたかもしれない。彼女が背負っていたのは、そういうものだ。だから泣く泣く断って──。

「母は、この時の決断を死ぬまでずっと後悔していました。見殺しは人殺しと同じなのだと、そう言っていました。そのカミーユとその母親がこの店に来た晩、二人の家に殺し屋が入りました。迷いと後悔でぐちゃぐちゃになった私の母が次の日に家に行って見たのは、カミーユの母親が無数の刺し傷と共に胸を銃弾で撃ち抜かれて絶命していた姿でした。家の中も荒らされ、壁も血まみれだったそうです」

「カミーユは」

「その場に姿はありませんでした。ですが、一人で逃げられたとは思えません。殺し屋に囚われ、殺されたのだろうと私の母は言っていました」

 ロジェが長く息を吐いた。

「それで〈消えた子供〉と。子供と言っても、幼かったわけではないんですね。二十は超えていたのか」

「ええ。そうですね。そうなります」

 答えながらイダの祖母はすくっと立ち上がった。背筋が伸びて、背が高く見えた。

「ここにある写真は、最後にカミーユたちがこの店を訪れた時に、彼の母親が置いていったものです。どうかこれだけは持っていてほしいと、シャトリーに渡しました。……飾ってあるのはカミオとカミーユの二人が写っている幼少期のものだけですが、カミーユのものならば青年期の写真もあると思います。ご覧になりますか?」

 ロジェが目で、どうする?と問いかけてきた。その口元に軽く笑みが浮かんでいる。この状況でよく笑えるな……。というかディオンの答えは既にわかっているだろうに。

「見せてもらえますか」

「わかりました。少し待っていてくださいね」

 程なくして彼女は数枚の写真を手に戻ってきた。少し目を細めるようにしている。

「何しろカメラが旧式のものなので、これとこれは写りがあまり良くありませんが……これならなんとなく顔が分かりますね」

 そう言いながら差し出してきた写真を受け取ってひゅっと息を吸い込んだ。一人の長い髪を束ねた青年が、チェロを胸に抱いて真っ直ぐどこかを見つめている写真だった。

「どう? 予想通り?」

 覗き込んできたロジェに、何も言えなかった。一つの確信が重く確かに胸をついた。


❇︎❇︎❇︎❇︎❇︎


「タヴィア様ぁぁっ──!!」

 キリが叫んで寄ってくるのが見えた時、タヴィアは珍しく薔薇の森の中を彷徨いていたアルルカンを呼び止めたところだった。

「どうしたんデス、お嬢さん。何か用デスカ」

 白い布を広げて飛行から着地したキリに目もくれず、彼はいつも通りの世界を達観したような舐め切ったような目をタヴィアに向けた。

「用が、あったわけじゃないわ。本当に、なんでもないの」

「はァ」

 アルルカンは肩をすくめて目を逸らした。何もかもどうでも良さげなのに、何故だかそこに人間味のようなものを感じで、タヴィアは少し首を傾げた。

 と。

「無視するんじゃないわよっ、アルルカン!? 用がないかって言ったわね? ええ、そんなことないわ。タヴィア様、知らせがあるのです! 奴らが三月十三日に森まで攻め込んできます! そう王宮で話しているのを耳が拾いました」

「──っ」

(ジーグ様が言っていた通りだわ……)

 あと一度だけ、敵がここに来るだろう。彼はそう言っていた。わかっていた。ジーグが提示した期限は三月十三日だ。それまでの間に敵が何も仕掛けてこず、そのままタヴィアの復讐が達成されるなんて甘いことはないのだと。世の中、そんなに優しくはないと。

(ええ、もう動じない。動じてなるものか)

 敵が来るのは三月十三日。つまりその日を持ち堪えれば、タヴィアが強く心を持っていれば、大丈夫。もう何も失わなくていい。ジーグに失望されなくていい。強い〈魔女〉でいられる。

 アルルカンがハハッと笑った。

「盗み聞きなんてするんデスカ。惨めにチョロチョロ動くネズミみたいで、受けますネ」

「ドブネズミで結構よ! ドブネズミとしてでもなんでもいいから、タヴィア様のことは私──私たち守るんだから!」

「私たち、の〈たち〉とは? まあいいデス。で、その盗み聞き方法なんていうのは例の殺人教育学校で習うんデスカ? アルヴィターノ女学院? よくもまあ、咎められずに運営してますヨ」

 完全に面白がって、馬鹿にするネタを探しているらしいアルルカンに、キリは逆上することなくスッと真面目な顔になった。

「いや、女学院自体は数年前に廃校したけど……ええ、そう。そうだけど。……タヴィア様、一つお願いしたいのですが」

「何?」

「一人、敵の中で担当させて欲しい人がいるのですが」


❇︎❇︎❇︎❇︎❇︎


 また、あの夢を見た。

 ジーグはどこか自重気味な笑みを浮かべる。

 知っているような知らないような子供が、知っているような知らないような血に濡れた部屋で、一人泣いている夢だ。そしていつも通り、わけのわからない正義感に駆られて、声をかけて上げようとして、なのに何かに邪魔をされてできなくて、誰か助けてあげてください、と願う。

 意味もなく、意味もなく、意味もなく──。

 同じ日々が、続く。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る