scene 2 Masquerade
二十年前───。
今は薔薇で覆われてしまった森の中央にある儀式場では、ロレンタ王国の姫君、ローズ姫の生誕祝宴会が行われた。当時の国王・王妃はもちろんのこと、国中の伯爵家や公爵家の人々が呼ばれ、杯を交わした。
そして、生誕祝宴会にはハイライトとも言える儀式があった。
〈子供達〉と呼ばれる十二人の孤児たちが、姫君にそれぞれ〈贈り物〉をするのだ。何故、孤児なのか。それは一般に幸せを求める力が並の子供より強いからだといわれている。だから〈贈り物〉をするのに適しているのだと。孤児はランダムに国中の孤児院や修道院から選ばれる。年齢は、四歳から十九歳と、さまざまだ。〈贈り物〉を口にできさえすればいいのだから。
〈子供達〉は、その時もまた儀式をしていた。
「お姫様が優しく、思いやりを持って育ちますように」
「姫君は誰からも頼りにされるような存在になるでしょう」
「姫様がいつまでも美しくありますように」
儀式中に言われたことはそのまま〈贈り物〉となり、姫に与えられる。ローズ姫は〈贈り物〉をされるたび、星屑のようにきゃっきゃと笑った。生まれて間もない彼女には何が起きているのか理解できていなかったに違いはないが、それでも楽しそうに。
ところが、十一人目の子供が、
「お姫様は礼儀のなった、花のようにたおやかな女性になることでしょう」
と言った時だった。それは起こった。
「そしてローズ姫は十五歳の誕生日、糸車の錘の針に指を刺して、永遠の眠りにつくわ……」
そう言う女の声がした。姿は見えない。だが確かに誰かが声に出して言ったのだ。儀式場内に恐怖が広まった。儀式中に言われたことは全て本当になってしまう……。つまり、
ローズ姫は十五歳で死ぬ。
招かれた客の中から悲鳴が上がり、気絶した人もいた。誰もが未来を思って戦慄した。式場内は騒然とていた。
その時。
「違う! 姫様は眠るだけだ。それは永遠ではない! ローズ姫様は、全ての呪いが解けた時、愛と共に目覚めるはずだ──!!」
幼いながらに叫ぶ、子供の声がした。〈子供達〉の中から上がったものだ。十二人目、最後の子供がそう叫んだのだ。
さっきの女の声がそれを掻き消すように喚いた。
「邪魔をしないで!!」
ザンッという閃光が辺りを走り抜け、その子供が呻き声を上げた。
それが〈嵐〉の始まりとなった。風が吹き上げる。椅子が、テーブルが、料理が散乱する。客や〈子供達〉、王家の人々──。人間は区別なく風に揉まれ、ぶつかったりしてもみくちゃになった。ローズ姫を守ろうと彼女の上に覆い被さった国王・王妃の上に大理石の柱が倒れて……。叫び声、呻き声、慄き声。全ての人間が意識を失い……、
やがて森は、王宮は薔薇に包まれた。
それが、二十年前の〈魔女が起こした悲劇〉の全てだ。
話し終えたらしい王──レオナルドは、微かに遠くを見つめるような目をしてこちらを見た。ディオンは俯いていたが、ややあって顔を上げた。何か言わなければいけない、と思った。この空間には、国王とディオンの二人しかいないのだ。
椅子に座った状態のディオンと、立って壁にもたれかかった状態のレオナルド。彼は最初に言っていた。「オレはこれから国王らしくない立ち振る舞いをするだろうが、気にしなくていい。それが素の状態だ」と。それから「オレのことはできれば名前呼び捨てで呼んでほしい」とも。
「それで……、ローズ姫様は……」
「いまだに眠っているよ。十五歳の誕生日から、本当にな」
「…………」
言葉が出なかった。若き王はほっとため息ともつかない息を吐き出したようだった。緩く結ばれた金色の髪が煌めいた。彼は再び話し出した。
「〈王の剣〉。もう聞いたことがあるだろう? 君を拾ったロジェもまたその一人だ。スザクも、アレキスも、ヨルも。本当はあと二人いるから、今日にでも会うことになるだろう。そして、〈王の剣〉になる資格はディオンにもある」
「資格……?」
「ああ。〈王の剣〉ってのはオレが集めた、二十年前の真実を突き止めることを目的とした組織だ。メンバーは全てあの〈悲劇〉の〈子供達〉、つまりあの時の孤児たちで構成されている。まあ〈王の剣〉にならないことを選んだ者もいるが。そしてディオンもまた〈子供達〉の一人であったことを証明できただろう?」
(〈神の日記〉を見に行ったのはそういうことだったのか……)
ディオンは二十年前、儀式に呼ばれた孤児。ロジェたちもまた、本来は同じ立場なのだ。ただディオンは何故か二十年間行方がわからなくなっていただけ。
「オレが〈王の剣〉に指令を出し、任務を行うことになった者はそれを遂行する、それだけだよ。もちろん報酬は与える。子供であれど同じことだ。そもそもディオンは本来すでに三十六歳なはずなのだから。〈剣〉だけでなく、他に趣味として仕事をすることも可能だよ。そして」
レオナルドはオレンジ色の目を鋭く光らせた。腕を組んで、小部屋の中をゆっくりと歩く。
「オレたちの関係はただの〈仕事の同僚〉で、それ以上でもそれ以下でもない。ただの利用し、利用される関係だ」
「同僚」
これはロジェとスザクも言っていたことだ。
『決して仕事とか同僚に友愛の心は抱いていない』。
レオナルドは皮肉なような笑みを浮かべた。
「そうだ。ただの〈同僚〉。同じような任務を受け持っているだけで、別になんてことはない。その関係には他に名前もつかない。仮に誰かが死んだとしても、顔色一つ変えずにいるようでなければいけない。真実を求めるとは、そういうことなんだ」
お前たちは、俺の駒だ。
その時、ディオンの中で突然何かが音を立ててちぎれた。
(じゃあこの人は、自分が指示を出す〈王の剣〉たち。つまりは部下が死んだとしても何も思わないとでも──!? 真実を知るためなら、何をしてもいいとでも!?)
死ぬとは、なくなることだ。動かなくなる、話さなくなる、いなくなる。記憶がなかろうと、子供であろうと、死の重さぐらい、わかる。人の暖かさを知っている。だって昨日家に帰った時、メイベルは優しく迎えてくれた。「おかえりなさい」って、そう言って……。
なのに、この人は。
思わず叫んでいた。
「〈同僚〉であっても、関係に名前などなくても、いなくなった時の悲しみは、哀しみは、同じなはずだ! あなたにはわからないんだ。何も失ったことがないから、一度何かを失ってみなければ──」
わからないんだ。
そう言い切ってやろうと、レオナルドのことを睨むように見上げた時。その目と目が合った時。
激昂したディオンに驚いたように見開かれた彼の目は、あまりにも寂しげで、らんらんと光っているかと思えばどうしようもなく震えているようで。
(そうだ、ローズ姫様は。姫様とこの人の関係を聞いていなかった……)
同じ王家であり、それも歳はだいたい同じ。だとするならば、肉親か。それも、前国王と王妃が既に亡くなられているということならば、ただ唯一の。
(そんな……)
我に帰ったディオンは、口早に謝った。
「ごめんなさい。僕はよく考えてなかった。あなたはすでに、大きなものを失っているんだ」
思い出すのは、あのジーグと名乗った男の言ったことだ。
『覚えておいて。幼いこと、拙いこと、弱いこと、脆いことは罪なんだ』。
だとするならば、自分は存在自体が罪なのだと思う。そうだ。そうなのだ。「一度何かを失ってみろ」なんて。言えてしまう自分は罪そのものだ。他でもない国王様に、酷いことを言ってしまった。
「本当にごめんなさい。言われたことがあるんです。幼いことも拙いことも、弱いことも脆いことも、罪なんだって。僕は、本当に、無知だ……」
そう言って逃げるように下を向いた。
「言われたことがあるんです。幼いことも拙いことも、弱いことも脆いことも、罪なんだって」
そう言ってひどく悔いたように俯く少年を、レオナルドは複雑な気持ちで見つめた。
(カッとなってから、すぐに我に返って謝る。この子は根から素直なのだろう。だがそれにしても、どこかで聞いたことのあるようなセリフだ……。やはり彼に逢ったんだな)
全てはセレスティーナの言った通りだ。今更ながら感心せずにはいられない。
でももしディオンが〈あの人〉にあったのだとするのならば。言われたことなどすべて戯言だ。心の中で舌打ちをする。
(それにしても何故あいつは出てきた? 様子を見に出てきたとか? 勝ちを確信しに来たとかか?)
あの男に関する情報が少しでも欲しかったために、ディオンと彼を合わせる手を選んだ。その結果、ディオンが打ちのめされたというのなら、それはレオナルドの落ち度だ。だがなんでもよかった。なんでもよかったのだ。あの男との勝負に勝てるのならば。妹・ローズを目覚めさせられるのならば。
(このような考え自体、オレたちが〈同僚〉でしかないことの証明なのだろうな)
「気にすることはない。誰でも失言はある。オレも少し言いすぎた。ローズはオレの妹なんだよ。確かに人一人の命は、軽々しいものではない。ただ仕事を軽く見て欲しくなかったから言葉を選ばずに言った。それにね」
取り直すように言ってから、レオナルドは自然に微笑んでいた。これだけは確かな確信を持って言えることだ。
「ディオン、幼さも拙さも弱さも脆さも、無知であることも、罪なんかではない」
ディオンが弾かれたようにこちらを見つめ返した。目を見開いている。「本当だよ」とレオナルドは重ねた。
「ただ、時としてそれは自分に、そして相手に向く刃になりうる、というだけだよ。持っていれば身を滅ぼすかもしれない。でも上手く使えれば武器にもなるかもしれない」
「武器にも……」
「ああ。正しく自分の弱さを知ること、それは強さの一つだから。……それを理解しているかはともかく、人は皆弱いよ。弱く造られていると言ってもいいかも知れない。ではそれは何故だろう」
少年は首を傾げた。
「なぜ……。わからないです」
「それは、周りの人と助け合い、補い合うため。哀しみや苦しみを分かち合うため。…さて話にもどろう」
空いた小部屋とはいえ、王宮のものだ。全ては最高級品で、設備も整っている。レオナルドはカットグラスのコップに水差しから水を注いだ。沫が細かく輝く。一口飲み込んだ。
「そういうわけで、〈王の剣〉になるかどうかは自分で決めていい。その権利がある。たとえ共に暮らしているロジェが〈剣〉だとしても、君は君の人生を歩んでいいんだ。実際にならないことを選んだ人もいる。儀式に呼ばれた孤児は十二人だったが、〈王の剣〉になったのは九人だった。そして今は六人だ。三人、死んだ。そういうことだってもちろんある」
少年は何故だか泣きそうにも見える目をしていた。
(この子が仲間になった先の未来は、まだ見えていないからな……)
セレスティーヌの未来視も、まだディオンが〈ディオン・アルフラード〉である証明のところまでしか見ていない。見ることも可能だが、敢えてそこまでしか聞いてはいない。未来というのは容易く変わるからだ。あまり先のことを見たところで、その前を変えてしまえば全く違う展開にたどり着くこともある。だから、レオナルドにはまだわかっていなかった。ディオンが仲間になれば、どの方向にことが転んでいくか。ディオンは仲間になるのか。
ただ、正直に言ってしまえば、今見える未来は〈あの男との勝負に負けた〉ものばかりだ。
それならば。
「ディオン、それでもオレたちと共に、働いてくれるか?」
レオナルドはたたみかけた。
細かく小さな未来を変えていかなければ、大きな未来を覆すことはできない。新たな風が欲しかった。その風とは、もしかしたらこの少年の形をしていたのかもしれない。もしかしたら違うかもしれない。
(さあ、どうする、ディオン?)
数秒の後、ディオンはゆっくりと頷いた。
「やります。〈王の剣〉に、ならせてください」
「わかった」
重々しさを装って頷く。
ありがとう、と感謝を付け足すことはなかった。自分がそんなに素直な性格ではないと知っていたから。もしもここで礼を言ったなら、どこか場の空気が嘘っぽくなってしまうと思った。
手を差し伸べると、ディオンは驚いたような顔をして一歩後ずさった。
レオナルドは声を上げて笑った。
「何を怯えている? ただの握手だ。これからオレたちは……〈同僚〉だ」
ディオンもつられたように笑って、「同僚、です」と手を握り返してきた。小さくて細い手だった。二十年という確かにあったはずの年月を、どこかに置いてきてしまった少年の手だった。
「今〈悲劇〉についてわかっていないのは、誰が起こしたのか、なんのために起こしたのか、という根本の部分。その他の被害に遭った人、儀式にいた人数なんかの資料は揃ったところだ。あとはもう一つ。君が現れたことで謎が増えたといえる」
「謎が増えた?」
ディオンは一度繰り返してから、ああと納得したように頷いた。
「僕のこと、ですね」
「そうだ。ディオンの左目のこと、二十年間のこと。まあいずれ君にも任務を出すさ。おそらく近いうちにな」
「わかりました」
ではこれで話は終わり、と言ってやると、ディオンは軽く頭を下げて小部屋を出て行こうとした。レオナルドは苦笑しつつ呼び止めた。
「そうさっさと出ていこうとするな。せっかく〈王の剣〉が増えたんだ。今晩は大広間で軽くお祝いだよ。君をここまで連れてきたロジェたちもそこにいる」
「えっ、いいんですか?」
「そんな、王宮で晩御飯なんて」とかなんとか少年は呟きながら少し嬉しそうにした。なかなか感情は正直だ。
「そうだ、あの女の子もいるはずだ。確かアナスタシアとかいう……」
うろ覚えの名前を口に出すと、ディオンはますますにこにこした。
「アナスタシアも〈王の剣〉なんですかー?」
「そんなわけあるか」
だがまあ、全て〈王の剣〉についての情報はもう知っているはずだ。「誰か知っておいて欲しい人、一人には〈剣〉のことを話していい」。それがレオナルドが初めに定めたルールだったから。ロジェも彼の家のお手伝いさんには言ってあったと思う。確か仮にロジェに何らかのことがあった時、家と土地、持ち物を全て譲るということを話すためだった。おそらくアナスタシアにはアレキスあたりが話しただろう。
(あいつ、弟子ができたってひどく喜んでたな……)
レオナルドも、ロジェがディオンを連れてくる前に会ったが、魔月目であることを除いてごく普通の女の子だった。そして驚くべきは、あの〈剣〉の一人であるイダがにこやかに少女に話しかけていたことだ。「魔月目」という言葉一つに頬を歪めていたイダが。
(子供ってのは愛されるもんなのかな)
だが、そういえば〈王の剣〉はみんな孤児院にいたことがある身だ。そこまで単純にはできていないか、と諦めにも似た感情を抱いた。
あとアナスタシアを仲間として認めたのには、罪償いの意味もあった。〈剣〉のメンバーに対して何も言わずに魔月目の女性に会い、未来を聞き出していること。そして二つ目に……。
(いや、それは所詮推測と妄想に過ぎない)
レオナルドは自分の考えを打ち切ろうと首を振った。
「ほら、行くぞ。大広間の場所わからないだろ?」
「はい!」
歩き出したレオナルドにディオンが軽い足取りでついてきた。
「オレは後から行くから」
そう言われたために、大広間の大理石の扉を開けたのはディオン一人だった。
(ノックするべきかな……)
この扉の向こうに〈王の剣〉のメンバー六人が揃っているんだと思うと、怖いような。
(でももう、そのうちの四人は顔見知りだもんね)
いかにも重そうな扉を押し開けようとした時、それはいきなり内側から開いた。
「うわっ」
突然のことに驚きのあまりのけぞった。
「んん? あ、驚かせてごめんね。そろそろ来るかと思って、ね」
中から出てきた若い男の人は転びかけているディオンを見ると、微笑んだ。恐ろしく綺麗な顔の人だ。男子であるディオンもどきどきしてしまうほどに。ダークブラウンの髪も、同系色でそろえられた服装も、お洒落な感じがする。知らない人だが……。
彼はこちらに手を差し伸べてきて、
「ディオン、であってるかな? 俺はルーカス。〈王の剣〉の一人だよ」
「よろしくお願いします」
手を握り合う。なんだかさっきもこうやってレオナルドと握手したけれど。
「それよりさ」
ルーカスは一層笑みを濃くしてディオンの着ているコートを指差した。キリンを思わせる綺麗な目に見つめられる。
「それ、俺が作ったやつだよ。すごい、嬉しい」
「えっ?」
旅の時にも来ていたものだ。メイベルが買ってきてくれたコート。肩口に当てられた革や襟の大きなデザインが気に入っている。これを作ったというのは……。
「俺、趣味の仕事でデザイナーやってるから。〈趣味の仕事〉って言葉はわかるよね?」
「わかります」
(すごいなぁ)
これもまた何かの縁なのかもしれない。
ルーカスがこちらに向かって手招きした。
「ごめんね。足止めしちゃって。入ってよ。廊下、寒いでしょ?」
彼はドアを開いて手で中を指した。ディオンを先に通してくれる。なんだか紳士的だ。ルーカスは一声、「今日の主役が来たよー」と大広間にいる人々に呼びかけた。
ドア付近で話していたアレキスと知らない女の人が「やあ」と手を振ってきた。広間の中は廊下と比べ物にならないほど暖かい。暖炉の火がかっかと燃えているのが見えた。
「こ、こんにちは」
少し緊張して挨拶すると、アレキスが「がはっ」と大胆に笑った。
「硬くなるなよ。紹介するよ、こいつはイダ」
隣の若い女性が一歩前に出た。瞳が黄色にぴかりと光る。
「あんたがディオンだね? ようやく会えた。もうあたしとルーカス以外は知ってるなんてねえ」
街商人風の話し方をする人だった。彼女は前にかかっていた長い褐色の髪を後ろに跳ね除けた。その耳で、大きめのイヤリングがぴかぴかと輝いた。
「さて、伝説の少年くんもきたところで、はじめよっか」
「座って座って」と促されて、テーブルの空いている席に座った。もう一つ誕生日席のようになって空いているところがあったが、そこにはレオナルドがくるのだろう。王は? とルーカスに聞かれて、「後から来るって言ってました」と答える。
机の上にいくつもの鍋料理が置かれた。ヨルとアナスタシアが奥の方から、運んで来ているのだ。ブイヤベースや、ポトフ、コシード。危なっかしい手つきのアナスタシアと、それを見やりつつ前を歩くヨルが姉妹のようだ。食器が並べられる。王宮にしては意外にも質素なものだ。焼き物の器と、木のスプーン。
「このシンプルな感じが好きでさ」
ルーカスがマグカップに紅茶を注ぎつつそう言った。
「特別許可、だよね。実はレオナルドが毒見なしで食べられるのは〈王の剣〉が作ったものだけだよ」
反対側のテーブルについたロジェも身を乗り出した。その隣でスザクも「ふむ」と眼鏡を押し上げた。
「〈王の剣〉は王宮特化特別組織として知られているんだ。要するにレオナルドが、王のやることに口を出すなと命令を出して、わざわざそんな大層な名前がついているわけだが」
ロジェの家で流れているラジオから受ける印象とは違い、レオナルドは自由度の高い王様なのかもしれない。それとも〈剣〉の前では素顔を見せているとか? どちらにせよ、ディオンはすでにレオナルドのことが好きになっていた。
『幼さも拙さも弱さも脆さも、無知であることも、罪なんかではない』
そう言って力強く頷いてくれた彼は、ディオンにとって頼りになる大人だった。
そうこうしているうちに、テーブルの上の準備が整った。
「レオナルド、遅いな」
アレキスが呟いた。
「じゃっ、その間に新たに仕事仲間になったディオン君の自己紹介で」
とイダ。ディオンは「ええっ」と声を上げた。だって話すようなことは何もない。今まで何してきたとか、何が好きだとか。ディオンは自分自身の設定を知らないわけである。
困って慌てているディオンを見て、ロジェが助け舟を出してくれる。
「名前と、あとよろしくお願いしますとか言っておけばいいんだよ。あとはまあ、ここ二週間見てきた限り自分はどんな人とかね」
イダが「かはは」と笑った。
「あんたはいっつも適当だねえ。あとあんたが敬語以外で喋るの初めて聞いたよ」
「それ、スザクにも言われましたよ? アナタガタはワタシにどんなイメージを持ってるんだか」
だがディオンは別のことを考えて固まっていた。「自分はどんな人」。それはあの質問と相似している。
(僕が一体、誰であるか……)
あの男は、ジーグは。たった一度、森の中で出会っただけにも関わらず、ディオンには大きな影響を与えたようだった。彼のことを考えるとトクントクンと心臓の鳴る音が聞こえる気がする。怖いのだ。ジーグには自分を否定されたのだから。
「どうかしたの? ディオン?」
アナスタシアが少しだけ心配そうにこちらを見ていた。ディオンの顔が翳ったのがわかったのだろう。敏感な子だ。魔月目であるために、人の顔色を伺いながら生きてきたのかもしれない。
「ん? ううん。なんでもないよ」
ディオンは無理をして笑った。
「何、言おっかなって思ってさ……」
そう言った時、ちょうど大広間のドアが開いてレオナルドが入ってきた。「遅れて悪かった」と言いながら、こちらに向かって歩いてくる。羽織ったマントがなびく。彼は一つ空いていた席に腰を下ろした。
助かったと、無意識のうちにそう思った。
「王。何をしてたの? せっかくの歓迎会みたいなものなのに」
ルーカスが責めるような口調でありつつも笑いながら聞いた。
「いや、特に。強いて言うなら、従者を撒くのに苦労した」
「ふうん」
ぱんぱんとイダが手を叩いた。全員が驚いてそちらに注目した。彼女は髪を後ろにはらうと、腰に手を当てた。
「ほら、みんな揃ったんだからさっさと晩餐にするよ。料理が冷める前にね」
「じゃあレオナルドはそこの誕生日席な」
アレキスがスッとレオナルドの席の椅子を引いて、わざとらしくお辞儀した。レオナルドは声を立てずに笑った。
「ああ……。いつものことだな」
「そういや誕生日席といえば王の誕生日っていつなの? みんなでお祝いしようよ」
そう言ったのはルーカスだ。
「お祝いは遠慮しておくが、三月十三日だよ。まあ覚えておく意味も必要もないことだ」
「ええっ。お祝いしようよ。楽しいじゃないですか」
「あたしもやりたーい」
イダが楽しそうに手を上げた。
「それはお前たち、食いもんが目当てだろ」
アレキスが腕を組んだ。笑い声が起こった。
場が和み、皆が鍋料理に手をつけ始めた。
「レオナルド、次の仕事は一体何になるんだ?」
スザクが聞くと、レオナルドはスプーンをテーブルの上に置いて、片眉を上げた。無言でスザクを見つめた後、彼はそっぽを向いて笑った。
「オレはそんなに仕事好きってわけじゃないんだが。指令はまた今度出す。それとあとでお前とロジェからは今回の件で報告を聞く。とりあえず今は歓迎会だろ」
ロジェが口角を上げた。
「報告ですか。何を話させられるんでしょうね」
「別にお前たちが遭遇したもののことについて、だけだよ。それに関してはディオン、君もだな」
ぎくりとした。ジーグとのことはロジェたちには一部ぼかして話してあるからだ。事実ジーグ襲われていたアナスタシアを助けただけ、というのもあるが何より、
(やりとりについて、話したくなかったから……)
「というかやめようと言ってるだろ、仕事の話」
テーブルの向こうでは、アレキスとアナスタシアが話していた。
「アナスタシア、そういやお前、本当に俺たちについてくるでいいのか? 普通に危険なこともあるが」
「別にいいですよぉ。わたしみんなといられて楽しいもん。薬草についてもっと学べて面白いし、それにアレキスさんも優しいし……」
デレデレしているアレキスを、隣のルーカスが小突いた。
「歳下の女の子に何をニヤニヤして。ロリコンですか? 引きます、俺」
「むあっ、勝手にお前は引きゃいいだろ」
今度はイダがアナスタシアに話しかけた。
「あんた、そんな暗い色の洋服より、明るいのの方が可愛いよ。せっかくのべっぴんさんなのにねえ」
アナスタシアが顔を赤らめる。
「そうですかぁ?」
「そうそう。多分頼めばあのおにーさんが作ってくれるよ」
その声を受けてルーカスが片手をあげる。「いいよ。アナスタシアちゃんの服ぐらい
「何が無料だ。当然だろーが」
アレキスが膨れっ面で言い返す。その様子にイダとアナスタシアが笑った。
ディオンは立ち上がった。お皿を重ね合わせる。
「ごちそうさまでした! ……お皿、どこに運べばいいですか?」
ロジェが首を傾げた。
「お皿は放っておいていいけど。もう晩御飯いいのかい?」
「はい。もうお腹いっぱいだし。火照った顔を冷やしに外の空気を吸ってきたいので」
ディオンはそう言って、大広間を抜けた。
廊下が寒く感じた。当然だ。大広間には人がいたし、暖炉も燃えていた。熱々の鍋料理も置かれていた。
出てきたところで、王宮の全体図などまだわかるわけもなく、どこにも行けない。ディオンはとりあえず隣にあった部屋に入った。そこは小さなキッチンのような部屋だった。流し台と、簡素なお湯を沸かすためのコンロがある。簡素といえど、全ては城のものだから値打ちのするものには違いないが。
扉を閉める。すぐ横の壁にもたれかかり、ずりずりとその場に座った。
部屋は暗い。月明かりと星明かりだけが白く照らしている。
(なんでかなぁ)
楽しそうで、明るかった大広間から、何故だか出てきてしまった。居づらくはなかった。楽しかったはずだった。だってみんながいたから。料理が美味しかったから。なのに。
なのに心の中の何かが、いやだと言っていた。
ディオンは膝を抱えて、顔をうずめた。
(何が嫌だったかって、わからないわけじゃないけど)
ただの仕事仲間だって。利用し利用される仲だって。死んだとしても構わず仕事を続けるんだって。レオナルドは言っていた。わかっている。既に死人も出ている事件の真実を解明するなんて、簡単なことじゃないのだ。
でも、〈王の剣〉という組織が、そういう組織だったにしても。
六人は、そしてレオナルドは、一人一人見ていけばみんないい人だ。愛着を抱かずにはいられないほどに、楽しくて、頼りになる人たちだ。そしてその人たちを……。
(自分が誰だかもわからない僕は、いつか傷つけるかもしれないんだ)
深読みだろうか。でも「君は誰だ」という質問に対する答えを見出せなかったディオンは、何にでもなってしまう可能性がある。その脆さゆえに、いつか自爆するかもしれない。周りをそれに巻き込むかもしれない。
十六歳の少年だ。ディオンには少し重すぎる問いだったのだ。その問いに囚われてしまうほどに。
(ああ、いろいろ怖いよ……)
強くなりたいな、と呟いてみた。静かに澄んだ空気の中に言葉は消えていった。
と、ふわふわしたものが膝の前で組んだ腕にあたった気がした。顔を上げる。目の前には一頭の大きな犬がいた。茶色い毛の、大きな犬だった。座り込んだディオンよりも大きい。
「……?」
思わず毛並みを撫でた。白銀の月光を浴びて、きらきら光っている。犬は目を閉じて鼻面をディオンの頬に押し付けてきた。ディオンは腕を犬の首に回した。犬と触れたところが暖かくなる。
突如明かりがついた。眩しくて目を細める。
「おっ、少年くん見っけ。こんなところにいたんだねえ」
イダだった。扉が開いてないけれどどこから入ってきたんだろうと思っていると、彼女はもう一つの小さな扉を示した。食器なんかが仕舞われた棚の陰にあったようだ。
(気づかなかった)
「なに、別に廊下にいちいち出なくても大広間とこの部屋は繋がってるんだよ」
「ねーっ、ケロ」とイダは犬を撫でた。
「ケロ?」
カエルみたいな名前だなぁと少し笑った。
するとイダはふふんと鼻を鳴らした。
「何笑ってるんだい。ケロは強い犬だから、ケルベロスのケロだよ」
「ケルベロスー?」
この優しい顔をした犬が、あの恐ろしい伝説の三頭犬になど見えるわけはない。けたけたと笑っていると、イダが「やっぱりね」と頷いた。
「やっぱりあんたは笑ってる方がいいよ」
「?」
「そ。難しいこと考え込んで黙ってるよりもいい。なんていうか、場が和む」
ケロが尻尾をふさふさと振った。そうだそうだと言うように。
「僕のこと、探しに来たんですか」
尋ねてみると、イダは首を振った。
「何言ってんの。そこまであんたのこと気にしてたわけじゃないよ。知らないのかい、今日の晩御飯作ったのはあたしなんだよ。趣味の仕事で鍋屋の手伝いをしてるのさ。……趣味って言っても、もともとあたしの育て親が鍋屋のおかみさんだからなんだけど」
そう言うと、イダは焼き菓子のようなものをディオンの口に押し込んだ。
驚いたがそのままもぐもぐと咀嚼する。フィナンシェだろうか。
「どう?」
「おいしいです」
「それはよかった。これは鍋屋に関係なく作ったものだよ。食後のデザートのつもり。この部屋に置かせてもらってたんだけど」
イダは台の上に置かれていた焼き菓子がたくさん乗ったお皿を持つと、微笑みかけてきた。その足にケロが擦り寄る。
「ね、少年くんももう一回広間に行かない? 他にも色んな種類のお菓子作ってあるからさ。あのアナスタシアちゃんと一緒に食べればいいよ」
彼女は小さいドアを開けた。
(やっぱり僕のことを誘いにきてくれたんだな)
断る理由など何もない。頷いた。
「はい!」
(いいか。今は。難しいことなんて考えなくても)
暗く考える必要なんて、ない。ただ今、自分が信じられて、自分を誘ってくれる人がいるのなら、その人についていこう。楽しく笑っていよう。答えはきっと、自分自身の道中にある。
イダとケロについて歩き出した。
「ディオン! どこにいたのー?」
アナスタシアに聞かれた。彼女は楽しそうに、イダの持ってきたクッキーに手を伸ばしていた。「すごい! こんなもの初めて食べる!」と目を輝かせている。
「廊下で月を見てたんだ。王宮で見るのってやっぱり違く見えるかなぁなんて」
「結局どうだったの?」
「変わらないよ。外で見ている時も王宮で見ている時も、おんなじように綺麗みたい」
ルーカスが「っ」と声を立てずに笑った。
「それって口説き文句? どこか東洋の国じゃ『月が綺麗ですね』って言ったりもするらしいよ」
ディオンとアナスタシアは共に赤くなって黙り込んだ。
「まあルーカスが言えば様にならなくはないが」
とアレキスが言う。「それって冗談にもならない」とイダが小突く。
ふと気づくと、一緒に広間に入ってきたはずの犬のケロがいなくなっていた。
「あれ、ケロは?」
イダに尋ねたが、答えたのはレオナルドだった。
「ケロはイダの宿り魔だからな」
「宿り魔」
そういえば一昨日、〈神の日記〉のところでもロジェたちが〈宿り魔〉について話していた。
アレキスが教えてくれる。
「宿り魔ってのは〈術〉の一つで、心に動物なんかを宿していろんな技を使えるんだ。たとえば俺のは狐。基本は雷系の技だな」
ルーカスが顔の前で長い指を組み合わせつつ、口を挟む。
「多分〈王の剣〉としてこれから働くんだったら、なんか〈宿り魔〉をつけたほうが便利かもね。みんなそうしてるし。……まあ、例外もいるけど」
そう言ってロジェの方をちらりと見る。
「宿り魔をつけるには契約がいるけど、簡単にできるし、解除もできる。あと注意しなきゃいけないのは、宿り魔の負った傷は宿り主……、つまり操る側にも及ぶってこと。宿り魔が死ねば宿り主も死ぬ。でもなんでだかその逆はないんだよね。宿り主側が先に死んだら、契約が解除されるだけ」
なんてことはないように話しているが、その内容は相当に恐ろしい。やっぱり仕事が仕事であるだけに、死と直面したりもするのだろう。
「あとあれだろ」
とアレキスが言う。
「〈血肉ノ技〉について」
「ああ、そうだね。宿り魔を持つ者は、切り札として〈血肉ノ技〉というのを使えるんだけど、ね。効果は絶大だよ。なんだけど、それを使うと宿り魔・宿り主共に確実に死ぬ。精神、肉体共に強大な力を使うからね」
「……っ」
ディオンは目を見開いた。
(使うことが死を意味する技があるなんて……)
「だから、俺たちでもそれは使わないことにしてる」
「ちょっとさぁ」とイダが口を挟んだ。
「怖がらせるようなことばっかり言って。別に宿り魔は戦うためのものじゃないから、ペットみたいなイメージでいいんだよ? あたしは絶対戦場でケロを出したりしないね」
「お前はな」
アレキスがくはっと笑った。ディオンには少しだけそれが自嘲気味に見えた。
と、ここでヨルが立ち上がった。みんなの視線が一気に集まる。ヨルはそれを気にした風もなく、
「もうそろそろお開きにすることをヨルは提案します」
「眠くでもなったか? まあヨルは身体の成長が子供のままで止まってるから当然か」
そう言ったスザクをヨルが無表情に見つめた。
「何か私のことで悪口が聞こえたような……、とヨルは呟きます」
(そういえばヨルさんってなんで子供の姿なんだろ…)
少し疑問に思ったが、言わないでおくことにした。これまでの反応を見るに、ヨルにとってそれが若干のコンプレックスであることがわかるからだ。
「いや悪口ではなく……」
スザクが焦って口の中でもごもごと言う。「あーあ、またスザクがヨルの地雷踏んじゃった」ルーカスが微笑みつつ、身を乗り出した。
「俺はヨルは今のままがいいと思うけど? 永遠にその綺麗な姿のままって、ある種人間にとっては夢だよね。素敵だよ」
「あんたはどこのホストだよっ」
イダが突っ込んだ。
と、レオナルドがやんわり手を顔の前で振りつつ、
「まあ話はここまでにして、今日は解散するか。ディオン、基本〈王の剣〉が集まった日は夜遅くなることが多い。だから客室に泊まってもらうことになっている。ヨル、ディオンとアナスタシアを案内してくれるか?」
「わかりました、とヨルは答えます」
待つこともなくスタスタと歩き去っていこうとするヨルにディオンとアナスタシアは小走りで着いて行った。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
(王の剣ってなんだか硬くて強そうな感じがしたけど、意外とみんな気楽そうな感じなんだな……)
三人が出て行った後、レオナルドはロジェに向き直った。
「素直で曲がったところのない子だな。人の言うことを素直に飲み込もうとするがゆえに物事を深く考えすぎる節がある」
ロジェはマグカップを手で弄びつつ、口元に複雑な笑みを浮かべた。
「ワタシとしてもそんな気がしますね……。あの子はまだ自分というものを知らない。だからいつか自分を自分で壊してしまいかねない」
それは俺も思った、とアレキスとスザクが同調した。
「ロジェ、君がそれをあの子に教えてあげるんだ」
ルーカスが頬杖をついてロジェに微笑みかけた。
❇︎❇︎❇︎❇︎❇︎
その二時間ほど前。
ディオンと〈王の剣〉になることについての契約を交わした後の、大広間での宴会に行く前に、レオナルドは応接室でセレスティーヌと話していた。
「また何か変えるべき未来を見たか?」
レオナルドの前で相変わらず跪いたような格好になったセレスティーヌはくっと顔を上げた。
「ええ。国王陛下が気にしておられた〈記憶石〉に関わることでございます。あまりに恐ろしい未来です……」
レオナルドは心の中でため息をついた。
(どうにかして現在を変えても、未来ってのはつくづく残酷だな)
「それで、何が……」
「約一ヶ月後、王国内の大舞踏会場で仮面舞踏会が行われることになっていますが、そこで死傷者が出るのです。死人は一名、招かれていたリアーシス伯爵夫人です。そしてその他大勢が敵の放った戦火に巻き込まれて怪我を負っています」
「リアーシス伯爵夫人……。スーザン・リアーシスのことか」
「はい」
「…………」
彼女はレオナルドが苦手としている人物だ。伯爵家の中で裕福であるのを鼻にかけ、何かと旦那から買ってもらっただの家系で代々引き継いでいるだのと持ち物を自慢することが好きなのだ。相手が国王であれどその勢いは止まることを知らない。伯爵の夫を話し合いのために呼び出すことがあるが、その時にたまに着いてきて、暇になると横でぺらぺら喋り出す。
彼女が持っているものは大概の場合国王であるレオナルドは手に入れようと思えば手に入れられるものばかりなのだが、一つだけ気になるものがあった。リアーシス夫人が「お祖父様から譲り受けましたの」と言い回っているペンダントだ。そしてそれには──、
〈記憶石〉と呼ばれる石がついている。
〈記憶石〉は物理的に衝撃を受けた時、周りの情景を全て記憶として中に封じ込める働きがある。薔薇城にある〈神の日記〉の絵を映す水晶玉にも一部利用されていたはずだ。
同じデザインのペンダントは簡単に手に入れられても、同じ記憶を秘めた石など二つとない。
スーザン・リアーシスの名は二十年前のあの〈魔女事件〉の日の招待客名簿にあった。そして彼女はあの悲劇の只中にあったはずなのだ。だとすると彼女の付けていたであろう〈記憶石〉はその様子を記録しているかもしれない。会場の荒れようは凄まじいものだったと聞く。解明の手がかりとなる記憶を秘めているかも知れない。
これまでその〈記憶石〉のペンダントに関しては切羽詰まった状況になかったために、なんとなく後回しにしていた。
しかし、その持ち主のリアーシス夫人が仮面舞踏会で死ぬのだとしたら……。
(明らかに敵の仕業だ。〈記憶石〉の存在に気づいて証拠隠滅を図ったのか。仮に見当違いだったにしても死人が出ているのならば見過ごせまい)
「他にはあるか」
「いいえ。ああ、ただその舞踏会場の事件後、給仕の役をしていた者が一人行方不明になっております」
とうとうか、と思った。味方だと思っていた従者の中に敵陣のスパイがいるのを認めなくてはならなくなった。
あの〈悲劇〉の十七年後、ローズを倒れてくる柱から庇おうとして大怪我を負い弱っていたレオナルドの両親は、殺された。それもパーティーの中で毒殺されたのだ。
『レオナルド、この料理を、食べては、い、けない……』
悶え苦しみ、喉を掻きむしるようにしながらレオナルドに忠告した父の顔をレオナルドは忘れられない。父親でもない、国王でもない、それはただの断末魔の苦痛にもがく人間の顔だった。王であった父と、その妻である母はあっという間に亡くなった。国には「あの呪いがまだ続いているんだ」という噂が立ち、誰もそれを否定することは出来なかった。その二年前には、ローズは既に新しい城の完成とほぼ同時に眠りについていた。レオナルドは一人になった。独りになった、完全に。
その日は外部の人間をも多く招待していたパーティーだったために、料理に毒を持ったのは外部から呼ばれたものの犯行とされていたが、解決されることはなかった。だがその後も父と内密に関わっていた召使いが数名王宮内で不審死を遂げているのだ。ディオンには話していないが、実は〈王の剣〉の一人も王宮内で腹を深々と刺されて死んでいる。あの時も外部の人間の仕業とされたが。
そして今度行われる予定の仮面舞踏会でも死者が出た直後に従業員がいなくなっているとするのならば。
やはり、内部に敵がいるとしか思えない。
それならば仮面舞踏会という機会を利用して、〈記憶石〉手に入れると共にそいつを倒してやろうじゃないか。
(あまり身内側にいる人間を疑いたくはないんだが……)
「わかった。ありがとう。これからも頼む」
「もちろんでございます……」
一瞬、ローブから覗くセレスティーヌの口がきつく引き結ばれた気がした。が、それを確認するよりも早く彼女は一礼すると閉じられた重いドアを開いて去っていった。
(気のせいか……。まあ、いい。とりあえず明日の朝ルーカスと話そう)
❇︎❇︎❇︎❇︎❇︎
(王が俺だけを呼び出すなんて珍しいけど、なんか任務かな?)
ルーカスは首を傾げる。
昨晩〈王の剣〉の集まりがあったばかりだ。朝になって、さて家に帰るかという時に使いの従者に呼ばれたのだ。応接室に呼び出しである。
せかせかと歩きつつ、ピカピカに磨かれた大理石の壁に映る自分を見て軽く前髪を払い、微笑んだ。〈王の剣〉であると同時にファッションを扱うデザイナーの一人として自分の見え方は大事にしているつもりだ。ルックスにだってそこそこ自信はある。
(アナスタシアちゃんの服も作らないとなぁ)
あの無垢で可愛らしい顔にぼろぼろの黒いフードは似合わない。瞳の色を隠すためにどうしてもフードは付けなければいけないとしたら、白や明るいベージュがいいだろうか。
こんこんこん、と律儀にノックをすると「入れ」とレオナルドの声がした。
「失礼しまーす」
いつもながら綺麗に保たれた応接室の空間に、レオナルドはスッと立っていた。白いマントが彼の長身を強調していた。素直にかっこいいよな、と思う。うん、ロレンタの国王は美男だ。
「昨日の今日で呼び出して悪かったな」
「王、徹夜でもしたの?」
ルーカスは自分より何歳か歳下の王の顔を覗き込んだ。朝だというのになんとなく疲れて見えた。服にはもちろん皺ひとつないけれど。
「いや、徹夜はしていない。……ところで一つ頼みたいことがあるのだが」
レオナルドは珍しく少し焦って見えた。「なんです?」と問い返す。敬語と状態が混ざるのはルーカスのレオナルドへの話し方だ。国王に対する礼儀と、親しみ。
まあ座れよ、と促されてその場にあった椅子に腰掛けた。レオナルドも向かい合う形で腰を下ろした。
「衣装作りを頼めるか? 六人分の。それも動きやすいタキシードとかドレス」
衣装作り、と聞いてなんとなく嬉しく思いつつ、ルーカスは再び首を傾げた。
「六人分? 〈王の剣〉なら昨日から入ったディオンを入れて七人なのにですか? 〈剣〉の仕事ではないってこと?」
「いや、〈剣〉の仕事だし六人分で合ってる。ディオンとアナスタシアとロジェ、ヨル、イダ、あとはお前な」
「……はあ」
レオナルドは話し出した。
「二月十日、国立大舞踏会場で毎年やっている仮面舞踏会が行われる。そこにある伯爵夫人……スーザン・リアーシス夫人が招待されているはずだ。彼女の持っている〈記憶石〉のペンダントを手に入れたいから、君たち〈王の剣〉にも参加してもらおうと思う」
「〈記憶石〉ねえ」
「ああ。もしかしたらその石に〈魔女の悲劇〉の記録が入っているかもしれない。……そしてそのペンダントを狙って敵が来る可能性が大いにあるから、任務にはリアーシス夫人の護衛も含む。あと、敵は多分だが王宮体制側、つまり給仕やら料理人やらのスタッフ陣にいると思う」
何故だかレオナルドは、敵が舞踏会に来ることを確信しているようだった。来る? いや、ロワイヨム側にいるのだとはっきりと言った。……一瞬、自分の表情が止まるのを感じた。
レオナルドは首を傾げた。
「どうかしたか?」
ルーカスは首を振った。いけない、いけない。
「ううん。なんでもない」
(王はご両親を毒殺されてるからな……。気づくのも当たり前、だよね。しかし味方側の人間を疑うなんて、よほど切羽詰まってるってことなのかな)
「なんとなくわかったけど……。それでアナスタシアちゃんは別に〈剣〉じゃないのに巻き込むの」
「人数調整のためだ」
「でしょうね」
さて──、とルーカスは立ち上がりました。
「だいたいのことはわかったよ。一週間ぐらいで仕上げないとダメだよね。だったら今日から始めます」
「頼んだ」
この抜群のリーダー性を若いながらに持つ王に何かを任されるなんて嬉しい。弾む心を押さえつつ、「で?」と聞いた。
「でっていうのは?」
「他のメンバーにはまだこのことは話さない方がいいの?」
「それは好きにしてくれていい。衣装ができた時点で集合をかけるから」
「じゃあそれまでは言わない。バトルドレスであればデザインはなんでもいいんでしょ?」
「ああ」
レオナルドは少しだけ眩しそうな表情でルーカスを見つめてきた。
「なんだか楽しそうだな」
「デザイナーとしての腕の見せ所ですからね」
趣味の仕事、と言われがちなデザイナーの仕事をルーカスは誇りに思っている。実際、昨日初めて会ったディオンがルーカスの店のコートを着ているのを見て舞い上がりそうになった。趣味かもしれない。それでも本気だ。
(あ、でも……、楽しみだとか言ってるけどこれ、任務なんだよね)
さっきのレオナルドの説明。バトルドレスを作った先には、当たり前ながら乱闘がある。相手を仕留める、つまりは殺すことを含む……。
「ははっ……」
ルーカスは笑った。レオナルドが痛々しいものを見るような目でこちらを見た。ルーカスはいつも笑顔を絶やさないようにしている。悲しい時も、辛い時も、それが自分の中の正義だと思っている。孤児院、という寂しい過去を経て。
ヒーローは絶対に、どんな時だって笑顔でいるべきだと思うから。
「なんだか、楽しくなりそうだね」
そう、呟いてみる。
❇︎❇︎❇︎❇︎❇︎
荒れ果てた儀式会場の倒れた石の柱の上に、いつものようにタヴィアは座って物思いに耽っていた。
「お久しぶりです、タヴィアさん」
そう言って紳士風に腰を折ってお辞儀してみせたのは、給仕の格好をした中年の男だった。その服の左胸にはロレンタ王国の国章が入っている。薔薇が象られたあの国章。
「その姿をやめて。ロレンタの憲章なんて見たくもないわ」
タヴィアは軽く顔を顰め、俯いた。
「じゃあこれでどうでしょう?」
パチン、と指が鳴る音がして、顔を上げた。そこにはローブを身に纏った少年の姿があった。赤紫の丸い目ににっこりと見つめられた。
「やっぱりタヴィアさんと同じ赤い目になることはできないみたいですね……、僕の変身術があっても。やっぱり魔月目って特別なのかな」
そう諦めたように笑う彼──グラザードはカメレオンを宿り魔としているため、自由に自分の姿を変えることができる。そこでいつもロレンタ王国の給仕や従者、さらにはメイドの姿になって王宮内で〈仕事〉をしてもらっている。いわばタヴィアのスパイだ。
「それで、今回は何をすればいいんですか? また今の国王の料理に毒を盛りますか? あれは簡単な仕事でしたね……」
「まだ殺してはだめよ。あいつは今、私が眠らせた妹を起こすために必死だから、もう少し足掻かせてやらなきゃ。人間、足掻いて足掻いて足掻き切った末に報いがなかった時、一番どうしようもなくなるのよって……」
〈あの人〉が、言っていたわ。
その言葉をタヴィアはごくりと飲み込んだ。そんなタヴィアを気にすることなく、場違いに無邪気な少年の顔をしたグラザードは、
「それもそうですね。殺すのは絶望のどん底に引き摺り込まれた顔を見てからでも遅くはないですから。……だとしたら、依頼は?」
「ええ……。二月初めにね、国立舞踏場で仮面舞踏会があるのよ。そこに多分来るであろうスーザン・リアーシスという伯爵夫人から青い石のついたペンダントを奪ってきて欲しいの」
その青い石──記憶石の中に、もしかしたらタヴィアの正体を掴まれてしまうような記憶が入っているかもしれないから。王やその手下たちに気づかれないうちに奪っておかなくてはいけない。
(既に気づかれてて奴らも舞踏会に参加する可能性はあるけど)
スーザン・リアーシスがその記憶石のペンダントを持っている、という情報を持ってきたのはアルルカンだった。もっとも、リアーシス夫人は自分の持ち物を街で行き当たりばったりに出会った人々に自慢することが趣味なので、遅かれ早かれ彼女が記憶石を持っていることにはタヴィアも気づいただろうが、上手くリアーシス夫人も二十年前の事件現場にいたことを聞き出したのは彼だ。事件現場……、そう、ここで。二十年前にタヴィアが起こしたあの事件を。
辺りを囲む薔薇の森の木々が恐ろしい唸り声をあげてざわめいた。
「最悪の場合伯爵夫人のことは殺しても構わない。それからもしも王以外の王の手下みたいなる奴らがいたら、そいつらにも手を掛けてもいい」
「それはいいですね。でも仮面舞踏会の前にその夫人とやらが王宮を訪ねてきたタイミングで奪い殺してしまうのはだめなんですか?」
「別に問題はないけれど……。でも奴らの目の前で大胆に奪い取るのが理想だわ」
「わかりました。では……」
グラザードは少年の顔に似つかわしくなく、何かを企むような目をした。そのまま去っていこうとした彼の背に、タヴィアは「待って」と鋭く声をかけた。
「なんですか?」
(前王の毒殺、そして仮面舞踏会での事件。奴らも自分側に敵がいることに確実に気づくはずだわ。だとするならば……)
「グラザード、記憶石を盗むのに成功したら、逃げなさい」
タヴィアははっきりと言った。グラザードはハッと目を見開いたようだった。
「逃げ、る……、ですか?」
「そうよ。無事に帰ってきて」
グラザードの顔に笑みがゆっくりと戻った。
「わかりましたよ、タヴィアさん」
今度こそ背を向ける。
もう誰も味方を失いたくない。裏切られたくないし、死んでほしくないし、それに、それは──、
(あの人に、見損なわれないように)
❇︎❇︎❇︎❇︎❇︎
「「「ええっ、仮面舞踏会ですか!?︎」」」
多少の語尾の違いはあるとはいえ、ほぼ同時にディオン、ロジェ、アレキス、スザク、アナスタシア、イダの六人は声を上げた。例外は二人で、ヨルはいつもの無表情を決め込んでいるし、ルーカスは何故だか余裕の笑みだ。
〈王の剣〉プラス、アナスタシアはまたしても大広間に集まっていた。ココアやらコーヒーやらの入ったマグカップをみんな両手で包み込むように持っている。二月に入ったとはいえ、まだまだ外は寒かった。
(仮面つけて踊ったりするのかぁ。そんな任務が〈王の剣〉にあるなんて……)
にわかに不安になってきたディオンの隣で、アナスタシアは「なんか楽しそう!」とにこにこしている。ちなみに彼女は真新しい白いローブを着ていた。丈が短めで、アナスタシアの快活さに合っている。
それぞれの反応を見回すと、レオナルド頷いた。
「そうだ。任務として仮面舞踏会に参加してもらう」
「あの大舞踏場で毎年やってるやつ?」
イダが肩にかかった髪を払い除けつつ聞くと、ルーカスが「それのこと」と答えた。
「あんた既に知ってたってわけね?」
「うん、知ってた。かなり前から」
「はあっ!?」
ルーカスに掴みかかる勢いのイダに苦笑しつつ、レオナルドが「続けるぞ」と言った。
彼は話した。スーザン・リアーシスの持つ〈記憶石〉について、二十年前の〈魔女の悲劇〉との繋がり、そして敵もまたそれを狙って来る可能性が高いこと。
「つまり」
スザクがカチャッと音を立てて眼鏡を押し上げた。
「仮面舞踏会に出てその伯爵夫人を守と共に〈記憶石〉のペンダントを盗めと?」
「そうだ。盗み方は上手いこと行くように決めてある。あとは敵のことと夫人に気づかれないってことを徹底してくれればいい。なのだが舞踏会に出るには当然ペアにならなければいけないわけで、アナスタシアを含めても女性の数が少ない。というわけで、踊るのにいかにも向いていなさそうなスザクとアレキスは給仕の格好をして参加してくれないか」
(って。僕も踊るわけか……)
内心焦るディオンと対照的に、スザクは安堵の表情を浮かべた。アレキスに至っては、舞踏会で踊ることになってしまった面々を哀れみの目で見つめている。
「で、そうすれば内部にも入れるから、そちらも探って欲しい。二人給仕が増えた件についてはどうにかしておくから頼んだ」
「わかった」
で──、とレオナルドはこちらに向き直った。ディオンはどきっとした。
「六人は適当にペアを決めろ」
ディオン、ロジェ、アナスタシア、イダ、ヨル、ルーカスは何を言うでもなく束の間見つめ合った。さてどうしたものか。と、アナスタシアが進み出てディオンの隣に寄り添い立った。少しはにかんだような表情。
「わたしたち子供同士で、二人で組んでもいい?」
それもそうか、という空気が流れた。
(よかったぁ。アナスタシアなら多分大丈夫だな)
よろしくね、と小声で囁くと、アナスタシアは「うん!」と照れたように笑った。あとは大人たちか、と高みの見物のような気分になった。
その時。
「ではヨル、一応ワタシたちは同い年ですからね。どうです?」
優雅な手つきで右手をヨルの前に差し伸べつつ、ロジェが微笑んだ。
「別に構いませんよ、とヨルは応じます」
ヨルもまた表情一つ変えることなくロジェの白手袋の手に小さな手をそっと乗せた。
「えっじゃ、じゃあ……」
戸惑っているイダにルーカスが「じゃあ俺たち二人だね」と綺麗な顔で笑いかけた。
「みんなの衣装とりあえず持ってくるから」
そう言って大広間を出て行こうとするルーカスに「あっ、じゃあ、手伝うよ」とイダがついていく。
(あれ、なんかあっという間に決まった)
二人がいなくなった中で、アレキスがぽつんと呟いた。
「あれはわかりやすい娘だな。ロジェも気を遣ったな?」
「そうですね」
ロジェが仮面を抑えつつ、フフフと笑う。「そこまで空気の読めない人間じゃあありませんからねぇ」
(えっ? わかりやすい? 気を遣う? つ、つまり……)
思わず声が出た。自分のことでもないのにカアッと頬が熱くなる。
「イ、イダさんってルーカスさんのことが……」
「どう見てもそうですよね、とヨルは呟きます」
「ルーカスの方がどう思ってるかは知らないがな。何しろ女の扱いが上手い男だから」
ヨルとスザクに同意され、困ってしまう。「わたしもなんとなく一緒にご飯食べた日からわかってたかも」とアナスタシアにまで言われる。
「別に〈王の剣〉内で恋愛は禁止してない」
ディオンのことを揶揄うような目をしつつレオナルドは頬杖をついてそう言った。
「ほら、二人が戻ってくるぞ」
❇︎❇︎❇︎❇︎❇︎
仮面舞踏会に出るのは確定したことだが、敵と戦うにしたってリアーシス夫人を守るにしたって、護身術さえ身につけていない。困ったなぁとディオンは思った。
「僕はどうやって生き延びればいいのでしょうか……」
サーカスのマジックショーなんかがなく、ロジェが休みである日に聞いてみた。朝ご飯が終わった後だった。
「生き延びる、ね」
ロジェは口の端を持ち上げて笑った。「確かに護身術レベルの宿り魔は使えた方がいいかもしれない」
庭に出ようか、ということになり、二人で玄関から家の外に出た。珍しくロジェはマントも帽子もつけていないので、白いブラウス姿だ。結構華奢だよな、と思う。雪が残った玄関先の花壇では、メイベルが水やりをしていた。ディオンたちに気づいてにこにこと微笑む。
「春になったら綺麗に薔薇のお花が咲きますよぅ。あとはアネモネとか、ムスカリとか」
「そうなんですか!」
「楽しみにしていますよ」
庭の中央で止まる。
「宿り魔のことについてはもう何となくわかってるかな?」
「ええっと……、一人一体、心に動物なんかを宿して好きな時に呼び出せるんですよね?」
「概ねそんな感じだね。付け足すと、当然のように契約しやすい宿り魔と契約の難しい宿り魔がいる。例えばスザクさんは氷系の術を使う狼を付けているけど、あれには代償が必要だったんじゃないかな」
「代償……?」
怖くなって聞き返した。ロジェはなんてことなさそうに「そう、代償」と頷いた。
「彼の場合は視力が半分以上落ちてる」
確かにスザクは分厚い眼鏡をしているが、そういうわけだったのか。
「基本は宿すものが大きかったり、実際にはいない空想上のものだったりすると力は強くなる分代償も大きくなると思ってくれればいいよ。……ああ、あとは氷系統、だとかそういう術の属性を持っていた方が強いかな」
〈王の剣〉の男性陣の扱う宿り魔は皆、属性を持っているらしい。スザクが氷系の
(そういえばアナスタシアとかも宿り魔を持ってるのかな……?)
聞いたことはないけれど。
「ではさっそくやってみようか」
「やるってどうやって、ですか……?」
「教えながらいくよ。まず心の中に何か宿したいものを思い浮かべて。とりあえずは属性の無さそうな小動物がいいと思う」
(小動物……)
なんとなく猫を思い浮かべた。アナスタシアのことを考えていたからかもしれない。あの子の長くて黒い横髪と尖った糸切り歯は、黒猫を連想させるものがある。
「で、唱えて。〈我、汝の力を欲する者。汝、我に宿りし、我を守護し、我に従え〉」
「わ、我、汝の力を欲する者。汝、我に宿りし、我を守護し、我に従え」
風が吹いて、草木が揺れた。寒いなぁ、と少し首をすくめる。……そして。
はて、何も起こらないけど。
「……え?」
ロジェも一瞬だけぽかんとした。この人のこんな表情は初めて見た。少しいつもより幼く見える瞬間だった。
「ええっとね、ここで本当はキミの宿り魔が一回現れるはずなんだけど……」
しばらく二人で辺りを見たり、待ってみたが、何も変わらない。試しに他の動物でもう一度契約の言葉を唱えたものの、結果は同じだった。
(なんでだろ……)
原因がわからないのはロジェも同じなようで、しきりと不思議そうに首を傾げている。
「おかしいね。ロレンタの人間かつロレンタ王国内にいる人間は誰でも一体ならできるんだよ? 子供でも老人でも同じことでね。キミも行方不明になっていたとはいえ、戸籍の登録はちゃんとされているんだが」
これはレオナルドに報告だね、と呟く。
結局護身術の件はうやむやになってしまった。
「まあその場の勢いでどうにかなるよ」
的なことをロジェは言っていたが…。
(本当に僕は生き延びられるのだろうか……)
にわかに心配になってきたディオンであった。
❇︎❇︎❇︎❇︎❇︎
二月十日はやってきた。
音楽が流れている。ヴァイオリンやらチェロやらの弦楽器が中心だ。一級演奏家が最上の楽器を使って奏でているものではあるが、王宮でタヴィアのスパイのようなものを続けているグラザードはすっかり聞き飽きていた。
(でも、今日の僕は王宮の雰囲気に似合っているに違いない)
いつもは下っ端の給仕として純粋無垢を装いつつ給仕に勤しんでいるわけだが、今日は違う。真っ黒なタキシードに、ステッキ。そして銀色の、顔の右半分を隠す片仮面。見た目の年齢も三十ぐらいにしてある。若紳士の風合いだ。この絢爛な場に溶け込めるように。
(一人称も変えるかな。俺……、いや私、か。まあ姿なんて後でいろいろ変えるけどね)
宿り魔に長年カメレオンを使っているだけのことはあって、〈自分〉というものをコントロールし調整するのには慣れている。もとの〈自分〉をもう半ば忘れるほどには。
国立大舞踏場。暖炉の焔は紅蓮に燃えて、ヴァイオリンは奏者の腕の中で身を振り絞って泣くように音を奏でる。遠く見えるほどに高い天井から吊り下げられ、金色に豪奢に煌めくシャンデリアはまるで小さな太陽のようだ。ドレスで着飾った人々は皆、足鳴らしのようにゆっくりとしたテンポでそれぞれの相手と体を揺らしていた。
──まもなく、ここが炎の深海になるとは知らずに。
心の中で、彼女が切実な目をして言う。
『無事に帰ってきて』
(あんなにもたくさんのものを背負い、絶望の縁で足掻いているというのに、あの人はなんと優しいのだろう。……タヴィアさん、私は、大丈夫だ)
広い舞踏場の中を歩く、歩く、歩く、どこへともなく──。
出入り口付近に白く変わりかけている髪を上品にまとめた老婦人を見つけた。タヴィアに指令を出されてから数日間給仕として継続で働いていた間に顔は確認してある。スーザン・リアーシス夫人。彼女の隣にいるのは夫のリアーシス伯爵だろう。……自然に口角が上がるのを感じた。
仮面舞踏会が、今、始まる。
「ほんっとタキシードで踊らされるハメにならなくてよかった……」
スザクの隣でアレキスが呟いた。彼は給仕服の深い紅色の蝶ネクタイをきつそうにいじっていた。
「俺も本当にそう思う」
同意しつつ、いつもの癖で眼鏡をカチャッと上げる。
結局、アレキスとスザクは給仕役として参加することになった。レオナルドがどう説明したのかは知らないし、そもそも国王直々に新しい給仕を紹介するとは思えないのだが、二人はすぐに受け入れられていた。〈期待の新人〉としてである。グラスにワインを注いだり、茶菓子なんかを出すのが仕事である給仕は仮面をする必要がないので楽だ。他にもスタッフ陣には料理人だのメイドだのがいる。流石に踊りがメインとなる仮面舞踏会であるだけに、給仕やメイドに比べ料理人は少なかった。酒のつまみ程度しか作らないからだろう。
(さて。レオナルドによればリアーシス夫人は確実に舞踏会に参加しているらしいが、裏方にいる俺たちには見つけるのが困難だな。百人以上いる中でばったりと夫人に会える確率は多くて1%。ならば王宮体制側にいると推測される敵を探すか)
「そこの新米二人、ぼやっと立ってないでワイン庫のワインを持ってきて空いたグラスに注げ」
会場内を見渡しているスザクとアレキスを見かねたように給仕長が声をかけてきた。
「ああ、すみませんでした」
(作業しながら仕事とは。楽ではないな)
「ではアレキス」
呼びかけると彼は少しだけ楽しそうに「わかってるさ」と答えた。
「とりあえず敵をどうにか見つけるんだろ?」
「ああ。手分けして捜索だ」
「見つけたら……」
少し考える。
「殺す……のはどうだかな。とりあえず捉えておいて他の奴らに連絡だな」
他の奴ら──ロジェとヨル、イダとルーカス、そしてディオンとアナスタシア。もうそろそろ彼らも会場に入り、リアーシス夫人を探して保護しつつ〈記憶石〉のペンダントを盗むのに奔走しているだろう。
「わかった。じゃあ……」
そう言いつつアレキスは口の端にニヤッと笑みを浮かべた。
「お互い健闘を祈るぜ、相棒」
「ああ」
スザクとアレキスもまた今日はペアである。
「アナスタシアぁ、僕たちなんか場違いじゃない……?」
とりあえず舞踏場内に散らばってスーザン・リアーシス探しだ、ということになりディオンとアナスタシアは手を繋いで奥へ奥へと進んでいた。いや、手を繋いで、というよりはアナスタシアに手を引かれる形だ。
宝石なんかをふんだんに身につけた大人たち、それもかなり上の年齢層の人間が多い中、子供は自分達だけである。
「何言ってるのぉ、楽しいじゃん! 見てよディオン、周りのみんなの服も、会場の飾りも、並べられた食べ物も、全部キラキラ光ってるよ!」
尖った糸切り歯を見せつつ笑うアナスタシアはすごく楽しそうだ。瞳と同じ赤スグリ色のミニドレスの上に、雪のような白いカーディガン。ふわふわとしたレースが至る所にあしらわれたそれには、きちんとフードもつけられていた。衣装を作ったルーカスの配慮なのだと思う。瞳の色を人に見られずに済むように、と。ディオンのフォーマルコートとセットになったミニハットにも、ワインレッドの薔薇と共に目の当たりまでかかる同じ色のベールが付いていた。
『仮面もつけるから大丈夫だとは思うんだけど念のため、ね。使っても使わなくてもいいよ』
そうルーカスは微笑んで言っていた。
(ルーカスさんの作った衣装は本当にすごいんだけど……。なんかすごく恥ずかしいなぁ)
丈の長いスーツに、ミニハットに、半仮面。胸ポケットにはワインレッドのポケットチーフまで折って入れられている。かなりキザではないか。自分が十六歳にしては幼顔だと思っているディオンとしては赤面している。
(アナスタシアはかわいいけどさ……、って、遊びに来てるわけじゃないんだから仕事しなきゃ。リアーシスさんを探すんだ)
確かシルバーグレーの髪を後ろでくるりとまとめている人だ。レオナルドに写真は一度見せてもらっていた。あとは青い石のペンダント。彼女がいつも身につけて人に自慢している品らしい。そして二十年前の真実の手がかりが入っている可能性があるという。
ヴァイオリンとビオラが声高らかに歌う。人々の動きが一つの波のようになっていく。
アナスタシアとディオンもようやくその場に止まり、ゆっくりと両手を繋いだ。
「とりあえず周りに合わせつつ探そう。目立たないように」
「うん」
「……足、踏んでも怒らないでね?」
アナスタシアはふふっと笑った。
「わたしだって踊るの初めてだよ? ゆっくりやろ」
少しだけディオンより低い位置にある赤い目は、仮面とフードの奥で優しげだった。
「あんたあの少年くんに、大人っぽい服着せたのわざとだね?」
人混みの中を見渡して見つけた顔に、イダは少し呆れて言った。ルーカスはにこにこともニヤニヤともつかない顔で頷いた。
「わかる?」
「わかるに決まってんでしょーが、かわいそうに」
ルーカスのことだから、あの少年には大人のタキシードなんかよりは可愛らしい、レーダーホーゼンなんかを作ったのかと思いきや、ディオンはダークグレーとワインレッドが主体となったフォーマルコートという大人っぽいデザインの衣装を着ている。隣にいる全体的にふわふわした感じのアナスタシアに逆にエスコートされつつ慌てているのが微笑ましい光景になっていた。無理して頑張って大人びようとして見えて、なんとも不器用な感じ。
(それをルーカスは狙ったってわけかい)
なんてやつだ。少年がかわいそうに思えてくる。
「だって萌えない?」
「萌えない! あんたって意外と腹黒いよね……」
「そう怒らないでよ」
ルーカスの綺麗なブラウンの瞳に顔を覗き込まれた。
「今日は俺がイダの王子様になるよ?」
そう言って彼は芝居がかった仕草で跪くと、左手を胸に当てて右手でそっとイダの手を掬い上げた。
顔が真っ赤になって火照っているのがわかる。そしていつもなんら変わらない顔色のルーカスがむかつく。
(冗談じゃない! ほんっとこいつ、誰にでもこんなことするんだから……!)
ルーカスの完璧とも言える漆黒のフロックコート姿と、自分の似合っているわけもない深緑色のドレスを見やる。少し後ろ側が長くなった裾がひらひらとして心もとない。周りの貴婦人たちのような豪奢に幾重もフリルがついたようなのよりは随分ましだとは思うが、所詮、下町育ちの庶民である自分には着飾ると言う行為が合わない。ドレスは妙に重く感じた。
(あーあ、仮面舞踏会なんてなければ……)
そう心の中で愚痴を言いつつ、跪いたポーズのままになっているルーカスを見た。仮面をつけているから視線はわからないはずだと思ったのに、彼はにっこりと微笑みかけてきた。
(…………)
「スーザン・リアーシスを発見、とヨルは呟きます」
自分よりいくらか下から聞こえた囁き声に、ロジェは目を細めた。
「本当ですか」
「入り口付近に。夫と呑気にじゃれ合ってますね。何歳だか知りませんが老人がはしゃいでみっともないと思わないのでしょうか、とヨルは訝しく思います」
ヨルの悪態に苦笑しつつドア付近を見ると、いた。確かに呑気にリアーシス伯爵と音楽に合わせて足馴らしをしている。仮にここに本当に敵がいるとするならば半殺しの目に遭うかもしれないのに。とはいえど、敵からリアーシス夫人を守るのがロジェたち〈王の剣〉の役目ではあるが。
(それにしても、この人混みの中あんなに遠くにいる彼女を見つけるとは……)
少女のような姿をしているが、本当にヨルは侮れない。この仮面舞踏会でヨルとペアを組む口実に、同い年だというのを使ったが、実際のところロジェがヨルについて知っていることは限りなく少ないので、他に共通点など思いつかなかったのだ。なんでこんな見た目なのか、出身孤児院はどこか、〈宿り魔〉は何をつけているのか。あとは戦闘能力をどこで身につけたのか。ロジェや他の〈王の剣〉の何人かは、〈剣〉になるに当たって〈術〉やそれなりの護身の技を身に付けたが、ヨルは違う。彼女はその頃には既に戦う能力もあの扇子の武器も持っていたのだと思う。しかも女性だとは思えないほど強い。一撃でも食らうところを見たことがない。
まあ、よく知らないのはヨルのことだけではない。何せ孤児院育ちの〈王の剣〉たちに、自分の過去をぺらぺらと喋るような者はいないから。どう足掻いても不幸だった記憶の方が勝ってしまうから。
(……それもイダさんは除いて、ですが)
彼女だけは孤児院にいたのを割と幼い頃に鍋屋の夫婦に引き取られている。多分〈魔女の悲劇〉の直後ぐらいだろう。孤児院の記憶もあまりないはずだ。その分だけ、イダが自分だけが孤児院育ちではなく普通の温かい家庭で育ってきたことに蟠りを持っていることもわかっている。
(まあそんなことはどうでもいい。とりあえず怪しまれないように近づかなければ)
手首に括り付けていた群青色のリボンで髪を一つに括った。らしくはないが気合いである。というのと、衣装をデザイン・作成したルーカスに実のところつけろと言われていたのだ。
『案外ロジェって髪結んでもかっこいいかもよ? 意外と耽美な感じかな』
耽美かどうかはともかくとして、作成してくれた彼の言ったことは大切にしたい。
(……なんて、いつからワタシは人の想いを汲み取ってみせるほど偉そうになったのだか)
「何をぼーっとしてるのです。さっさと行きますよ、とヨルは言います」
モーニングコートの裾を引っ張られた。ヨルの纏っている真っ黒なチュール生地のドレスが、鈍いシャンデリアの光を受けて青緑色っぽく煌めいた。
「……そうですね」
とりあえず今は任務だ。ロジェは小柄なヨルとペースを合わせつつ、ゆっくりと進み出した。
進み出した、ちょうどその時────。
悲鳴が上がった。
「キャアァァァァァァッ」
「どうしたのッ!? ねえ! 大丈夫ッ!?」
「どうした!? 何があった!?」
声が上がったのは、今向かおうとしていたスーザン・リアーシス夫人たちのいる出入り口の反対側、舞踏会場の奥である。ただならぬ雰囲気が流れ、伝染していった。会場内のみんなが訳のわからぬままに、その波紋の中心を見ている。
(向こうから……? 敵の仕業か、そうではないのか)
どうにもここからでは沢山の人に阻まれて見えそうにない。小柄なヨルもまた睨むような視線で悲鳴の方を見ているだけだった。
(とりあえず向こう側にも〈王の剣〉の誰かしらがいるだろう。慌ててあっちまで行くのも早計、か)
ロジェはちらりとリアーシス夫人のいる方を振り返った。彼女は少し心配そうにあたりを見渡しつつも無事のようだった。
「どうした!? 大丈夫かッ!?」
アレキスは声の上がった方に走っていった。給仕役であるために、この仮面舞踏会の場で起こったことにはすぐに対応できる。スタッフ側が動くのは当たり前のことであり、誰も不自然には思わないからだ。
(敵がもう動いたのか!? いや、それにしては意外と周りが掻き乱されていない気がするが……)
失礼、と断りつつ人混みをかき分けかき分け、ようやくその中央にたどり着いた。見れば着飾った若い女性がそのパートナーらしき男性の腕の中に倒れ込んでいた。胸を押さえている。女性は仮面をつけていたのでよくは見えないが、覗いている頬は蒼白だ。
(……?)
甲高い悲鳴の主と思しき女の人が青い顔をしてわなわなと震えていた。
「こ、この人が、踊っていた時、突然苦しみ出したんです。あまりに突然で、私も、驚いて……」
「まずはこの女性を救護室まで運びましょう」
後ろを見れば、呼ぶまでもなく同じ給仕役のスザクが担架のようなものを持ってきていた。準備のいい奴だ。彼は丁寧な動作で担架に苦しげに喘いでいる女性を乗せると、そばにいたペアの男性に「手伝ってもらえますか」と声をかけた。二人がかりで運び出していく。
「貴女も、大丈夫ですか? 休憩室にお連れしましょうか」
女性が倒れるところを目撃し、動揺している女の人は小さい声で「だいじょうぶです……」と答えた。
「あとはこちら側でどうにかします。皆様、舞踏会を続けてくださって大丈夫です。おそらく心臓病などの持病で発作を起こしたのでしょう」
思い出したように静かに群声が戻ってくる。ずっと流れていたはずの音楽が遠くから近づいてきたように感じられた。
(さて。俺の仕事はこっからだな)
心臓病だのなんだの言っておいたが、そうとも限らない。というか、心臓病なんて持っている人が舞踏会に参加するとはあまり思えなかった。
すっかり元に戻り、踊りなんかも始まった会場に溶け込むことなく、アレキスは一人近くのテーブルの上を舐めるように見回した。視線が一点に止まる。ワイングラスだ。中身はあと三分の一ほどになっている。周りにも同様にワインが入っているグラスがまばらに並んでいるが、少しだけ色が違う気がする。見落としてしまいそうなほどに僅かではあるが、なんとなくうっすらと白濁しているような。
スッと持ち上げて手の中で軽く輪を描くように揺すり、香りを嗅いだ。
(薬剤師、舐めんなよ)
芳醇な赤葡萄の香りの中に微かに錆びた金属のような無機質な匂いを感じた。強くはないが、はっきりとわかる。
毒、だ。
間違いない。さっきの女性はこの毒の入ったワインを飲んで、毒に当てられたのだろう。これは絶対に敵の仕業だ。でも何のために? このワインを飲んだ女性はまだ若く、リアーシス夫人では確実になかった。
ふと視線を感じると、一つ隣のテーブルの近くでディオンがこちらを不安げに見ていた。その隣のアナスタシアは何も気づいていなさそうである。視線が合ったのに気づき、ディオンがアレキスの持っているワイングラスを指差して、首を傾げた。「そのグラスに何かあったんですか」と聞きたいのだろう。
(結構聡いんだな……)
アレキスはグラスを少しだけ掲げるように上に持ち上げ、口の形で「ど・く」と伝えた。我ながらあまり上手いやり方ではなかったように思うが、ディオンはちゃんと理解出来たらしく一つ頷いた。ディオンもまたその可能性があるんじゃないかと思っていたのかもしれない。彼はアナスタシアの手を握ると、どこへいくかと思いきやさらに離れた所にいるイダとルーカスの方へと歩み寄っていく。ワイングラスの毒のことを伝えに行ったらしい。
(小さなことに気づいて仲間内で情報を共有する……。適切な行動だ。オジサン感動しちゃう……)
目をうるうるさせていたアレキスははっと我に返った。首を振る。仕事はここからだ。
グラスを持って調理室まで急いだ。
「おいおい、走ったりするんじゃない」
給仕長の男はただならぬアレキスの様子に眉を顰めた。
「すみません。ただ一つ確認したいことがありまして」
一息置く。そして腹式呼吸で調理室全体に聞こえるように大声で怒鳴りつけた。
「会場のテーブルにあったワイングラスから毒が検出された!! 何か知っているものはいるか!? 被害者も既に出ている!!」
給仕長が「そんなことがあるわけないだろ!」と割って入ってこようとしたが、完全に無視する。調理人や給仕、メイドたちはそれぞれ驚いた風な顔をしたり顔を見合わせたりしていた。
いや、一人だけ怪しい奴がいる。
給仕服を身につけた茶髪の青年だ。彼はエプロンの帯の上に手を当てて探るように手をまさぐらせた。その瞳は忙しなく揺れている。
アレキスは彼の方へつかつかと近づいて行き、「なに慌ててるんだ」と鋭い口調で声をかけた。無理やり壁際に押し付けて、その帯の中に手を入れる。手に触れた硬いものを取り出すと──それは一枚の金貨だった。
(なるほどな……)
敵はこの若者に金を握らせて毒を混入するようにと差し向けたわけか。
と。その隙をついて青年は怯えたような顔をするとそのまま踵を返して逃げ出そうとした。
(……ッ。やべっ)
慌てて追いかけようとするがもう遅い。逃すかッと声を上げたその時、青年はうめき声をあげてその場にかくんと倒れ込んだ。その腕を後ろから掴み上げているのはスザクだ。毒で倒れた女性を救護室まで運んで戻ってきたらしい。後ろから膝関節を蹴ったのだろう。ナイスタイミングである。
青年は膝崩れを起こして身動きが取れず、ようやく観念したようだった。
「おい、見てないでお前たちはさっさと働け。ったく新人たち、騒ぎを大きくするなよ」
給仕長は呆れたように、そしてもう関わりたくないと言うように「勝手にしろ」と吐き捨てて去っていった。他の料理人やらのスタッフたちも思い思いに仕事に戻っていった。
(こっちは任務で参加してるってのに新人呼ばわりかよ)
心の中で悪態をつきつつ、さて、と青年に向き直った。毒の件はまだ知らないはずなのに、アレキスに合わせてしっかりと青年を押さえ込んでいるスザクはやはり流石である。
「で、お前はこれをどこで手に入れた?」
青年の目の前で、あの帯の中に仕舞い込まれていた金貨をちらつかせた。
ロレンタ王国では紙幣、銅貨、銀貨、金貨が使われているが、一番価値があるのは金貨で、金貨一枚が銀貨十五枚分に相当する。王宮で働いているとはいえ、給仕の、それも下っ端であろう青年が持っているわけはない金額だ。
「言いたく……」
「言いたくないって? いや、俺たちはもう何があったかなんてのは大体わかってるんだ。だから上には全部報告する。そうしたら確実にお前はクビだろうな。ただお前にこの金貨を握らせた奴の特徴を言ってくれるなら……」
(言ってくれるなら、なんだ?)
青年が全部今吐き出したところで、結局レオナルドには報告する。そうなれば青年が仕事を失わない保証もできないのだが。
スザクが「早くしろよ」と目で訴えかけてくる。同じぐらいの骨格の人間を一人ずっと押さえ込んでいるのはけっこう大変に違いない。
(ええい、ままよ! 嘘も方便だ)
「言ってくれるなら、お前が仕事を失わないように手配しよう。それでいいか?」
青年はしぶしぶといったように首肯した。意外とあっさりとしている。やはり敵はなんの面識もないようなやつだったのだろう。
「……わかった。おれに金貨を渡してきたのは、若紳士風の男で、銀色の片仮面をつけた奴だった。舞踏会が始まる前に、テーブルのグラスにワインを注いでいたおれのところに来て、『あの辺りのグラスにこれを混ぜてくれないか』って言って、金貨と粉の入ったビニルケースを握らせてきた」
「で、金貨をもらった引き換えにお前は粉をワインに入れたわけだ。その若紳士風の男というのは知らないやつだったんだな?」
「知らなかった」
「白い粉が毒だというのは知らなかったのか?」
「知らなかった。……わかりませんでした」
ふう……と息を吐き出した。聞き出せるのはここまでか。
(紳士風。それに毒を混入させるのをこの給仕の若者に任せたところからして、敵は外部の人間が。だとするとレオナルドはついに推測を外したな)
『敵は多分スタッフなんかの王宮体制側にいる』
決然と言い切った彼は。今までに何度も「ただの推測だが……」という前置きと共に未来を読んだかのように自分達〈王の剣〉に指令を与えてきた彼もまた人間だったということか。しかし、それにしてもレオナルドはすごい奴だと思う。年齢など関係ない。アレキスは彼を尊敬している。
「わかった、もういい」
アレキスの声に、スザクが軽く安堵の息を漏らしつつ手の力を弱めた。彼はスッと立ち上がった。
青年もまた膝をさすりつつ立ち上がり、一度ぺこりとすると、無言で去っていった。その礼の意味はよくわからなかった。
(まあ気が向いたらレオナルドにでもあいつをクビにしないように言っておくか)
多分青年は、責任感が足りなかったとはいえ、もともと悪いやつではなかったのだと思う。……だからといって毒を混ぜたのが許されるわけではないが。
(なんで敵はリアーシス夫人となんら関係のなさそうな女性に毒を持ったんだ? というより『あの辺りのグラスに』ということはつまりその辺にいるやつなら誰でもよかったわけか)
こればっかりは給仕をしていては探れない。同じことを考えたのだろう。隣でスザクが銀縁眼鏡をカチャッとやった。
「これをどうやって同僚たちに伝えるか、だな」
「ああ」
❇︎❇︎❇︎❇︎❇︎
「国王陛下、国内の予算は黒字ですが我がロレンタ王国は周辺国と比べてあまりに防衛力が弱い。今後どうされるおつもりか」
大臣の問いかけに、レオナルドは「このままでいいだろう」とおざなりに答えた。
当たり前のようにレオナルドの仕事は二十年前の事件解明だけではない。むしろ、ロワイヨムからすればそんなのは王の私事にすぎない。本当の仕事とは、レオナルドの〈趣味でない方の仕事〉というのは本来こちらだ。華々しく仮面舞踏会が行われている裏では、毎年王宮の大会議室にて国王と大臣たち、その他王族たちとで今後のロレンタ王国のことが話し合われている。予算や、内政。最終的な決定権は全てレオナルドにあるわけだが、しかしながら大臣たちとの話し合い、という形が未だに取られている。
大臣は食い下がらなかった。中でも、エオリアル、という名の初老の大臣が険しい顔をして立ち上がった。何にも臆することなく、睨みつけるような鋭い視線でレオナルドのほうをえぐるように見ている。銀縁の片眼鏡が光った。
「国王陛下、誤魔化そうとしないでください。どう考えたって、今世界中の空気は不穏だ。あと数年で大戦が起こっても不思議ではない! ロレンタ王国はあまりにも弱い。魔の力なんて、国から一歩でも出れば掻き消えてしまうのですよ! このままロレンタを世界大戦の海の藻屑にするおつもりですか⁉︎ 今だって呑気に仮面舞踏会なんかをして……」
そうだそうだ、というような声がいくつも上がった。明らかな非難。レオナルドは長テーブルの下で拳を握りしめた。自分を誕生日席に当たる席に植え付けて、その上で非難を叫んでいる人々はみな、顔がないのっぺらぼうのようだ。
〈術〉だとか、〈宿り魔〉だとか。そんな魔の力がロレンタでは当たり前のように使われている。どこの国でもそうなのではなく、ロレンタ王国では今の世界より古い時代の生活が続けられているためだ。信じられないような話だが、中世の時代、世界中の人々が皆当たり前に精霊や魔の力を利用していた。その魔の力を維持するためにロレンタは前進しないことを選んだ。もちろん何もかもが中世から変わらないかと言えばそうではないが、仮面舞踏会などの〈伝統行事〉などの儀式はずっと大切にされている。そして、その結果、ロレンタ王国は科学が著しく遅れている。もちろん武力的な面もだ。戦車や軍隊とは無縁。かつ外の世界、つまり周辺の国々との国交などもない。完全な鎖国。もしも世界大戦が起きたら。そして世界大戦がすぐには起きなかったにしても。ロレンタの未来はそう長くないことは確かだ。
(しかしどうしろという? 今から国の民に兵器やらを持たせて隊列を組ませろというのか? 不可能に決まってるだろ。何百年も同じことを続けてきて、何を今更)
「国王陛下、どうするんだ」
「このままってわけにはいかないでしょう!?」
エオリアル大臣に同調して、たくさんの声が上がる。しかめ面、しかめ面、しかめ面。
確かに、この〈術〉や宿り魔の力はどんなに極めたところで国から一歩でも出れば無意味だ。科学や最新技術には掻き消されてしまう。しかし。
「ここまで来たからには、飲み込まれるのもまた運命」
レオナルドは下を向いたまま低い声で呟いた。
一瞬の沈黙を置いて会議室が色めき立つ。騒然とする。エオリアル大臣がありえない、というように肩をすくめて周りの人々に吐き捨てた。
「聞いたか、今のを! 陛下は王国を捨てるような発言をされた!」
いくつもの声がそれに応える。
「ありえない」
「国はどうなってもいいというのか」
だがレオナルドには王国よりも大切なものが、大切にしたいものがあるから。
誰かがぼそりと囁くのが耳に入った。
「どうせあの王宮特化特別組織とかいうやつだろ。国王陛下は国民のことよりも自分の優雅で高貴なご趣味を思っておいでなのさ」
(そうだ。その通りだと認めるよ。悪いというのか)
客観的には悪いこと、なのだろう。王は国の全てに平等であり、少数よりも大多数を取るべきには違いない。
(だが、オレは)
今この瞬間にも、大舞踏会場で行われている仮面舞踏会では〈王の剣〉という名の特化特別組織が働いている。レオナルドのただ一人の目的のために。この会議の後にはまたセレスティーヌと会う約束がある。
人として、人間として。
(特別に思うようなものがあっては、いけないのだろうか)
と、一本の白い手が上がった。
「あ、あの、発言してもよろしいでしょうか」
レオナルドの母・前国王妃の妹の息子養子。つまり義従兄弟にあたる、エドワードだ。レオナルドとは全てが対照的だ。銀色に輝く長髪を後ろで細い一本の束にまとめている。その顔には僅かに翳りのようなものがあり、どちらかといえば物怖じをしないようなタイプではなく、大人しい。
そしてエドワードは決して自分のために多くを犠牲にするような自分勝手な人間ではない。真っ直ぐに自分の国のことを、よりたくさんの幸せのことを考えられる人だ。
(こういうやつのほうが、王には向いているんだろうな)
「なんです、エドワード様」
騒いでいた大臣たちが一斉に彼の方を向いた。エドワードは一瞬たじろいだようだったが、すぐに落ち着いた声で、
「わ、私は義兄さんのことを責め立てても仕方ないと思います。魔の力を守り繋いできた歴史は、この国の全ての人のものですから。それよりも国を守る対策を立てるべきです。一丸となって自衛しなければ意味がない」
「しかし、国王にもまた責任が」
「国を守る対策? 具体的には?」
レオナルドは内心でため息をついた。
悪いとは思っているのだ。ダメな国王で。それでも。
(もう放っておいたところで自然と朽ちていくんだよ。ロレンタ王国も、国の民も、……オレだって)
朽ちる前に、夢を掴むのが人生だ。
❇︎❇︎❇︎❇︎❇︎
「お客様、新しいワインをお持ちしました」
聞き慣れた声に振り向くと、案の定スザクが銀縁眼鏡を光らせて立っていた。顔が硬い、そんなんじゃ不自然だよと思いつつルーカスは首を傾げる。
「どうしたの?」
小声で尋ねると、彼は「いいから受け取れ」と囁き返してきた。ぐいぐいと近づけてきたワイングラスを受け取るとスザクはすぐに完璧な無表情になり、一礼して去っていった。
(へえ。意外と給仕の役が似合うじゃん、スザク)
調理室の方へと戻っていくその背を見てから、ワインに目を落とした。
「ワインがなんだって?」
横のイダも覗き込んできた。
さっきのワインに毒が混ぜられていた件についてはディオンから聞いた。ちなみにロジェとヨルのペアにはルーカスたちが伝えた。だとすると、それに関してさらに何かわかったということか。
少し考えた末、ルーカスはワインの中に細長い指を突っ込んだ。
「ちょ、何やってんだい!?」
イダが眉を吊り上げて叫んだ。
「んん? だってさ……、ほらあった」
器用に指でワインに入れられていた紙切れを取り出した。ひどいな、と苦笑いする。紙は薄赤紫に染まってふにゃふにゃだ。しかも物をワインの中に仕込むなんて、敵とやっていることが同じではないか。
「なにぃ? スザクとアレキスから?」
「そうみたい」
〈目撃情報。敵は客側 銀色の片顔仮面・若紳士 他の奴らにも今伝えているところ〉
端的な走り書きだ。走り書きなのに止め跳ねなんかが綺麗なこの字は、多分スザクのものだろう。アレキスはもっとゴツくてところどころ省略した字を書く。
(それにしても……)
銀色の片仮面なんてつけた若い奴はどう見てもいないが。イダも「どいつのことよ」と腕組みしている。今日は長い褐色の髪をポニーテールにしているので、気の強そうな感じがより際立っている。……いや、そんなことはどうでもいいが。
(〈王の剣〉は先手を取られたわけかな。こっからが勝負だね)
ルーカスは口元に笑みを浮かべた。
ディオンたちもまた敵についての情報は受け取った。アレキスに渡されたピンチョスに紙切れが串刺しにされているのを見て唖然とした。すごいな、〈王の剣〉ってなんでもやるんだな。
「ディオン、そんな人いないよ?」
アナスタシアが辺りを見渡して言った。
「そうだね……」
若紳士風の人なんて何人もいるし、片仮面をつけている人も何人もいる。しかし、それが銀色でなかったり、年齢的に〈若紳士〉という言葉と合わなかったり。
と、ディオンの目がドア口付近の一点に止まった。
(──!?)
「ディオン?」
不思議そうに眉根を寄せてアナスタシアが顔を覗き込んできた。
「ねえ、アナスタシア。みんなを呼んできて」
「ディオンは?」
「早くしないと大変なことになるから僕は……」
急な恐怖が込み上げてきた。
(僕は? どうしよう、怖い、怖い、怖い)
手足が震えているのが情けないほどにわかる。だが、怖くてもやらなければいけないことがある。そして迷っている時間もない。
「僕は先に行ってるから」
そのまま駆け出した。そうでもしなければ動けなくなってしまいそうだった。ディオン、とアナスタシアが叫ぶ声が聞こえる。だめだ、止まるな。止まっちゃいけない。走れ、走れ──。
ドア口付近。あのスーザン・リアーシス夫人の首筋に邪悪な笑みを浮かべて後ろから手を伸ばしている、リアーシス伯爵に勢いで体当たりを食らわせた。
夫人が短い悲鳴を上げる。
「っ!! なんだね、君は!」
リアーシス伯爵が凄まじい表情で怒鳴った。驚いたような、意表をつかれたような、憎むような──。
いつの間にか足の震えは止まっていた。伯爵の怒声に怯むことなく、ディオンは真っ直ぐに彼を睨みつけた。息が上がっているが、頭の中は妙に俯瞰しているかのように冷静だ。
自分じゃないみたい。自分のことを誰かが押してくれているみたい。
───怖くない。
「何を、してるんですか、貴方は」
時が、止まった。
アナスタシアは夢中で走った。早く、他の〈剣〉の人を呼んでこなきゃ。
イダは目を見開いた。少年くん? なんで、そいつが──?
ルーカスは笑った。ああ、そういうことだっていうの?
ヨルは無感情だった。賽は投げられた、とでもヨルは言いましょうか。
ロジェは焦燥に駆られた。一人で、どうして無茶な……。
スザクは腕を組んだ。さて、今俺にできる一番のことはなんだ。
アレキスは指を鳴らした。いよいよ
『何を、してるんですか、貴方は』
くだらない、本当に。リアーシス夫人の両手を後ろ手で掴んだ。彼女は怯えたように、信じられないというように振り向いて、見つめてきた。あなた、と口の形が動く。ペンダントを取ってから殺そうと思っていたのに。別に逆でも問題はないが。
「ばれてしまったというのなら、仕方ない」
リアーシス伯爵は。否、リアーシス伯爵に姿を変えていたグラザードは口の端を歪めた。スーザン・リアーシスの首筋に近づけていた指をさっと上げる。何かが指先で光った。
鉄の刃爪だ。
目の前に、リアーシス夫人との間に割って入るように突っ立っている少年を見下ろした。ハットについた色付きベールのせいで目の色はよくわからないが、それでもその表情はわかる。なんて。なんて──いい顔なんだ。使命に燃えているようで、闘志を剥き出しにしているようで、千里も先の未来を見つめているようで。
(壊してやる……!)
絶望の果てに突き落としたその瞬間を。グラザードの手で希望を掻き壊してやったその瞬間を思い描けるからこそ、少年の今の顔が〈いい顔〉に見える。
(こんなガキに看破されるとは、な)
しかし看破されようがされまいが、看破したのが子供であろうがなかろうが、関係ない。やることは同じだ。むしろこれでやりやすくなった。
振り上げた、爪。真っ直ぐに、少年に──。
「お前たち全員皆殺しにしてくれるわ! まずはお前からだっっっ!!」
振り下ろされてくる鋭い刃物に、咄嗟に身体が動かずにいたディオンは、強い力で突き飛ばされた。
「ぐっ……」
壁に打ちつけられて息が詰まった。どうにか痛みを堪えて目を開けると、目の前にはよく見知った背が立ちはだかっていた。モーニングコートの裾がはためいている。そして頭にはシルクハット。灰色の髪と結ばれた藍色のリボンがなびいて……。
「……ロ、ジェ」
彼を中心に、凄まじい勢いで白く光る風が吹き、紙吹雪やカードが強く発光しながら舞っている。そしてそれらの全ての光をロジェの体が吸い込んだ、と思った刹那、ロジェが腕を振り下ろすのと同時に白いエネルギーとなって前にいる男を反対側の壁に叩きつけた。
爆発音。
一瞬の暴風。
(舞踏会の、他のお客さんは──!?)
ハッとして辺りを見ると、どうやらアレキスとスザクが逃しているようだった。
「危ないから逃げろ!」
「出口はこっちだ!!」
先導する彼らの後を、何人もの客たち、さらには料理人、メイド、給仕たちが小走りに行く。乱れたドレスの裾を摘んで走っている女性が転び、その手を近くにいた男性が取って立ち上がらせた。走り出す。
「ごめんね、庇うためとはいえ強く突き飛ばしすぎた」
気づけばロジェが真っ正面に立って手をこちらに差し伸べていた。風も光も止んでいる。彼は淡く微笑んでいた。
急に力が抜けるのを感じた。
「ロジェ……。ぼ、僕、死ぬかと思った……」
安堵のあまり思わずそのままロジェにしがみつくような体勢になった。全身がわなわなと震えている。恐怖が全部消えたかのように思ったあの時はなんだったのだろう。ロジェはディオンの震えを感じ取ったらしく、静かな瞳でまた笑った。
「一人で無理するからだよ」
そのまま立ち上がらせてくれる。
「まだ、戦える? ……ああ、アナスタシアのことは逃がしたから心配しないで。流石にこれ以上は巻き込めないからね」
(戦える? だなんて、そんな。僕もちゃんと〈王の剣〉として……)
言うべき言葉はすぐに見つかった。
「戦います。足、引っ張るかもしれないけれど」
ロジェは頷いた。
「キミはそう言うだろうって思っていた。ではディオン、行くよ」
「はい!」
音もなく、人もいない。
さっきまで仮面舞踏会がここで行われていたとは思えない。何も変わっていないはずのシャンデリアの厳かな明かりも、弱まったみたいだ。暗い、暗い、暗い。
(全てこいつのせいってわけね)
イダはキッと目の前にいる男を睨みつけた。ロジェの一撃によって壁にめり込むほどに叩きつけられていたが、彼はひょいと軽い動作で起き上がった。その後ろの壁にはひびが入り、パラパラと白い粉やら破片やらが降ってきた。顔を顰める。
全然関係ないところに毒を持って騒ぎを起こし、その間にリアーシス伯爵と入れ替わる。簡単なトリックだ。トリックとも言えないほどの。
(ここまで来ればバカなあたしでもわかるさ)
本物のリアーシス伯爵の方は、客たちを逃がした後でアレキスとスザクが探すと言っていた。殺されていなければいいが、と物騒なことを思う。
それにしてもこの男の手法は鮮やかだ。なにせスーザン・リアーシスが気づかないほどに素早くその夫と入れ替わったのだから。つまりはリアーシス伯爵の変装も完璧、態度や話し方さえ事前に調べたには違いない。……用意周到。それに比べて〈王の剣〉は行き当たりばったりもいいところだ。
だけど──。
(もうここからはあたしたちのもの。少年くんが見破ったんだから、もうあんたの作戦はなんの意味もない)
ふらりと立っている敵を、イダ、ルーカスの二人で睨んでいる隣にロジェとディオンが並んだ。自然と壁に追い詰めて囲った形になる。あれ、ヨルは──と思って見回すと、いた。器用にシャンデリアの一つの上に腰掛けている。何かあったら相手の不意をついて飛び降りてくるのだろう。彼女ならそのくらいのことはする。……大丈夫。絶対負けない。
「なるほどね」
口火を切ったのはルーカスだった。
「宿り魔に擬態動物をつけてるわけか。そうでなきゃそこまでの変装はできないよね。しかもそう何度もころころと」
何度も。そうだ。この男は既に二度、姿を変えている。〈片仮面の若紳士〉と〈リアーシス伯爵〉。
(もしかしたら)
これは憶測にすぎないけれど。
レオナルドがはっきりと「味方側に敵がいる」と言ったのに、それを外すわけがない。だとすると、味方側に〈化けた〉こともあったのかもしれない。ああ、あの全国王の毒殺事件か。
(なんて小賢しい)
この男は敵、敵、敵。絶対許さない。
(だってこんなやつらに、あたしたち〈剣〉の三人が殺されてるんだ……!)
男はフッと笑った。
「わかりきったことをつらつらと。これだけの証拠があって気づかない方がどうかしている。ああ、いいさ。人数はそっちの方が多いが、この私が全員殺してやるッ!」
「そうはさせないよ」
ルーカスはこんな時でも微笑んでいた。だがいつもよりその顔が硬いのは気のせいだろうか。口で笑いながら目つきが鋭い。
「ほら、イダ、行くよ! ロジェとディオンはリアーシス夫人を守って」
夫人はさっきの衝撃で気絶しているようだった。ロジェが頷く。その隣にはしっかりとディオンも立っていた。
「出でよ、
ルーカスが使い魔を召喚するのを見届けて、イダもクナイを一本ずつ両手に持ち、構えた。ルーカスのデザインしたこのドレスのひだの裏には軽く作られた何本ものクナイが下げられていることには、既に気づいていた。
イダはそのまま男に飛びかかった。クナイを投げる。ザンッという一筋の風と共に男の頭の右の壁に突き刺さった。続けてもう一本、左に。これで咄嗟には動けなくなる。
その横に緑色に発光している牡鹿が並んだ、と思った瞬間、地面から何本もの蔦が伸びて男の両足を縛り上げた。蔦と蔦は絡み合い、やがて一本の太い幹になっていく。
イダは思わずガッツポーズを決めた。簡単だった。もう、これで──。
否。
「なるほどね。牡鹿……ッ。ククッ。ッハハハ!!」
身動きができないはずの男は、俯いたまま笑っていた。乱れた前髪のせいで表情が見えない。「なぜ笑う」と、ルーカスがイダの一歩前に出て長剣を構えた。
と、男はぱっと顔を上げた。真正面から堂々とこちらを見た。
「ああ、可笑しい、可笑しい可笑しいおかしいッ!!……なあ兄ちゃん、あんたの樹木の使い魔じゃあ僕を縛るだけで止めは刺せないんだろう? 姉ちゃんもだよ。立派なクナイなんて持ってても、それを俺の心臓に突き刺せるだけの勇気がないんでしょう? 目でわかるんだよ」
否定は、しない。できない。イダは人を殺したことがない。
そして何故だろう。挑発の言葉はどうでもいいとして、何かが腑に落ちない。この男のことがいまいち掴めない。……そう思ったところで、気づいた。一人称と口調が目まぐるしく変化しているんだ。
(なぜ……?)
だがそんなことを考えている余裕は消え飛んだ。
バキバキバキッ──
音を立てて、男の足に絡みついていた木の幹が割れて砕けた。破片となって辺りに飛び散る。男は自分の頭の両脇に突き刺さっていたクナイを引き抜いた。
(うそっ)
「攻撃のための攻撃ではなく、拘束のための攻撃、ね。弱いなぁ。そんなんだからあんたたちは
次の瞬間、男が目の前から消えた。……と、会場の壁際のあちこちで爆発音と共に煙が上がった。その間から、炎がちらちらと舐めるように燃えているのが見えた。火薬玉か何かか。
やばい──!
そう思って振り向いたのは暖炉の方だ。煙に煽られて広がり出てきた火。そして床に転がり割れたワインボトルの中身──アルコール。引火、引火する──。
ぐわあぁぁぁぁんと、空気が揺れた。眼下に一瞬、ハリケーンリリーが咲き誇ったかのように見えた。ヨルはまだシャンデリアの上にいた。
熱い。ひたすらに熱い。酸素も少なくなってきているのがわかる。扇で顔をかばいつつ息をした。火事中での呼吸法を知っていなければ、既に肺は焼けついてしまっているに違いない。
(煙が上がってきてますね。吸い込み過ぎる前に飛び降りなければ、動けなくなる。……でも)
まだだ。
敵はまだ自分に気づいていない。不意を撃てる機会を窺え。それまで耐えろ。一瞬のチャンスでも無駄にしてはいけない。
軽く歪んで、立て付けの悪くなった掃除用具入れのドアを力任せに開け放つ。その反動でのけぞったアレキスの背にぶつかったのか、スザクが短く呻いた。
「悪い悪い」
「……いやそんなことより」
いたぞ! とスザクが叫んだ。掃除用具入れの中の僅かな隙間に、一人の紳士風の格好をした男が折り畳まれるようにして入れられていた。
リアーシス伯爵だ。
ひどいな、と呟く。いかにも雑だ。そして、首の裏側に大きな青痣があるところを見ると殴られて気絶させられたのだろう。
「とりあえずこいつを連れて脱出だ」
「ああ、そうだな」
ロジェは今だと思った。
(今なら、炎に紛れてこの人を外に出せる)
抱え込むようにしていたスーザン・リアーシスをゆっくりと抱き上げた。はっと顔を上げたディオンに鋭く声をかける。
「ワタシは夫人をどうにかするから、キミはルーカスさんたちに加勢して。でも危なくなったら逃げること」
「はい」
彼は返事をしつつも不安げな顔をしていた。しかし気丈にも、くっと顔を上げて頷いて見せた。頷き返す。
「短剣は渡しておくから」
ロジェはそのまま地面を蹴って飛び上がった。自分達を囲む火をどうにか跳び越える。炎で服が焦げ、熱というよりは刺すような痛みを直に感じた。
「っ……」
どうにか地面に着地したところで、黄色く発光している狐が足元に駆けてきた。
(狐……。アレキスさんか)
狐は人の声で話した。
「ロジェ、出口はこっちだ。リアーシス氏の本物の方は既に見つけてあるから心配するな。さあ──」
「了解しました」
狐についてドアをくぐり抜けた。ふと振り返って、唖然とした。
(しまった…!)
舞踏会場を囲む焔のあたりに、結界が張られていた。
「また人数が減ったなぁ。ついに三人だぜ? いや、三人とも言えないか。一人はいかにも頼りないガキ、一人は意気地無しの女、一人は縛ることしかできない宿り魔の使い手」
頼りないガキ、と言われたディオンはびくんと肩を震わせた。事実であるのは誰に聞かなくたってわかっているが。
隣でイダが叫んだ。
「あとでみんな戻ってくるのよ! それまでは三人ってだけ」
それを聞いて男は憫笑した。
「僕が結界術を使ったことわからないのか? 中から出るのは自由。だが外からは誰も入って来られないさ。それに火はどんどん広がる。そのうちこっちにも燃え広がってくる。戦いにタイムリミットができたんだよ?」
ルーカスがディオンに囁きかけた。
「上にヨルがいることには気づいてるよね? 彼女が止めを刺してくれることを狙って、また奴の動きを封じよう」
ロジェが残していった短剣を腹の前に構えた。前もこうやってこの短剣を人に向けたことがあった。ジーグにだ。あの、静かな雪が降る寒空の下の薔薇の森で。
『君は一体、誰なんだ?』
思い出しかけて、慌てて強く首を振った。うるさい、うるさい、うるさい。そんなこと考えている場合じゃない。
そうしている間にも、敵の男はすでに動き出していた。火薬弾を投げてきた、と思った次の瞬間、目の前で爆風が巻き起こった。なすすべもなく跳ね飛ばされる。
「……っぐ」
絶息する。意識が遠のく。
(まだ、だめ。まだ……)
動け。視界が戻ってくる。壁に手をついてどうにか立ち上がった。擦りむいた膝がじんじんと痛い。でも構っていられるか。
遠くでは敵の男にルーカスが長剣を向けていた。だがなかなか剣を当てられずにいるようだ。避け、攻撃を繰り出し、
と。二人の動きが止まった──と思った瞬間、男の頬とルーカスの肩口からパッと血が飛んだ。
イダがその後ろから近づいて男を押さえつけようとしている。その腕にも無数の傷跡がある。男の武器は鋼の爪だったから、引っ掻かれたのだろう。
(僕も、行かなきゃ……!)
駆け出したディオンを何かが光りながら追い抜かした。ルーカスの使い魔だ。
牡鹿は駆け回り、再び、敵の足元に蔦を絡ませた。より強く、太く──。イダとルーカスがそれぞれ右と左からクナイと長剣を男の首元にぴたりとつけた。慌ててディオンも前に短剣を振り上げた。
(多分、誰もその首を本当に切ったり刺したりしないのは──)
ヒュン──ッと静かに空を切る音に、それまで余裕の表情だった男がパッと顔を上げた。驚愕に目を見開く。その顔にシャンデリアからの光を遮る影が差した。
(本当は人を殺したくないからなんだろうな……)
黒衣の少女が──ヨルが、飛び降りてきたその勢いそのままに両手の扇子を振りかぶって。
一閃。
血沫がビシャッと上がった。
鋭く切られた自分の首と額が時間差を置いて同時にぱっくりと開いて、そこから血が噴き出すのがスローモーションのようにひどくゆっくりと見えた。グラザードは瞬きをした。
(まさか……、シャンデリアの上にさらに人がいたとは……。迂闊だった)
どくどくと心臓が脈打つのと同じリズムで、どくどくと血液が流れた。早くも意識が白く霞んでくるのがわかる。ぼやけた顔が四つ、こちらを見ている。
死ぬ、の、かな。
自分が自分でなくなる、その感覚。いや、そもそも自分ってなんだ。ああ、あれ、頭の中に見えてきた記憶の流れの中の、どの顔が自分なのかな。
〈──グラザード〉
声が聞こえた気がした。この、優しくて哀しそうで切実な声は。
〈無事に帰ってきて〉
タヴィアさん、か。
彼女との出会いはどんなだったかな──。
あの頃、グラザードは小さな劇団で舞台俳優として働いていた。姿形を変幻自在に変えられる、というのは実に便利で、どんな脇役にでも華を持たせることができた。色んな役を演じた。国王、伯爵、そしてその子息などという貴族たち。そして貧乏人、ホームレス。さらには泥棒、殺し屋、スパイ。小劇団の花形に、トップになるのに時間はかからなかった。
自分というものを消して、役にのめり込む日々。やりがいはあったんだと思う。だが。
ある日、劇団は自分を裏切り、逃げた。
理由は単純。主役俳優が変わらない、なんていう劇団はもうこれ以上成長しない。そして主役俳優は年を重ねるほど他の役者たちよりも高い賃金を払わなければいけなくなる。それだけのことだった。
当てもなく憤り、途方に暮れていたグラザードは人を殺した。当てつけの意味もあった。初めて人殺しをした時に被った返り血の匂いは、覚えている。錆びた鉄みたいな、腐ったみたいな、なんだかそう……、ぞくりとする匂いだった。
その匂いに酔いしれたように……、
殺した、殺した、殺した。自分の姿を変えながら。八つ当たりだと知りながら、報復のつもりだった。
そんな時にグラザードに声をかけた人物がいた。名前は知らないが、その姿を決して忘れることはできない。灰紫の、左右で長さが違う髪。漆黒のインバネスコート。そして、寂しさを湛えつつこの世の全てを皮肉っているような細い、微かに烟った紫の瞳。
「君のその力を必要としている人がいる。来ないかい?」
そうしてその男に、タヴィアを紹介された。
「この人の手下として働いてくれるかな? 君にも得るものがあると思うから」
タヴィアは、その頃から数えて十五年前に起こった〈魔女の悲劇〉の魔女本人だった。彼女がどうやってそれを起こしたのか、というのは聞かない決まりになっていたが、〈悲劇〉を起こした理由だけは話してくれた。
その勇気と強さに、グラザードは感服した。
なんて人だろう、そう思った。
タヴィアの言ったことは、何でもした。当時の国王・王妃の皿に毒を盛った。敵の男を一人、殺した。王宮の給仕や従者に化けていたのを気づかれたからだった。確かナイフで腹を刺したのだった。なのにあいつ、すぐには死ななかった。
「なあ、何のためにお前たちは俺たちの邪魔をするんだよ」
グラザードの低い問いかけに、あの男は虫の息で答えた。
「真実を……手に、入れてえからだよ」
今にも死にそうだというのに、あいつは凄んでみせた。口がニヤリ、という形を作った。
むかついたから、腹に一度刺したナイフを抜いて、また刺した。何度も何度も。そいつが冷たくなるまで。
あいつ、バカだったんだ、と思う。だってあの時あいつの仲間は誰もあの場にいなかった。それにあの男を殺した後もグラザードは普通に王宮の中に紛れ込むことができていた。多分あの男は、自分の上司であろう現国王にグラザードのことを言わなかったのだ。何故だかはわからない。一人で倒せるとなんて甘く見ていたのかもしれない。自分一人の手柄にしてやろうとか。
ねえ、タヴィアさん。
貴女の意志、そして強さに比べたら、あんな敵なんてなんでもないよね。貴女のためになら、いくらだって戦う。いくらだって姿を変えて。たとえ自分を失っても。
そう誓ったんだ。
あれ、そう誓ったはずなのに。
今、自分は何をしている?
グラザードは閉じかけていた目を開いた。意識がスッと冴え戻ってくるのを感じた。開いた傷が痛むのを感じた。……まだ、生きてる。
なのに死にかけて。いや、死にかけているには違いなくても、それを受け入れようとしていて。駄目だ。最期まで戦うと言ったじゃないか。
(ごめんなさい、タヴィアさん。もう生きては戻れなそうです。それでも)
カッと目を見開く。気力を振り絞って手を前に伸ばした。その間にも自分の身体から血がどくどくと流れ出しているのを感じた。
(誰か一人でも、道連れにしてやる……!)
突然、首をものすごい力で掴まれた。ディオンはもがいた。苦しい。首の骨が折れてしまいそうだ。息が息が息が。
「はぁ……っぐ」
意識が朦朧としてくる。
少年くん、と誰かが叫んでいる。ディオン、と誰かが怒号を上げる。その声たちまで、小さく感じてくる。
肺のあたりが、痛い。
もう少し僕が強かったらなあ、なんて。
思って──。
と。
死ぬなあああっ──
突如知らない少年の声を聞いた気がして、ヨルは動きを止めた。敵の男の腕を切り裂こうと振り上げかけていた両手の扇子を胸の辺りに引き寄せた。いつでも前に繰り出せるよう、構える。
(誰の声でしょう? 今のは)
ディオンではない。彼の声より幾分か低かった。それにディオンは今、声を出せる状況にはない。
ルーカスとイダもまた、敵の男と少年を注視しているだけだった。戸惑いに辺りが支配されている。
(誰? ここは……? 暗い……。お、落ちてってる……!?)
(少し静かに待ってて。地面が見えないから怖いだろうけど大丈夫。この状況はどうにかする)
(僕の思ってることがわかるの? 姿が見えない。君は)
(聞こえてる。だってディオン、おれはおまえの中にいるから。でも悪いけど、まだ名乗れない。少なくともおまえに攻撃しようとは思ってないから。それに本当はおまえもおれのことを知っているんだ。ただ記憶を失っているだけ。たしか三月半ばごろには全部戻るはず)
(三月半ばごろ? う、うん……。なんで今まで出てこなかったの?)
(おまえの身体に入れてもらっているわけだから、そこまで自由には出てこられない)
(からだ、に)
(とは言っても一回だけ思わずおまえを使って叫んだことがあるけど。薔薇の森の前で。……でもこれに関して詳しいことはまた。はっきり言ってしまえばおまえは今、敵に殺されかけてる。突破するために軽く暴れてもいい?)
(……)
(おまえに死なれると困るんだ。……悪いけどやるよ)
疾風が巻き起こった。ルーカスは思わず腕をクロスさせて顔を庇った。
「……っ」
薄く目を開けて、驚いた。白い風が起こっているのが、今首を掴まれているディオンのあたりからだったから。
(なっ……。何が)
ディオンが目を閉じたままパッと腕を広げた。その瞬間、敵の男がのけぞった。殴られたかのように顔を押さえてうずくまる。そこだけじゃない。壁にも無数に爪痕が走り、凄まじい揺れが舞踏会場を襲った。ルーカスはじりじりと後退した。しかし、衝撃の中でディオンはびくともしない。心なしか、淡く赤色に発光しているかのようだ。向こう側を向いて俯いているので表情はわからないが、まるで。
ディオンが宿り魔の術を使っているかのように。
(そんな馬鹿な)
『ディオンはどうやら宿り魔を宿せなくなっているみたいです。理由はわかりませんが』
ロジェが仮面舞踏会が始まる前、そう言っていたのを思い出した。
(なのに、なんで……)
そう考えている間にも、背後の壁に見えない攻撃が当たって石片が落ちてきた。どうにかよける。肩口の切り傷が痛んで、顔を顰めた。刃爪に毒がついていることを考えてわざと血を流していたが、そろそろ止血をしなければ。そう思っているのに、身体の動きが酷く鈍く感じられる。長剣を地面に突き刺してがくんと前に倒れそうになるのをどうにか支えた。少し血を流しすぎただろうか。
(な、なにやってるの?)
(破壊、だよ。外の様子はおまえも見えるでしょ?)
(……破壊)
(そう。おれの使える〈術〉は二つしかない。そのうちの一つ。ただ始めてしまうと歯止めがきかないんだ。それに実は初めて使った)
(いつまで続くの?)
(この場所を完全に壊し尽くしてしまうまで破壊は続くかもしれない。……?)
(どうかしたの?)
(声、聞こえない? 外で誰かがおまえのことを呼んでる)
しょうねんくん──!!
イダは隣にいたヨルが止めるのも聞かずに駆け出した。赤いカーペットの上に転がった瓦礫につまずきそうになりながら無我夢中で走る。足元でまた小さな爆発が起こった。
息を切らしながら、ようやくディオンのもとにたどり着いた。強風にところどころ破れたイダのドレスがひらひらとはためく。ごうごうと耳元で唸る音がうるさい。
「少年くんっ!」
ディオンは俯いていた顔を静かに上げた。イダは息を呑んだ。
(違う! 少年くんじゃ、ない……?)
下から掬い上げるように細められた目にはどこか無気力感が漂っている。何もかもどうでもいい、というように。そしてそれなのに左目だけがギラギラと恐ろしげに暗い光を宿していた。
心を、ひんやりとしたものに包まれた気がした。知っているはずなのに、知らないようなこの少年は、
誰。
(いやだいやだいやだ……。だめだよっ!)
イダはディオンに飛びついた。その頬に両手を包み込むように当てた。
「戻ってきてよ……!」
ディオンが何事か低い声で唸った気がした。頬に痛みを感じた刹那、赤い血が弾け飛んだ。「イダ 離れろ!」ルーカスが叫んだ。……だけど。
イダにはもう、何も聞こえていなかった。必死の思いで、低く呟く。
「初めて会った時、あんたは強くなりたいって言ってたよね。ねえ、もう一回考えてみて」
ディオンを抱きしめるようにして、耳元に囁いた。
「あんたが求めた強さってのは本当に、それ? いろいろなものを破壊することが強さなの? 闇雲に敵も、周りの場所も、周りの人も叩きのめして傷つけるののが強さなの?」
(僕が求める強さは……!! 違う。破壊しちゃ、だめ。ねえ……、お願い。もう破壊をやめて。破壊なんてしないで)
(おれのことを否定するの? こうでもしなきゃ助からなかったのに)
(違う。そんなんじゃない。でも壊してはいけないものだって、ある)
(……)
(破壊は止められる。もう大丈夫。君は僕の中に戻ればいい)
「あんたがそう、そんなふうになって、悲しむ人がいるよ。少年くん……ディオン、聞こえてるんだろう? 戻っておいで……」
イダは目を閉じて、言い聞かせるように、しかし少し微笑んでそう言った。ディオンの目にじわりと涙が溢れてイダの手を伝って落ちるのを、ヨルは何とは無しに眺めていた。
(ああ、泣いてる。泣いて、る……)
涙とか。優しさ、とか。
悲しみとか。喜び、だとか。
自分にはないものたち。見ていて心がぐらぐらする気がする。目が回って回って、回る。自分にはわからない、理解できないものたち。
風が止んで、あの〈破壊〉も息を鳴り潜めている。
と、ここでヨルはハッとした。舞踏会場の炎は燻り続けている。今も尚、外側から中心へと広がってきている。逃げなければ敵の男も自分達も火の海の中だ。
「ルーカス様」
呼びかけると、彼は頷いて見せた。地面に突き刺していた長剣を引き抜く。
「逃げよう」
「イダ、さん」
ディオンは知らぬ間に濡れていた頬を拭いながら、目の前に立つイダを見上げた。不思議だ。今まで自分は真っ暗なところにいて、知らない少年の声を聞いていた。あの闇から自分を出してくれたのはこの人なのだと、妙に確信に似た思いがあった。
『あんたがそう、そんなふうになって、悲しむ人がいるよ』
自分が破壊の核になった時に、悲しむ人。
まだディオンの中には一ヶ月分の記憶しかないのに、なのにいくつかの顔がぱあっと思い浮かぶ。
「ごめんなさい」
イダのさっきまでなかったはずの頬の傷を見て言うと、彼女はぱっとディオンから手を話して傷を隠すように手を当てた。
「そんなことより、今はここから脱出することだよ」
思い出したように熱さと息苦しさを感じた。そうだ。ここは火に囲まれた中なのだ。振り向くと、ルーカスとヨルが近づいてきていた。
(あ、敵は……? あの人は……)
見れば、意外と近くにいて驚いた。全身が血まみれになり、特に顔はもうもとの顔がわからないほどに血に染まっている。……多分、今放っておいても助けたにしても長くは持たないだろう。
(あの傷を一部でも作ったのは、僕なんだ)
戦いとは、そういうことだ。人を傷つけるとは、殺すとは、そういうことなのだ。
「さあ、早く」
その声に押されるように走った。後ろから三人の足音もついてくる。
炎の壁まで辿り着いた時、声がした。
「イダ、ルーカス、ヨル、ディオン! そこにいるな!?」
その瞬間炎に亀裂が走った。
「今だ! 急げ!」
割れ目からぐっと腕が突き出されて、ディオンを引っ張った。
「ス、スザクさん!」
「俺だけじゃない。みんないる」
どうやら炎の壁をスザクが宿り魔を使ってうち破ったようだった。彼の宿り魔が氷系の術を使う狼だというのはロジェに聞いて知っていた。そして当然、炎や熱に対応するのは水や氷だ。
ディオンに続き、イダ、ルーカス、ヨルも転がり出るようにして炎の外側に出た。
「建物から出るぞ!」
出口から飛び出す前、ディオンはもう一度振り向いた。あの敵の男が見えた。
(──っ)
男は笑っていた。
血を流し、片目は潰れていながら。唇がわずかに動く。「じゃ・あ・な」
(笑っているのに。にやっと不敵に笑っているのに)
なんて悲しそうな顔なんだ。全てを諦めているような、そんな表情。
〈魔女の悲劇〉というからには、あの男は二十年前の事件を起こした本人ではないに違いない。だとすると〈魔女〉の手下か。仲間か。友達か。恋人か。
(あなたは……)
完全に閉まりきっていない扉の隙間から、舞踏会場の天井が燃え落ちるのが見えた。
もう終わりだ。何もかも。
燃え尽きて、死んでしまおう。
いいことなんて何一つなかったはずの人生で、貴女と出逢えたことだけが唯一の幸福でした。
ごめんなさい。最期に聞いたお願いには何一つ応えられませんでした。
さようなら。今この瞬間も、甘い炎が身体を包み込んでいる。優しい抱擁……。
死んだら──。
どうなるの──。
「くあぁぁぁっ!!」
舞踏会場の建物から出て突然拳を前に伸ばして叫んだイダに、ディオンは飛び上がった。冷たい真夜中の外気に火照った頬が冷やされていく。見上げた空は冬の星が綺麗だった。
「イダさ……」
「全員生きてるー!!」
きゃああっと嬉しそうに声を上げる。つられたようにアナスタシアもにこにこしていた。それでいて当たり前だが少し眠そうだ。首が少し傾いて、目がとろんとしている。
ルーカスがその場にかくんと膝をついた。笑顔だ。
「やばい。達成感と安心感で力が抜けた」
「おいおい。大丈夫かよ。お前の場合流血のせいではないのか?」
そう言いながらスザクが肩を貸した。
ふふ……とロジェが笑った。
「そうですね、生きてますね。それに敵を倒したのも初めてですよ」
彼は背負っているスーザン・リアーシスを振り返るようにして見た。呑気ですね、と呟く。眠り込んでいる夫人の首で青色の石がきらりと光った。
「ちゃんと取り替えたんだろうな?」
そう聞くのは、同じようにリアーシス伯爵を背負ったアレキスだ。
「当然でしょう?」
ロジェの手にも、同じ青い色の石のペンダントが煌めいていた。……こちらが本物だ。精巧に作られた偽物と交換したのだった。
『偽物を用意したから、それと本物をどうにかすり替えろ。そうすれば夫人的にも問題ないだろ? どうせ気づかないだろうし』
レオナルドはそう言っていた。
任務達成、だ。一人も欠けることなく。
「あとであのレオナルドのやつには誉めてもらわなきゃねーっ」
とイダ。珍しくヨルが少しだけ口元を綻ばせ、「そうですね」と答えた。
そんな中、ディオンは少し別のことを考えていた。
(僕の中にいる〈彼〉は、誰なんだろう……)
自分の中に確かにいた、あの〈破壊〉という術を使って自分が死にかけていたところを助けてくれた〈彼〉は。
『君は一体、誰なんだ? 君からは違う人間の匂いがする』
(ジーグ、さん……)
あの人が言ったのはそういう意味だったか。確かに今夜のことでディオンの中にはあの知らない少年が巣食っているのがわかった。でも。
(大丈夫。ちゃんと統制してやる)
乗っ取られるものか。だって、この身体は、僕のものだから。
「さぁて、この辺で適当に宿でも探すか」
アレキスが言った。その隣でアナスタシアがふわぁとあくびをした。
❇︎❇︎❇︎❇︎
陛下、私は本当に恐ろしいことを貴方様にお伝えしなくてはなりません──。
そう呻くように細い声で呟いたセレスティーヌを、アレキスはひたと見据えた。例の大臣たちとの会議後で身も心もくたくた、と言いたいところだが、それでも客人の前で椅子に座らないのはレオナルドの意地だ。
「どうした? これまでにだって其方が見てきた未来には恐ろしいものが幾つもあったではないか。それらを乗り越えてきたからこその今だと思うが?」
セレスティーヌの顔がフードに隠れていて口から下しか見えないのはいつものことだが、今夜はより一層下を向いている気がする。彼女は無言だった。
(……そんなに恐ろしいことなのか?)
「こんな時間に来いと言ったのはこちらだが、其方も早く帰った方がいいのではないか? 夜も遅い」
沈黙に耐えきれず、答えを催促する。
と。
「わ、私も本来、こんなことは申し上げたくないのです……。だ、だって陛下。貴方様……」
「大丈夫だから言ってみろ」
意を決したようにセレスティーヌはゆっくりと口を開いた。
「───」
レオナルドは目を見開き、何かに撃たれたように壁にもたれかかった。
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