scene 3 Sword and Strong

 木の上から国立大舞踏会場、というかその残骸をキリは冷たい目で見下ろしていた。下に広がる街では人々が恐ろしげに話している。

「焼死体が一つ、発見されたんですって。なのに従業員も招待客も、みんな無事らしいわよ」

「ええっ!? じゃあ焼け死んだってのは誰だったのかしら……」

「さあ。でも知り合いから聞いた話、あのトランティカの行方不明になっている次男だったんじゃないかって……」

「きゃあ、怖い!」

 キリはため息をついた。何にもわからないくせに、みんなぺちゃぺちゃとうるさい。そもそも〈トランティカの行方不明の子供〉って真偽不明の怪談みたいな話だし、仮にその子供が今生きていたにしても既に百歳を超えている。よぼよぼの老人が、舞踏会場になんて来るわけないじゃない。

 瓦礫のくずとなった焼け跡を見下ろした。剥き出しになった鉄骨は黒い炭と化している。

 木の枝が揺れる。キリの白いワンピースがひらひらと舞う。

 昨日、タヴィアの指令でここで行われていた仮面舞踏会に参加していたグラザードは、戻ってこなかった。あれだけタヴィアに従順だったのに。……だとすると、結論は一つ。

(ふうん。あいつ、死んだの)

 欲張ったから、いけないのだ。多分彼は敵を倒そうと思って、目の前にあった〈記憶石〉をむざむざ逃したに違いない。馬鹿だ。その馬鹿のせいで死んだのだから、キリは閉口するしかない。

(……まったく。敵に〈二十年前の悲劇〉の情報を渡す結果になっちゃったじゃない。タヴィア様に報告しなきゃね。ああ)

 タヴィアは、グラザードが死んだと言ったらどんな顔をするだろう。取り乱すだろうか。だってあの方は味方を失うのを恐れて──。

「ジャジャーンッ!!」

(──っ!)

 突如背中をどんと強い力で押された。しまった。バランスを崩す。完全に気を抜いていた。誰よ、こんなところにも敵が潜んで? いや、それどころじゃない。早く、風の〈術〉を……。

 呪文をどうにか呟きながら手を宙に伸ばした時だった。不意に右の手首を上から伸びてきたもう一つの手ががしっと掴んだ。

「!?︎」

 腕に衝撃がかかるのを、反射的に歯を食いしばって耐えた。宙ぶらりんになる。ひゅっと息を吸い込んで見下ろすと、地面まではまだ遠かった。それでもそこまで長いとは言えない距離だ。ここまで落ちるまでの間に反応、できなかった。

「ハッハハハッ」

 頭上から笑い声が聞こえてきた。その嘲笑うような声音に覚えがあった。頭上を仰いで叫ぶ。

「アルルカンっ!!」

 膝を折り曲げて木の枝に引っ掛けたコウモリ状態のアルルカンがキリの腕を掴んで笑っていた。キリは今度こそ風の〈術〉を使って空中でアルルカンの腕を振り払い、その木の枝に飛び乗った。

「何てことしてくれるのよ! 危ないじゃないの!」

 アルルカンもまたひょいっと軽い動作で体を枝の上に上げた。

「そんなに怒らなくたっていいじゃないデスカァ。貴女がかわいいお顔を気難しーくしてなんか考え込んでいたのでイタズラを仕掛けただけデスヨ。どーせ貴女、殺したって死なないって感じデショ?」

「死ぬわよ! 人間なんだから!」

 並んで枝の上に立ち、少しの間アルルカンは無言で焼け跡を見下ろしていた。そういえば、とキリは思う。

(グラザードとこうやって並んで立ったり、一緒に仕事をすることってなかったな……)

 あいつは王宮に入り浸るスパイのような役だったから仕方ないけれど。

「お嬢さんはなんて言うでしょうネ。まあ、どーでもいいことですケド」

 アルルカンが仮面舞踏会場の跡を見下ろして小声で呟いた。そうね、と返す。

「別にかたきなんて打つほどにあの男が死んだことにゃあ感慨はないデスガ、まあ敵側は今有頂天になっていることでショウシ……」

 ふむふむ、といった様子で何やら頷いている。キリは弾かれたように顔を上げ、アルルカンを睨みつけた。

「あ、あんた、勝手に何か変なことするんじゃないでしょうね……」

「どーでしょーネ」

 そう言うが早いか、アルルカンはパッと目の前からいなくなった。逃げ足だけは早いやつだ。

(こんな時にやめてよね)

 キリは二度目のため息をついた。


❇︎❇︎❇︎❇︎❇︎


「ワタシだけに用、ですか。となると今回は単独任務でしょうか? 確かにルーカスさんやイダさんとは違って怪我の治療がいらないのですぐにでも動けますが」

 ロジェはレオナルドに呼びかけた。レオナルドが〈王の剣〉の誰かと一対一で話す時によく使っている例の小部屋だった。

 今日、大広間で仮面舞踏会の件の報告会があった。手に入れた〈記憶石〉のペンダントを渡し、敵は姿を自由自在に変えられる〈術〉を使う男であったこと、それを利用して味方陣に紛れ前国王を暗殺したのではないかということ、そして無事にそいつを倒すことができたことなんかを雑談を交えつつ話したのだった。……もちろん、倒したことについてはディオンの二重人格が猛威を振るったことも含む。ロジェもその場に実際にいたわけではなかったためにあとから聞いた話ではあったが、驚くことはなかった。「やはりか」という感じだ。あの〈神の日記〉をスザクと三人で見に行った晩、冷たい目で低い声を発した少年を忘れはしない。

『魔月目だからなんだ!? 魔月目だから死んでもいいとでも!?』

 あれは確かにディオンでなかったから。

 そんなわけで全てをレオナルドには報告したのだが、それが終わってレオナルドがロジェのことを手招きし、

『お前に話があるから、小部屋まで来てくれないか?』

 そう言ったのである。だとすると、次の任務の話だと考えるのが妥当な気がするが、少し間が短い気もする。

 レオナルドはにやっと笑った。彼は手の上で一通の便箋入りの手紙を手の上で弄んでいた。赤い蝋印が光を受けて輝いた。

「じゃあ任務ってことにしようか。ただし肉体労働も頭脳労働も何もないがな。ていうか、お前だって無傷じゃないだろう。脚を火傷したんだろ?」

「僅かに、ですがね」

 お前はまたそうやって……とレオナルドは呆れたように呟く。

「どんな任務なんですか?」

 ロジェが促すと、彼はスッと真面目な表情になった。

「その前にいろいろ聞いていいか? 主にディオンのことだが」

「いいですけど、ワタシは別に彼の保護者ってわけじゃありませんよ? 彼には彼のことがある」

「それをわかった上で」

「なんです?」

 レオナルドは目を逸らし、一呼吸置くと再びロジェの目を見つめてきた。

「ディオンは仮面舞踏会が終わってからどんな感じだ? というより、二重人格のことについてはどう思っているんだろう?」

「ああ。そういうことですか」

 仮面舞踏会の翌日のことが思い浮かんだ。あの子は話していいと言うだろうか。レオナルドになら、いいか。


 あの晩、夜中に〈王の剣〉とアナスタシアの八人は適当な宿を見つけて泥のように寝入った。もちろん数人ずつで部屋は分けたが。

 次の日の朝、ロジェは一番早くに目覚めて、暇に任せてバルコニーに出て、手すりに寄り添った。燃え落ち、廃墟となった舞踏会場が遠くに見えて、なんとなく感慨に浸る。レオナルドは「仮に建物が壊れたりしたらさっさとその場から逃げろ。誰がやったかってことについては有耶無耶にする」と言っていた。どうやら〈王宮特化特別組織〉ということにされている〈王の剣〉のイメージはあまりよくないらしい。二十年前の〈魔女の悲劇〉は忌まわしい記憶として、真実解明よりは忘れようとされているわけだ。

 と。背後に気配を感じて、振り向くとディオンがいた。まだ寝起きのままなのか目を擦りつつ安定しない足取りで歩み寄ってくる。おはようございます、と言われて、おはようと返した。

「まだ寝ててよかったのに。まだ七時だよ? 多分アレキスさんあたりは十時ぐらいまで起きないだろうから」

「いいんです。なんとなく目が覚めちゃったから」

 そう言って欠伸を一つする。もとからであるとはいえ、眠気が抜けきっていないこともあってディオンがいつもより一層幼顔に見えた。

「初任務、お疲れ様」

「はい」

「ワタシが抜けた後、結構危ない目にも遭ったみたいだね」

「……はい」

 二月の朝の空気は鋭く澄んでいた。小さな声はすぐに神聖なほどの沈黙に吸い込まれてしまう。

 ふとディオンがまだパジャマのままなのに気づいて、ロジェは呼びかけた。

「そんな薄着だと風邪をひくよ。中に入ろうか」

 ガラス張りの扉に手をかけた時。

「……ロジェ」

 ガラス戸に、背後で下を向いていたディオンがふっと顔を上げるのが映って見えた。さっきまでの夢うつつのような状態だったのが嘘のように、彼はひどく真面目な顔をしていた。怖いほどの真剣な目で、真っ直ぐに見つめられる。

「どうかしたかい?」

「これから先も、僕の中の〈彼〉は出てくることがあるかもしれない。……昨日みたいに、です」

 〈彼〉という代名詞がディオンの持つ二重人格を指していることはすぐにわかった。ロジェは沈黙で先を促した。ややあって、ディオンは続けた。

「もしも、僕が〈彼〉を抑えきれなくなって、誰かを傷つけるようなことがあったら、僕のことをすぐに殺してください」


「ディオンは言ってました。その時は自分のことを殺してほしい、迷ったりせずにって」

「……そうか。それでお前はなんて答えたんだ?」

 ロジェは静かに笑った。

「わかったよ、と。彼は安心したような顔をしていましたよ」

「殺すなんて、できないくせに」

 レオナルドはそう呟くと、「じゃあ本題な」と言った。少しだけ表情を緩めて、目で微かに微笑む。

「これを」

 そう言って、手の上で弄んでいた手紙を差し出してくる。ロジェは首を傾げつつ受け取った。

「逢わせてやってくれないか」

 その丁寧に書かれた差出人の名前に、言葉が出てこなくなった。

(ああ……、なるほどね)

「実のところずっと前、〈悲劇〉の直後から、行方がわかったら教えてほしい、と言われていたんだ」

「じゃあ何故このタイミングで?」

「機会がなかった……って言ったら嘘になるよな。後回しにしていたのは、なんとなくだ。逢わせてやろうと思ったのは、そうだな……、今しかないって思ったからなのかな」

(今しかない……?)

 レオナルドの言い回しを少し不思議に思ったが、何も突っ込まずに置いた。よくこの王様はこういう言い方をする。本当に大切なことはぼかすというか……。

「本当に、逢わせるだけでいいんだ。それが、その手紙の差出人にとっても、ディオンにとっても、きっと何かの機会になるから。それと言っておくが、これは〈王の剣〉や〈魔女の悲劇〉には直接的な関わりは一切ないものだ。だからやはり……、任務とはいえないよな」

 ロジェは手紙に視線を落としたまましばらく黙っていたが、少し考えて、頷いた。口で笑みの形を作る。

「了解、しました」

 レオナルドがよろしくな、と言った。


❇︎❇︎❇︎❇︎❇︎


 朝起きていつも通りの服に袖を通そうとすると、メイベルに止められた。

「ディオンくん、今日はこっちにしましょ?」

 そう言って差し出してくるのは、真新しいブラウスと作りの細かいベストだ。いかにも外行きのような服に、ディオンは首を傾げた。

「なんでですか? どこかに行くんですか?」

 メイベルはにこやかに答えた。

「いいえ、違いますよぅ。どちらかといえば、逆ですね。ディオンくんのことを訪ねてくる人がいるんです」

「訪ねてくる人?」

 誰が、と聞こうとした時、ロジェがリビングに入ってきた。

「ごめんね。多分あらかじめ言っておいたら身構えたり色々考え込んだりしちゃうかと思って黙っていたんだ。大丈夫。自然体でいいんだからね。〈王の剣〉の任務とは関係ない」

「は、はい……」

(言われたそばからなんだか緊張してきた……)

 自分のためにわざわざ人が来る? しかも既にロジェに連絡まで取って? ……これ以上緊張しなくて済むように、誰だかは聞かないでおこう。

 メイベルが薔薇の花をリビングに飾っていた。白い薔薇だ。ロジェがこれを手品で青く変えた時のことをふと思い出した。

(もう遠い昔のことみたいだな)

 不思議だ。時の流れって。止まったり、遅くなったりするけれど……。

(僕にとっては、全体的に速いのかな……)

 それは多分。

 今が楽しいからなのかな。


 ドアベルが鳴らされたのは、その二時間後のことだった。アンティークベルがからんからんと音を立てて、来訪者を知らせた。「いらっしゃいましたね」と呟いたメイベルがドアを開けに行った。ディオンとロジェもそれについて玄関に出た。

「こんにちは」

「突然お伺いすることになってしまい申し訳ありません」

 そう言って礼儀正しくお辞儀をしながら入ってきた初老と呼ぶには少し若いような男性と女性を見て、ディオンは唖然とした。

(えっ? そんな……。そんなわけないよね……?)

 白髪混じりの黒髪の女性の目は、綺麗なマジョリカブルーだ。そして男性の髪は茶色い。眼鏡をしてはいるが、顔の輪郭の線も誰かに似ている。

 誰か。……それが誰であるかは、すぐにわかった。

(……僕だ)

 でもどうして。頭が、混乱している。

「私はウィルフレット・アルフラードという者です。そしてこちらが妻のクラリア・アルフラード」

「ディオン。あなた、ディオンね。左目が赤くなっていたってすぐにわかる。あなた、本当に二十年前の姿のままなのね……」

 抱きしめようとばかりにディオンのもとに歩み寄ってきた女性は、大切な壊れやすいものを扱うようにディオンの手を取った。次に女性が囁いた言葉に、ディオンは、何ともつかない吐息を漏らした。

「覚えてないかな……。ディオン、私たちはあなたの、両親なのよ……」

(実の、両親。なんでよ……っ)

 こんにちは、と挨拶を返して一歩進み出たのはロジェだ。柔らかく微笑んでいる。

「ワタシはロジェという者で、この家の主人です。ご家族だけで話されたいこともあるかと思うので、リビングをご自由にお使いください。ワタシたちは二階にいます。……ディオン、遠慮なく話しておいで」

 アルフラード氏は、一瞬仮面つけたロジェのいでたちに驚いたようだったがやがて、ありがとうございますと頭を下げた。

「国王陛下に聞いています。貴方がディオンを見つけて、そして今世話をして下さっているそうですね。本当、なんと礼を言えばいいのか……」

「いえ。お気遣いは不要ですよ」

 さあ、メイベル──。そう言ってロジェはさっさと二階に上がって行ってしまった。メイベルも一礼してそれを追って行った。


 とりあえずアルフラード氏とアルフラード夫人をリビングに連れてきた。ちょうど椅子は三つある。

(なんて言ったらいいのかな……)

 僕の、実のお父さんとお母さん。二人を前に、どうすればいいのかがわからない。距離感が、掴めない。

 先に口を開いたのは、アルフラード氏だった。

「国王様から聞いたよ。ディオン、お前は三十六年分の記憶がほぼないんだそうだね」

 ディオンがいなくなったのは〈魔女の悲劇)からだというから、二十年前だ。体が確かに生きていたことを覚えている十六年分、そして、どこにいたかもわからないような二十年分。

「……はい。ここ三ヶ月ぐらいのことしか、覚えてません」

 アルフラード氏は少しだけ寂しさを滲ませた笑みを浮かべた。

「敬語じゃなくてもっと親しげに話してほしいな、できることなら。長い間の時間をそれで取り戻せるとは思っていないけれど。……ディオン、今私は何歳だと思う?」

「わかりませ……、わからないよ」

「五十一、なんだ。お前は子供のままだっていうのに、もうこっちは老いているんだよ。二十年っていうのは、それだけ、長いんだ……」

 その寂しさと哀しさが伝わってきて、ディオンは膝の上で拳を握りしめた。僕だって……、と思う。

(僕だって、二十年という時をどこに置いてきてしまったのかなんて、わからないんだよ……)

 と、アルフラード夫人が「違うの」ととりなすように言った。

「お父さんは本当はそんなことを言いたいんじゃないの。ただ、ただ……」

 そうであっても、今日会えてよかったって。

 視界が白く霞んだ。温かいものが込み上げてきて、歯を食いしばった。泣かない。まだ、泣かない。

 ふと、あれ? と思った。

(そういえば、〈王の剣〉って全員孤児院出身じゃなかったっけ)

 それなのに実の両親がいる、わざわざ会いにくるというのはどう言うわけだろう。ディオンが腑に落ちないような顔をしているのに気づいたのか、夫人は「そうね」と呟いた。

「過去のことについて話さないといけないわね」

 アルフラード氏も同意した。

「そうだな。実はな、私たちの間にお前が生まれた頃、うちはすごく貧乏だったんだ。それでもどうにか私もクラリアも働き詰めで家計を回していたんだがお前が十五歳になる頃……」

「やっぱり、きつくなってしまったのよね」

 アルフラード夫人があとを取り次いだ。

「それで、知り合いの経営している孤児院にね、あなたを一時預かってもらうことにしたの。仕事と家計の目処が立ったら、すぐに迎えに行くつもりだったわ。またあなたとお父さんと、三人家族で裕福じゃなくても幸せに暮らせることを夢見て、どんな仕事でも、引き受けて……」

 ここで夫人は堪えきれず、と言ったように静かに涙を流した。アルフラード氏がそっとその肩を抱いた。

 太陽が登り切る前の、優しいような陽の光が部屋を満たしていた。その、白いような金色のような空気感が沁みた。

「なのにそれから一年もせず、お前がいなくなってしまったと聞いて、どうしていいかわからなくなったよ。姫君の誕生祝宴会に是非参加させたい、という話は知り合いに聞いていたが、まさかそこであんな事件が起こるとは。そしてその、い、遺体も残すことなくディオンが消えてしまうとは」

「何度も、自分たちのことを責めたわ。あの時、孤児院にあなたを預けるなんていうふうに決めなければ、どんなに辛くても離れずに生きていくことを決意していればって」

 ディオンは黙って頷いた。

「それで、王宮の方にも、もしディオンが見つかったら私たちに知らせてほしいとお願いしたの。そうしたら国王陛下直々に手紙が来て、約束してくれたわ」

 確かに、レオナルドならそう言うだろう。ディオンが見つかるかどうか定かでない時点ならば。だがディオンが現れた今、彼が一番に優先するのはディオンとその両親を引き合わすことよりも、真実解明であるはずだ。なのにどうして。いや。

(そっちを優先したからこそ、今なんだ)

 ディオンが実際に現れてからの二ヶ月近くのタイムラグ。そして、本人確認などは本当は〈神の日記〉を見にいくまでもなく、両親に確認してもらえば一発だっただろう。しかし、そうすればディオンを両親に引き渡すのもまた当然の流れ。それではレオナルドは二十年前の真実解明の手がかりを一つ失ったかもしれない。

(邪推のしすぎかな……)

 でもレオナルドのその目的に対して真っ直ぐなところが好きだ。

 そして今。ディオンと両親を会わせてくれたということは。

 アルフラード夫人が目に滲んだ涙をそっと拭って、「ねえディオン」と呼びかけてきた。

「こんなこと言っちゃいけないのかもしれない。でも、私たちと一緒に、家に帰らない? また三人で暮らさない?」

(レオナルドは今、僕にもう一度道を選び直す機会を与えてくれたのかな)

 〈王の剣〉として、あの仮面舞踏会のような恐ろしい戦いを潜り抜けながら生きていくか。父、母と共に静かに暮らしていくか。どちらも、なんていうことはできない。両親はきっとディオンが戦いに出ることを望まないだろう。

 アルフラード氏が畳み掛けた。

「私たちの仕事は大分安定したよ。もう大丈夫。離れたりなんてしないさ」

「ぼ、僕は……」

 ディオンは困って、両親の顔を見つめた。アルフラード夫人が真っ直ぐに見つめ返し、軽く頷くようにした。

「あなたの人生は、あなただけのものだから。私もお父さんもどちらかに強制したりはしないわ」

 どうしたいの? 二つの世界の前に今、立ってる。

 ふと思い浮かんだのは、あの舞踏会の夜の最後だった。燃え落ちてくる天井、敵の男の諦めたような微笑、紅蓮の炎、炎、炎。

(でも……)

 もう一つの景色が思い浮かんだ。薔薇城を訪れたその翌朝。「さて、帰るか」という言葉に対して思い出したのは。

(僕ってほんと、ひどいヤツだ)

 ディオンは静かに口を開いた。

「僕は──」


 今、ディオンたちは何を話しているだろうか。二階の小机に座ってロジェはぼんやりとしていた。綺麗好きなメイベルはこんな時でも部屋の隅の埃なんかを拭き取っている。

『国王陛下に聞いています。貴方がディオンを見つけて、そして今世話をして下さっているそうですね。本当、なんと礼を言えばいいのか……』

 そう、アルフラード氏が言ったのが不思議で、意外だった。実は家に招き入れたらすぐに「ディオンを返してください」と言われるのではと思っていたのだが。無論、実の両親なのだし、そう言われればこちらは何も言えなくなってしまうのだが。

(なのに、あの二人はワタシにまで丁寧だった)

 二十年間息子の帰りを待ち続け、ようやく再会を果たせた親の気持ちなど、ロジェにはわからない。想像もできない。悲しいのか、嬉しいのか。寂しいのか、侘しいのか。

「旦那様」

 屈んでいたメイベルがすっと元の体勢に戻り、微笑みかけてきた。

「今はディオンくんたちを待つしかないですよぅ。それにディオンくんの未来は、ディオンくんにしか決められません」

「そうですね」

 ありがとうございます、と言った。なんとなくロジェが落ち着かない気分でいるのをメイベルは察したに違いない。

 そして気になることはもう一つ。何故レオナルドは今にしたのかということ。「今しかないと思った」。そんな言い方をしていたか。

 また黙って考えに耽っていると、しばらくしてメイベルが「終わったみたいですよ」と声をかけてきた。

「?」

「ディオンくんたちの話ですよぅ、ほら」

 確かに耳をすませば椅子を引いて立ち上がるような音が聞こえた。

(……少し早くないか?)

 いや、一応時計を見れば一時間以上が経っている。ロジェが早く感じただけか。

「旦那様はどうなさいますか? メイベルはお客さまはお見送りしなければいけませんので下に降りますが」

「ワタシもお見送りぐらいしたいですよ。行きましょうか」

 一階に降りると、既にディオンとアルフラード氏、そして夫人は玄関にいた。階段を降りているロジェとメイベルに気づいたアルフラード氏が頭を下げた。

「本当に本日はありがとうございました」

 いえいえ、と会釈する。

「会えてよかったわ。少し私は寂しいけれど、それでもあなたの選択した道をずっと応援しているからね」

 夫人のその言葉に、ディオンが一瞬ぐっと泣きそうな顔をした。

「僕も、今日、アルフラードさんたちに会えて、本当によかったよ……」

(……っ)

 息が詰まった。ディオンは今、両親を「アルフラードさん」と呼んだ。お父さんや、お母さんではなく。どうして、どうして、どうして──? 嬉しい、わけない。そんなわけはないけれど、どこか安心したような、わけもわからない感情に呑まれそうになる。

 アルフラード氏とアルフラード夫人は淋しそうに、それでも満面に笑みを浮かべた。少し濡れたような声で、

「またな、ディオン」

「幸せになってね……」

 これ以上は耐えられないとばかりにくるりと後ろを向いて、玄関を出て行く。がちゃん、と音を立ててドアが閉まった。

 一瞬。

 静寂の中で──。

「……ディオン」

 老いた両親を見送って、ドアの方を向いたままの小さな背中にそっと呼びかけた。慎重に扱わないとガラス細工のように簡単に壊れてしまいそうで怖かった。

 小さな背は微かに震えていた。

「あはは……、おかしいな。今日こんなに泣くはずじゃなかったのに……」

 彼はくるりとこちらを向いた。その間にも、雫がきらきらと光って落ちた。ディオンは泣きながらも、無理やり口を笑みの形に曲げようとしたらしかった。その失敗作が、そこにある。

「僕はさ、あの人たちと一緒に十五年間暮らしていたわけだし、あの人たちは僕を今でも家族として見てくれる。でも僕はなんにも覚えていなくて、どうしてもお父さんとお母さんって呼べなくて。それが、悔しくって、さ……」

 メイベルが何も言わずにディオンに近づいて、そっと包み込むように抱きしめた。「大丈夫、大丈夫。もう何も言わなくていいんですよぅ」と優しく言っている。ディオンは首を振って、彼にしては少し雑な仕草で涙を拭った。

「一緒に家に帰らないかって、言われたんです。……そう、言ってくれたんです。なのに、ぼ、僕は、ごめんなさいって。家って言われて頭に浮かぶのは、どうしても、ここで、他の場所だとは思えなかったんです」

 正しいかはわからない。わからないし、怖いこともたくさんあるけど、それでも温かくて、今、かけがえのないと思う道を選んだんです。

「ありがとう、ディオンくん」

 メイベルが大事そうにディオンの髪を撫でた。その腕にディオンが顔を埋めた。

 ロジェは力が抜けたように壁にもたれかかり、目を閉じた。久しく泣いたことなどないのに、心の中が熱いもので満たされて、今にも溢れそうだった。そんな自分を笑った。何やってるんですか、大人のくせに。

(……レオナルド、あなたは本当に、意地悪だ)

 ディオンと両親を逢わせてほしい、と手紙を渡されたあの日、あの後で、レオナルドに言われたことを思い出した。

『ロジェ、お前気づいてるか? お前とあの少年は──』

 意識して再び笑い、首を振る。あてにはならないことだ。

 もし、レオナルドがディオンが出てきた直後にその両親と会わせていたら、きっと違う結末になっていたに違いない。そうならなくて良かった、とは言わない。両親と共に〈家に〉帰っていたほうがディオンは平和に、何も知らずに暮らせていただろうから。

 でも。幾つでも存在するパラレルワールドの中、この〈今〉に存在することができて、よかった。ロジェはそう思う。全く。あの自由奔放な国王様は。

(やってくれたものですよ)

 当の本人は何も考えていないようなことを言っているが。

「ロジェ」

 顔を上げたディオンは涙の跡がついたままの顔でこちらを見て、くしゃっと笑いかけてきた。

「邪魔だとは思うけど、これからもよろしくお願いします」

 その健気で真っ直ぐな瞳が目に沁みる。寄りかかっていた壁から身体を起こし、つと仮面を押さえた。

「何を言っているんだか。こちらこそ、だよ」

 

❇︎❇︎❇︎❇︎❇︎

 

 子供の泣きじゃくる声が、聞こえる。

「……して、どうして、こんなことにっ……。だ、れか……、おにいちゃ……」

(ここは……)

 暗い、部屋。夜だろうか。そして薄いクリーム色のダマスク柄の壁紙には赤黒い血が飛び散ったような跡があった。乾き切っておらず、つうと下に細い跡を残して垂れてきているものもある。そんな中に、一人の子供が膝を抱え、そこに顔を埋めて泣いていた。声変わりしていない、声。十歳ぐらいか。

 ふと、気がついた。

(ここは、自分が昔暮らしていた家だ。そして……)

 この子供を自分は知っている。なのに何故だろう、霧がかかったかのようにそれ以上のことはわからない。

 君は、誰。どうして泣いているの。

 そう尋ねた。なのに子供は何も反応しない。嗚咽を上げ続けている。なんで、なんでよぅ……。悲しくってわけがわからなくて動揺して、ぐちゃぐちゃになった声を上げる。

 意味もなく近づこうとした。近づいて、声をかけて、手を握ってあげたかった。なのにできなかった。子供の方に向かおうとしているのに、自分がそれとは逆に遠のいていっているのに気づいた。背後の闇の中に、引き摺り込まれるように。手を伸ばし、もがく。

 自分は、あの子供を助けられないのだ。それがわかって、諦めにも似た思いでどんどん後ろに引き込まれていく。

 誰か。

 自分にはできないから、あの子を助けてあげてください。助けてください、あの子供を。

 誰か──。


 ここで闇は途切れた。

「っは……」

 ジーグは目を見開いた。薔薇城の塔の寝室にしている小部屋、いつも通りのひび割れた灰色の天井へと、手を伸ばしていたようだ。手を下ろし、その甲を額に当てる。軽く息が切れていた。

(……夢)

 それも、何度目かの。

 自分が眠りながら泣いていたことに気づく。頬に自分でも理由のわからない涙が乾いていた。

(全部全部、くだらない)

 あの子は誰なんだろう。いや、誰でもいいじゃないか。どうして助けなきゃなどと、夢の中では思うのだろう──。

 起き上がりつつ、嘲笑混じりの苦笑を滲ませた。

 この世界が、嫌いだ。自分のいなければいけないこの世界が。そして。

 大嫌いな世界でぐだぐだと未だに生きながらえているこんな自分が、もっと嫌いだ。


❇︎❇︎❇︎❇︎❇︎


 コツコツと机をノックするように叩きつつ、スザクは今日やるべきことを書き出していた。その日一日の予定を分単位で書き起こすのがスザクの朝の日課だった。しかし、珍しく特に何もなさそうな一日だ。〈王の剣〉の任務は出されていないし、〈趣味の仕事〉としてやっている研究職も今日は休みだ。

 面白くない。ほぼ白紙状態のスケジュール帳を見下ろす。スザクは相当な几帳面なので、ノートが白紙のままになっているのは気に入らない。

 落ちてきた眼鏡をカチャッと押し上げた。少しだけ目を細め、顔を顰める。また眼鏡の度が合わなくなってきただろうか、遠くを見た時にピントが合わないというか。狼を宿り魔としてつけた代償なので仕方がないことだが、視力がどんどん落ちているのが目に見えてわかる。いや、この場合目が見えなくなっているわけだが。

(〈王の剣〉の仕事が全部終わって、解散することになった暁には、宿り魔も解除した方が良さそうだな)

 宿り魔との契約を解除すると、代償として失ったものも全て戻ってくるらしい。そう考えると、代償とは宿り魔の維持費というかしちみたいなものか。

 と。

 きっかり六センチ開けていた窓から風が吹き込んできた。スケジュール帳のページがぱらぱらと捲れた。

(……?)

 今日の風速は1.2メートルだったので、こんなに部屋の中まで吹き込んでくるのはおかしい。眼鏡を押さえたままの格好で窓を見上げた時だった。

 窓枠にロングブーツの右脚がかかった。左脚も伸びてきて、軽く蹴るように窓を開く。黒いブーツに見覚えがあるし、嫌な予感がしないでもない、と思ったら案の定軽く屈んで部屋の中を覗き込んできたのはヨルだった。

「あ、スザク様はやっぱりいらっしゃいました、とヨルは軽く安堵します」

「お前は何故またそのように……」

「そのように、なんですか?」

「そのように人の家に勝手に乗り込んできたり……」

「きたり、なんですか?」

「あとは盗み聞きをしてみたり……」

 ヨルはそうですね、と頷いた。

「ではその盗み聞きによって得た情報をこのヨルがスザク様に教えてあげましょう、とヨルは申し出ます」

「……」

 もはや突っ込みを入れる気にもなれず、スザクは閉口した。ヨルは、流石にブーツで家に入るのは良くないと思ったのか窓枠の上に立ったままで話し出した。

「昨晩夜遅くに王宮でレオナルド様がルーカス様に会われたのはご存知ですか?」

 スザクは軽く驚いて顎を引いた。「知らなかった」

「また衣装か? 何かの催しに〈王の剣〉が参加するための」

「いえ、衣装には関係なく、ルーカス様に任務を出されたようです」

「ルーカス一人か?」

 どこか噛み合っていないような会話の中、ここで初めてヨルが口籠る素振りを見せた。自分自身まだ納得していないし信じられないんだとばかりに、下唇を軽く噛み締めている。

「……? 黙られても困るのだが……」

「あ、そうですよね。すみません、とヨルは謝ります」

「謝るのではなく続きを言ってほしい」

(なんでこいつはこんなに話しづらいんだ……)

 腕を組んだ時、その言葉はぽろりと突然に落ちてきた。

「レオナルド様が、ご自身にも〈任務〉を課されました」

「なっ……!?」

 眼鏡をカチャリ。もとから問題のある目だけでなく、自分の耳をも疑った。

「……どういうことだ」

「今回は、ルーカス様とレオナルド様二人で任務に赴くということです。結構な戦いになる可能性があるとか、です」

「はあっ!?︎」

 何故国王がわざわざ戦いに行く? 何故手足である〈王の剣〉を一人しか連れずに自分が? 何故一人連れて行くとしたらルーカス? 何故!?

「ルーカス様は美男子なので戦いは様になるので大丈夫だと思いますよ、とヨルは言っておきます」

 いや、そういう問題ではない。というかヨル、そんなこと言ったことが知られたらイダに半殺しの目に合わされるぞ。……っていやいやそうではなくて。

「このこと、他の奴らには?」

「言ってませんよ。ただ王宮から一番近いのがここだったので。今から行くつもりです、とヨルは言います」

 確かにスザクの家は首都のガルタ内にある。

「俺もついて行っていいか? というか集まりたいのだが。色々話したい」

「別にいいですけど、とヨルは返事をするのですが……」

「いいけれど?」

「……空を、びます」

「ああ……」

 あのアレキスがよくやられているやつである。襟首を引っ掴まれ、その状態で空を一っ飛び……ヨルによれば飛んでいるわけではなく大きな跳躍なので「一っ跳び」が正しいらしいが。とにかく恐ろしい移動手段。

(しかしこの場合、やむを得ない、か)

 レオナルドの奇行。流石に一人で黙っていられないし、同僚たちと軽く意見交流したいところだ。

「わかった。少し待ってろ」

 閉じてしまったスケジュール帳に、ペンで文字を走り書きした。……朝六時二十七分、ヨルと共に〈王の剣〉に会いに行く。これで良くも悪くも今日の予定は埋まった。

「よし、行くか」

「……ヨルは少し驚いています。スザク様って意外となんていうか、いや、いいです」

「……」

 そうしてスザクは、ヨルに遠慮なく襟首を掴まれ、朝の空へと跳び立ったのだった。


❇︎❇︎❇︎❇︎❇︎


 セレスティーヌの予言が外れるわけはない、というのは言うまでもないことで、レオナルドは諦めるのではなく、ただ淡々と運命を受け入れるような思いで手の中の手紙を見つめていた。

 城の塔の最上階にある、一室。そこに置いた、タイルミニテーブルの前にレオナルドは腰掛けていた。目の前には誰も座っていない椅子がもう一つ。開け放ってあるバルコニーの外に広がる空は既に夕暮れ色に染まっている。

〈招待状

 二月二十日、ミラク草原で血祭りのパーティでもどうですか?

 誰も来ないようならば、ガルタを襲撃するけどネ。

 大人数が嬉しいな。

                           道化より〉

 それだけの短い文面。既に自分の中で選択は決まっている。この決闘状が届く前から、既にルーカスに声をかけてある。

 スッとレオナルドは立ち上がり、手紙を懐に入れつつバルコニーの方に体を向けた。不敵に笑う。

(……そろそろあいつも現れる頃だろ)

 そうでなければ、出番を失うもんな。

 真っ赤な心臓のような夕日が燃え上がり、その縁が地平線に接したその時。

「やあ、レオナルド」

 果たして、彼──ジーグ・エヴァーディアスは姿を見せた。どこからともなくバルコニーに現れると、ウエストのあたりを絞った長いインバネスコートの裾を摘み、膝を曲げてお辞儀をして見せた。その芝居がかった仕草が妙に様になる男だ。案外いいところの貴族なのか。

 彼は顔を上げ部屋の中を見回すと、いつもの少し寂しげに歪んだような瞳で微笑んだ。

「君は未来が見えるみたいだね」

 「未来が見えているかのようだ」という比喩の意味か、「未来が見えるんだな」という確信の意味か測りかねたがレオナルドは俯いて笑っていた。

「まあ座れよ」

「そうさせてもらうよ」

 ジーグはレオナルドの前の椅子に腰掛けると、顔の前で指を組み合わせた。左右で大胆に長さが違っている灰紫の髪がひらりと揺れた。意外と毛先がギザギザしているというか、丁寧に切ったのではないのだなとなんとなく思った。

「ねえレオナルド、君は大きくなったね。あの五年前のおどおどしていたあの姿はもうどこにもないね。何より目を逸らさなくなった」

「当然、あの時十六だったガキは二十一の大人になったからな。そしてジーグ、お前はずっと変わらないな」

 五年前に会った時と、姿が変わっていない。レオナルドより少し年上の、ロジェやスザクぐらいの歳の姿。

 ジーグは微笑んだまま軽く首を傾げた。

「私は変わらないよ? この先もずっと」

「で、お前はこの五年間どこにいたんだ? ずっとオレの前には現れなかったが」

「君の前にわざわざ出て行きはしなかったけど、会おうと思えばいつでも会えたよ。薔薇城の塔の一番上にずっといた。……ああ、この城でいうちょうどここだ。この城は薔薇城とまったく同じ形に造られたんだよね」

(薔薇城にいた……!? なのになぜ、その一階にあるはずの〈神の日記〉に何も書かれない?)

 〈神の日記〉は、過去の王宮のこと、また今現在薔薇城で起きていることを全て記録するはずなのに。

 レオナルドの疑問を悟ったように、ジーグはミニテーブルに置いた手に視線を落としつつ、

「わかっているよね? あの〈日記〉はロレンタ王国内の人間の行動しか記録しない」

「ならばお前は……」

「ロレンタの戸籍を持っていないとか、そういう話じゃない。単純に、人間だと思われていないと言うか、生きてる人間として見てもらえていないんだろうね」

「何故……!?」

 思わず声を上げたレオナルドに、ジーグはもともと細い目をさらに細くした。口元は笑みを浮かべているのに、瞳に宿っている光が急に氷のように冷酷になった。

「君に私のことに踏み込む資格はあるの? 君は全ての話を受け止めるだけの強さを持っている自信があるの? あるわけないよね。君にとって他人のことは所詮他人のことでしかない」

「……」

 ジーグが人のことを見透かしたような話し方をするのもまた、五年前と変わらない。そして今年の一月にも、ディオンがそれに当てられひどく落ち込んでいた。でも、落ち込むのは。言い返すことができないのは。

 その言葉が、確かに的を射ているからだ。

 ふとジーグの瞳の色が緩んだ。

「別に私はそんな話をしに来たのではないんだ。それに君の敵は私じゃない。〈悲劇〉を起こした魔女でしょう? ……五年前、チェスをしながら話したよね。内容まで覚えてる?」

「覚えているさ、隅々まで」

 あの時に会ったのも、この場所だった。糸車の針に指を刺し、倒れた妹。無造作に床に広がった金色の髪。青い瞼。そして、窓の外、バルコニーに現れた黒い人影。

 糸車はどこへ行ったのだろう。確か父が燃やしてしまうよう従者たちに言いつけたのだったか。

「それで? タイムリミットまでちょうどあと一ヶ月だよね。どんな感じかい?」

「近況を報告しろってわけか」

「別に。言いたくなかったら言わなくてもいいんだ。たださ」

 ジーグはここで、間を取った。頬杖をつく。

「私には全くわからないんだ。君は何を考えている? 君の〈敵側〉、にあたる道化から、招待状が来たよね。そのくらいの情報は耳に入ってくる。レオナルド、君はそれをどうするつもり?」

 君の敵側。ジーグは決してそれを誰とは言わない。レオナルドは不敵に笑って見せた。

「招待状に関しての情報が入るぐらいなら、オレの行動もお前の耳に入るんじゃないのか?」

「それはないよ。君は王宮を出ない。実際に動くのは君の優秀な部下たちだ。でも〈君の敵側〉はいつも外にいる。だからだ」

「そうだろうな。……まあ、言わないでおくさ」

 言わない。まだ〈王の剣〉の誰にすら話していないことだ。だが実のところ、あの〈記憶石〉のペンダントの記録を見たレオナルドは、二十年前に起こった〈悲劇〉の大まかなことはわかっていた。完全ではない。しかし、あとは細かいところを詰めて実際に解きにかかる、戦うだけだと思っている。妹にかけられた呪いを消すことができれば、レオナルドは満足だ。たとえ自分を道具として使っても。

 ジーグは少し目を逸らした。

「なんとなく思うのは、君が王宮から外に出るのは、最後の最後なんだろうなってこと」

「ははっ……、どうだかな」

 で?とレオナルドは尋ねた。「これで話は終わりか?」

 ジーグは「だいたいね」と答えて立ち上がりつつ、

「最後に一つだけ」

「なんだ? まだ何か?」

 ジーグはバルコニーに続く窓を開け、少しだけ振り向いた。その横顔を、赤い夕日の残光が照らし出していた。

「レオナルド。君は一体、誰」

「オレは」

 答えなんてずっと前からわかっていた。迷うことなんて何もない。レオナルドは真っ直ぐにジーグを見つめた。

「オレは、国とか民とか、いろんなものを背負った国王でなければいけないのだと思う。だが、本当のオレはそれ以前の一人の人間だ」

 ジーグは腑に落ちたような、納得したような顔をすると、今度こそ完全に背を向けた。

「……そう」

 バルコニーへと出て行く。レオナルドは「また、どこかでな」と呼びかけた。ジーグの表情はわからない。

「もう君とは会えない気がする。この世でも、あの世でも」


❇︎❇︎❇︎❇︎❇︎


 ぽつぽつと僅かだが地面を叩く雫の音がする。雨が降ってきたな、と思った。ルーカスは家のお気に入りのライティングビューローに向かって、いつか作ってみたいような洋服のデザインをスケッチしていた。机上に敷いている鮮やかなシアンやブルーのクロスが少しオリエンタルな感じだ。

 と。

 カラン、カランと呼び出しベルが控えめに鳴った。

(あ、来たな)

 そんなことを思って立ち上がる間に、もう一度今度は強めにベルが鳴った。聞こえていないかもしれないと不安になったに違いない。相変わらずだなぁとルーカスは自然に笑みを浮かべながら、

「聞こえてるよー。今行く」

 ドアを開けると、取手にぶら下げている鈴がシャラシャラと音を立てた。

「遅い! 雨が降ってきたのわかってるくせに」

 そう言いつつ、客人──イダが家の中に入ってきた。彼女は籠を腕にかけ、重そうなしっかりした鍋を持っていた。ルーカスはそれをひょいと受け取った。家の中を手で示す。

「ごめんごめん。ぼーっとなってた。まあ上がってよ。また持ってきてくれたんだね。女の子がこう毎週のように夕飯を作って持ってきてくれる俺って結構すごくない?」

「あんたまたそんなこと言って。ええそうよ、あたしはあんたのためにまた鍋を作ってきてあげたのさ」

「そう怒んないでよ」

「怒っちゃいない」

 と言いつつ軽く頬を膨らませているイダにルーカスはにっこり笑った。ふとイダの赤茶の髪に水滴がついているのに気づいて適当に手に取ったタオルを被せてやると、彼女はぱあっと顔を赤くした。払い除けようとする。変な意味じゃなく、可愛いよなぁと思った。あの少年──ディオンとは別の素直さだ。

「鍋はコンロの上に置いてよ。あたしが今からあっためるから。あんたはテーブルの用意ね」

 そう言って、籠を台所に置いて、勝手に引き出し式の収納スペースから木ベラを取り出している。

 わざわざドアベルを鳴らして入ってきたはいいものの、既に勝手知ったる我が家のようである。それもそうか。イダが一週間に一度ぐらいのペースで夕飯に鍋を作ってきてくれるようになってから、もう五ヶ月ぐらいだ。

 〈王の剣〉の仕事のことでも、〈趣味の仕事〉と言われているデザイナーの方の仕事のことでも、ルーカスは熱中し出すと抜けられなくなるタチだ。食事をするのも眠るのも忘れてしまうというか、後回しにしてしまうので、前に一度〈剣〉の集まりの中でぶっ倒れたことがあったのだ。それからイダがたまに家に来るようになった。

(あれからは自分でも気をつけてるんだけどね……)

 鍋料理屋育ちなだけあって、イダの料理は本当に美味しい。だから断るには惜しいっていうのと……。

 割と鋭いルーカスは、実のところイダの好意にも薄々勘づいていた。勘づいてはいるが、器用でもあるために今は何も気づいていないふりをしている。残酷だろうか。しかし、ルーカスも実のところどうしていいのかわからないというのが本音なのである。

 人間扱いが上手い分、今までに多くの人間がルーカスを都合のいいように使ってきた。慰めてほしいとか、褒めてほしいとか、話を聞いてほしいとか。ただ、きっとそれは代替可能の役割でしかなくて、同じように優しくしてくれるならルーカスでなくてもいいのだと思う。だから、イダの思いは新鮮で嬉しくて……なんだけど、どうしていいかわからなくて、そのまんま。そして自分が本当のところイダをどう思っているかだって、よくわからない。

「ねえ、ケロを出してもいい?」

「ん? ああ、いいよ」

 テーブルの上にスプーンやグラスを二人分用意しながら、答えた。イダが鍋をかき混ぜる手を止めて「出でよ、ケロ」と呟くと、茶色い大型犬がどこからともなく飛び出した。

「またルーカスの家に来たんだよ。はい、あんたにも夕飯ね」

 籠から取り出した生ハムを一枚ペロリとケロの口の中に放り込んだ。宿り魔って物を食べるんだな……と感心したが、そんなことを言ったら怒られそうなので、ルーカスは黙って支度をしていた。

「どう? 美味しいかい?」

 しゃがみ込み犬と同じ目線になってイダが笑う。ケロが目を細くして尻尾をぱたぱたと降っていた。ケロ、という名前のもとが三頭犬ケルベロスであることを知っているだけに、可笑しい。

(本来、誰もが宿り魔をああやって平和に使うべきなんだろうな)

 戦いなんかじゃ、なくて。

 立ち上がったイダが「さて、もうそろそろいいだろうさ」と火を止めた。


 テーブルに置いた鍋を目の前で開けてやったら、ルーカスはおおと声を上げて嬉しそうにした。いつものことながら、イダは満足した。 

 ルーカスはいつも笑っている男だ。その多くが意図的に作った表情であることは、わかってる。何故そうしなければいけないのかも、なんとなくわかってるつもりだ。子供の時から、そうやって色んなことを切り抜けてきたに違いない。そんな彼だが、本当に嬉しかったり喜んでいる時には意外と子供っぽい顔になる。その時の表情が、好きだ。

「いただきます」

「いただきまーす」

 手を合わせて、食べ始めた。食事中にはあまり喋らない。雨音と咀嚼音。それらだけが聞こえて、より一層ああ静かだなと感じる。

 料理があらかた減って、そろそろかなと思った。そろそろ、切り出していいかな。

「ねえルーカス」

 呼びかけると、彼は「なに?」と顔を上げた。

「あんたさ、今度レオナルドと二人で任務って、ほんと?」

 ルーカスは一瞬キョトンとした表情を浮かべたが、やがて目を細めて笑った。これは作り笑いか本物か測りかねる。

「なんだ。みんなもう知ってることだったの。そうだよ、今度っていうか、明日からだね」

「うそ!? 明日から!?」

 レオナルドは多分、ルーカス意外の〈王の剣〉たちがこの件を知っているとは思っていないだろう。だってこれは、ヨルがまた盗み聞きをして知らせてくれた話だから。今日の昼頃、ルーカスとレオナルド抜きで色々話したのだ。

 そうルーカスに言うと、彼は吹き出した。

「ヨル、またそんなことしてたの? っていうか、じゃあ俺のこと抜きでみんなで集まったんだ?」

「あんただってあたしらに言わなかったじゃないの」

「それもそうだよね」

 でもまさか明日だったとは。ヨルはそれをわかっていただろうか。

(知ってたら、言ってるよね。わかってなかったんだな……)

 だとしたら今頃、王宮にでも忍び込んで色々探っているに違いない。あの子はスパイ紛いだ。〈王の剣〉になる前に一体どんな暮らし方をしてきたのか。

「でも多分すぐ終わる任務なんだよ。戦いになるとは言ってたけどね」

「なんで」

「レオナルドが一人しか〈剣〉を連れて行かないこと、その一人に俺を選んだことからしてそうでしょ」

 イダははあっとため息をついた。「そうね」

「仮面舞踏会で一番怪我をしたルーカスを連れてく理由がわかんない」

「あれから一週間半経ったし、もうほぼ治ったようなもんだけどね? まあつまり完全には戦えなくても、その程度の力しか今回レオナルドは必要としてないってこと」

 そして少し首を傾けて微笑んだ。……本物の笑顔だ。

「俺は、レオナルドを尊敬してる。そんなレオナルドに来てくれないかって言われて嬉しかったし、彼が何を言おうと俺はついていく」

 どうしてこの人は、明日から血も涙もないような戦いの中に行くというのに、こんなにも楽しそうなんだろう。ただ見送ることしかできない自分は、こんなにも怖いというのに。

 自分が傷つくのは当たり前のように、怖い。でも親しい人たちが傷つくのを見るのは、同じぐらいに哀しくて恐ろしい。

 なんとなく、五年前〈王の剣〉という組織ができてすぐのことを思い出した。


 レオナルドが初めて出した任務。行くことになったのは、エレンとサーシャという、もう今は亡き二人の女性だった。元、〈王の剣〉。しかし、所属期間はたったの一週間。何故なら──二人が殺されてしまったからだ。

『これから仕事を始めるにあたって、まずは薔薇の森を見てきて欲しいんだ。あまり深くまでは入らなくていいから』

 ただの様子見であって、任務とも言えないような簡単なものであるはずだった。なのに。

 帰ってこない二人を不審に思い、薔薇の森まで探しに出たイダとアレキスが見たものは、エレンとサーシャの亡骸だった。

 遠目に見える薔薇の森の入り口付近に、彼女たちは立っているように見えたのだ。イダたちは二人をすぐに見つけられたことに安堵しながらそっちに向かって歩いていた。

『何やってるのよ!』

『お前らが帰ってこないからみんな心配して……』

 ここでアレキスが口をつぐんだ。『イダ、お前はちょっとここで待ってろ』。そう言って、一人でどんどん近づいて行く。

『っっ……!!』

 彼の声にならない叫びを聞いたのは、その十秒後ぐらいだった。

『そ、んな……。ウソだろ』

 イダは待ってろと言われたのも忘れて駆け出した。『何、何があるの!?︎』

 そして、ハッと気づいた。薔薇の幹に並んでもたれるようにして立っているエレンたちが微動だにしないことに。そして、その足元の地面に真っ赤な血溜まりができ、じわじわと広がっていることに。二人の頭上で血のように大きな紅い薔薇が開いているのが、毒々しかった。胸のあたりを思い切り巨大な薔薇の棘で幹に串刺しにされ、目を見開いたままの亡骸……。

 絶命してる。命を落としている。死んでる、死んでる、しんでる……。

 力が抜けて、その場にへたり込むようにして座った。口元を押さえてうずくまる。ううう……っとくぐもった呻き声が喉から漏れた。吐き気がした。

 こんなことをした敵を、憎んだ。顔なんて見たことない。会ったことなんてない。それでも、呪い殺してやる、と思った。十五年前、あんなことをしておいて尚、まだ人を殺すの。信じられない、許せるわけない。


(そういえば、レオナルドの推測が完璧に当たるようになったのはあれからだわ)

 あの予言とも言える〈推測〉。それからも一人、ブルータスという名前の〈王の剣〉に入っていた男が殺された。しかし、あれは確かレオナルドの出す任務とは関係なかったと思う。王宮内で殺されていたのだが、「〈剣〉とは何も関係ない」と彼と仲の良かったルーカスが言っていた。

(そうよ。レオナルドの推測は絶対当たるんだから。今回だって何もないはずよね)

「どうかした?」

 黙り込んで回想に耽っていたイダを、ルーカスが不思議そうに見ていた。

「別にね。ただ……」

 イダは空のカットグラスに視線を落としてポツリと呟いた。

「強くなりたいな」

 ディオンがいつかの夜に呟いていた言葉だ。自分の弱さを知っているだけに、あの少年の思いは痛いほどによくわかった。

 いろんなものを受け止めるだけの、ずっと笑顔を浮かべていられるだけの、強さがほしい。

 ルーカスはややあって「イダはさ」と話し出した。イダは弾かれたように顔を上げた。

「イダはみんなの笑顔が、好きだよね」

「……?」

「ほら、〈王の剣〉で集まった時とかも、みんなが楽しそうだとイダも楽しそうなの。逆に、一人でも悲しそうにしてたりするとその人を笑顔にしようと頑張る。前晩御飯を王宮で食べた時のディオンとのこととかもさ。イダ、あの子の追うようにして出てったでしょ? そういうとこ、意外とイダって繊細なんだよね」

 意外とって何よ……と少しむっとすると、彼は「いい意味だって」と笑った。

「強いかどうかはわからない。でも、みんなの笑った顔を守りたいって思うイダを、俺は素敵だと思う」

「……っ」

「だからね、今のイダでいいと思うよ?」

(ま、またそうやって口説き文句みたいなこと言って……)

 そう思いつつも、なんとなくほっとしたというか、肩の荷が降りたような気がした。胸に手を当てて、一つ頷いてみる。

 ふと視線を感じた。ルーカスかこちらを見ていた。

「……なにさ」

「ううん」

 その目が悪戯っぽく光っていた。

「ベランダに出ない? 屋根があるから濡れないよ? 雨の中で光ってる街でも見つつ、一杯どうですか」

「……」

「遅くなっちゃうのは気にしなくていいよ。家まで送ってくから。それとも、どう? 泊まってく? 襲ったりはしないけど」

 ルーカスの美貌に浮かぶ満面の笑みに、イダも釣られたように苦笑した。

(ちょっと感動したってか見直したとこだったのに)

 でもまあ、悪い気はしないかな。

「そうね。一杯、行こうかね。泊まるかは置いといて」


❇︎❇︎❇︎❇︎❇︎


(そろそろ、出発だな)

 城の三階の中央、国王の部屋。

 レオナルドはマントを羽織り、壁にかけて飾っていた巨大なエンブレムの裏から一本の大ぶりの剣を取り外した。ルビーの装飾がなんとも言えない色合いで輝く。施された装飾は精巧だ。

(アカツキ……。お前を使うことになる日が、来るとはな)

 国王が代々引き継ぐ宿り魔、アカツキ。この王家の剣に閉じ込められたライオンだ。

『この剣を額から外すのは、王国の民たちがそれを欲している時だ。この剣を王自ら振るうのは、この国が滅びへと向かうのを止めるためだ』

 父であるリザート前国王が生前に言った言葉を思い出す。

(……父上。オレが今からやることは、罪でしょうか)

 罪なのだと思う。わかっている。だがしかし。

 たとえ罪であったとしても。やるべきことが、ある。

 城の正面側にあたる、ガラス張りの一面に白々とした朝日が差し込んでいる。王国の大通りを真っ直ぐに照らしている。朝早いのにたくさんの人が既に歩いていたり店を出していたりして、今日も賑やかに見える。

 ふと、なんて美しいんだろうと、思った。

 目に見える、人々の営みは、活気は。誰もが一生懸命に生きている、その事実は。

 コンコンコン、と控えめなノックの音がした。ドアは完全に開いたままの状態になっていたため、扉を叩かずとも声をかけられたはずなのに、几帳面だ。几帳面なやつといえば……。

 振り向くと、少し緊張したような面持ちでエドワードが立っていた。前国王妃の妹の養子息子で、年下の義従兄弟。彼は一本の乱れもない一つに括った銀髪を右肩に垂らしていた。レオナルドはふっと笑う。

「入れよ。そう固くならなくてもよい」

「は、はい! 失礼します」

 一礼して部屋に入ってくる。すごいな、広くて立派なお部屋ですね、と思わずといったように感嘆のため息をついている。

「何をしに来たんだ?」

 問いかけると、エドワードは辺りを見回していた動きをピタッと止めて真っ直ぐにレオナルドを見つめてきた。

「今日、少し外に出かけられると伺いましたので、お見送りに」

「誰かに見送るように言われたのか? だとしたら貴重な朝の時間を使わせて申し訳ないな。下がって良い」

「いえ、私が勝手に来させていただいたんです」

 それもそうか、と思った。レオナルドは実のロレンタ王国の王でありながら、誰からも好かれているような王ではない。城の中での評判はむしろ良くないと言った方がいいくらいだ。ご趣味にばかり気を取られて、国のことはよく考えていない自分勝手な王様。今度は勝手にお出かけになると言い出して、誰がわざわざ見送りになんて出るものですか。そんな風に思われていることだろう。

「……そうか。エオリアル大臣あたりがまた今日オレが出かけることに対して色々言っていただろう?」

 エドワードが軽く驚いたような顔をした。そうか。こいつの前で「オレ」という一人称を使うのは初めてだったかもしれない。「余」だとか「私」が王宮では一般的だし。

 エドワードはスッと目を逸らした。

「そ、そうですね。先ほども愚痴を……」

 聞かされましたよ、と言おうとしてハッと口をつぐむ。失礼に当たるとでも考えたのだろう。レオナルドは苦笑した。

「気にするなよ。そんなことだろうと思ってた」

 エドワードに向き直った。少しだけ見下ろすような形になる。朝日に、横顔を照らされる。

「其方には、迷惑をかけるな」

「そんなこと、ありませんよ」

 大臣の愚痴のことだと思ったのか、エドワードは両手を胸の前でパタパタと振った。レオナルドは苦笑して首を振る。

「そうじゃなくて、もっと色んなことだよ。これから先のことまで。オレは多くの人に疎まれるような生き方をしている。お前に対しても申し訳ないことがたくさんある」

 エドワードは黙って聞いていた。

「だがな、オレには、王宮で国王として生きることが窮屈で仕方ないんだ。不向きなんだよ、こういうのは。だから、赦してくれ……」

 声が段々と小さくなっていき、やがて掠れた。エドワードが俯いたまま、「知っている、つもりです」と答えた。

「知っている?」

「こんなことを申し上げるのは烏滸おこがましいとは思うのですが、義兄さんが国王であることを退屈に思っていることはわかっています。退屈っていうのとは違うのかな……。義兄さんは多分、何をしたわけでもないのに偉い立場に産まれて、偉い立場に居させられてるその事実を厭っているのかな。でも義兄さん、私にとって自由を真っ直ぐに見つめている義兄さんは眩しい存在なんです。偉大な王様です」

 言葉を探しながらも紡いでいくその姿に、レオナルドは穏やかな微笑みを浮かべた。

「ありがとう、エドワード」

(そんな風に言ってもらえただけで、たとえそれがただ一人であったとしても、オレが王であったことは悪いことばかりじゃなかったと思えるから)

 さあ、出発の刻だ。


 王宮前の噴水の側。キラキラと光りながら飛ぶ水沫が一つ一つ、眩しい。門が開いて人が歩いてくるのを見て、ルーカスは目を細めた。

「やあ、王。っていうか王宮一同で盛大な見送りとかないんだね」

 歩み寄ってきた国王──レオナルドは少し首を傾げるようにしてから微笑んだ。

「ああ、まあ。でも一人もいなかったわけじゃないよ」

「そうなの? ふうん。……あーあ、これで待ち合わせてるのが可愛い女の子とかだったらいい朝だねって心から言えるのに」

「悪かったな、オレで」

 悪いと思っている風もなく答えて先に歩き出すレオナルドに、ルーカスはにっこりと笑った。

「ううん。なんにも悪くないです」

 レオナルドはパッと振り向いて軽く表情を止めたが、肩をすくめて笑い、また歩き出した。ルーカスもそれに従いついていく。

「行こうか、戦いに」


❇︎❇︎❇︎❇︎❇︎


 タヴィア様っ!! 叫びながらキリは風を切って進んだ。白い布をふわりと羽のように広げ、正真正銘、宙を飛ぶ。〈風の術〉による飛行だ。

 あの薔薇の森の真ん中にある儀式場の廃墟にたどり着いた。

「タヴィア様!?」

 また名前を呼んであたりを見渡す。

「キリ? どうかしたの?」

 タヴィアはいつものように地面に横倒しになった石の柱に座っていた。まだ十代の少女の顔には落ち着きがあった。それを見て安心する。

 グラザードの死を伝えた時、予想に反してタヴィアは取り乱したりせず、そう、と呟いただけだった。泣いたりしない、目に見えて落ち込むようなこともない。それでもやっぱり寂しそうだった。その痛々しさがキリには心配で、見ていられなくて……。

(まったくあいつ、こんな時に!)

 キリは白布を胸の前で抱いて、タヴィアを見つめた。

「大変なんです。タヴィア様、アルルカンがいなくなりました」

 さあっと幼さの残る主人の顔から血の気が引くのが見えた。


❇︎❇︎❇︎❇︎❇︎


 初めて入る店内を見渡して、ディオンはわあっと声を上げた。むっとこもった蒸気、狭い店内に響く沢山の賑やかな声、そして……ぐつぐつと鍋の煮える音。

「はーい、いらっしゃーい! ゆっくりしてってよ!」

 入ってきたディオンとロジェに気付いたのか、この鍋屋のおかみさんらしき人が周りにかき消されないよう大声で声をかけてきた。四十か五十ぐらいの、全体的にふくよかな女性だ。エプロンを着ている。その腕にたくましい筋肉がついているのを見てとって、ディオンは目を丸くした。

(すごいなぁ。毎日重い鍋を運んでるからかな)

 そしてこの人が……、

(イダさんのお義母かあさんか)

 孤児であったイダを引き取り、育ててきた鍋屋に初めて来た。誰かしら〈王の剣〉と会って話そうかと思った時に便利である。少なくとも確実にイダはそこにいるとわかっているから。

 おかみさんは「適当に空いてる席に座って」と声をかけて通り過ぎようとしたところで、はたと止まった。ロジェの方をまじまじと見ている。

「か、仮面にマント……。あんた、ジョーカーかい?」

(……? ジョーカー?)

 ディオンは訳がわからずに首を傾げたが、ロジェはにっこりと笑った。

「ええ、ジョーカーを名乗っています。ロジェと申します」

 彼は片目を瞑って、肩をすくめて見せた。小声で、「ワタシはサーカスとかで手品をする時ジョーカーっていう名前で出させてもらってるんだよ」と言う。

「ええっそうなんですか」

 そう言えばロジェが手品師を副業としていることをすっかり忘れていた。〈王の剣〉というイメージはあまりにも強烈だ。

 鍋屋のおかみさんも、「あらまあ」と呟いている。

「こんなところで会えるなんてねぇ。あたしゃこの前あんたの手品を見にサーカスに行ったんだよ? ここいらじゃ評判だからね、首都のガルタまで」

「それは嬉しいです。ところでおかみさん、イダさんはいますか?」

 おかみさんはまたまた仰天した。

「えっ、あんたもイダちゃんと知り合いなのかい」

(そういえばイダさんは心配かけないために〈王の剣〉のことを話していないって言っていたな……)

 ちなみに養子としてイダを育ててくれた彼女らとは今は別居しているらしい。それでも、家は近いみたいだし、何もない日や鍋屋が忙しい日には手伝いに来ているようだから仲良しだ。

 ところで……。

「あんたもってことは、ワタシたちの他に誰か来てるんですか?」

 同じことを思ったのか、ロジェが訊ねた。

「うん。ついさっきね、二人連れかな。今は忙しくないから、イダちゃんも下がって話してるよ。二階に一つだけ個室があるからさ。あんたちも合流しなよ」

「そうさせていただきます」

「あーんな怪しげな感じで手品してるってのに、礼儀正しいんだねえ。でも掴みどころのなさそうな感じはあるな。あたしの好みさね」

 ロジェはふふっと笑った。「それはどうも」

 そして完全に蚊帳の外状態だったディオンに「じゃあ二階に行かせてもらおうか」と言って、階段を手で指した。

「あ、はい」

 おかみさんは腰に手を当てて人の良さそうな顔に笑みを浮かべた。

「注文があったら大声で呼んでよ。悪いけどこの店にゃあベルなんて洒落たもんは置いてないんだ」

「わかりましたよ」

 二人連れって誰だろう。首を捻りつつ階段を登って部屋のドアを開けた。

 ガチャ……

「お邪魔しまーす」

「こんにちは……」

 軽くペコっとして中に入ろうと足を踏み出したところで──、

「誰だ!?」

 と驚いた声で叫んだのはアレキスで、

「そうなるよな」

 と腕を組んで頷いたのはスザクで、

「ああ、いらっしゃい」

 と手を振ってきたのはイダだ。

 アレキスはロジェとディオンのことを見て、ガバッと立ち上がった。イダたちに向かって、

「なんでお前ら驚かないんだよ!?」

「こーなるとあたしは思ってた」

「休みだと言われても、なんとなく集まるだろう。今の今頃俺たちの同僚のルーカスと司令塔のレオナルドが戦い始めているかもしれないんだから呑気に家にいられるものか」

 まあ入れよ、とスザクが言ったので、ロジェとディオンも低いテーブルの前に並んで座った。床のクッションの上に座って食べる座式らしい。既に注文したらしい赤い色の大鍋がもうもうと湯気を出していた。

(なんか辛そう……)

 別に苦手ではないけれど。

「ん? お前らもなんか食いたかったら頼めよ。イダの知り合いだから十割り引きだぜ」

「十割り引きって無料ですか。そもそもそんな大きい鍋があったら十分でしょ、アレキスさん」

「まあそれもそうだな」

 ちなみに今日はアナスタシアは、薬剤師としてのアレキスの助手と共に少し遠くまで薬草採集に行っているらしい。ちゃんと見習いとして働いているんだなぁと感心する。

 部屋の中を見回してみると、小さいながら居心地のいい部屋だった。二つ窓があり、木綿の生地のカーテンがひらひらと揺れ動いている。天井からは落ち着いた暖色系の色合いの裸電球が下がっていた。壁には何枚かの写真。

「でも〈王の剣〉集合にしては一人足りなくないか?」

 とアレキスがスザクに言った時……。

 再びガチャッという音が部屋の中に響いた。

 五人で一斉にドアの方を見たが、閉じたままだ。

「──!?」

 間伸びしたような空気の中に、スタッと黒いものが落ちてきた……否、降り立った。テーブルの、鍋のすぐ横の空いたところに。

「っ!」

 ディオンは飛び上がった。

「さて、アレキスさんが登場の伏線をわざわさ張ってくれたところで、ヨルの登場です」

 テーブルの上に着地を決めたヨルは何事もなかったかのようにテーブルを降りると、ディオンの隣に座った。

「上に出入り口があったなんて……」

 とイダが天井を見上げながら呆けたような声を出した。

「屋根裏と繋がっています、とヨルは答えます。そして屋根裏部屋には窓がありましたから」

「なんで普通にドアから入ることをしないのよっ」

 ロジェが仮面を抑えてはははっと笑った。

「見事に全員揃いましたね」

「そうだな」

 頷いたスザクに、「ご存知ですか?」とヨルが問いかけた。

「ここはレオナルド様とルーカス様が今日向かわれているミラク草原に近いのですよ。ヨルはルーカス様に連絡用の鳥を遣わせてありますので、加勢することもできなくはないです。……ああ、レオナルド様は鳥のことを知らないはずです、とヨルは付け足します」

「お前そんなことまで考えてここにきたのか」

(すごいなぁ)

 ディオンは自分より低い位置にあるヨルの頭の方を見た。

「ヨルさんって用意周到ですよね」

「別に大したことはないです、とヨルは謙遜します」

 イダが「つまりさ」と声を上げた。彼女は料理には一切手をつけるつもりはないらしく、テーブルを囲うみんなの輪の一歩外にいる。鍋屋の娘だからここで食べなくても後でまかないを食べることになるためなのか、それとも今は食欲がないのか。

「それって、ルーカスからの連絡を待つしかあたしたちに出来ることはないんだね……」

 行動する人より、それを待つ人の方が辛い。そんなことは当たり前だ。

 でもなんだかなぁ、多分今ここにいるみんなが思っていることは、だいたい同じなんだと思う。

(なんか、悪い予感がする)

 自分達もミラク草原に今からでも行きたいぐらいだ。

 部屋の空気が少し重苦しくなった気がした。


❇︎❇︎❇︎❇︎❇︎


 昨日の夜の雨で、芝生が濡れている。少しムッとしたような湿気が草原を包み込んでいた。

 気配を風に感じた、と思った刹那、ルーカスの、治ったばかりの右肩に衝撃が走った。

っ」

 見れば一羽の鷹が止まっている。鷹はルーカスの手の中に一枚の丸めた紙を落とすと、右肩を踏みつけて、その反動で飛び立っていった。

「なんか言ったか?」

 数歩前を歩いていたレオナルドが振り向いた。ルーカスは慌てて紙を手の中に隠して「なんでもないよ」と答えた。

「石につまずいただけ」

「こんなところで転ぶなよ」

 目の前に広がる、草原。広い。この中のどこに敵がいると言うのか。ミラク草原にて、と言われても、ミラク草原は広いからな。

 レオナルドがまた前を向いて歩き出したところでルーカスは手の中の紙切れを音を立てないように気をつけつつ開いた。なんとなく誰からのものかは予想がついていた。

〈ルーカス様に。──この鷹を〈王の剣〉たちへの連絡用に使ってください。基本、お二人の近くを目に付かない程度に飛び回っているはずです。尚、レオナルド様には気づかれないように。きっと反対されてしまいますので。ヨル〉

(やっぱりね)

 今頃、またみんなでどこかで集まっているに違いない。それが偶然か、必然かはわからないけれど。そういうやつらだ、〈王の剣〉の面々は。ルーカスは自然に微笑みながら、紙を畳んだ。

 と。

 レオナルドが立ち止まった。

「どうし……」

 たの? そう聞こうとした言葉は最後まで発せられることなく草原の大気の中に散っていった。口を閉じて、腰に下げていた細身の長剣を抜き取った。足を開いて軽く構える。

「出たな、道化」

 レオナルドは不敵にも笑った。

 目の前に派手な青色のタキシードを着た男が堂々と手を広げて立っていた。焦茶色と黄土色が混ざったような髪が軽く風に靡く。左目の下には涙のマークがついていた。

(さっきまでどこにも見えなかったのに……!?)

 ただ者ではない、と思った。現れる気配を何も感じなかったのもそうだが、それぞれ剣を持ったルーカスとレオナルドを見ても堂々と無防備な姿を晒しているところからして。

 男は皮肉っぽく目を歪めた。くいっと口の片端を持ち上げる。

「皆さまようこそ、血沫のパーティへ! ワタクシは道化師アルルカンと申しマス。たったのお二人とは随分とまた心もとないデスネぇ。まあそんなことを言っても仕方ありませんヨネ。ワタクシも焦らすのは嫌いなので、すぐにメインディッシュと行きマスカ……!!」

 アルルカン、と名乗った男の周りを赤紫の旋風が光を放ち包み込んだ。本能的に、この男は本当に強い、と思う。二人で倒せるのか? 全力で戦っても難しいのではないか。無理だ。きっと──。

 ルーカスに背を向けた状態のままレオナルドが何か言った。

「──っ!?︎」

 ルーカスは声にならない声を上げた。そんな、嘘だ。なんで。どういうこと?

 レオナルドはこう言っていたから。

「お前は出来る限り下がっていろ。仮面舞踏会での傷に障らないようにな」


 アルルカンは笑う。

 ずっと、自分も含めて人間は信じられないのだと思い続けてきた。今だって何も変わらない。

 人ってのは皆、自分のためにしか生きてはいない。人は自分のためにしか涙を流せない。誰かに優しくするのだって、結局のところ自分のためでしかない。それが正しい姿なのだと思うし、そうでなければならないのだとも思う。人間は他の誰かのために生きてはいけない。

 だからこそ、人のことなど信じられるわけがない。いつだって裏切られる準備はできているし、自分だって都合が悪くなければ裏切る。

 そう思った時、人生や人と人との関わりとはただの暇つぶしでしかなくなった。暇つぶしの中で、一生懸命生きているふりをしている〈人間〉たちの中で、自分もまたそれに混ざり〈人間〉を演じている自分は、道化なのだと思った。

 アルルカン。

 あの紫の目をした男に声をかけられた時、タヴィアの手下になることにしたのだって、今こうしてこんな草原まで出てきて主人の敵と向かい合っているのだって、結局のところ長すぎる人生の暇つぶしでしかないのだと。

 アルルカンは笑った。

 笑って笑って、笑った。

 目の前の、金髪を結えた幼さの残る若い男。まさか部下を一人しか連れずに国王直々に来るとは思わなかった。……本当に嗤える。

(国王サマが周りに不人気であることなんて知ってますからネ……)

 呪いをかけられて、永遠に眠らされた妹を助けたい? ただ一人の肉親として? 国を覆った〈不安や恐怖〉という名の呪いを取り払いたい?

 ふざけるんじゃない。そんなものは違う。アンタが一生懸命になっているのは、妹や国の民たちのためなんかじゃないデショウ?

 人気のない王様。それでも何か一つ、成し遂げられれば立場は良くなるだろう。信頼ができるだろう。自分のことを肉親として大切にしてくれる妹が、側にいてくれるようになるだろう。全部全部、自分のためでしかないじゃないか。

 そしてその国王の後ろにいる部下の男。端正な顔を険しくしてこちらを睨んでいる。許せない、というような表情で。でもこちらのやった何が許せないのか。何故この国王なんかについたのか。ただ情で芽生えたその怒りを自分の生きがいへとエネルギー転換しているだけだろう? ほら、その証拠に今その目にはこの道化しか映っていない。周りを見ることをしない。真っ直ぐに怒りを誰かに向けることで自分を正当化しているから、

 この攻撃を、見ることが、できない──!

 アルルカンはさっといくつもの球を放った。……〈放球術〉。赤紫に発光しながら、球は国王とその部下の死角に入り──、

 爆発する。

「ルーカス、下がれっ!!︎」

 国王は宝石の装飾がついた大ぶりの剣を頭上に掲げた。その剣が一瞬、白銀に光ったかと思うと、その剣心が橙に燃え上がった。

「出でよ、〈宿り魔〉! この聖なる剣に宿りし暁の光!!」

 叫んだかと思うと、彼は眩しいほどに輝く剣を薙ぐように横に振った。その王の姿に、一瞬巨大な黄金のライオンの姿が重なって見えた。

 球が爆発して起こった土埃、熱、そして全ての衝撃が辺りに薙ぎ払われ、爆発していなかった球が全て焼き消された。

(なるほど、王宮で継がれるとされる特別な使い魔の話は本当だったわけデスネ……。それでこちらの攻撃を無効化。お城に閉じこもっているとはいえ、戦えないわけじゃないってことデスカ)

 だが所詮は戦えなくはない、というレベル。武器が強くても、それについていくだけの力がなければ意味はない。現に国王は今の一回の防御だけで軽く息が切れている。

(この勝負、いただきデス……!)

 あのグラザードのように、二人とも殺してやろうなんて思ってはいない。こんなところで欲張ったって、〈暇つぶし〉のアルルカンとしては得がない。だが片方の首をタヴィアに差し入れることぐらいはできるだろう。

 宿り魔を使い過ぎれば、体力も精神力も激しく消耗される。場合によっては再起不能になることだって充分にあり得る。

(それは怖いデショウ? 避けたいデショウ?)

 向こうがそれを避けようと、生き延びようとすればするほどに攻撃力は弱まり、全てはこちらのものだ。

(お嬢さんのいる儀式場の台座の上にでも、首を置いてやりマスカ)

 アルルカンはにやりとした。あのいつも何かに怯えたような少女が、敵の生首を見てなんというだろう。

 タヴィアもまた、信じるなんてもっての外の〈人間〉の一人だ。いつだって自分が手下でいる時に何か不都合があればさっさと裏切るつもりだ。逆に何かで裏切られたところで文句は言わない。

(でもまだ、その時じゃないんデスネ……)

 ならば戦うのみ。


「王っ!! どうして……」

 背後でルーカスが呻くような声を上げているのが聞こえた。

(まだ答えられない。悪いが……)

 そして答えている余裕がないというのも事実だ。歯を食いしばって衝撃を堪えつつ、ひたすら爆発する球による攻撃を弾き飛ばす。これなら防ぐことはできる。だがより強い攻撃に手を出すには。

 やはりあれしかないのか。

 まだだ。体力の限界まではこのままでいよう……。

『あと五年だ。五年後の君の誕生日までが勝負だ。あと五年で君が〈悲劇〉の全ての全貌を解くことができたなら、君の妹の呪いを消してあげるよ』

 あの男の声が耳元に蘇る。まるで昨日のことのように。


『ねえ兄さん、これは何かしら』


『ローズ……!』


 あの後、すぐに近くにいた従者や衛兵を大声で呼んで、ローズは運ばれていったのだと思う。というのも、十六歳だったレオナルドはほぼ放心状態だったためによく覚えてはいないから。

 止まった糸車。割れた花瓶。散らばった赤い薔薇の花びら。

 その近くで、レオナルドはただ立ち尽くしていた。

(ローズ、なんで。何が……)

 思い出すのは、十五年前に起こったというローズの誕生祝宴会での事件。何者かがローズに死の呪いをかけたとか。レオナルドは当時一歳だから、何も覚えてはいないし、誰も詳しいことを教えてはくれなかったが、未だに〈呪い〉についてメイドやらが噂していることがあった。

(でも父上は、ただの噂だって……)

 わけがわからなくて、音なんて何も耳に入らなくて、窓から入る夕暮れの光の他には視界はひたすら暗くて。

 どのくらいそうしていたかわからない。ふと足元に長い影が落ちたのを感じてレオナルドは恐る恐る顔を上げた。

「やあ」

 と、男は言った。

 彼は窓枠に寄りかかって立っていた。灰紫の髪は左から右にかけて大きく斜めになっている。インバネスコートの裾が揺れた。灰に烟ったような紫色の瞳が流し目でこちらを見つめていた。微かに微笑んでいる。

「だ、誰……?」

 尋ねるともなく呟いたレオナルドに、男はスッと向き直ると、膝を折ってお辞儀して見せた。

「私は、誰でもないよ、何でもないんだ。名乗るならばジーグ。君はロレンタ王国の王子のレオナルドだね。初めまして」

 レオナルド、と呼び捨てにされるのが新鮮だ、となんとなく思った。レオナルドと呼ぶのは父である国王だけだったから。母にはレオンと呼ばれていたし、その他の皆には「王子様」とか「陛下」と呼ばれていた。

「ねえレオナルド、私は今日、君といろんな話がしたいと思っているんだ。入らせてもらうね。……ああ、大声は上げないで。今、君を生かすことも、殺すことも与えることも、奪うことも、全て私次第だ」

 ジーグはそう言うと、部屋に入り、ドアに鍵をカチャリと掛けた。二人だけの空間ができた。タイルのミニテーブルには偶然にもちょうど二つの同じデザインの椅子がセットでついていた。

 ジーグは片方の椅子に腰掛けると、二つに折り畳んだ白と黒のチェックのボードのようなものを取り出して見せた。

「チェスのルールは知っているかい?」

「知って、ます」

「それは良かった。長い夜が始まるからね……」

 変な感じだ。夢を見せられているみたいだった。王宮の塔の一室で、妹が突然倒れたかと思えば、今自分は見知らぬ男とチェスをしながら言葉を交わそうとしている。それにこの男はどうやって警備の兵士たちを掻い潜って塔の最上階の窓まで登ったのだろう。

 不思議だ。なんて不思議。

「じゃあ白番の君からね」

 チェスが始まった。

「それで、君は今さっき妹に起こったことについてどう思っているの」

 ジーグに聞かれ、レオナルドはえっと声を上げた。駒を動かすたびに、陶器製のそれはカチカチと音を立てた。

「知ってるんですか」

「もちろんだよ。それで? どうしてそうなったんだと思う? 誰がやったのかな? 君はこのまま放っておくの?」

 矢継ぎ早の質問をしつつ、ジーグは早くもレオナルドのポーンを一つとってテーブルの上に投げ捨てるように置いた。レオナルドは詰まった。

「何も……わからないです。でも……」

 白いナイトの駒をカチャッと進めた。

「放っておきたくは、ない」

 ジーグは、そう、と言って僅かに微笑んだ。邪悪な笑みに見えた。

「それなら、君は愛しい妹のために戦えるよね。その素晴らしい責任感と正義感で。そうでしょう?」

「……はい」

(戦うって……?)

「ルールを説明するよ。君は今、私の作った遊戯盤の上にいる。そして、どうしてこうなったのか、というのを解けばいい。十五年前のことが主になるだろうね」

「十五年前?」

「そう。知らないの? そっか。誰も本当のことを話したりはしなかったんだね。流石にそれだと不利だから、簡単に説明しておくよ」

 そして〈悲劇〉で何があったのかを教えてくれた。誰が、なんのためにそれをしたのかを伏せた状態で。そこを解き明かせ、という話らしい。

「あなたは、知ってるんですか? その、全貌について」

「ああ、知っている。知った上で君に考えろと言っているんだよ。もちろんどんな手を使ったっていい」

「あなたは、なんのためにそんなことを」

「自分に提案するのか、と聞くのかい? その質問に意味はないよ。君の敵は、〈魔女の悲劇〉を起こした〈魔女〉であって、私ではない。解けばいいのは十五年前のことであって、私とは関係がない。チェスの駒は、何のために自分を動かすのかなんて聞かないだろう?」

 束の間の沈黙が小部屋を支配した。外はすっかり暗くなっていた。ジーグがチェスの駒を置いた音だけが響いた。

「強いていうならね、君を試しているんだよ」

 カチャリ。

「無力で、何にも知らない、知ろうともしてこなかった、罪な君のことを」

「……っ」

(そんなことのために、ローズが眠ったことを使われて……! 父上も母上も大怪我をさせられて、大勢の人が殺されたっていうのに、その事実を)

 その重い現実を、全ての真実を握ったというこの男はただレオナルドを〈試す〉それだけのために利用するのだ。

 許せない。

「〈事件〉を軽く見ていると思うの。酷いとでも思っているの。でも私が思うに、これは君が唯一縋ることのできる一本の藁だよ。別に受け入れなくたっていいけど、そうすれば君の妹は永遠に眠ったままだ。死んだも同然だよ」

「……」

 ジーグはにっこりと笑った。髪がふわっと揺れた。

「あと五年だ。五年後の君の誕生日までが勝負だ。あと五年で君が〈悲劇〉の全ての全貌を解くことができたなら、君の妹の呪いを消してあげるよ」

 ただし、と付け加える。黒光りするクイーンの駒を持ち上げた。

「できなかったのならもう再度のチャンスはない。機会など無数には転がっていない。そうしたらそれは」ガツン、とジーグは駒を盤に叩きつけた。

私の勝ちチェックメイトだ──」

  ハッとする。無意識のうちに指で掴んだ白いキングにはもう逃げ場がない。駄目だ。下がろうとしても味方側の駒がそこには既にいる。

(負けた……)

 白いキングの駒が指から転がって倒れた。

 ジーグは立ち上がった。

「どう? 私の提案を受けるのかな」

 選択肢なんてありはしない。同じチャンスは二度とこない。もう一度キングを取られてたまるか。

「受けます」

「そういうだろうと思っていたよ」

 ジーグは駒を片付け、チェス盤をたたみ込んだ。

「じゃあまたいつか」


 あれから数日のうちに、レオナルドはどうにか両親を含め他の人間に知られないようにしながらも二十年前に事件の場に呼ばれていたという〈子供たち〉を記録と戸籍を見合わせながら探した。〈悲劇〉の最中でどうやら一人行方不明になったらしいが、それ以外の十一人は存命のようだった。

 集まってくれないだろうかと手紙を書いた。二人ほど「当時のことなど思い出したくもない」と拒否した人がいた。結果、〈王の剣〉は九人で始まることとなった。

 その直後に二人が欠けた。エレンとサーシャ。初めて出した、薔薇の森の様子を見てきてほしいという任務だった。そして……殺された。

 敵の強さと残忍さを知り、このままでは駄目だと思ったレオナルドは、耳に入った「確実に予言が当たる」というセレスティーヌという名の魔月目の女性と会うようになった。

 そして、それから二年が経ち、レオナルドの両親が毒殺された。また、ルーカスによれば〈悲劇〉とは関係ないらしいが、ブルータスという〈王の剣〉の一人もまた何者かに刺殺された。

 また三年が経って、行方不明であった二十年前の〈子供〉の一人が帰ってきた。

 あまりに多くのことがあったこの五年間、失ったものも多かったが、得たものだってきっと多かった。ジーグとの約束の時まではあと一ヶ月ない。だがそれだけあればどうにか真実を暴けるだけのところまではたどり着いたつもりだ。少なくとも、〈魔女〉やその周りのことについての真実は。

(明らかにするためにはやはり……)

 直接〈魔女〉のもとへと対決に行くしかないのだと思う。そして、そのために。

 レオナルドは戦う。


 〈魔女〉には言いたいことがある。

 お前がやったのは、きっと復讐なのだろうと。確かにお前の思いはよくわかる。それをしなければならないほどに追い詰められていたことだって想像できる。

 だが、呪いをローズにかけたことに関してはただの八つ当たりでしかない部分もあるだろう? 違うか? 生まれたばかりだったあの子がお前に対して何をしたというのだ。

 だったらローズに呪いをかける前にオレを殺してみろ。国王となり、それなりの権力を手にしたこのオレを。それでお前は満たされるのか?

 オレは妹を庇うさ。もう遠く感じられる昔に、お前のことを庇ったやつと同じように。


 レオナルドは今、〈魔女〉の手下である敵の一人と向き合っている。傷が痛むのは当たり前だ。全身が焼けたようにじりじりと痛みを訴えている。だが、そんなことが気にならなくなるほど。

 ただ、生きている、と思った。

 肩で息をしながら、剣を前に構え、ひたすらに相手を切りにかかる。防がれても、防がれても。

 父は言った。「国王としてただ国のためを考えて、生きろ」と。

(父上は立派な国王だった。強くて、大きな背中で、いつだってロレンタを守っていた……。でも)

 母は言った。「レオン、あなたは愛するものを大切にしなさい。そして、大切なものを、ひたすらに愛しなさい」と。

(オレは弱い。父上のように強くなんてなくて、母上のような優しさだって持っていなくて。国王なんかじゃない。オレは)

 結局、昨晩ジーグに言った通りなんだ。

『オレは、国とか民とか、いろんなものを背負った国王でなければいけないのだと思う。だが、本当のオレはそれ以前の一人の人間だ』

 だから──。


 ルーカスは間合いをとりながらもレオナルドとアルルカンの戦いの中に割り込めずにいた。牡鹿を使って相手を縛ろうにも、動きが早すぎる。そして、レオナルドの使う炎もアルルカンの使う爆発も牡鹿の木の蔦を燃やしてしまうだろう。

(……っ。俺はこの場じゃ役立たずだ……)

 それならばなんでレオナルドは自分をここに連れてきた? 考えろ。レオナルドのやることだ。何かしらの考えがあるには違いない。

(とにかく、いつでも加勢できるように身構えておかなきゃね)

 と。張り詰めた空気はそのままに二人の動きが止まった。雨上がりで湿った芝生の一部は、血に濡れて赤黒く染まっていた。

 その血を流しているのは……。

(王、だ)

 レオナルドの宿り魔であるライオンが傷だらけになっている。そして宿り主にもその分だけ同じダメージが与えられるから……。

 アルルカンを鋭く見つめたレオナルドの息が荒い。一方、アルルカンは余裕がある。大袈裟に「あれえ?」と声を上げて、見下すような素振りをした。

「国王の力もこの程度デスカぁ? ……ねえそこで黙って見てるおにーさんも助けてあげないと。王様、死んじゃいマスヨ?」

 そして自分の言葉に「あははは」と軽い感じで笑った。心底どうでもいいことのように。

「……っ」

 ルーカスは下唇を噛み締めた。

(出でよ、宿り魔……! 今油断してるうちにあいつを縛れ)

 淡く緑色に光り輝く牡鹿が跳ね飛んだ、と思った刹那、無防備に笑っている男のもとへ一気に駆けた。

 その時、レオナルドが強い力でルーカスを突き飛ばした。

 地面に叩きつけられ、一瞬わけがわからなくなる。どうして、と自分を払い倒したレオナルドを見上げた。頭上から発砲音が聞こえた。……起き上がる。

「あーら残念。撃つ前に的が消えてしまいマシタヨ」

 アルルカンはこちらに右腕を伸ばしていた。その手にはごく普通の拳銃が握られている。

「いくら技術の遅れてるこの王国にも、拳銃ぐらいあるんデスヨ。知ってマシタ?」

(もし今、王が俺のことを突き倒してなかったら……)

 牡鹿は統制が失われることなく消えずに、ルーカスの宿り魔はそのまま撃たれていただろう。それはつまり、死……。

 ルーカスはゆっくりと立ち上がった。

「王……。俺は」

 レオナルドは頬の切り傷から流れている血を手の甲で拭い、ニヤリと笑った。

「ルーカス、オレについてきてくれて、ありがとう」

「……!」

 レオナルドはルーカスが止める間も無くアルルカンに剣で切り掛かっていった。アルルカンが銃身でそれを受けた。火花が散る。剣が燃え上がったその瞬間、レオナルドが攻撃を流し、自由になった剣先で刺しにかかった。

 アルルカンが初めて余裕を無くし、思わずといったように刃が身体に届く前に左手で剣身を掴んで止めた。手を貫通して僅かに刃が覗き、鮮血が飛び散った。

「……なかなかやるじゃないデスカ」

「お前もな」

「残念ながらまだまだですけどネッ!!」

 アルルカンがぐるんと大きく反動をつけて逆立ちした状態になると、そのまま腕の力だけでバランスを取りつつ尖った靴でレオナルドの腹の辺りを蹴り上げた。

「がはっ……くっ……」

 地面に叩きつけられたレオナルドが呻き、咳込んだ。が、よろめきつつもすぐに立ち上がる。

 その背に一頭のライオンが重なった、と思った瞬間、巨大なライオンがたてがみに焔を光らせながらアルルカンに突進した。がつん、と大地を揺さぶり焦がした。

 ひたすらに無駄がなく速い、それらの動きを目で追いながら、ルーカスは呆然としていた。

 レオナルドはついてきてくれてありがとうと言った。礼を言った。

 なんとなく前から胸にあったこの嫌な感じが、嫌な予感が、突如はっきりとしたイメージを伴って影を落とした。

(王、もしかして──)


❇︎❇︎❇︎❇︎❇︎


「まだ、まだ連絡が来ない……」

 イダが目に見えてぐったりとした様子で頭を抱えた。やはり鍋に手をつけないのは食欲がないからのようだった。

「落ち着けよ……。あまりに楽々だからだ、多分」

 どうしていいかわからない、という顔をしつつも不器用にイダを慰めようとしているのはスザクだ。

(ルーカスさんが今戦ってるかもしれないんだもんね)

 ディオンは何もできずにただ座っていた。

 鍋屋の二階の小さい部屋には、重苦しさが渦巻いていた。何ともしれない不安感と、恐怖。アレキスは腕を組んで俯いて目を閉じているし、ヨルは少し陰った瞳で窓の外の空を見つめていた。ロジェはカードの束を手で弄びつつ、どこか心ここに在らずといった様子だ。

(でも、本当になんにもないかもしれない。多分大丈夫だよね?)

 自分に言い聞かせながら、特にやることもないので部屋の中を眺めていた。

 ふと視線が止まる。

(そういえば、これ……)

 壁にかけられた何枚かの写真の中の、簡素な額に入った一枚。モノクロの色彩の中で、一人のお姉さんっぽい女の子と二人の小さな男の子が並んでいる。女の子はちょうど今のディオンぐらいの歳だろうか。前にいる男の子二人の肩に手を置いて、快活そうに微笑んでいる。男の子の一人、十歳ぐらいの子は少し不機嫌そうに、でも照れたようにそっぽを向き、もう一人の、それよりも更に小さそうな男の子ははにかんだように微笑みながらこちらを見つめていた。白黒だからよくはわからないが二人は似て見えた。

(兄弟かな……? 誰だろう)

「イダさん、この写真外してみてもいいですか?」

「……え、ああ、いいよ」

 慎重に壁から額を外した。ひっくり返してみる。

〈カミーユとカミオ。シャトリー姉さんと〉

 手書きの文字で、そう書かれていた。

「何かあった?」

 ロジェがディオンの手元を覗き込んできた。あれ、と声を上げて軽く思い出そうとするような素振りを見せた。

「カミーユとカミオって、確かトランティカの兄弟の名前だね」

「トランティカ?」

 どこかで聞いたことがあるな、と思っていると、ヨルが「あの怪談でしょう、とヨルは口を挟みます」と口を挟んだ。

「消えた次男の話、ですね」

「そうです、そうです」

(ああ。そうだ、僕が行方不明になっていたことにロジェが別にそういう人が他にいないわけじゃないって言った時だ)

 一度だけ、「トランティカの消えた次男」の話が出てきたことがあったっけ。

「でも噂じゃなくて、本当にいたんですね。消えたかどうかはともかく、とりあえず存在は」

 ロジェが片眉を上げた。

 イダも顔を上げた。

「それはそうね。そこに映ってる〈シャトリー姉さん〉ってのはあたしのお義母さんのお母さんのお母さんらしいから。詳しいことはおばあちゃんに聞かないとわからないけど」

「ひいおばあさんには?」

「あたしは会ったことない。もうとっくに亡くなってる」

 話がひと段落した。ディオンはそっと壁の釘に写真を掛け直した。

「そんなことより、今はあいつらだよな……」

 スザクが、他のみんなの思いを代弁するように呟いた。


❇︎❇︎❇︎❇︎❇︎


 国立大舞踏会城の仮面舞踏会の最中、レオナルドとセレスティーヌの間で行われていた密会でセレスティーヌは「陛下、私は本当に恐ろしいことを貴方様にお伝えしなくてはなりません」と言ってなかなかその先を話そうとしなかった。

『こんな時間に来いと言ったのはこちらだが、其方も早く帰った方がいいのではないか? 夜も遅い』

『わ、私も本来、こんなことは申し上げたくないのです……。だ、だって陛下。貴方様……』

『大丈夫だから言ってみろ』

 何も考えずに答えを催促した。どんな未来が待ち受けていたって、また〈王の剣〉たちに協力してもらって今を変えていけばいいのだと思っていた。だって今までだってそうしてきたから。今までにだって恐ろしいと感じる未来はいくつもあったから。

 だが。

 セレスティーヌは、ローブの下に覗く唇を震わせて、言った。

『私が見たのは、陛下、貴方様がお亡くなりになる未来なのです』

 

 セレスティーヌが見る未来は、〈変動未来〉。〈確定未来〉とは違い、その原因をなくせば容易く変わる未来。無数のパラレルワールドが存在する。

 つまりは、どの未来に行って見てくるのか条件をつけることが可能。

「〇〇が起こった未来へ」とか。

「〇〇の起こらなかった未来へ」とか。

 あまり先を読みすぎても、いくらだって変わってしまう道があるために、セレスティーヌは近い未来にしか行かない。そして、できる限りいくつもの条件の未来を試した上での最善手や最も恐るべき未来をレオナルドには話していた。悪い予兆を一つ一つ排除していく助けをすることが役目だと思うから。

 そんな中。

「仮面舞踏会で〈記憶石〉を手に入れた後の未来へ」

 と指定し、敵の一人が〈王の剣〉とレオナルドに対して決闘を挑む手紙を送ってくることを知った。そしてそれを受けたのは、レオナルドだったのだ。

 そして、レオナルドは戦いの中で、命を落とした。

 駄目だ、こんな未来は。そう思って、セレスティーヌは次に「レオナルドが戦いに行かなかった未来」を指定した。

 結果、すぐに誰かが死ぬことはなかったが、より遠くの未来までを総合して見た結果、最終的には勝つことができなかった。

 そして、「レオナルドだけでなく全員で戦いに挑んだ未来」。──〈王の剣〉側の全滅。

 結局のところ、最終的なことまで考えるのならここで手紙を送ってきた敵の一人には楔を打つ必要がある。致命傷となるものを。だとするのならば……。

 それをセレスティーヌが怯えながらも伝えた結果、レオナルドはただ「わかった。それしかないんだな……」と呟いた。


 青空の中を旋回している一つの点に向かって、ルーカスは叫んだ。

「お願い、来て……! ヨル!!」

 黒い点のように見える鷹はあっという間に遠くへと飛んでいき、やがて見えなくなった。

 そして向き直る。もう敵なんて見えない。視線の先には傷つき、血を流しながら、何故だか清々しそうに満足気に淡く微笑んでいる、国王しかいない。

(俺は、なんのためにここに来た)

 走り出す。間に合え。ただ間に合え。

『単純な任務だ。軽く戦いにはなるかもしれないが、オレと来てくれるか』

『いいけど……。俺、万全で戦うのは無理だと思うよ? 舞踏会の時の傷が治りきってはないから』

『大丈夫だよ。だから単純って言っただろ』

『そっか』

 ルーカスはその時、喜んだのだ。自分を使ってもらえることが嬉しくて。

『行くよ。王についてく。どこまでも、ね』

(俺こそ、とんだ道化だよ……)

 単純ってなんだよ。

 レオナルドがルーカスを連れてきた本当のわけは。レオナルドは国王であるために、流石に一人では城の外に出られない。誰かしらを連れて行く必要がある。だが敵はあまりに強い。連れて行けば行くだけ倒されてしまう可能性がある。だから誰か一人を選ばなければいけないとして……俺がついてこいと言われたのは。

 庇うだけの理由を、持っているからではないか。

 ずかずかと戦闘に入れば、やられてしまうことは目に見えている。だが、完全に治癒していない傷を理由に庇うことができれば。

(……ふざけるな)

 奥歯に力を入れた。

「レオナルド──!」

 初めて、彼に出会った五年前から初めてその名を叫び、その背に手を伸ばした時。

 レオナルドは小さいがはっきりとした声で言った。 


「〈血肉ノ技〉。……王の行進ファランドーレ!!」


 全てがスローモーションに見えた。眩いほどの光に、吹き飛ばされそうなほどの風に、ルーカスは腕を顔の前にやって身を庇った。深い後悔と、自己嫌悪とに、倒れそうだった。


 一瞬、何が起こったか分からなかった。アルルカンは目の前の男を中心に、自分が使っていた〈放球術〉とは比べ物にならないほどの大きな爆発が起こるのを見た。地響き。地面に亀裂が入るほどの畝り。

(〈血肉の技〉!? それはつまり……)

 宿り魔を使っての、最大の技。宿り魔と宿り主双方の死を意味する技。まさか。まさかこの男がそれを使うなんて……。

(受け切れるデショウカ……? いや……)

 上手く受けなければ命はない。アルルカンは全身に力を入れて、重心を低くして構えた。何もしないよりはましだろう。

 と。白金の光が全て突如空高くに舞い上がったかと思うと、巨大な獅の形を成して飛びかかってきた。

 その凄まじい勢いだけで地面に倒されたアルルカンの胸の辺りに、ライオンはたてがみを振り乱して飛び込んだ。

(──っ)

 激痛とも言えないひたすらな衝撃が全身を貫き、うめき声すら上げられなかった。

 その一瞬のあとには、何も残らなかった。濡れた芝生の上に倒れたまま、ただ自分の荒い息が青空に吸い込まれていく。

(終わった、のデショウカ……?)

 あの王の命を懸けた〈血肉ノ技〉が、これで終わりなのか。苦しくて、痛くて、悲鳴も上げられないほどではあった。だけど──、生きてる。普通に。

 ふらりと身体を起こす。霞んだ目で辺りを見渡したが、ライオンはもう、いなかった。地面に横たわった血まみれの国王を部下の男が覆いかぶさるように抱きかかえているのだけが見えた。

 あいつはもう、じきに死ぬ。

 とどめを差してやる必要もない。

(……一体なんだったんデショウ)

 とりあえず死ななかった、と思った。まだその時は来なかった、それだけのことだろう。

 だがこの苦しさはなんだ。息をしても、息をしても、まだ足りない。何かが身体の中でごうごうと燃えているかのようだ。動けなくなる前に、薔薇の森に戻ろうと思った。敵の仲間が駆けつけたりして捕まったら元も子もない。

「……〈移動術〉、森へ」

 枯れた声とともに呟き、アルルカンはその場で掻き消えた。


「……ありえない。ありえないです」

 全身でレオナルドを抱え込むようにしながら、ルーカスは吐き捨てた。レオナルドの血で服が濡れる。だがそんなこともうどうでもいい。自分の声がひどく冷たいのを感じた。対照的に、抱きかかえたレオナルドの身体は熱かった。その胸には、ライオンの爪で抉られたような深い傷が三本走っていた。

「なんでやったのって、なんとなくわかるけどさ。俺、悪いけどすごく怒ってる」

 ねえ、知ってる? 三年前まで〈王の剣〉として一緒に戦ってたブルータスはさ、あなたのために死んだようなものなんだよ。

 言葉には出さなかったが、心の中で語りかける。


 ブルータスは、ルーカスより六歳年上で、〈王の剣〉の中で仲が良かった。多少口が悪いが大雑把な性格で、年齢に関係なく屈託なく話すことができるやつだったのだ。

 そして、あれが起きた。

 国王・王妃の毒殺事件。

 スパイの仕業だとか、パーティーに招かれていた客がやったとか、王宮の従者が毒を混ぜたとか、たくさんの噂が流れる中で、ブルータスはルーカスにだけ話した。

『俺が思うに、敵は王宮側の人間の中にいるだろうな』

『それはそうかもね。でもなんか考えてるの? ブルータスがわざわざそれを俺に言うってことは』

『倒しに行ってこよーかって思ってんだよ』

『王には言わないの?』

 尋ねると、ブルータスはにっと笑った。

『あのまだ幼いような王様に、俺は身内を疑うことを覚えてほしくねえんだよ』

 身内を疑ったりしないで、真っ直ぐに生きていってほしい。だから彼は、レオナルドに敵のことを知らせることなく、一人で挑んだ。そして殺された。腹を何度も何度も刺された状態で見つかった。

 ただ一人、全てを知っていながらルーカスは「あいつは孤児院の頃からの知り合いに恨まれててそれで殺されたんだよ」と〈王の剣〉たちには話した。それが彼の遺志だったから。

『お前は俺がもし、殺された時に、上手いこと言っとけ。で、俺の仇を討ってくれてもいいぜ?』

 全ては若い王のために。まだ当時、成人すらしていなかった王に、汚れてほしくなかったから。

 ブルータスの仇は、仮面舞踏会で討てたと思っている。王宮側に入り込んでいた敵というのは、あの七変化の男だったのだろう。みんなで戦って、みんなで勝てた。


 ねえ……。今腕の中で消えようとしているその灯に声をかけた。

 レオナルドはゆっくりと目を開いた。

「一体、どれだけの人があなたのことを大切に思っていたと思う? 俺たち、みんなあなたのことを慕って、尊敬してたんです。大事で、失っちゃいけないって思ってたんだよ」

 レオナルドはふっと笑った。掠れているが確かな声で「ありがとう」と呟いた。

「話さなくていいよ」

「いや、まだ口を聞ける。〈技〉を使ったにせよ、即死系とこうやってゆっくり死んでくのとあるのかな」

 死んでく。そうぼかすことなくはっきりと言った清々しいほどの口調に、泣きたくなる。レオナルドは続けた。

「たくさん、オレはお前たちに謝らなきゃいけないさ。でも、後悔はなくて」

 彼は絶えず止まらず血を流し続けている胸の辺りに右手を当てた。その瞳が真っ直ぐに空の青を映していた。

「今、すごくここが熱いんだ」

「……レオナルド」

 低い声のまま、ルーカスは呼びかけた。なんだよ、と彼は見上げてきた。

「今まで、名前で呼ばないで、ごめんなさい」

 王、という呼び方が、どれだけあなたを苦しめていたか知れない。だってレオナルドはレオナルドだから。

 レオナルドはすっと目を背けると、そんなのいいんだよと声もなく言った。


 ただ走る。初めて来たミラク草原は本当に何もない場所だった。ディオンは周りにレオナルドとルーカスの姿を探した。

 ヨルがルーカスに渡していた鷹が、イダの店の窓から入り込んできたのはついさっきだった。バタバタと羽を動かす鷹にヨルが近づいて、低く何か言葉のようなものを交わした。

『結構な戦いみたいです。ルーカス様が、助けを呼んでいます』

 さあっとみんなが青ざめた。中でもイダはひどかった。

 ディオンは誰が止めるのも聞かずに鍋屋を飛び出していた。街を抜けて、草原があると聞いた方向へ。

「レオナルドーッ!! ルーカスさぁぁん!!」

 息が切れていることを自覚しないほどに夢中だった。戦いが起こっているらしいが、それにしては草原は静かで、風に芝生が波立つように揺れているだけだった。本当に、何も音がしない。恐ろしいほどに。

「レオナ……」

 その名をもう一度叫ぼうとして、やっと見つけた。

 倒れた影をもう一つの影が抱き抱えていた。

(そんな、う、うそ……)

 近づくうちに、血まみれで抱えられているのがレオナルドだとわかった。いつも無造作に縛られ、きらきらと日の光に輝いていた綺麗な金髪が、赤黒く汚れ、乱れていた。そのすぐそばに、もとは綺麗だったであろう装飾がふんだんにつけられた大きな剣が転がっていたが、まるで生気を失ってしまったかのように鈍い色をしていた。

 ルーカスが顔を上げて、「ディオン……」と吐息と共に声を出した。その顔には苦さと疲れだけが滲んでいた。いつもの笑みとの違いに、声が出なくなる。

 ようやく追いついてきたロジェ、スザク、ヨル、アレキス、そしてイダがハッと息を吸い込んだ。

「アレキス、応急処置はできるか」

 珍しく焦った声で頼むように言ったスザクにアレキスが答える前に、レオナルドが額から血を滴らせながら、

「〈血肉ノ技〉を、使った」

 だからもう、死ぬしかない。もともとそのつもりだった、と。

「──!?」

 スザクは息を呑んだ。

 イダが、なによ、と声を上げてその場に崩れ落ちるように座り込んだ。ロジェとヨルは無言でレオナルドを見つめている。アレキスが軽くレオナルドの傷を見て、小さく首を振ると、それから目を逸らした。ディオンは何も考えられずに、呆然と立ち尽くしていた。

「話せるうちに、話すから、聞いてくれ」

 レオナルドはこんな時でも微かに微笑んだ。

「遺言だと思って。これから何をして欲しいかについて」

 イダが「嫌だ」と叫んだ。

「遺言だなんて言うんじゃないよ! あ、あたし、許さないから。死んだらゆるさない……!」

 イダさん、とロジェが諫める。

「ワタシたちは、聞かなければいけないです」

 イダは何も言わずに、頬を伝っていた涙をむちゃくちゃに拭った。

 レオナルドが口を開いた。

「二十年前のことについて、大体のことはもうわかった。今は長々と話していられないから、わかるようにはしてある。お前たちには、二人会ってほしい人物がいる。一人は、オレの妹のローズに」

「眠っている、姫君にか」

 スザクが確認した。

「ああ。オレの命令だと言えば、部屋に入れてもらえるはずだから。そして二人目に、セレスティーヌという魔月目の女性に会ってくれ」

 ひゅっと誰かが息を吸う音がした。

 魔月目の女性?

「ガルタ内にはいるだろうと思う」

 レオナルドはここまで言うと、もう何も思い残すことはないというように全身の力を抜いた。もう残り時間が少ないのかもしれない。

「……ディオン」

 名前を呼ばれて、はいと答えた。緊張が全身を走る。

「ずっと二十年前から止まっていた時を、お前が動かしたんだ。ほら、ディオンがオレたちの前に帰ってきた時から、こんなにも物語が加速している」

 だからさ、と笑う。

「弱い自分を、愛せ」

「──っ」

「大丈夫、人ってのは自分が思っている以上に頑張れるから」

 じわりと、視界がぼやけた。首を振る。今ここで泣いては駄目だ。むしろ……、

 笑おう。

 顔がぐちゃぐちゃになる。「頑張ります」と、呟いた。レオナルドは頷いてくれた。

「レオナルド」

 とアレキスが呼びかけた。

「思い残すことはあるか」

 その問いに、レオナルドはあるわけないと答えた。

「この結末しか、きっとオレには無かった。よかったよ。誰もが一生懸命に生きているから世界は美しいんだって、今日初めて思えたんだ」

「お前はよくやった。本当にな。一人で頑張りすぎたんだよ。俺がこんなこと言ったって信用できないかもしれないけど、あとのことは俺たちに任せろ。ゆっくり眠れよ」

 レオナルドは目を閉じて、小さな声でばかと呟いた。

 ばか。そんなこと言うな。

 ただの仕事仲間。利用し利用される仲。

 そんなふうにオレが最初に言ったのは、そうでないと別れが寂しくなるからに決まってんだろ。

 〈王の剣〉。

 こんなこと言ったら困るだろうけどさ。最期にひとつだけ。

 いろんなことがあったけど、オレは、お前たちと時間を共有できて、

「──幸せだった」

 呟くように言った声は、空中に残響となって散っていった。ルーカスの中で、レオナルドが完全に力を失うのがわかった。胸の上に置いていた手が、溢れるようにぽろりと芝生の上に落ち、深い爪痕のような傷があらわになった。

 静かに力強く燃えていた火は、ふっと音も立てずに消えた。まるで眠りに落ちるように。


「ああ、俺たちも幸せだったさ」

 そうアレキスがレオナルドを見つめた状態で言った。それからただ独り言を言うかのように話す。

「薬剤師やってると、よくいるんだ。病気とかでどうせ長くは生きられないから、苦しむ前に死にたいって。だから睡眠薬が欲しいって。……だけどこいつは、こんなに深い傷を抱えてても、殺して欲しいなんて言わなかったな。傷の痛みに最期まで向き合ったな……」

 低いが優しいその声に、僅かに涙声が混ざった。

「なんで言わなかったんだ、って思うことはある。みんなでやってたらどうにかなったんじゃないか、とも。だけど、こいつは本当に頑張った。それは事実だよ」

 七人の〈剣〉は、それから日が沈むその時まで、ただ無言で頭を下げて祈り続けた。

 どうか。

 彼の魂を、眩いほどの光が導いてくれますように。

 暖かくて美しい、陽だまりの中へ──。


❇︎❇︎❇︎❇︎❇︎


(へえ、そう。アルルカンのやつ、一人殺したのね)

 草原の中央のあたりで集まっている敵の姿を目に捉えて、キリはふっと笑った。冷たい笑みが広がる。

 今ここにいないのだから、既にアルルカンは薔薇の森に帰っただろう。道化師を名乗っているだけあって、彼の〈放球術〉と〈移動術〉は完璧だ。それにしても、いなくなったと思ってタヴィアと心配していたらこんなところまで来ていたとは。

 遠くに見える敵たちの人影を数えた。見たことのある仮面のやつや、眼鏡のやつも中にいる。動けるのは七人か。そのうちの一人は子供だろう。

 だけど。

 今は攻め込むのは得策ではない。キリが得意としているのは一対一の戦いに向いている〈分身術〉だ。敵は多くて二人しか相手にはできない。

(仕方ないわね……)

 目の前に見える、それも士気の下がって倒しやすそうな敵たちをそのままにしておくのは気になるが、どうしようもない。……と、眺めていて気づいた。

(あ、あいつ……!)

 敵の中の一人に目が止まった。なんであんなところにいるのよ。それってつまり。

(なるほどね……)

 邪悪な笑みと共に、この私が絶対殺してやる、と思った。


❇︎❇︎❇︎❇︎❇︎


 移動術で薔薇の森まで移動したはいいが、やはり距離が長かったようだ。体力をかなり消耗した。

 アルルカンは薔薇の幹の太い一本に、もたれかかり、呼吸をどうにか整えようとした。右手で髪かき上げるように、額に当てた。頭がガンガンと痛い。気を抜いたら意識を失いそうだ。右手で左手を強く握る。まだ痛みを感じられるだけ、大丈夫……。

 移動術のせいだけでは無さそうだ。やはり〈血肉ノ技〉の影響もあるからか。

 自分勝手なくせに、それを人のためだとか言い巻いていた、愚かな国王を殺した。彼が〈技〉を使ったせいだとはいえ、アルルカンが殺めたも同然だ。正しいことをしたとも思っていないし、いい気味だとすら思っていない。

 薔薇の木々がざわめく。

 人のことなんて信じられない。信じられないことが当たり前なのだとずっと言い続けてきて、信じられない人間をこれまでにだって壊してきて、それでいて自身もまた〈人間〉の一人であることを諦めにも似た思いで抱えていた、自分は。

「アルルカン!!」

 走り寄ってくる人影に、アルルカンはよろめきつつ身体を起こした。

 人なんて。

 誰だって。

「……お嬢、さん」

 人影──タヴィアの姿に惚けたようにゆっくりと目を瞬いた。彼女は「どこ行ってたの、心配してたのに……」と俯いて言うと、アルルカンの左手を取ろうとして、ハッと目を見開いた。穴が空いた手。そして、

「血……」

 顔を上げてアルルカンのことをじっと見て、他にも傷がたくさんあることに気づいたようだった。怯えたように瞳が揺れる。

 アルルカンはニヤッという笑みを作った。

「なに、手の傷以外は全部返り血デスヨ。見苦しいだろうけれど見た目ほど大したことはないデス。向こうの国王を殺しマシタ。グラザードを奪われた分ぐらいのものは奪い返したつもりデス。なのに……」

 そっと血のついた右手の手袋を取って、そのままタヴィアの頭にぽんと置いた。

「なに泣きそうな顔、してるんデスカ」

 タヴィアは再び目を伏せると、頭の上に置かれた手を取ると強く握った。白くて細くて、そして温かい手に握られてそれ以上言葉が出てこない。

「無事で、よかった……」

 消え入りそうな声が、痛かった。

(お嬢さん)

 アルルカンは疼く胸にもう片方の手を当てて心の中で呼びかけた。

 いつか、自分が貴女を裏切る日が来たとしても、来なかったとしても、自分が貴女の側にいつまでもいることはきっと、出来ない。出来ないのですよ……。

 薔薇の森が包み込むように優しく揺れていた。


❇︎❇︎❇︎❇︎❇︎


 薔薇城の出窓にいつものように腰掛け、ジーグは森のさらに遠くにある王宮の方を眺めていた。

(レオナルド、君はキングだというのに、盤上を降りていってしまったんだね)

 手の中で弄んでいる赤い薔薇の花びらが、一枚はらりと落ちた。

(それは私のチェックメイトでいいのかな。でも、なんだか違う気がするね……)

 五年前、チェス盤を挟んで向かい合った彼はもういない。

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